彼女と彼氏(後編)

 鈴木さんと別れたあと、しばらくすると健人が小走りでやってきた。健人はグレーのTシャツに濃紺のジーンズといった相変わらずのシンプルな服装だったが、彼にはとてもよく似合っていた。

「ごめんな、大丈夫だったか」

 健人は肩で息をしながら私に詫びを入れたが、その姿を見せてくれただけで、私は十分だった。

「全然平気よ。さあ行きましょう」

 私の笑顔に、ほっとしたのか、健人の表情も硬さが取れ、笑顔が戻った。

 私たちは手をつなぎ、屋台の並ぶ人混みに紛れて闊歩する。先ほどまでの不安が嘘のように幸せな気持ちが満たされていく。私は胸の内に秘めるこの辛さは隠すことに決めた。どうこう考えたところで、なるようにしかならないのだ。それならばくよくよせず、目の前にある幸せを噛みしめた方が何倍も幸せだ。そう思うように努めた。

「ところで、その浴衣ってさ……」

 歩いて散策をしている途中、健人は顔を赤らめ、頬を搔きながら、恥ずかしそうに私に話しかけた。

「初めてのデートの時に来ていた浴衣だよね」

 私の心臓がどきりと跳ねた。あまり人の容姿の変化に対し、お世辞にも敏感とはいえない健人が、私の浴衣姿に対し、しかも当時の記憶を思い出して語ってくれたことが、とても感慨深かった。

 桃色をベースとした生地に和柄の大きな花弁をあしらった浴衣。健人が初めて私の容姿を褒めてくれたのが、この浴衣なのだ。私はそれをあえて選んで着てきた。健人のただならぬ品位気に気圧された気持ちを立て直すために。

「――どう似合う?」

 思い切って聞いてみる。袖口を軽くつまみ、両手を肩の半分の高さまで上げて、ポージングをする。

「うん……まあ似合うんじゃない……かな」

 健人もまたあの時と同じように、視線を逸らしながら、歯切れの悪い返答を寄越した。

「ええ、すごく微妙な反応じゃん」

 二人して笑いあい、「変わらないね」と私は言った。それは「変わらないでほしい」と同義であることに、健人は気付いてくれるだろうか。


 元来、人混みが苦手な私たちは、はぐれないように強く手を握りながら、人隙間を縫うように進んでいく。道中で見つけた焼きそばやたこ焼き、リンゴ飴といった定番の屋台メニューを二人で分け合いながら頬張り、屋形船の出航までの隙間を埋めていく。

 時間にしておよそ一時間――三六〇〇秒という時間はあっという間に過ぎ去っていった。

「……そろそろ時間だね」

 健人は腕時計を確認すると、ぼそりと呟いた。

 増殖を続ける人混みに辟易していたところだ。私たちは足早に屋形船へと向かった。

 屋形船は相変わらずの盛況ぶりで、若者の姿はあまりない。まだ船は出航していないのに、案内された室内には、もうアルコールの臭いがそこかしこに漂っていた。私はその臭いを嗅ぐと、妙に懐かしい気持ちに襲われた。帰ってきた、という感情に近いかもしれない。

「大丈夫か」

 健人は私を心配して声を掛けてくれた。

「ありがとう。大丈夫、全然平気よ」

 強がりでも何でもなく、素直な気持ちだ。

 なぜならば、もしあの時のことがあったとしても、健人がきっと助けてくれる――。そう思えるだけで、気持ちは楽になる。健人がいないと、私はほとほとダメ人間だな、と自虐になってしまうほどに、彼に依存している私がそこにいた。彼にはなるべくその姿を見せないように努めてはいるが、日に日にその想いは大きくなっていることを自覚している。

 私たちはビールを頼み、小さく乾杯をした。間もなくして、船は出航し、鵜飼いが始まる。周囲はBGM程度にそれを見て、メインの酒を呷っている。風情もへったくれもなかったが、そういった雑音もすべてシャットアウトして、鵜匠の手綱捌きに酔いしれる。

「全然、変わらないよな」

 ふとしたタイミングで、健人は呟いた。それが独り言なのか、私に向けた言葉なのかわかりかね、「ん?」と問い返す。その『変わらない』という言葉の意味が先程の私のものとは別の性質を持っているような気がした。

「ああ、あんな凄惨な事件があって、それが今もまだ続いている。そしてその犯人は捕まっていない。それなのに、僕たちも含めて、屋形船に乗る客は変わらず酒を飲み、鵜匠は鵜を操る。屋形船に乗る前だってそうだった。屋台の店主はものを売り、客はそれを買う。当たり前の話だが、事件の有無に関わらず、今も変わらず行われている。

 アルコールのせいか、健人の顔は少しだけ赤みを帯びていた。

「だけど、それが生きるってことなんだよな。悲しみも辛さもあるけれど、人は生きている限り、生きなきゃいけない。言葉にすると、間の抜けたものになるけれど、それが真理なのかもしれない。それが僕はできていなかった」

 持っていたコップをテーブルの上に置き、大きなため息を吐く。

「僕は変わる、変わらない以前に、立ち止まっていたんだ。あの時のオーナーの死からずっと目を逸らし、オーナーの死を理由、言い訳にして、変わることを恐れ、変わらないことに逃げていた。そして変わらない自分を演じてずっと生きてきた――。いや生きてもいなかった。ただ時間が目の前を通り過ぎていっただけだ」

「……どうしたの?」

 言い知れぬ不安が私の胸の内を抉る。聞きたくないけれど、聞かなければいけない気がした私は、彼に問う。

「清美のおかげなんだ」

 私の問いには答えず、健人は話を続けた。

「オーナーの死よりも前に清美と出会っていなかったら、僕はきっと壊れていたと思う。たらればの話だから、本当にそうなるかはわからないけれど、僕にとってオーナーという存在はそれだけ大きな存在だった。その存在を消した切り裂きジャックを、僕は到底許すことはできなかった。本気で殺してやりたいと思っていた。だけどそれを実行しなかったのは、あいつと同じ犯罪者に成り下がらずに済んだのは、清美のおかげなんだ。体のいい言い訳だと思ってもらって構わない。結局はただ実行に移せなかったチキン野郎だと言われればそれまでだしね」

 彼は視線を落としながら笑ってみせた。そして、ごめん、とも言った。

 だけど謝らなければいけないのは、私の方だ。健人の内に秘める憎悪に対し、毛ほども感じ取ることができなかったのだから。結局、私は彼の心に見向きもせず、自分の心に捕らわれていた。

 お互い、情けないカップルだったのだ。

「だから、もう立ち止まるのは止めようと思うんだ」

 健人は私の目を見た。初めて見る彼の表情は、凛々しく、そしてどこか遠くにも感じる。それが決意の表情なのだと私は悟った。ならば私も覚悟を決めよう。彼の想いに応え、信じぬくことが、私にできる唯一の決意だ。彼の紡ぐ言葉は想像に難くない。手に汗が滲むのがわかる。心臓の音が健人や周囲にも聞こえるのでは、と思うほどに力強く脈打つ。

 ああ、これが生きている、ということか、と初めて実感した。

「あなたの決意。私もしっかり受け止めるわ」

 そう言って、彼の目を私もしっかりと見る。

「清美、俺は――――」

 花火が打ち上がり、周囲の歓声が健人の言葉を掻き消し、私の胸にだけ、しっかりと響いた。

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