上司と部下⑧(完)

「とりあえず、乾杯……でいいのかな」

 店にやってきた小幡さんはビールを手に持ったまま、お預けをくらった子供のようにもじもじとしている。

「乾杯、っていうのは少し違うかもしれないですね」

「じゃあ、とりあえず飲もうか」

 俺たちは軽くグラスを当てるだけに留め、ビールを喉に流し込んだ。

 普段は仲のいい俺たちだが、さすがに個室の空間は重苦しく、見えない風船が徐々に膨らみ、この部屋を圧迫しているように感じた。この空間ではビールをどれだけ飲んでも、味はせず、水を飲んでいると言っても信じてしまいそうだった。

 小幡さんは、電話の声同様に、表情は暗く、まだ一日も経っていないのに、目の下に隈のようなものも見える。目の焦点が定まっておらず、前の店でもだいぶ飲んでいたことが窺える。それよりもよくこの店まで歩いて来れたことが奇跡とも言える。

「……小幡さん、大丈夫ですか」

 無意味な質問だと自分でもわかってはいるが、この空気を打ち破るには、とにかく言葉のキャッチボールしかないと思った。

「俺は大丈夫だよ。この件でつらい思いをしている人はいくらでもいる。田宮さんは奥さんもいるし、子供も二人いる。工藤だって、付き合っている彼女がいて、もうすぐ結婚も視野に入れていたらしい。その人たちが一番悲しいだろうし、何よりも本人たちだろう。もう自分たちが描いていた人生を歩むことはできないのだから」

「そんな風に割り切れるもんですか」

「そんな風に割り切るもんなんだよ」

 小幡さんはそう自分に言い聞かせるように言っているとしか思えなかったが、俺は敢えて追及は避けた。

「ところで、よくこの店に迷わず来れましたね」

 俺は場を和ませるつもりで、酔っぱらった小幡さんをからかってみせた。

「だってここは田宮さんのいきつけの店だろ。この店は田宮さんが目にかけてくれる人にのみ連れて行ってくれる場所でさ。俺もよく連れて行ってもらったなあ。今でも目をつむってでもたどり着ける自信はあるぜ」

 自信満々に胸を叩く小幡さんを尻目に、俺は茫然としていた。田宮さんがこの店に俺を連れてきたくれたことに、胸にこみ上げてくるものがあったからだ。入社して四年。この歳月が長いのか、短いのかわからないが、一つの達成感が芽生えた。ただの努力賞のようなものかもしれない。それでも俺にとっては大金星だった。

 しかし、その感慨も瞬間的なもので、すぐに消え失せた。その光栄な賞を与えてくれた当人はもういない。感謝することも、これから発奮したところで、成長した姿をみせつけることも、もう叶わないのだ。

「……工藤も田宮さんも、どこに行ってしまったんでしょうね」

「あれじゃねえの。ほら、あの切り裂きジャック事件が流行ってるじゃん」

 切り裂きジャック連続殺人事件。二人の失踪により、何度もオフィス内で飛び交っていた案件だ。俺も想像していなかったわけではない。ただ、それを受け入れるには心の準備の仕方がわからなかった。

「でも、普通は失踪なんか無いじゃないですか。切り裂きジャック連続殺人事件の特徴は、死体が刀で斬りつけられたような切創痕が残っているもののはずです。今までの切り裂きジャックの事件で失踪なんか聞いたことないんですけど」

「よく調べているじゃないか」

 小幡さんはにやりと笑った。

「でもお前も、心の中ではそう考えているんだろ」

 俺はぎくりと身体を強張らせる。心の中を見透かされているような気がして、いやな汗が噴き出した。

「ただな、山伏。お前が見ているのは事件の結果だけだろう。報道されているのはそこだけだからな」

「どういうことですか」

「物事の本質を見ていない、ということだよ。もともとお前は時事ネタに弱いくせに、今回の件でネットのニュースを漁ったんだと思うが、それだけで収集するには情報が少なすぎるぜ。そもそもこれから二人の死体が出てきたときに、今までと同じような傷を負っていたら、どう思うよ」

「いや、それは……」

「つまり、そういうことだよ。失踪したかどうかは結局のところ関係ないんだ。今大事なのは、彼らが死んでいるのかどうかだ。そして死んでいる場合、それがどのような状態か、ってことに尽きる。この地方で多発しているのは、切り裂きジャックによる連続殺人事件。それに照らし合わせるのは至極真っ当な発想だと俺は思うね」

