彼氏と彼女②

 大学の近くにひっそりと佇む喫茶店『ウッドベル』は、僕だけが知る楽園のひとつだった。もちろん、あくまでも比喩的な表現というやつで、客はまばらだが常連と呼べる人たちで支えられているような隠れ家的なこの店は、僕が専らの趣味と公言している読書にはうってつけの空間だった。

 混雑しすぎない客の入りからスピーカーから流れるオーナー特選のジャズの名盤。そこに混じりあうコーヒーの薫りと木製のテーブルから微かに漏れ出る木々の匂い。ひとつ読書の世界へ浸かればそこは、まさに楽園、という言葉が相応しいと言えるだろう。

 客層は定年を迎え、自由奔放に残りの生を楽しむことに勤しむ老人たちばかりで、僕くらいの年齢の若者は少なかった――いや、正確に言えば、僕を含めて二人だけだ。

 それに気付いたのは、二年の秋のことだった。

 喫茶店に入った僕は、いつもの決まった席へとまっすぐ向かう。窓際の奥に設置された二人掛けの席は、窓に面して横に並んで座るタイプのものだったが、僕は右側の席に鞄を置いて、テーブルの右側に本を二、三冊上へ積む。そして運ばれてきたコーヒーを左側に置いて、僕のブレイクタイムは幕を開けるのだ。大学に入学して間もない頃に見つけたこの店へ月・水・金と週三回の来訪を欠かさず行ったことで、何も言わずとも、席をとっておいてくれるようになり、今では店に入ると同時にオーナーが僕が必ず頼むコーヒーを準備してくれるようにまでなった。

 その日もいつもと変わらない定刻にウッドベルの戸を開けた僕はすぐに店内の違和感にすぐ気が付いた。

 僕の指定席に目をやると一人の女性が座っているではないか。顔は書籍で隠れているが、眼鏡のフレームが確認できる。髪は肩にかからない程度の短さで、艶やかな黒髪だった。年齢は高校生にも大学生にも判別できるが、どちらにしてもこの店には珍しく僕と変わらないくらいに若く、奇しくも読書のスタイルまで瓜二つだった。

 僕の来店に気づいたオーナーは掌をあわせ、ごめん、と小さく呟いた。オーナーの話によると、彼女は僕が来店しない火曜日と木曜日に僕の席で同じように読書を勤しんでいる、言わば同じ穴の狢だとのことだ。しかし、明日はどうしても外せない用事があるらしく、急遽予定を変更して水曜日の今日、来店したらしい。いくら常連とはいえ、元々席に予約制のシステムは存在しておらず、たまたまよく使う席が、その日も空いていたので座ってしまったと言うのだ。

 僕はそれを聞いて心底腹が立った。

 彼女も自分が通う曜日の時に席が埋まっていれば、文句も言わず他の席に座るらしいが、正直なところ、だからなんだ、という話だ。

 人付き合いが苦手な僕の唯一と言っていい至福のひとときを邪魔されたのだから、許されるものではなかった。

 しかし、前述の通り人付き合いが苦手な僕は、当人に文句を言えるはずもなく、ましてや懇意にしているオーナーに煙たがれるわけにもいかないので、別に構いませんよ、と短く返事をすると、彼女の後ろの席へと腰を降ろした。

 彼女は僕が後ろを通ったとき、読書で落としていた視線を少しあげたが、何事もなかったかのように、また視線を本へと移した。その瞬間、僕の視線が捉えた彼女の顔は、悔しいけれども、どきっとしてしまった。あまり外に出歩かないことを容易に連想できるほどに肌は白く、髪が揺れた時に舞いあがったシャンプーの香りが、女性に免疫のない僕を苛める。

 僕は気分を紛らすために、テーブルに本を積み上げ、読書に集中する。そういえば読みかけの小説はちょうどクライマックスに差し掛かっていたところだった。早く読みたくてうずうずしながら、この時間を楽しみにしていたのだ。

 気をとりなおし、小説を開き、本の世界へと身を投じた。

 しかし、その有意義なひとときはいとも容易く終わりを迎える。がしゃん、とガラスや陶器のようなものの割れる音が店内に響いたからだ。思わず顔をあげ、音のする方向へ視線をやると、カウンターの席で男の客がオーナーの胸ぐらを掴む光景が飛び込んできた。床には飲み残しのコーヒーとパズルピースのように散らばったコーヒーカップの残骸。そしてオーナーの後ろには肩を震わせ、背中にしがみついている女性もいる。

「すいません。お引き取りください」

 胸ぐらを掴まれながらも、オーナーは臆することなく男に進言する。

「うるせえな。店から出るかどうかは客の勝手だろう。この店は客に指図するのか」

「私はお客様にお願いをしているのではありません。あなたに命令しているのです。店の器物を損壊し、店員に脅しともとれる発言をするあなたをお客様とは認識できませんが」

「こっちはわざわざ金を払ってきてやっているんだぞ」

「払ってきてやっている? あなたはどこまで勘違いをされているんですか。そもそもの話ですが、私はあなたに一度たりともこの店に来てくれ、と頼んだ覚えはありませんが、私の記憶違いでしょうか?」

