上司と部下⑤

「これはどういうことだ」

 朝一に俺が持ってきた封筒を一瞥した田宮さんは俺を睨んだ。

「見ての通り、退職願いです」

「これが何がとは聞いてない。どういうことかと聞いているんだ」

「そこに全て記されてありますので」

「馬鹿か。それで、はいそうですか、と本気でなると思ってるのか。こんな紙切れ一枚で納得してやめてもらうメンバーなんてこのフロアには一人もいない」

 田宮さんは渡した封筒の中身を見ることもなく、突き返した。

「これはお前に差し戻す。その前に仕事が終わったら飯に行くぞ」

「え」

 俺は思わず問い返した。

「え、じゃないよ。飯だよ。呑みに行くぞ」

「え」

「だから、え、じゃねくて、はいと言え。はい、と」

「じゃあ、仕事終わったら寮で待ってろ」

 田宮さんはそれだけ言うと、自分の業務に戻ってしまった。俺は差し戻された封筒をどうしたらいいかわからず、しばらく呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


 終業後、自室で待っていると、「着いたぞ」と田宮さんの声と共に扉がノックされた。

「支度は出来ているか?」

「いや、まだです」

「準備くらいしておけよ。まあいいや。部屋、上がるぞ」

 田宮さんは俺の返事を待たずにずかずかと部屋に入っていく。

 六畳の部屋に成人男性二人はなかなかにして狭い。座るスペースは必然的にベッドしかなくなる。

「ちゃんと布団を干したりしてるのか」

 ベッドを少し両手でぎしぎしと押さえながら、田宮さんは部屋の清潔感を異様に気にした。

「まあ、一か月ほど前ですが」

 田宮さんは逡巡してみせたが、観念したのか、意を決したのか、ベッドの上で胡坐をかいた。煙草を取り出したが、天井を見上げ、ため息を吐きながら、元あった場所へ戻す。

「こんな狭い部屋だと、何かと不便だろう」

「まあ、それでも職場から近いのが、唯一かつ最大の利点なので」

 俺が住んでいる寮は職場から目と鼻の先にある。その他の寮は十畳以上の部屋が宛がわれていたり、部屋に洗面所が付いている寮もあれば、マンションやホテルのように、自室の外の廊下が室内にあるところだって存在する。そのためか、転寮を希望する寮生も少なくない。しかし、それらの寮とは違い、朝の通勤ラッシュならぬ、渋滞に巻き込まれることもなければ、寝坊して遅刻することもほぼ無い。朝起きて、そのまま出勤すれば、およそ七分ほどで出勤することができる。六畳の狭さを我慢しても余りある利点だった。

