舎弟と兄貴⑥

 俺はそこで目を覚ました。どうやら気絶をしていたらしい。

 目の前にはやはり変わらず、コンクリートで固められた壁が悠然と俺を値踏みするように見下ろしている。

 それからの記憶が断片的なものでしかなくなっているのは、拉致された時の衝撃からだろうか。居住地を変えた俺は仕事も通常業務に入った。そこでの初仕事として与えられた場所へ向かう最中に、突然背後から襲われた記憶が微かに残っている。我ながら迂闊だった。もし同業者で同じ目に遭っていれば、鼻で笑い飛ばすくらいに滑稽な不手際だ。

 結局どこの誰に拉致されたのかは分かっていない。大方、大谷組だろうということは見当がつくものの、ただ痛めつけられるだけで、名前すら名乗らないのだから始末が悪い。

 周囲を見回すと、今はこの独房に俺一人らしい。監視カメラも無い。どうせしばらくすれば誰かが来るのだろう。それまでの間、暇つぶしに部屋の観察に時間を充てることにした。

 目の前の壁に目を向けると、コンクリートと同系色で鉄製の扉がどんと構えている。距離にしておよそ五メートルといったところか。左右の壁も大体同じくらいの距離がある。振り向けないが、おそらく後ろ側も同じようなものだろう。

 天井も同じくらいと考えれば、十メートル四方の立方体の窓一つない部屋。目を凝らして扉を確認するが、部屋の内側には取っ手はもちろん、鍵穴すらも見当たらず、すべて外からの操作によって開閉が可能になっているものらしい。どう見積もっても抜け出すのは、無謀な代物だった。扉が開いたときが脱走できるチャンスだろうが、肝心の俺本体が、椅子に固定されて動けない。身体に巻き付いている有刺鉄線は、俺の肉を抉っている。

 部屋の観察も終わり、何もすることがないため、しばらく呆けていると、扉ががちゃりと音を立てた。鍵が開いたようだ。ヒンジの部分が錆びついているのか、ぎしぎしと下手なバイオリン奏者のような音色を奏でながら、内側に向かってゆっくりと開いた。

 中に入ってきたのは、スーツ姿の男だった。トレイを乗せたカートを押している。トレイの上には銀製の蓋を被せた料理らしきものが並べられている。事実、そこからは芳醇な香りが漂い、俺の鼻をくすぐる。男はカートを俺の目の前まで移動させると、トレイの上に並んだ蓋を開けた。そこにはスープとパンが綺麗に飾られており、見ているだけで、口内に涎が生成される。

 しかし。俺はどうしたものか、と考える。今すぐにでも貪りつきたいが、肝心の手足に自由が無い。

 そんな不安を他所に、男はスープをスプーンで掬うと、俺の口元まで運んできた。食べさせられるのは、屈辱的ではあるが、欲求には適わない。俺は恥を偲んで口を大きく開けた。口内に放られたスープは、程よい温度でコンソメの風味が口いっぱいに広がっていく。生きている実感がようやく得られたと錯覚するほどに快感だった――男の顔を見るまでは。

 男は顔の彫りが深く、外人に見間違えてしまうほどの日本人離れした顔つきだった。口元に蓄えた髭は丁寧に整えてあり、エロティシズムすら感じてしまう。スーツに身を包んでいるが、それでも身体が程よく鍛えられていることは一目瞭然である。ヤクザというよりはバーテンダーの風貌に近い。

 そんな男性から見ても惚れ惚れするような男がまさに俺に対し、好奇な視線を向けている。目はとろんと垂れ、鼻息は荒く、舌なめずりをしながら、俺を見つめる男は、俺の口に入れたスプーンを今度は自分の口に運んだ。ぞっとするほどに気持ちが悪く、恐怖というより、戦慄が奔った。

