Write Cafe

御手紙 葉

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 僕は相変わらずパソコンに向かって打鍵を続け、その指は腱鞘炎にかかって痛むし、肩は凝ってガチガチだ。それどころか最近眼鏡の度をまた一段階上げてしまった。何もかもが体に悪く、睡眠不足で僕はいつも海の上をぷかぷかと漂っているような気分になる。

 まあ、それでも、その疲れは原稿を完成させる時に起こるもので、入稿してしまえば、後はしばらく体を休ませることもできるのだけれど。本当に筆が進まずに、八方塞がりの時に、僕はその喫茶店を訪れてそこで執筆を何時間でも続けることになる。けれど、それは全く苦ではなく、その心地良い雰囲気に浸れば体の疲れを忘れてしまうのだ。

「ブレンドコーヒーです」

 本日何杯目かのコーヒーが僕の元に届き、ウェイトレスの女性はさっぱりとした顔立ちに溌剌とした笑みを浮かべると、カウンターへと戻っていく。そんな笑顔で出されるコーヒーは、やっぱり至極の一杯と言えるだろう。まるで陽だまりに珈琲豆を溶かして琥珀色にしたような、そんな深い味わいのあるコーヒーだ。

 まさに、陽だまりの匂いがする。そして、健康的な人の良心的な想いが篭められている。

 僕はコーヒーを飲み、定年間近のサラリーマンのように目を閉じて、大きな吐息をついた。一緒に、これまた老人のような唸り声が出てしまった。けれど、それほど張り詰めた精神状態にいたのだから、仕方のないことだろう。

 ここのコーヒーは絶対にこの街で一番美味しい。そして、この店は僕の中で一番心地良い、素晴らしい店だ。それだけは、原稿が終わらなくても、体が凝ってても、変わることのない事実だ。僕はコーヒーを一口一口、舌の奥深くまで味わいながら、束の間の安息を得た。

 そして、すぐに原稿に取り掛かる。心が極限まで研ぎ澄まされて、二時間ぐらいぶっ通しで書き続けても、そのコーヒーを飲めば、まだまだ頑張れる。そんなジンクスを僕は一人で信じていた。けれど、やっぱりそれはジンクスにしか過ぎなくて、僕は息が詰まってまた打鍵が止まってしまった。

「駄目だ。しばらく休もう」

 自然と自分にそう言い聞かせ、僕はふかふかしたソファーに身を沈めた。このソファ席が空いていて、おまけに店が混んでいなければ、それは最高の執筆環境と言えた。まるでホームで突っ立っている時に目を開けたら、ちょうど列車が目の前に停車して無数の口を開けたみたいに。

 僕はゆっくりと深呼吸して、目を閉じ、そのまま肩の力を抜いた。一、二、三、と唱えながら、体を覆った瓦礫の山を一つ一つ除けていく。僕の体はよく凝ってしまうと言ったけれど、こうして首を動かし、手首を動かしていると、少しずつ鎧がひび割れて、体操服ぐらいには柔軟になるのだ。

 ソファに身を沈めていたら、少しずつ瞼が重くなってきて、目を閉じているのにも関わらず、真っ暗な視界がさらに深い闇に沈んでいくような気がした。それは鎧も体操服も瓦礫も全てを取っ払って、心地良い白い靄のようなものへと転換してしまう、魔法の誘惑だった。

 僕はあっという間にソファから前屈みになって机に突っ伏し、車のハンドルを手放してしまった運転手のように、何もかもを放棄してまどろみの中へと吸い込まれていく。そこには厳しい編集者の批評も、読者の様々な声も、ましてや口うるさい双子の妹の罵声も聞こえてこなかった。

 ただ、ただ心地良い。ハンモックで寝ているような、陽だまりの中の眠りへと誘われていったのだ。


 最後に見えたのは、この喫茶店の日常の風景だった。眠る時に過る走馬灯なんて、聞いたことがないけれど、僕は確かにこの喫茶店にいて、自分の眠りへと自然と引き寄せられていったのだ。


