三章【患者と医者】In 2001

患者と医者①

「手術は受けんよ」


 私の目の前に患者として来診した老人の男性は、私が提示した病名とそれに対する治療方法に対し、掌を見せた。老人の名は美濃昭雄。珍しさと字面から想像できる美しさを兼ね備えたハイブリッドの苗字のポテンシャルをすべて棒に振ってしまうほどのみすぼらしい様相を呈していた。チェックのシャツと重ね着した茶色のベストは糸が解れ、毛玉がぽつぽつと点在しており、デニムのジーンズも擦れすぎて白く変色してしまっている。齢は六十手前というが、無造作に伸びた髪は白髪一色で、痩けた頬に生える髭までもが白く、そのせいで年齢の判別を難しくさせている。

「美濃さん」

 私はゆっくりと老人の名前を呼び、語りかける。

「まだお若いんですから、ご無理をなさらない方がいいですよ。ご家族の方とも相談してからでも遅くはありませんし」

「儂に家族なんぞおらんよ」

 美濃さんはぶっきらぼうに答え、私から目を逸らした。

 美濃さんが救急患者として私の元にやってきたのは今から一週間ほど前まで遡る。道端で腹部を押さえながら倒れ込んでいるところを目撃者の通報により、救急車で運ばれてきた。丁度他の手術を終え、手が空いていた私が治療を行った。そこで検査を行ってわかったことが、大腸に潜む腫瘍――大腸がんの存在だった。しかし、発見が早かったため、腫瘍はまだ小さく転移もしていないことが不幸中の幸いだった。今なら手術ないし、放射線治療によって完治できる見込みが十分にあるのだ。

 それなのに……。

「先生が言うように、手術や治療をすれば治るのかもしれん」

 美濃さんは目を瞑り、腕組をしながらぼそりと呟いた。

「でもそれは、老い先の短い余命を幾ばくか短くするだけのものだろう。もうこの年齢まで生きられたら、後は好きなように生きて、すきなように死なせてくれないか」

「まだ美濃さんはお若いじゃないですか。これからの人生だって何十年と続くかもしれないのですし」

「かも……だろう」

 ため息と共に漏れでたその言葉は、命を紡ぐことを生業としている医者の私の胸に深く刺さった。

「明日、急にぽくりと逝ってしまうことだってあるわけだ。それも先生は救ってくれるのか?」

「……でもそれは死んでもいい理由にはなりませんし、生きる力があるのに、それを放棄するのは、生きることに対する冒涜ですよ。ありきたりな言葉ですが、目の前に苦しんでいる人がいれば助ける。それが医者の使命です」

「その先に待つのが結局のところ絶望だけだったとしてもか?」

 私は言葉に詰まった。私を睨む美濃さんの細い眼から覗かれる視線は、先程まで老人と揶揄していたことを後悔してしまうほどに鋭かったからだ。

「最近は何とかジャック? と呼ばれるものがこの界隈に出没するんだろう? しかも相手は齢も性別も関係なく襲う、極悪非道の殺人鬼らしいじゃないか。そんな奴が儂の目の前に現れて襲いかかる。それが起こらない保証がどこにある?」

 美濃さんは私の返答を聞かずに診察室を後にした。

 残された私は深いため息を吐き、美濃さんのカルテに目を落とす。

「村田さん、大丈夫ですか?」

 近くで耳をそばたてていたのだろう、看護士の羽田さんが労いの言葉をかけてくれた。この病院の看護士として十年以上勤めている彼女はベテラン、と呼ばれる領域に達していたが、年月を重ねることで、積み上げたのは経験だけではなく、この病院内の情報も含まれている。

「別に大したことではないよ。手術を拒む患者さんは珍しくもないからね。慣れる、という言葉が適切かはわからないが、ああやって言われる以上、諦めるより他ないよ」

「まあ、それはそうなんですど」

 羽田さんは私まだ何か言い足りない様子だった。仕方なく、「何か気になったことでも?」と話を振る。

「いえ、気になったというほどでもないんですが、先生が患者さんにあれほど感情的に治療を勧めるのを、私は初めて見たものですから、ちょっと驚きました」

 決して彼女が悪意をもって発言しているわけではない、と私も理解しているが、第三者の耳に入れば誤解を招きかねない発言でもある。私は、羽田さん、と軽く窘めながら、席を外させた。

 ようやく静かになった診察室の中で、もう一度深いた


  め息を吐く。

 医者としてまだ未熟者であることを、天井を見上げながら、声にならない声で嘆く。

 医者というのは、患者の抱える不安を正しく取り除くことが重要であり、それは相手に心情を悟られないことにも繋がる。その点において、些か感情的に動いてしまったことを反省はしたが、後悔はしていない。それだけの理由があったのだから、と自分に言い聞かせることで正当性を主張する。別に誰かに咎められることではないが、なんとなく、だ。

 私はもう一度カルテを確認した。

 美濃明雄。珍しいこの苗字を冠に持つ男を私はもう一人知っている。

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