間章【社会不適合者】In 1990

社会不適合者

 男は夜中の商店街を闊歩していた。

 時刻は日付の境界を跨ごうとしているところで、通りに人は少なく、辺りも心なしか薄暗い。昼間は活気溢れる商店街も、夜中になれば、しんと静まり返り、シャッターを叩く風の音が遠くからでも聞こえた。

 男は黒いジャケットの右ポケットから煙草を取り出すと、一本咥え、火をつける。歩行中の煙草は条例で禁じられているが、こんな真夜中に咎めるものなどいない。煙草の煙を肺に吸い込み、勢いよく吐き出す。吐き出された煙は上空に飛んではすぐ消えた。煙の行く末を見届けた男は、惰性で上を見上げた。商店街の天井には雨防止の透明のパネルが敷き詰められているが、土埃や雨の水垢によってくすんでしまっていた。

 あの汚れは昨日今日で着いたものではない。誰にも気づかれず、誰にも気にかけられず、放置された結果のものだ。そういった類のものを見ると、男の心は深い湖の中央でゆっくりと沈んでいくような気持ちになる。

 今度は左のポケットをまさぐり、中身を確認した。それに触れることで気持ちがすっと落ち着き、冷静な気持ちになれる。いわゆる精神安定剤のような代物である。しばらく触れていないと、急に不安になり、呼吸や動悸が激しくなる。だからいつでも触れる場所に携帯している。

 男はあてもなく夜道を徘徊しているわけではない。

 目的を持って闊歩している。

 目指すべき目的地まではもう少しだ。

 男は常に徒歩での移動を心掛けている。車はもちろん電車から自転車までも極力乗らずに済ましたいと考えていた。

 特に男は車の運転を好まなかった。免許は持っているが、身分証明書を持つためで、運転をしたことは一度もない。そしてこれからも運転をすることはないと心に決めている。車での移動はかなりハイリスクだからだ。所有するだけで個人情報が露となり、こちらがいかに安全に留意しても巻き込まれるなど、事故の可能性が格段に上がる。あんな巨大な鉄の塊が人の意志で自在に扱えるわけがあるまい。それこそほんの一瞬の気の緩み一つで事故は簡単に発生してしまうのだ。歩行者でも同じことが言えるかもしれないが、それを言ってしまえば、外に出ることが叶わなくなる。

 そのため、余程の距離であれば電車は用いるが、基本的には徒歩を選んで移動しているのだ。

 そしてその生活に何の苦も感じてはいない。男にとってそれが日常だった。

 ジーンズのポケットから地図を取り出し、確認する。この商店街を抜け、しばらく歩くと、小さな公園があるらしい。さらにその奥の喫茶店が今回の目的地と言われている。よほど小さい店なのか、オープンしたばかりの店なのか、この地図上には店名まで表示はされなかった。

 しかし、男は気にしない。与えられた指示に対して忠実に遂行することには変わりないからだ。

 社会不適合者の烙印を押された男にとって仕事があるだけでも感謝をしなければいけない。そう自分に言い聞かせ、男は歩を進め続ける。

 八月の夜は湿気を帯びた空気が男の顔を嬲るように触れた。黒いジャケットを着てきたことを少し後悔もしたが、気にしたところで、脱ぐわけにもいかない。肌に汗がまとわりつくのを不快に感じながら、我慢して目的地に向かう。

 辿り着いた喫茶店は少し古びた老舗に近い佇まいだった。屋根は鮮明な赤色で、闇夜の黒さに負けていない。白一面の壁は木造で、外観は洋風の館にも見えるが、決して高い敷居を見せつけているような嫌な感じはしなかった。観音開きの入り口の上に店名『ウッドベル』が小洒落た筆記体風の英字で飾られている。

 取っ手を持ち、扉を引く。しかし鍵が掛かっており、開かなかった。営業時間はとっくに過ぎているのだから当たり前だ。店の外壁をなぞるように進むと、もう一つの入り口があった。掲げられている表札を確認する。店の奥は店主の家族の自宅となっているようだ。更に奥には倉庫が備えられており、場所的には問題ない。鍵の種類を確認し、鍵の解錠を手早く行なった。

 あとはもう一人だ。男の役割は場所を確認し、然るべき処置を行うこと。実際に仕事を行うのは、後から遅れてやってくる人間らしい。男も会ったことはない。知らない方がいい、男に指示を与えた人間はそう告げた。場所を確認し、後から来る人間がする『何か』の後処理を行えば、それでいいとも言っていた。だから男は、大方の予想がついたとしても、深入りはしない。

 煙草を吸おうと思ったが、下手に足がつくのも困るので、我慢をした。待ち人が来る時間は聞かされていなかったが、そんな待たされることはない、と言っていた。確かにこんなところに長時間呆然と立ち尽くしていれば、自ずと目立ってしまう。もうしばらくの辛抱だと言い聞かせた。

 男は待ち人が来るまでの間、いつものように自分の人生を振り返ることにした。それが時間を潰すのには一番有効な方法だった。

 男が社会不適合者の烙印を押されたのは高校を卒業し、一般企業に就職した矢先のことだった。

 身長は一九〇を超え、屈強な体格の持ち主にも関わらず、頭も体力も突出した才能のない男が、広く名の知られている会社に就職できたのは親のコネのおかげだった。だからこそ、男は出世に欲を出さず、平穏無事な毎日を送ることができれば、それだけで良かった。しかし人生というのはそんな絵空事で語れるようなものではない。