 *


「――ッと! ――な――いッ!」

 何か聴覚が痺れるような罵声が聞こえて、僕は軽く瞼の中で眼球を動かした。そして、すぐに心地良いぬかるみへ再び沈んでいこうとしたけれど、そこで今度は思いっ切り頭を叩かれた。その頭の叩き方には覚えがあった。全く容赦なく、それこそ壁に止まった蚊を叩くように、生き物の扱いとしてはどう考えてもひどすぎる叩き方だった。

「ちょっと、起きなさい!」

 バシン、と思い切り頭を弾かれ、僕はようやく飛び上がるようにして起き上がった。

「いってえな……なんだよ、紗耶香」

 僕はぼやけた視界の中で、まずその自分の顔と向き合い、そしてすぐに周りの景色が少しずつ鮮明になってくると、ようやくここが喫茶店で、机に突っ伏して居眠りをしていたことを思い出した。

 その自分と瓜二つの顔はよくよく見ると、僕の顔などではなく、ところどころふっくらとした双子の紗耶香の怒り顔だった。けれど、こうして眉を吊り上げていても、愛嬌があるように見えるのは、彼女の個性と言うか、長所の一つだろう。

「何時間ここで眠ってるつもりなのよ。いい加減、起きなさいよ。約束の時間、過ぎてるじゃないの」

 紗耶香はツンツンとした表情で僕を睨みながら、僕の隣に腰を下ろし、ウェイトレスを呼んだ。そして、ブレンドコーヒーを頼んだ。しばらく横にいて僕が寝ているのを見ていたのかと思ったら、まさに今到着したばかりだったらしい。

「仕方ないだろ。もう体が限界なんだよ。後、もう少しで終わるところなんだよ。エピローグを書いていて……」

「あのね、あんな終わり方じゃ絶対読者は納得しないわよ。私が最後だけ直しておいたから」

 僕は飛び起きてディスプレイを覗き込んだけれど、彼女の言う通り、最後の一文まで全てを書き終え、最後に了という文字があった。

「お前、いくらなんでも人の小説のラストが気に入らなくて、勝手に書き直す奴が……」

 いや、ちょっと待てよ。僕は自分が書いたところから読み直してみたけれど、これが不思議と嵌るのである。僕の作品を一番間近で、それこそ一番初めに目にしてきた唯一の読者が書いたラストは、これはこれで胸にストンと降りるものだった。

 でも、こんなことでいいのか、僕は。僕はディスプレイの前でぐったりとしながら、もう疲れて溜息すら出てこなかった。

「あんたね、無理しすぎるのもいい加減にしなさいよ。このままこんな生活続けてたら、絶対にぶっ倒れるよ? もっと健全な生き方で小説書きなさいよ。もっといっぱい食べて、飲んで、眠って、規則正しく執筆に打ち込んだ方が絶対にいいもの書けるって」

 彼女は半分呆れ顔で、半分心配顔で僕を覗き込みながら、運ばれてきたブレンドコーヒーを大切そうに一口一口飲んでいく。僕ら、外見以外では全く共通点のない双子だけれど、無類のコーヒー好きで、この店のコーヒーを至極の一杯と呼んでいる点だけはぴったりとお互いに符合していた。

 まあ、根本的な部分は双子のままなのだろうけれど。

「お前はこの忙しさが有難いものだってことがわかってないんだよ。ようやく人気が出てここまできたんだ。作品に入魂するのは当たり前だろ。徹夜上等だ。お前の下らない恋愛話に夜通し付き合うよりかは一億倍マシだな」

 そんなことを言ったら、今度は頭を叩かれるどころか、横っ面をぶん殴られた。

「仕事で疲れ切っていて、睡眠不足でぶっ倒れそうな双子の兄を拳で、しかも人前でぶん殴るお前は何者だ」

「ただの大学生よ。あんた、もう何日もろくに食べてないでしょ。だから、仕事する時はこっちに来て泊まってけって言ってるのに。生活力が微塵もないあんたが一人暮らししたら、こうなるっていうのもわかってたんだけどなあ」

