第三十六話 ねこみち

 小熊は携帯を持ち直した。

 ハンドルカバーとウール手袋のおかげで、手がかじかんでいないのが有難いと思った。

 寒冷対策に金と手間をかけたのは、こういう不測の事態に備えるためという理由もある。出先でカブが故障したり、自分の体調に異変をきたしたり、あるいは、今にも消え入りそうな声で助けを求められ、ちっぽけなボタンの携帯電話を操作しなくてはいけない時。

「どうしたの」

 出来るだけ明瞭に聞こえるように、椎に話しかける。携帯からノイズが聞こえてきた、それから、さっきよりか細い声。

「ねこ道で、川に落ちて……冷たくって……出られない……」


 椎の言うねこ道というのは、小熊の通う高校のクラスメイトや地元の人の間で付けられた通り名で、日野春七里岩の河川段丘工事で作られた仮設道路。

 日野春駅から高校や椎の家まで繋がる九十九折りの県道と平行し、日野春七里岩の急坂を降りる、直線と急角度の折れ曲がりを組み合わせた道、

 車両の通行が出来ぬ道幅の切り通しにコンクリードの簡易舗装を施しただけの道路は、複雑なカーブを描く県道より早く、七里岩の坂を降りられるので、駅から徒歩や自転車で旧武川村中心地に抜ける近道として利用されているが、街灯の類が皆無なので、日没後はほとんど人通りが無い。

 椎もおそらく、電車でどこかに行った帰りに日野春駅から自転車で帰路につき、県道をショートカットしようと思って、ねこ道を通ったんだろう。

 日没の早い真冬の時期、空はもう暗い。ねこ道に平行するように八ヶ岳の湧き水が釜無川に流れる川があり、先月も老人が護岸やガードレールの無いねこ道から川に転落し救急車で搬送されている。

 

 携帯で椎の声を聞いた次の瞬間に、複数の思考が小熊の頭の中を交錯する。

 もしも椎が都市河川よりずっと水温の低い、ねこ道の川に転落したなら、誰かが助けに行かなくてはいけないだろう。

 被害がどれくらいなのかはわからない。服が濡れて汚れる程度なのか、それとももっと深刻な状態か、携帯の声を聞く限り、後者の可能性が高い。

 椎の生命が危機に晒されているなら、真っ先にすべきなのは警察か救急への通報。正義の味方はそのために血税で養われている。

 以前小熊の暮らすアパートの近隣で不審火が発生した時、住民が通報したことがあったが、この辺りの警察、消防の反応時間は悪くない。都心よりは時間がかかるけれど、七~八分もすれば赤灯を回した車がやってきて、椎の捜索と救助を始めるに違いない。

 七~八分プラスアルファ、それは冷たい清流に浸った人間が死に至るには充分すぎる時間。

 プロのレスキューでも無い自分が椎を助けに行くべきか、それとも少々の時間を浪費して、一一〇番か一一九番に電話するのが先か、自分は、人に助けを求められ、颯爽と駆けつけるような人間ではない。

 ほんの一瞬でそこまで考えた小熊は、携帯から椎に向かって言った。

「あと少し頑張れ、スーパーカブが必ず助けに行く」


 小熊はカブに飛び乗った。アパートから一度日野春駅に出た後で線路に平行して少し走り、建築足場用の鉄パイプで作られたねこ道の入り口から、坂を駆け下りる。

 全長一km少々の道、しかし自転車がスリップし転落するような場所は限られている。周囲を木々に囲まれた暗闇の道を、上向きにしたヘッドライトで照らしながら、道路よりその脇を流れる川を見ながら走った。

 途中に水溜りが出来ている箇所があり、小熊のカブは後輪を滑らせる。足をついて転倒を回避した小熊の目が、まだ折れて間もない木の枝を捉えた。小熊はカブを停めて飛び降りる。

