第31話 希望

 ブゥオン、ブルブルブル。

 ミニトラックのエンジン音と共に、手を振るママの姿が小さくなる。

 膝に抱えた大きなバッグを両手で握りしめた。

 私の隣にのーちゃんがちょこんと座る。

 肩の位置が重なる。

 見た目幾分狭いけど、もちろん実感はない。

 膝を両手に置くのーちゃん。

 緊張してるの?

 私も心臓バクバクだよ。

 

 横断歩道の三つ目信号は真っ赤な色を放ち、窓から見える景色も止まる。すぐ先の公園には、チューリップや菜の花、パンジーたちが、赤、黄色、紫、ピンクと色とりどりの絨毯を敷き詰め、風が吹くたびに鮮やかな波を揺らしていた。

 「春爛漫だな」

 パパがハンドルに肘をかけて笑う。

 「わあ、本当だ、きれい 公園も笑ってるね」

 「お手伝いの成果だな」

 「日ごろの手入れだね」

 「そうだな」

 「パパは……後悔してないの?」

 「ん?」

 「家を継いだこと」

 「してないよ」

 いとも簡単に答えるパパ。

 「そういえば、湯川先生が、『たまにはジムに来い』って言ってたよ」

 「そうだな、久々に行ってみるかな」

 

 青目に変わった合図と共に鮮やかな色が後ろに遠ざかる。

 「春なのにけやきは、まだ丸坊主なんだね」

 「ちょうど一か月後には芽吹くよ。今はそのための準備中」

 パパがけやき通りにハンドルを切り、私は竹箒の縦列を見渡す。

 「そっか、準備中か」

 「丸坊主に見えて、樹の中では着々と変化が起こってるんだ。ちゃんと生まれる時期を知っている。芽吹いたら速いぞ、一気にフサフサだからなあ。毎年そのエネルギーに魅了されるよ」

 嬉しそうに話すパパを横で感じながら、葉のないけやきを眺めた。

 一か月後に忍び寄る、張り裂けんばかりの新芽の叫びを想像した。

 一足お先に、爆発してくるね。

 

 「じゃあ、また後でな。ママと一緒に来るから……」

 「うん」

 私が一歩踏み出したとき、パパの大きな声が市民ホールの壁にあたって響き渡った。

 「初音ー、がんばれよー」

 パパ、恥ずかしいよ。

 私は一度だけ振り向いて手を挙げた。

 

 「初音ちゃん」

 未来ちゃんが駆け寄る。

 「いよいよだね」

 「うん」

 今年の発表会は、いつもと違う。練習量も、思いも、何もかも、自分への挑戦だ。

 飛びたい。高く高く。

 優雅に舞うのーちゃんのように。

 

 ジリジリジリジリ

 五分前のブザーが鳴る。

 ピリピリピリピリ

 全身に緊張が走る。

 「ただいまより、くるみ割り人形第一幕を上演いたします」

 アナウンスが流れる。

 

 前奏が始まる。

 幕が上がる。

 照明がクララにスポットをあてた。

 

 毎年のことなのに、今年は足が震えてる。

 私たちの出番は第二幕。「葦笛の踊り」

 踊り終えたバレリーナたちが横を通り過ぎる度に手と手でタッチする。

 笑顔だ。

 私も。私も、笑顔になりたい。

 飛べるかな。飛べるよね。

 のーちゃんを探す。

 舞台袖の上で私を見下ろしていた。

 ホッとする。いてくれてありがとう。

 

 一幕が終わり、いよいよ二幕。

 マリ先生が肩をポンと叩く。

 「完全燃焼。思いっきり行け!」

 「はい!」

 未来ちゃんと同時に答えた。

 下手側に二人でポーズを作る。

 未来ちゃんの瞳。私の瞳。ひとつになる。

 音が……はじまる。

 

 つま先シャッセから……。

 ここでターン。止まる。

 ピケピルエット。まわる。

 フェッテ。前半の見せ場。

 気持ち……いい。

 身体全体を吊り上げる。引き寄せる。

 軽やかにステップ。パドブレパドブレ。

 未来ちゃんと一緒に、ここで小さくジャンプ。

 

 この後だ。後半のメイン。

 まずは下手から上手へ未来ちゃんがジャンプ。

 あ……高い。未来ちゃんすごい。

 

 私の番。

 舞台の天井近くを……。

 のーちゃん?

