黄昏の夢幻

レライエ

第一部 空を飛ぶ夢

第1話/裏 夕暮れと少女

「夢を見るのです」


 はぁ、とか何とか、気も意味もない返事をしたように思う。


 僕は窓に視線を向け、夕焼けの眩しさに顔を背け、結局彼女の方へと目を向けた。


「夢、ですか」

「えぇ、夢です。………もしや先生は、ご覧にならない?」


 ちょこん、と行儀良く背筋を伸ばした彼女は、革張りの長椅子に膝を揃えて腰掛けている。

 艶やかな長い黒髪は眉の辺りで一直線に切り揃えられ、日本人形のような優美さを感じさせた。

 晴れ着でも着ていればさぞかし絵になるのだろうが、今着ているのは、僕が勤めている学園の中等部の制服である。………お陰で、ぎりぎり彼女は人間らしい雰囲気を保っていた。


「先生?」


 長く見詰めすぎたらしい、彼女は不思議そうに首を傾げる。

 僕は慌てて視線を逸らした。味気無い室内を意味もなく眺め、結局、誘蛾の如く再び彼女の顔へと視線は戻ってしまった。


 くすり、と彼女は笑った。

 片手を口に当てて、実に上品に、くすくす、くすくすと笑う彼女の姿は、情けない事だが僕の心を掴んで離さない。


 彼女は、美しい。


 子どもでも、女でもない。

 少女という独自の生命体である彼女は、本当に美しかった。


「………いえ、夢は、僕も見ます」


 美への感動が劣情に変貌する前にと、僕は必死に口を動かして答える。

 純粋な美しさを前にそんなものをいだくのは、何故だかとんでもない悪行のように思えたのだ。


「どのような夢を?」

「どのような………? ええと………あまりはっきりとは………」

「覚えていない?」

「はい、すみません………」

「お謝りになることはありませんわ、先生。もっと堂々となさって下さいな」


 すみません、と僕はまた謝った。


 彼女は、年齢だけを見るのなら確かに僕の半分程しか生きていない。それならば僕も堂々とすべきだろうが、あいにくと世の中は、そんな解りやすい数字だけで成り立ってはいないのだ。

 単純な数比べに付け足すと、僕は学校の教師であり、彼女は教え子である。

 益々僕が堂々とすべき事柄が増えたかと思うが、もう少し詳しく述べると、数式は一気に反転する。


 僕は、


 生徒児童の区別なく、学園に在籍する子供たちは皆名家やら富豪やらの御子息、御息女であらせられる。

 僕の如き一般庶民は、如何に教師といえどもへりくだるしかない。

 勿論良い教師たらんとするなら、良家の子であろうと厳格に接するのが建前であろう。僕とてもそれくらいは解っているが、しかし建前は僕の身を守ってはくれないのである。


 だから僕は頭を下げる。

 彼女がそれを笑おうとも、怒らせるよりは遥かにましというものだ。


「夢を見たという感触はあるのですが、その中身までは、あいにく覚えていないのです」

「そうですか。それは、お気の毒ですわ」


 どちらかと言うなら、夢を見るということは即ち眠りが浅いということであり、疲れが取れないということであろうと思ったが、僕はただ頷いた。

 彼女は本気だった。本気で、『夢を覚えていない者は不幸だ』という信念を掲げているようであった。

 本気の人間に反論出来る程、僕は本気ではない。


「一日は二十四時間しかありませんのよ、先生。その内八時間程掛けて体験したことをまるで覚えていないというのは、お気の毒と言うより外ありません」

「はぁ」


 僕は八時間も寝ていない。


 しかしまぁ、いい得て妙とも思える持論ではある。若者の理屈ではあるが、一日の何分の一かをただ寝て過ごすというのは損ではあろう。

 僕くらいの歳になると、ただ寝て過ごすということがどれ程価値あるものか解ってくる――と言うより、そうでなければやっていけなくなる。


 世界なんて、人生なんて、現実なんて。

 見たくも聞きたくも、体験したくもないことばかりだ。


「私は、夢を見るのです。見たという感触も、その内容も確りと覚えています」

「はぁ」

「そのことで、先生とお話ししたくて参ったのです」

「はぁ」


 それはそれは、何とも興味深いお話である。きっと楽しめるだろう、もしも僕が夢を覚えていたら。

 残念ながら僕は夢を覚えておらず、ということは僕が話すことの出来ることが無いということだ。

 となると僕は、夢を語る彼女の話を聞きながら、例の無意味な相槌「はぁ」を繰り返すしか無くなる。

 楽しくはないし、楽しんでも貰えないだろう。


「えっと、その………僕は未だ仕事がありますので………」

「それなら、待ちます。あぁ、家に連絡しても? 『先生とお話しするので遅くなります』と伝えたいのですが」


 冗談じゃない。

 そんな話を彼女の親にされたら、間違いなく社会的に抹殺される。もしかしたら、物理的にも抹殺されるかもしれない。


 僕の慌てぶりがお気に召したらしく、彼女は嬉しそうに笑っている。

 無邪気な笑顔だ。だが、悪気はなくとも僕を叩き潰すことくらい出来る。

 僕は諦め、机に置いていたノートを閉じた。


「聞かせていただきます」

「先生のご希望とあらば喜んで。では、私の夢をお話ししましょう。もしかしたら、先生も夢を思い出すかもしれませんわ」

「はぁ」

「もしもそうなりましたら、先生。お聞かせくださいますか? 貴方の、夢のお話を」


 彼女の目は、真剣だった。長いまつげの下で、夜色の宝石が僕の芯を見詰めている。


 その瞳を見ながら、僕はふと、


 彼女は誰だ。

 ここはどこだ。

 ………僕は、誰だ?


 目眩がして、世界がぐにゃりと歪んだ。

 歪な景色の中で、彼女の顔だけが美しいまま在る。

 その唇が、そっと、囁いた。


「私の、見た夢は………」

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