 ねこ道から2mほど下を流れる清流の中に、椎の乗っているアレックス・モールトンの自転車が見えた。その少し下流側に、水色の体が沈んでいた。

 椎からの電話が鳴ってから二分弱。早かったのか遅かったのかはわからない。ただ、あの時救急車を呼んだとしても、まだ近づいてくるサイレンすら聞こえないだろう。

 小熊は急斜面を半ば滑り落ちるように降り、川の中に足を踏み入れる。ブーツの中に水が入り、骨まで凍るほど冷たい。

 脛ほどの深さの川に、顎から上だけを出して身を浸していた水色のジャージ姿の椎は、視線だけで小熊の姿を認め、それから安心したように笑う。そのまま椎は目を閉じた。


 小熊は椎のジャージの襟を掴み、水から引き上げた。普段から色白な椎の顔は蒼白に近い色になっている。紫色がかった唇が微かに震えていた。

 狭い川原の岩の上まで椎の体を引きずった小熊は、普段は縁の無い運動に疲労し深い息を吐いた後、椎の頬をひっぱたいた。

 白磁のような肌に赤みが差し、椎は目を開ける。小熊は声をかけた。

「大丈夫?」

 椎は小熊を見て、川から引き上げられた自分の姿を見て、それからガクガクと震え始める。

「大……丈夫です……やっぱり小熊さんが……助けに来てくれた」

 意識があることは確認したが、このまま自力で帰れるとは思えない。やっぱり救急車を呼んで後を任せようかと思った小熊は、椎が自分の家にイタリアン・カフェを作ろうとして、必要な物を買い揃えるため外出を繰り返していることを思い出した。

 今、病院に搬送されるような大事を起こせば、椎を大事にしている両親は何と言うか、もしかしたら、これからの椎の行動に制限が与えられるかもしれない。

 小熊は狭い川原から、カブを停めてあるねこ道まで上がる斜面を見上げた、それから椎の脇に自分の手を回した。

「あなたを抱えてここを登ることは出来ない。手を貸すから自分で這い上がって」

 椎は頷いた。そうと決まればのんびり休んでいる暇など無い。濡れた服は時間と共に体温を奪っていく。小熊は立ち上がり、椎の襟を掴んで斜面を登らせた。


 斜面に四つんばいになったが、手足がかじかんでうまく動かない椎をほとんど小熊が引っ張りあげるような形で、なんとか道の上に戻った。

 小熊は下りでは足を取られた斜面を、上りはブーツの爪先で踏ん張りながら登ることが出来た。登山の経験など学校の遠足程度しか無いが、礼子と林道を走っていて滑落したことならあるし、礼子と二人で椎よりずっと重いハンターカブを崖下から引き上げたこともある。

 道の上に這いながら、荒い息をしていた椎が小熊を見た。

「あの、おまわりさんや救急車は」

 小熊は道に停めたカブのエンジンを始動させながら答えた。

「呼んでいない、うちが近いから風呂に入って着替えていくといい、それから家まで送る」

 小熊の言葉に安堵したような表情の椎が、チラっと斜面の下を見た、モールトンの自転車が川に落ちたまま。


 とりあえず救急や消防への通報は必要は無いと思った小熊は、消防車とは違うけど何となく色の似ているのを呼んでおくことにした。おそらくまだ近くで買い物をしている礼子の携帯に電話する。

 すぐに出た礼子に事情を一通り説明した後、事故現場に放置したモールトンの回収を頼んだ。礼子は椎が無事であることを確認してから承諾する。

 礼子が乗り物の事故で機械より乗っている人間のことを先に心配するなんて、明日は雪でも降るんじゃないかと思った。

 携帯を切った小熊は、とりあえず椎をどこに乗せるか迷った。後部荷台には大きいが椎を詰め込むには足りないスチールボックスが装着されていて、かじかんで自由に動かぬ手で今から取り付けネジを外す作業を始めていたら、椎が凍えてしまいそう。

 あれこれ考えた小熊は、椎を抱え上げてカブの前カゴに乗せた。椎の小さなお尻は充分収まったが、手足がはみ出ている。


 自分がこれからどんな目に遭うのか察した椎が、まさかという目で小熊を見たが、小熊の頭は既に、前部に三十kg少々の荷重を載せたカブでねこ道の急坂を登れるかどうか思考していた。

 新聞配達のカブが毎朝前カゴに載せるタケノコと呼ばれる新聞の束より軽い椎の体、問題無いと判断した小熊は、スタンドを上げてカブに跨った。

 恐怖で生存本能が呼び覚まされたのか、川から引き上げた時より幾らか生気を取り戻した顔で悲鳴を上げる椎を前カゴに載せたカブは、そのままねこ坂を登り、県道経由で小熊のアパートに向かった。

 以前、小熊は聞いたことがある。男に必要なのは、惚れた女を抱えて一kmを全力疾走する力だという。それが出来ればどんな逆に襲われても、その女を守れるらしい。

 小熊は椎を抱えて走ることなんて到底無理だし、する気も無いが、カブには出来る、カブがあれば出来る。

 カブにお姫さま抱っこをされている椎は、暴漢にでも攫われたような顔をしていた。

 濡れた体が走行している時の風に晒されれば体温はさらに低下する。もしも椎の意識が低下していたら、アパートまでのほんの少しの走行で止めを刺してしまうのではないかと小熊は思ったが、やめて止めて怖いと叫ぶ椎は、少なくとも今すぐ死にそうにはない。

 アパートの駐輪場に着き、椎を前カゴから引っ張り出した小熊は、自力では歩けぬ椎に手を貸すようにしながら、自分の部屋に招き入れた。

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