「これから、出掛けるんだったっけ? すっかり失念してた」

「約束でしょ? 仕事が忙しくても、土曜日の午後は私に付き合うって」

 わかったよ、と僕は欠伸を噛み殺しながら立ち上がろうとして、不意に――視界がフェードアウトしそうになった。

「あ――」

 ふわりと柑橘系の甘い香りがして、柔らかな手が僕の肩を支えた。

 立ち眩み、か。紗耶香の言うこともあんまり無碍にはできないな。ちょっと頑張り過ぎたか。

「まったくもう。言わんこっちゃない。ちょっとそこで座って待ってなさい」

 彼女はそうつぶやくと、何故か腕を捲りながら、慣れたようにカウンターへと向かっていく。僕はそこで彼女がようやくこの店で働いていることを思い出し、まさか、とその背中を追った。

「ねえ、オーナー、今オフだけどさ、ちょっと厨房使わせてくれないかな?」

「お兄さんいるもんね。オーナー、今空いてるし、いいんじゃない?」

「五分で済ませろ」

 カウンターで、まさにその場で働いているような雰囲気の中で、紗耶香がエプロンを付けて髪を結び、厨房に立つのがわかった。あいつ、と僕は溜息を出す代わりにふっと笑みを漏らしながら、妹がせっせと何かを作る後ろ姿を見守った。

 やがて彼女はカウンターを出てくると、お待たせ、といつもの剣呑さはどこへ行ったのか、満面の笑みでそのトレイを僕の前に置いた。

 カップからはキリマンジャロの、芳ばしい香りと暖かな湯気が立ち上り、大きなサンドイッチが盛られている。心なしか、中に入っている野菜の量が普段の三倍ぐらいに膨れ上がっている。いくらなんでも、詰めすぎだ。

「どうぞ。私の奢りよ」

 彼女はフフン、とばかりにドヤ顔で掌を差し出して促してくる。僕は食欲はないのにな、と思ったけれど、そのサンドイッチとコーヒーを見たら、何故か喉の奥が大きく鳴ったのがわかった。

 気付けば、僕はそのサンドイッチを頬張り、野菜を胃の中へまるで動物園のキリンのようにむしゃむしゃと頬張っていた。やばい、これは本当に腹空いてた証だ、と僕は頭の隅で思いながら、何年ぶりかに豪快によく食べた。

「うまかった……」

 お世辞ではなく、本音が漏れた。紗耶香はドヤ顔を引っ込めて少し照れ臭そうに笑うと、僕にコーヒーを飲ませ、生き返った? と聞いてきた。

「お前も、腕を上げたな、本当に。ただ彼氏を一か月単位でとっかえひっかえしているだけじゃなく、ちゃんと職務を全うしていたんだな」

 そんな憎まれ口を叩いても、今度は何も返ってこなかった。

「哲也が本当に小説を書きたくて、この仕事頑張ってるのもわかるけど、もう少し休んでね、本当に」

「わかったよ。紗耶香の言う通り、今度からはセーブする。生きてなけりゃ、小説だって書けないんだからな」

 僕はそう言うと、パソコンを閉じてバッグに仕舞い、ごちそうさま、と立ち上がった。

「もう大丈夫なの?」

「力は付いたから、平気だよ。それより、どこを見て回りたいんだ? 駅前のショッピングモールに行くか?」

「え、本当に? わーい、久しぶりに遊べる!」

 彼女は浮かれているのか、跳ねるように店の入り口へと向かいながら、きちんと会計を済ませて外へと出て行く。僕は店の人にお礼を言って、自分の分の飲食代を出し、紗耶香の後に続いた。

 店の外にはぽかぽかした陽気が広がっていて、初夏の日差しと涼しい風が同時に僕らの間を通り過ぎていく。

「じゃあ、サンドイッチのお代を払ってやるよ」

「何で払うの?」

「どうせいっぱい買い物するんだろ? 荷物持ちは僕の役割だ。お代は体で払うよ」

「なんか、その表現やらしいわね。小説家らしいけど」

 そんなどうでもいい会話を交わしながら、僕らはゆっくりと静かな住宅街の道を駅へと向かって歩いていく。そこには琥珀色のコーヒーのように透き通った、暖かな感情が漂っていた。

 それはきっと、僕がお代以上のものを貰ったからだろう。

 僕は小説を書くけれど、それを言葉に表さなくても、一言で、彼女に伝えられるのだ。

「ありがとな」

 彼女はくるりと振り返ってはにかむように笑い、「置いてくよ!」と手を振って歯を見せた。


 了

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