 そこまで? そんな高いところまで?

 わかった。

 這い上がってやる。

 登ってやる。

 飛んでやる。

 大きくシャッセ。勢いつけて。

 行くよ! のーちゃん! 両手広げて!

 飛べ!

 

 あ……のーちゃんも飛んでる。

 私の隣で。

 そして私とのーちゃんは宙に浮いてピッタリと重なった。

 高い。

 ああ、私、今、全身で飛んでる。


 ラストポーズ。決まった!

 

 「ブラボー」

 え? 

 

 観客席を初めて意識した。立ってる人が見える。

 パパだ。ママもいる。

 一番前の席には、美波、有砂、文果、舞伽様、夏帆、千愛里たち。

 牧村君もいた。

 みんなが拍手してる。

 倉橋は……?

 挨拶しながら倉橋の姿を探す。探す。探す。

 どこにも見当たらない。

 一瞬肩の力が抜けたけど、なりやまない拍手に背中を押されて精一杯の笑顔を見せた。

 

 舞台袖にはマリ先生が待っていた。

 「フフフ、高瀬、清水、おつかれ」

 「先生、あの」

 「清水、ふっきれたね。これから楽しみだ」

 「気持ちよかったです」

 「うん。そうだろうね。あの高さだけなら、ローザンヌ行けるよ」

 「初音ちゃん、すごかった。私も思ったよ。高かったね。国際コンクール目指す?」

 「や、やめてよ」

 冗談とはわかっていたけど、なんだか嬉しくて気が付いたら涙が頬を伝っていた。

 「やだ、初音ちゃん、泣いてるの?」

 「ごめん、いろんなこと思い出しちゃって」

 

 そう。いろんなこと。

 ようやく幕を閉じたのかな。

 違う。

 私にも始められる。

 ここからなんだ。

 宇宙が始められたように。

 牧村君の言葉を借りて言うなら、宇宙が自らビッグバンを起こして、長い年月をかけ、数多くの星が生まれ、爆発した。

 爆発の裏で何らかの犠牲もあっただろう。

 その上で、青い星が生まれ、私たちが生まれた。

 始められるのは、生きてるから。

 生きていれば、再生することができる。

 のーちゃんを見て思う。

 死のうなんて、もう思わないから。

 

 楽屋には花束とプレゼントが名前と一緒に置かれていた。

 美波や有砂からも届いていた。

 「これすごくない? 未来ちゃんと初音ちゃんあてだよ」

 私?

 背の高さほどある豪華なフラワーアレンジメント。

 胡蝶蘭や百合の花で飾られている。

 「舞伽様からだ!」

 未来ちゃんが叫ぶ。

 ちょっと恥ずかしかったけど、舞伽様らしいな。

 フラワーアレンジの贈り主は、磯崎病院の院長先生と舞伽様の連名だった。

 

 「初音! 上達したねー」

 「素敵だったにゃん」

 「美波、有砂!」

 ギュッとハグする。

 「ありがとう」

 「さすが、私の娘だ」

 「初音、良かったわよー」

 パパ、ママ。

 「いいじゃん、すげーよ」

 「感動したわよ、清水さん」

 文果、舞伽様。千愛里、夏帆。

 舞伽様の後ろにそっと覗く牧村君。

 みんな、ありがとう。

 

 ひとりずつ、握手して、ハグして、涙が出て……。

 

 ――え? のーちゃんも?

 のーちゃんが私の肩に手を回す。

 そしてグイッとひっぱられた気がした。

 

 なに?