「まあ、ぎりぎりまで寝れるのは良いよなあ」

「そうですね。僕は睡眠欲を優先して、ここに居座り続けました」

「それがいい。それが正解だよ」

 田宮さんは、うんうん、と振り子時計のような一定のリズムで頷いた。

「すいません。準備できました」

 私服に着替えを済ませた俺は、一回り以上歳の離れた上司を布団の上で待たせたことを謝罪する。

「いいよ、そんなこと気にする小さい男じゃないしな」

 そう言いながら、やたらと布団と接触していた尻の辺りを入念に叩く。

「ウェットティッシュはあるか?」

「そんな汚いですか?」

 思わず布団を触って、ほこりや湿り気を確認する。臭いもまあ、我慢はできる。

「冗談だよ。いいツッコミができるじゃないか。ウェットティッシュは俺が持ってるから心配するな」

「だから汚くないですって!」

 田宮さんのこんな姿を見るのは初めてだった。さすがの俺も思わず笑ってしまった。

「ちゃんと笑えるじゃないか」

 それを見た田宮さんも笑ってみせた。

「よし、呑みに行くぞ」

「はい。よろしくお願いします」

 俺と田宮さんは部屋を出て、駅前の居酒屋へと向かった。


 田宮さんが連れてくれた居酒屋は個室専門の居酒屋だった。チェーンではあるが。魚介類が産地直送で旨いことが有名で、店内はそれなりに賑わっている。

「ビールでいいか?」

 田宮さんは部屋に案内されるなり、メニューも見ずに食べ物をいくつか注文していく。

「簡単な食いもんは頼んでおいたから、あとは適当に頼んでくれ。俺も食べたいのがあったら頼むから」

 そう言った田宮さんは店員から手渡されたおしぼりで顔を豪快に拭いた。ふうっと息を吐いた田宮さんの顔は血色が良くなっていた。その姿はいかにも、と言えるオヤジの姿で、懐かしくも感じる。

 運ばれてきたビールを手に取り、乾杯をすると、俺と田宮さんは一気にグラスを傾ける。そのまま倒れこむのでは、と心配になるほどに反り返ってグラスのビールを流し込む、というより落とし込んでいる。

「くぁー」

 同時に声を出してしまい、俺たちは声に出して笑った。この瞬間は、上司と部下、というより同級生のやり取りに近いかもしれない。

「なんだ、アルコールは結構いけるクチなんだな」

 田宮さんは意外だ、と言わんばかりに感心したような声を上げる。

「まあ、それなりに晩酌も飲み会もしてますから」

 よく通うジムで筋トレを続けていると、同じ目的を持った同志の集まりゆえか、仲間意識を持つのは意外と早い。筋トレ機材の最新情報や、プロテインの味についてなど語ることは少なくない。それを肴によく筋トレ仲間と飲み会を重ねている。その結果かもしれない。

「そうとなれば、話は早い。今日はとことん吞もう」

 そう言って田宮さんはお替わりのビールを頼んだ。

 俺も負けじと、ではないが、せっかくの機会だ。ハイボールを店員に追加で頼む。そこからは他愛もない会話をした。筋トレの話に、田宮さんの家族の話。どれも語るに足らない雑談、と呼ぶにふさわしい話題だった。

 それでもこうやって田宮さんと自然と会話をしたことは一度もなかったかもしれない。それだけで新鮮で、悔しくも楽しかった。

「……さあ、飲んだし、そろそろお開きにするか」

 顔を朱に染めた田宮さんは、机の下に置かれた伝票を取り出すと、目を凝らして金額を確認する。

「え? これでお開きですか?」

「なんだ、飲み足りないか? 別に次の店へハシゴをしてもいいが……」

「いや、そういうことではなくて。辞表の件の話だと思ったんですけど」

「ああ、その話か。今日はこうやってお前と飲みたかっただけだ。辞表は明日提出してくれ。ちゃんと受理するよ」

「は、はあ……ありがとございます」

「なんだ止めて欲しかったのか」

 田宮さんは柄にもなく、いたずらに笑う。

「そんなわけじゃないっすよ」

「知ってるよ。話を聞いて欲しかったんだろ」

 ぎくりと本心を突かれ、口ごもる。

「お前には悪かったと思っている」

 田宮さんはまたしても柄にも無く頭を下げた。

 ――違う、違うよ、田宮さん。俺があなたに求めているのはそれじゃあないんだ。

「そりゃあ、辞めてほしくないのが、本音だよ。お前は頑張っていた。それは事実だ。それでも結果が今まで出てこなかったんだ。それは俺の上司としての資質にも問題がある。辞めるといっても止める権限は俺には無い。ただなあ、山伏。嘆くのは簡単だが、嘆いても世界は変わらない。世界を変えるのは、いつだって前を向いて目の前に飛び込んでくるチャンスを見逃さないやつだ」

 田宮さんはそれから何も語らなかった。俺もその雰囲気に呑まれ、口を動かせなかった。店の外にでると、生暖かい風が俺の頬を叩く。

「それじゃあ、また明日な。気を付けて帰れよ」

 そう言って背中を向ける田宮さんに、俺はたまらず声を掛けた。

「――田宮さん」

 その声は蚊が鳴くよりも小さく、道端の喧騒に揉まれて消えた。

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