 男はそのスプーンでもう一度スープを掬い、俺の口元に運んでくる。俺はそれを口に入れると、そのまま男の顔にぶちまけた。

 それでも男の笑みは止まらない。きゃはは、と甲高い笑い声が部屋中に響く。

 男はスプーンをカートに戻し、変わりにスープの皿を手にとった。そのまま俺に近づき、頭の上に皿を持っていく。ゆっくりとひっくり返す。垂れた残りのスープは俺の頭にどろどろとかかり、顔全体を濡らす。そしてパンを掴むと、俺の口にぐりぐりと押し込んだ。無理矢理口をこじ開け、パンで口いっぱいになったところで、一発腹を殴られた。

 口に押し込められたパンによって、呼吸もしづらくなり、嗚咽すら出てこない。悶えているところにもう一発。更にもう一発と、リズム良く殴られる。

 六発目あたりの一撃で俺は、腹の中にあった食事を全て吐瀉物として吐き出した。押し込められたパンもそれの勢いでようやく口から飛び出してくれた。吐き出された吐瀉物は、男のスーツに派手にかかった。男はついた汚れの匂いを嗅ぐ。酸味の強い匂いのはずなのに、どこか香ばしい香りが立っているかのような表情を浮かべ、恍惚としている。

 ――真性の変態だった。

 その時、もう一度扉が開いた。

 それが合図のようで、男はカートのトレイを元に戻し、部屋を出ていく。変わりに入ってきたのは、俺も見たことがある若い男だった。

 若い男は扉付近から一歩もこちらへ近づこうとはせず、突っ立ったままだった。

「気分はどうですか」

 若い男は言った。身長は低く、端正な顔立ちや少し高めの声色も相俟って、中性的な容姿をしていた。

「気分が良さそうに見えているなら、眼科へ行くことをお勧めするよ」

 俺は強がってみせた。実際のところ、疲労困憊の境地に立っていたが、弱味を見せるわけにはいかない。

「そうですね。それでは眼科に行く手配をしておきましょう」

 若い男は口が立つようだった。それともこの状況の優位性に酔っているだけだろうか。

「先日、あなたが殺した男性――橘さんについて伺いたいことがありまして御足労お願いした次第です」

「こんな手荒な真似なんてしなくても、誘いにはよく乗る方なんだけどな」

「それはそれは。申し訳ありませんでした。組もあなたの力量を見誤ったせいで、前回は痛い目を見てしまったものでね。こちらとしては、最善を尽くした次第です。ご了承ください」

 何が最善だ、と俺は心の中で毒づく。お前たちが打ったのは最善の一手ではなく、万全の一手だ。

「彼はこう見えてもうちの組の若頭ですからね。殺されちゃって残念だったね、で済まされるような立場ではないんですよ。ただまあ、正直迷ったのは迷ったんですが」

「迷った……?」

「はい。橘さんはヤクザとしての素質は組の誰もが認めるほどに秀でていました。しかし、下っ端の人間ならそれでも構いませんが、上に立つ者というのは、力だけでなく、人徳然り、運営然りと意外に大変で、それこそ一般企業と大差はありません。彼にはそれが何一つ足りなかった。短絡的で自己中心的。彼の下に付く人間は誰一人としていませんでした。圧倒的な力故に若頭にまで昇りつめたことを、我々も評価し、彼に足りないものを手から教えていこうとしたその矢先――。幸を先んじて浅はかな行動で命を落とした彼に同情する者は残念ながらいませんでした。そのため、後は組としての面子だけです。若頭が何処の馬の骨とも分からない人間に殺されたとなっては、組として衰退の一途を辿ってしまう。せめてそれだけでも保とうと思い、今、いろいろと策を練っているところなんです」

 俺は若い男の話を聞きながら、いくつかの疑問点が浮かぶ。

「何だか若頭の橘より、随分と偉そうな口振りだなあ。俺の所へ来た時は、それこそ橘の腰巾着のような人間に見えていたんだが」

 俺の問いに若い男は笑ってみせた。

「確かにそう見えていたかもしれませんね。まあ教育係として出しゃばらないようにしてましたし、この口調なので仕方がありません」

 そう言いながら、スーツの胸ポケットから名刺を取り出した。

「一応、これでも彼の上司なんです」

 渡された名刺を見て、俺は名刺と若い男を交互に見合った。


『大谷組 組長――大谷政明』

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