 元来、体が弱かった男は、毎日決められた時間に投薬を行い、通院を重ねる必要があった。そのために就業制限がかかり、仕事の負荷に関係なく、定期的に休みを取らなければならなかった。他の社員が当たり前のように行うことが自分には当たり前のように出来なかった。社会に放り投げられ、男に向けられる目は、同情なんかではなく、蔑むような白い目だった。

 男はそれに耐えられず、会社をすぐに辞めた。親は泣いて説得してきたが、聞く耳を持つことは出来なかった。ただ辞める前に高校時代の友人に相談をした。友人は大学に進学し、華やかなキャンパスライフを送っていた。友人が指定したカフェで卒業以来に再会した男と友人は意味もなく握手を交わした。読書好きの友人は、ゆっくりと読書が出来る場所を探しているらしく、ここも候補の一つだと言っていた。

「いい雰囲気の店だね」

 男よりも早く店に来ていた友人は店内の環境をチェックしていたようだ。

「候補としてはいかがですか」

 インタビュアーのような口調で質問を投げてみる。

「まあまあかな。もう少し客の入りが落ち着いていたほうがいいし、流れてる曲もジャズとかの方が雰囲気としていいよね」

「俺にはわからないけど」

 そんな他愛もない会話を一通りした後、男は本題に入った。友人は男の会話に黙って頷き、話を聞いていた。

「辞めたいなら辞めればいい」

 友人はあっさりと答えた。

「そういったところを分かろうとしない会社なんている意味ないよ」

「あ、ありがとう」

「でもさ」

 運ばれたコーヒーにミルクを入れ、かき回しながら、友人は男に指摘をした。

「自分もさ、病気を盾にしちゃいかんよ」

「どういうこと」

「会社はやっぱりアウトプットが出せるやつが偉いんだよ。例えば良く風邪を引いて休む社員を上司は大事な仕事を任せたいと思うかい?」

「いや、思わない。思わないけど、風邪と病気を一緒にされても」

「一緒なんだよ」

 友人は断言した。

「会社側の人間からしてみればどっちも同じなんだよ。使えないことには変わりない」

 友人の言葉に男は絶句した。

「でもさ」

 またそこで友人が話を転換する。

「別に病気だからってさ。仕事が出来れば問題ないわけだよね。こいつ病気で休むけど、仕事できるから仕方ないよねって言われるくらい努力に打ち込める仕事に出会えるといいよね」

 男は友人の言うことに合点がいった。会社の同僚たちが病気に差別的な目をしていたように、男もまた同じように自分の病気を差別していたのかもしれない。あの会社には男の他にも持病を抱えた社員はいた。しかしそれでも彼らは普通に仕事をしていた。つまりはそういうことなのだ。

「ありがとう。俺も自分のやりたい仕事を見つけるよ」

「おう。頑張れよ」

 友人の笑った顔を男は今でも忘れていない――……。


 男は記憶の回想から現実世界に戻された。

 微かな足音が聞こえてきたからだ。耳を澄ますと足音の他に金属を地面に叩く音が聞こえる。

 その音源はしばらくして明らかになった。

 男の前に姿を表したのは初老の男性だった。杖を付き、足を引き摺りながら、闇夜から浮かび上がるように現れた。

 男の出で立ちは、白い襟シャツに、黒のスラックスを身に纏い、首元は蝶ネクタイを締めており、白髪一色の髪の毛と蓄えた白髭も相俟って、どこかの執事のようにも見えた。

 明らかに異質な存在の男性は男を一瞥すると、黙って店主の住む自宅に入っていった。

 男は何も言葉を発しなかった――否、発することができなかった。

 それから半刻ほどで男性は家から出てくると、再度男を一瞥し、また闇夜に溶けていった。

 男は男性が完全に消えたことを確認し、家の中に入ったところで、酷く後悔をした。部屋は惨劇の痕が残されていた。店主と思しき死体が転がっている。横には店主の妻と思われる女性の死体もある。今までの男の仕事といえば、荷物運搬の仲介がほとんどで、死体を見ることは初めてだった。

 静かに手を合わせ、店主の死体を外に運ぶ。動揺はしたが、すぐに冷静を取り戻した。

 友人の言葉を思い出したからだ。何でも病気のせいにしていた自分を恥じ、どんな仕事にでもひたむきに取り組んだ。しかし、元々が不器用な性分だ。何度も失敗を重ね、堕ちるところまで堕ち、今に至る。それでもあの時の友人の言葉を忘れず今日も生きている。それが間違っていることに気付いていない。

 男は運ぶ直前、死体の顔をもう一度拝見した。なぜこの店主が殺されることになったのか。家の中の死体を外に出して、わざわざ発見を早める必要があるのか不思議に思うが、それを考えることは自分の範疇でないことを弁えている。

 死体を倉庫前に運び、家の中を確認し、証拠になりそうなものが落ちていないか確認する。それが終われば男の役割は終了だ。鍵を締め直し、男もその場を足早に離れた。

 来た道を引き返しながら、男はジャケットの左ポケットを弄る。左ポケットのそれに触れて、緊張がほぐれるのを感じたことで、ようやく自分が興奮していたことに気付いた。

 とんでもないことに巻き込まれていることを肌と心で感じている。

 それでも――。

 男は友人の言葉を思い返し、震える心に言い聞かせ続けた。

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