 のーちゃんが楽屋を出ていく。気になって後を追いかける。

 受付前で声をかけられた。

 

 「あのー清水さん?」 

 「は、はい、そうです」

 「これ、花束、今、届けられたので」

 「ありがとうございます」と言って受け取ったガーベラのミニブーケ。

 「清水初音様 弱音からの脱出だな」とだけ書かれたメモが貼り付けられていた。

 

 ミニブーケの持ち手。

 セロファンがよじれ、その下の銀紙も破れていた。

 何度も握りしめたような、いつかの不格好な桃のような、跡のついた持ち手を私はじっと見つめた。

 

 「あの、これ、持ってきた人は?」

 「男の子でしたよ。今、階段を降りていきましたけど」

 「あ、ありがとうございました!」

 私は花束を受け取って急いで階段へ向かった。


 「倉橋!」

 市民ホールを抜け、けやき並木に続く道沿いにネイビーブルーのセーターがチラリと見えた。その影が立ち止まり、振り返る。

 「うぃーっす」

 遠くから手を挙げる倉橋。

 私はミニブーケを振りかざしながら「うぃーっす」って返す。

 のーちゃんも私の後を追う。

 息が上がった呼吸を整えながら「これ、ありがとう」とミニブーケを見せる。

 

 「マジすごかった。気持ちよかったんじゃね?」

 「うん。気持ちよかった」

 「あのさ」

 「ん?」

 「ありがとな。磯崎さんから電話があった。姉ちゃんのこと」

 「うん。でも役に立ったかどうか」

 「謝ってきた。『これからもいい友達でいてください』って」

 「そっか」

 「だけど、『清水さんのことはやっぱり好きになれない』って」

 ちょっと意地悪な口調で倉橋はふざけて笑ったから、「嫌われ者なのでー」と調子に合わせて返した。

 「気にすんな」

 「気にしてませーん。スイーツレシピ貸してもらったし」

 倉橋の瞳はいたずら小僧のように、嬉しそうだった。

 

 「もう、弱音じゃないな」

 「初音ですから」

 「いい名前だな」

 

 え? 

 なんか優しい。優しくされると、どう対応していいのかわからなくなる。

 私は咄嗟に名前の由来を話していた。

 

 「初音って名前はね、私が生まれたときにパパが樹氷を見て、音を聞いて、つけてくれたの。この地域で樹氷ができるのって奇跡みたいなことなんだって」

 倉橋はニコニコ笑いながら答えた。

 「奇跡の音か、いい由来だな」

 「うん、倉橋の名前は? どんな意味があるの?」

 「俺の名前はさ、姉ちゃんがつけたんだ」

 「お姉さんが?」

 「オズの魔法使いが好きだったから。ドロシーみたいに強くて、いつでも笑っている女の子に憧れてたからな」

 「それで、オズマ」

 

 知らなかった。

 「天国でも、強く笑っててくれたらいいんだけど」

 

 私はのーちゃんを見た。

 のーちゃんは顔がない。表情がない。

 笑っているのかどうかもわからない。

 でも確信する。

 「きっと、笑ってるよ」


 その時、のーちゃんが背中を押した。

 「わあ!」

 

 目の前がネイビーブルーに奪われた。

 広くて、あったかくて、全身がトロけてゆく。

 「ご、ごめん」

 そう言って顔を上げると、倉橋が突然吹きだした。

 「な、なによ」

 「すげーメイクだな」

 ヤバッ。そういえば、バレエメイク落としてなかった。

 

 「わあ! わあ! わあ! やんなっちゃう、メイク濃すぎ」

 「ちょっと黙れ」

 

 ネイビーブルーが迫ってくる。

 倉橋の腕の力にすべてを委ねた。

 あ……ヤバイ。

 世界一優しいハグに私はそっと目を閉じた。

 

 「今度、俺にもクッキー作って」

 「いいよ」

 「不味いやつね」

 

 舞伽様情報だな。憎まれっ子世に憚る……訂正!

 いたずらっこ世に憚る!

 

 「不味いやつ、食わしてやる!」

 「楽しみに待ってる、じゃあな」

 

 私は両手で大きな丸を作った。

 倉橋の背中を見送りながら、涙が頬を伝った。

 心から愛しいと思った。

 

 「今日はー、見に来てくれてー、あーりーがーとうー」

 倉橋は振り返ると思い出したように告げた。

 「そういえば、姉ちゃんの髪型なんだけど……ショートだったな」


 見上げると、のーちゃんは……。

 風に長い髪を揺らしながら、はしゃぐように浮いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ノッペラボウ 星野すぴか @hoshinospica

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