「そういうことじゃねえよ」

 舌打ち混じりに男は視線を泳がせる。

「それともうひとつ。あなたはまだお金をお支払いなっていませんよね。わざわざ払っていただくことは不要ですので――さっさとこの店から出ていけ!」

 オーナーがここまできつい口調で相手に対応する姿を僕は初めて見た。男に告げられたはずの言葉なのに思わず僕もどきっとしてしまうほどに迫力に満ちていた。

 この一言で、男は観念してすごすごと帰るだろう。店内にいる誰もがそう感じた矢先、うおおおお、という雄叫びとともに、グラスに入った水をオーナーへ勢いよく浴びせた。飛び出した水は、迷うことなくオーナーの顔へ飛び込み、弾けた。

 思わずオーナーも目を瞑り、顔を伏せる。その瞬間を男は逃さなかった。持っていたグラスを上に掲げると、伏せた顔の後頭部めがけて、真っ直ぐ降ろす。

 その瞬間――正確には、オーナーの顔に水が掛けられた時、僕たちは無意識のうちに身体が動いていた。グラスを持っている右手首を掴むと、逆方向に捻り、関節を極める。そのまま背後に回り込み、体重をかければ、男は意図も容易く崩れ落ち、床に膝をついた。

 オーナーの方へ視線をやると、彼女がオーナーを抱きかかえ、男から距離を取っていた。

 男は初めこそ離せ離せと暴れていたが、関節を決めている以上、暴れるほど痛みは増していく一方で、後に静かになった。

「すいません、これ以上騒がれると迷惑なんです」

 僕は優しく男の耳元で囁く。

「……わかったよ。離せよ。すぐ出ていくよ」

「出ていくだけじゃ駄目です。ちゃんとオーナーに謝ってから出ていってください」

 男は小声でぼそぼそと呟くと、僕の手を振りほどき、去っていった。

「あの……すみませんでした」

 後ろで震えていた女性は何度も頭を下げた。

「構いませんよ。お怪我はありませんでしたか? まだ近くにいるかもしれないので、もうしばらくここで待機しているといいでしょう」

 オーナーはいつもの優しい口調へと戻り、女性のために新しいコーヒーを淹れようと奥へと入っていった。

 女性はオーナーが奥へ消えたのを確認すると脱兎のごとく、店から飛び出してしまった。僕はため息をつくと、オーナーを呼んだ。

「どっか行っちゃいましたよ」

 オーナーは湯気のたったポットを片手に奥から戻ってきた。

「そうですか……。行ってしまいましたか」

 オーナーは悲しそうな視線を扉に向ける。その視線の先に女性はもう、いない。

「あの人、さっきの男に出くわさなければいいのだけど」

 彼女は本気で心配しているのか、思わず出た本音を口から漏らす。そのあまりにも的外れな感想に僕は思わず吹き出してしまった。

「え、何がおかしいんですか?」

「ああ、ごめんなさい。あまりにも幸せな感想だったので、つい」

 これが僕と彼女の交わした初めての会話である。

「どういうこと? さっき男が出ていったばかりなのだから、危険であることには変わりないでしょう。ここに迷惑がかかると思って飛び出したんでしょうけど」

「そこから論点が違うんですよ」

「まあいいじゃないですか。鈴原さんもね。それが普通の考え方です」

 鈴原と呼ばれた彼女はそれでも食い下がるので、仕方なく僕は説明をする。

「あの女性もおそらく男とグルだって話です」

「グル?」

 初めて聴く単語を繰り返す外国人のように、片言で呟く。

「男がオーナーに詰め寄っているとき、女性は本来ならオーナーの元から離れるのが普通でしょう。だって、いつオーナーを押し退けてこっちへ向かってくるかもしれないのだから。それなのに女性は逃げずにオーナーの背中にしがみついていた。僕にはオーナーの動きを止めているようにしか見えなかった」

 あくまでもこれは推測に過ぎない。怖くて身体が動かなかったという可能性だってもちろんある。それでも女性のオーナーに告げた「すいません」が、全てを物語っているはずだ。あの場面、普通に考えれば謝るべきではなく、感謝すべきだ。即ち、正解は「ありがとう」となるべきなのだ。それを謝罪から入ったということは、何かやましいことがあったと考えられる。そう考えれば、女性が僕たちの待機の勧めも聞かずに飛び出したことも頷ける。

「でもいったい何でそんなことを」

「そこまではわかりません。オーナーに恨みがあったのかもしれないし、食い逃げを図ろうとしたのかもしれない。はたまた本当に女性が男に狙われていたのかもしれない」

 僕は思った通りのことを述べ。それで彼女が満足するとは思わなかったが、それは仕方のないことだ。しかし、彼女は少しはにかみながら、ありがとうと言った。

「本来ならオーナーもあなたも御礼を言われて然るべきことをしたのだから、私から言わせてください」

 僕はまたしても思わず吹き出してしまった。

「え、何がおかしいんですか」

「本が好きなんだなって思って。然るべきって言葉、口にする人初めて見たので、つい」

 僕たちはそこでようやく笑いあうことができた。そこからは何もかもが河原の水切りよろしく、とんとん拍子だった。お互いが読書を嗜みにきた喫茶店での運命的な出会いから、読書での交流を深め、オーナーの粋な計らいもあり、僕たちは付き合う運びとなった。初めこそ特等席を奪った嫌な同世代という印象だったのだから、最後の一手で盤面を真っ白にひっくり返されるオセロのような清々しさがある。

 時折、僕たちはこの時の話を思い出す。彼女はいつだって、あの女性の安否を気にしていた。もうあの時の男と付き合っているんじゃないか、と僕が冷やかすと本気で怒ってくる。これだけ人の気持ちに純粋な人を僕は他に知らない。だからこそ眩しく、手放したくないものだった。

 それが今となっては――……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る