六章【彼女と彼氏】In1993

彼女と彼氏(前編)

 この花火大会に訪れるのも何回目だろうか。

 あの一件以来、この祭りを楽しめなくなってしまったけれど、私たちを結び付けてくれたイベントでもあるし、何よりオーナーに私たちの元気な姿を見せられるのは、もうここしか残されていないのでは、とも思っているので、これだけは欠かさず行くようにしている。

 腕時計で時刻を確認すると、健人との待ち合わせまで、まだ三十分ほど余裕があった。我ながら早く来てしまったと苦笑ものだったが、何だか今日は、心がせかせかとしてしまい、気付けばここまで来てしまっていた。待ち合わせまで時間があるとはいえ、祭りの十分に整っており、人はそれなりにごった返している。祭りを心から楽しむことができていないのは私だけだろうかと思うと、急に健人が恋しくなった。

 健人は優しい人だ。私のわがままに近いこの想いを汲み取って、何も言わずに付き合ってくれている。もしかしたら健人だって同じ想いなのかもしれないが、それならそれでやっぱり優しい人だと私は思う。

 だけど、あの時の健人はどこか様子がおかしかった。何を言っても心はここにあらず、といった状態で、どことなく上の空だったように思えた。それに何か私に伝えたいことがあったのでは、と勘繰ってしまいそうな歯がゆさがあった。

 あれは何だったのだろうか。

 その疑問が私の心の中で不安へと変換され、蓄積し、今日の私の行動へと起因していると思う。

 そう思うと、胸の動悸が激しくなった。私はぎゅっと浴衣の襟を掴み、深呼吸を深く行なう。

 何を心配しているのだろうか。

 自問自答するが、おそらく答えまで導き出すことはできない。きっとそれは私の望まぬものだと理解しているからだ。そうであって欲しくないと切に願えば願うほど、心は黒く蝕まれていく。

 私はその場から離れ、木陰でぺたりと座り込んだ。目には涙が今にも溢れんとしている。

 早く健人に会いたい――。

 心の思いが空気を入れる風船のように大きく膨れ上がっていく。

 気晴らしに屋台でも見て回ろうか、と雑踏に目を向けるが、ただでさえ人混みが苦手な私だ。今のこのメンタルで人混みに揉まれても、気晴らしになるはずもない。結局また、私は何をやっているのだろうと自己嫌悪に陥っていくのだ。

 腕時計は待ち合わせの時刻を差していた。しかし、健人の姿はない。電車が遅れているのだろうか。連絡をとる手段がないため、どうしようもないのはわかっている。きっと健人も焦っているに違いない。だけどそれが証明できないもどかしさが、涙をせき止めていた瞼が決壊し、零れてしまった。

 私はどこまでも一人だった。

「――大丈夫ですか」

 声を掛けられたのは、そんな時だった。顔を上げると、子連れの女性が心配そうにこちらを見ている。見知らぬ顔だと最初こそ思ったが、すぐに思い出した。

 オーナーの隣で、オーナーに負けず劣らずの柔和な笑顔を見せていた奥さんだ。オーナーとは二十歳も歳が離れていたが、どこをどう切り取ってもおしどり夫婦ぶりで、ウッドベルを暖かい空気に包んでくれていた。ずっとおしとやかでオーナーに似た笑顔の持ち主だったが、今では笑顔こそ見せてくれているものの、どこかやつれていて、初めは別人に見えた。

「あなた……鈴原さんよね」

「はい。オ……、鈴木さん」

「最近、お店に来てくれないから、心配していたのよ。えっと、あの子……鏑木くんも元気かしら」

 オーナーの死後、店は休業していたが、最近再開したのだろうか。

 もう二年近く、店の周囲にすら顔を出していないのに、よく私たちの名前と顔を覚えているものだと感心する。

「えっと……お子さん、大きくなりましたね」

「ええ、何とか。娘の三歳になりました。もう手が付けられなくて困っているのよ。今日は母が来てくれたから面倒を見てもらいながら、祭りにちょっと、ね」

 鈴木さんは苦笑をしてみせた。目には隈ができており、多忙の毎日が想像できる。ショートボブにカラーリングを施してはいるものの、毛先は傷んでおり、白髪も見える。

「お店は続けられているんですね」

 正直、店は畳むものだと思っていた。あの店――ウッドベルは常連客によって成り立っているところがあり、それはオーナーの人となりで成り立っているのだ。それにあの事件があった以上、客の入りは激減するのではないか、と危惧していた。そして斯く言う私もその一人だったのから。

 鈴木さんは当時、お腹の中に新しい命を宿していた。そして残酷にもオーナーが死んだ月に生まれることとなる。鈴木さんはさすがに流産も覚悟していたらしいが、何とか無事に生まれてきてくれた子供を一生守っていこうと決意したらしい。入院先へお見舞いに訪れた時、そう教えてくれた。私は一人、前を向いている鈴木さんを見て、自分が後ろ向きに構えていることを気付かされ、いたたまれない気持ちになった。それが店に寄らなくなった一番の原因だ。私たちを幸せな気分にしてくれたオーナーがこの世を去り、私たちが幸せになっていいのだろうか。そんな想いが、私の胸の片隅に今も居座っている。

 それでも健人と一緒にいる時は、やっぱり幸せだったし、ずっとこの時間が続けばいいのに、とさえ感じられる至福の時だった。これもまた嘘偽りなく純粋な気持ちだ。だからこそ健人と別れた時、この相反する矛盾の気持ちが私を苦しめる。

「最近ようやく始めることができたの。子供も大きくなってくれたし、いつまでものんびりしていたら、この子を養えませんからね。私が一人悲しむだけなら構わないけれど、この子にまで同じ悲しみを背負ってほしくはないから。いつまでも弱い母親を見せておくわけにもいかないわ。父親がいないのはとても悲しいことだけど、存在しないわけではないし。この子の父親は死んだってあの人なのよ。そのことはしっかり伝えていくつもり。伝わってくれるかはわからないけどね」

 そう言って、ずっと鈴木さんの手を掴んで離さない女の子の頭を撫でた。

「伝わりますよ、ちゃんと。だってオーナーの子供ですもん」

 私はしゃがみ込み、女の子の目線に合わせて、にっこりと笑ってみせた。初めこそ、知らない大人に緊張気味だったが、すぐに笑顔を返してくれた。その柔和な笑み。とろんと下がった眉と瞳。それはまさにオーナーそのものだった。

 その笑顔に私は少しだけ救われた気がした。

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