 アルコールで定期的に喉を潤わせながら、小幡さんは流暢に語る。

「あれですか、小幡さんはもう二人は亡くなった、と考えているんですか」

「そりゃあ、そう考えるのが妥当だろうな」

 妥当――。その言葉は妙に温もりを感じられず、言葉というより、俺の知らない暗号を伝えているのかと勘違いするほどだった。この店に入ってきたときから、小幡さんの様子がいつもと違うのは一目瞭然だった。それは二人も大切な人を失ったことによる悲壮感によるものなのかは、窺い知れない。

「大の大人が失踪だぜ。それも何の問題もなく、仕事もプライベートも充実していた人間が、だ。何らかの事件に巻き込まれたと考えるのが普通じゃないか」

「でも、希望を持って、待ち続けるのが仲間じゃないですか」

 小幡さんは、はっと鼻で笑った。

「希望を持ったって、事の結末は変わらないぞ」

「結末がもう決まっているみたいな言い方ですね」

「まあ、それは結末が明るみに出ればわかることさ」

 俺の皮肉も意に介さず、ビールジョッキをテーブルに置いたところで、この不穏な飲み会はお開きとなった。

 そしてそれから二か月の歳月を経て、二人の失踪事件は小幡さんのいう一つの結末を迎えた。

 二人の死体が発見されたのだ。

 肩口から腹部にかけての刀傷のような切創痕を遺して。

 結局は小幡さんの言う通り、切り裂きジャック連続殺人事件の一件として取り上げられることになった。死体は市内の山奥に捨てられていたのを登山客が偶然発見したらしい。木々に囲まれながら、二人仲良く並べられたそれは、気味の悪さが際立っていたと証言していたことがニュース番組で報道された。

 葬式と通夜が速やかに行われ、警察への事情聴取なども度々行われたが、二月も過ぎて、他の事件がニュースを賑わせると、驚くほど速くフェードアウトしていった。データが上書きされ、消えてなくなったかのような虚無感に近い。

しかし、それよりも驚くべきはその後の会社の対応だった。会社も世間のフェードアウトを感じるや否や、通常業務にぱたりと切り替わった。

 田宮さんのポストには代役で小幡さんが入り、近々昇格する内示をもらっている噂も聴こえているが、いつも以上に生き生きと仕事をしているのを見ると、あながち噂レベルではないのでは、と思っている。

 そんなトントン拍子で昇格する小幡さんをよく思っていない連中がそれこそ噂レベルと言えるデマを流しているのも、俺の耳にも入った。

 小幡さんの昇格に対し、目の上のたんこぶだった田宮さん。その田宮さんに目を留められ、めきめきと成長している工藤。自分の立ち位置が危うくなった小幡さんが、切り裂きジャック連続殺人事件にかこつけて二人を殺したのでは、という冗談も過ぎるものだった。俺はそれを聞いたとき、同僚たちと笑いあうだけに止めたが、正直なところ「有り得る」と思ってしまった。

 そんなことで人を殺すか、と普通に考えれば思うのかもしれない。それでも、

「結末はもう決まっている」

 そう断言した小幡さんの様子は今思えば、明らかに異常だった。当時の俺は、それを悲しみからくる不安定な情緒、程度にしか思っていなかったが、あの時、もう二人を手にかけていたとしたら――。そう思うとぞっと身体が緊張した。

 それからしばらくすると、小幡さんは田宮さんのポストを代役ではなく、昇格という形で手中に収めることとなった。しかし、俺はそのめでたい席に同席することはできない。その日付を持って、会社を辞めたからだ。

 退社する直前、田宮さんの代役である小幡さんと話をした。

「辞めちまうのか」

 悲しそうな表情を浮かべる小幡さんに、俺はすいません、と頭を下げた。

「はい。元々田宮さんに渡す予定だったんですけど。渡しそびれたので」

 小幡さんは意に介さず、そうか、とだけ告げ、退職届を机にしまった。

 拍子抜けするほど簡単なやり取りだった。失礼します、と頭を下げたが、もう小幡さんの視線は書類に向けられていた。田宮さんのように後輩への面倒見に重きを置いていた小幡さんの姿は欠片も感じることができなくなった。

 俺はその後、別の会社へ就職し、それなりの毎日を過ごしている。しかし、ふとした瞬間にこの頃を思い出して、当事者へ問い質したくなるのだ。

 田宮さん――。

 あなたはあの時、俺に何を伝えたかったんですか。

 もしかして、殺されることがわかっていたんじゃないんですか。

 小幡さん――。

 あなたが工藤や田宮さんを手に掛けたんですか。

 もしかしてあなたが、もしかして……。

 営業で外回り中に立ち寄った蕎麦屋で何気なく写っていたテレビを覗くと、今日もまた切り裂きジャック連続殺人事件の報道が流れている。

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