陸 丹心
凛と張り詰めた少年の声が聞こえた。
「
たぶん漢詩の編題だ。続く言葉は古風で小難しく、どこかあどけない声のよさには感心したが、内容はわからない。
盛之輔が、武道場のそばで庭を向いて本を手にしている少年を指差した。
「おらたちより二つ年長の
儀三郎は本に視線を落とすことなく、漢詩を
「新撰組の土方さまですね。京都でのご武勇、うかがっています。会津へ、よく来らったなし」
「藩士でもない流れ者を、こうして厚く遇してもらえるとはありがたい。会津公を始め、会津の人々には京都でも世話になった」
「そこはお互いさまでごぜぇましょう。賊軍の汚名を着せられ、大軍で以て攻められようとする会津のために、土方さまたち新撰組の皆さまは働いてくださっています。誠に感謝に堪えねぇごどなし」
すっと胸が冷えた。
会津のため、と儀三郎は迷いなく信じている。盛之輔も健次郎もそうだろう。俺が会津の救援のために江戸から北上してきたと信じている。
違う。俺だけは正しく、俺の本心を知っている。
倒幕派は華々しく幕府を
振り上げた拳を、倒幕派は持て余している。慶喜公や勝海舟は、拳の下に会津を差し出した。俺が会津に来たのは、ここで待てば必ず戦がやって来るからだ。
胸に去来した思いを隠して笑い、俺は儀三郎の手元をのぞき込んだ。
「漢詩の本か?」
「はい。六百年ほど前に生きた
「立派な人物なんだろうな」
「文天祥は、自分が仕える宋の国が滅びようとしたとき、新しい国、蒙古の王がどだに求めても、蒙古に
儀三郎が言わんとすることは、深読みするまでもない。盛之輔と健次郎が、はっと息を呑んだ。俺は笑みを消さない。
「忠義者の会津武士らしい好みだな。文天祥の詩はすべて
「有名なものは、ほとんど。先ほどの『零丁洋を過ぐ』だけは、私が属する白虎隊士中二番隊の全員が諳んじています。文天祥の忠義にあやかりてぇと思い、零丁洋を符丁にしようと決めたので」
儀三郎は俺の前に本を開いてみせた。返り点を書き込んだ漢文は近藤さんが読んでいたから、俺もまったくわからないわけではない。
『零丁洋を過ぐ』 文天祥
辛苦
山河
身世
零丁洋裏、零丁を嘆く。
人生、
「苦学しながらも縁あって科挙に合格しましたが、戦争が始まって、すでに四年。山河は破壊され、私は風に吹き飛ばされる綿の花のように漂い、池の浮草のように浮き沈みしました。早瀬に呑まれては恐れをなし、海に漕ぎ出しては孤独を味わいました。古来、死なぬ者はおりません。偽りのない心を以て死に、歴史を照らす光となりましょう」
「それが、この『零丁洋を過ぐ』の意味か?」
「はい。美しく潔いと思いませんか?」
微笑んだ儀三郎の目が一瞬、ちかりと赤く光った。冷たい手で胃をつかまれるような薄気味悪さに、俺は赤い光の正体を悟る。左腕だ、と感じた。
俺は儀三郎の左の手首をつかみ、袖をまくった。予測したものがそこにある。
「赤い環」
「ああ、やはり、土方さんはご存じだべした。士中二番隊が編成されたとき、隊の仲間全員で禁術を
日新館の書庫の奥、鍵の掛かった棚に禁書が収められていることは、この藩校に通った会津武士なら誰でも知っているという。
斎藤や時尾が、会津には環の力を求める者が多いと言っていた。忠義心ゆえに、強くならねばと己を追い込むせいだ。
儀三郎の腕の環はまだ途切れ途切れで薄い。完成した形を知らなければ、それができかけの環だと気付かないだろう。俺は儀三郎を見据えた。
「新撰組にも倒幕派にも、環の力に手を出した者がいた。環の完成まで精神が持つ者は一握りだ。環の完成を急ごうとするな。これはそもそも、この世にあっては禁忌だ。妖気だか瘴気だか知らねぇが、とにかくそいつに呑まれたら、狂った妖に成り下がる」
儀三郎は俺を見つめ返した。つぶらな瞳から、あの危うい光は消え失せている。
「妖に堕ちるかもしれねえ。それも承知の上です。土方さまも、会津が藩を挙げて最も大切にしてきたものが何か、ご存じでしょう?」
「徳川宗家への忠義か」
「はい。会津松平家の祖、
「二百四十年も昔から伝わる家訓に忠実に従った会津公は、徳川宗家から命じられた京都守護の任を断れなかった。倒幕派の前に標的として放り出されたのも、家訓の戒めのため」
「不幸な役回りだと、土方さまは思われるかし?」
儀三郎の真剣な目はひどく熱く、澄み切るあまり空っぽにも見える。まなざしは、次いで盛之輔と健次郎へと順に向けられた。盛之輔も健次郎も、何も言わない。
俺は息を吐いた。
「ならぬことはならぬ、か?」
武家の子に礼儀を説く什の掟で、最後を締めくくるのが「ならぬことはならぬものです」だ。儀三郎は深くうなずいた。
「私たち会津の武士には、背いてはならぬこと、投げ出してはならぬことがあるのです。例えそれがどだに不条理でも、戒めを破ることは武士の誇りを捨てること。ならぬことはならぬものです」
迷いなく言い切った儀三郎から、俺はさりげなく目を背けた。盛之輔と健次郎を振り返って、笑ってみせる。
「会津武家の子は本当に礼儀正しくて優秀だ。昔の山口二郎たちはひどかったぞ。俺のほうが道場への入門は遅かったせいもあって、九つも上の俺を舐めてかかっているのが顔に出ていた。まあ、いつの間にか落ち着いたがな」
新撰組や剣術道場の話を持ち出すと、途端に少年たちの顔が無邪気にほころぶ。きまじめそうな儀三郎さえ、俺の腰の刀が気になって仕方がないらしい。
「もしよろしければ、土方さまの剣技、ご披露願ぇませんか? 武道場で稽古を付けていただきとうごぜぇます」
盛之輔が遠慮がちに割って入った。
「儀三郎さん、土方さまは脚を怪我しておいでだから、あまり無理を頼んでは悪いべし」
しまった、と慌てた顔になる儀三郎の肩を、俺はぽんと叩いてやった。
「本気で刀を抜くまでには回復しちゃいねぇが、軽く体を動かすくらいなら問題ねぇよ。俺は会津藩士じゃねぇが、道場を借りられるのか?」
「さすけねぇと思います」
「だったら、やるか。足
はい、と少年たちは元気よく声をそろえた。
一礼して武道場に踏み込むと、懐かしい匂いがした。磨かれた板張りの床の匂いと、汗の染み込んだ木刀の匂い。江戸や多摩で近藤さんや斎藤や総司たちと技を鍛え合った試衛館と、よく似た匂いだ。
健次郎に手渡された木刀をしごき、二三度、振ってみる。俺が使う天然理心流の木刀より細い。この軽さは扱い慣れないが、脚が使えない現状では、かえって都合がいいだろうか。
少年たちが張り切って素振りを始める。武道場の出入口には見物人が現れた。俺も久方ぶりに胸が躍り出す。
戦は確かに近付いている。しかし、若松の城下はまだ、常日頃の平穏を保っている。
嵐の前の静けさだった。
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