第三十五話 停滞

 高校の三学期が始まると同時に、山梨北杜の寒さは厳しくなってきた。

 山間部には白く雪化粧が施され、樹氷に覆われた林道は積雪と凍結でカブはもちろんオフロードバイクや四輪駆動車にさえ通行できず、利用しているのは鹿や猪だけ。

 小熊や礼子、椎の住まいや学校のある旧武川村区域は、甲府盆地に属するせいか交通が麻痺するほどには積雪せず、関東より乾燥しているため夜間の凍結も起きなかったが、南アルプスから吹く冷たい風だけは耐え難いものだった。

 ただ呼吸しているだけで肺は冷気で痛くなり、目は乾燥し、肌の露出した顔が感覚を失っていく。人間が何の備えも無く生存することが不可能な気温。

 冬休みの間バイトに勤しみ、懐だけは暖かい状態で冬の本番を迎えた小熊と礼子は、カブとそれに乗る自分自身に新たなる装備を加えた。

 上下ツナギの防寒服。礼子は冬の間に着ていたフライトジャケットに、同じような作りのズボンが付いたような形の米空軍用カバーオール。小熊は中央市のリサイクルショップで見つけたオレンジ色のスキーウェア。


 それなりの値段がしただけあって効果は高く、ウインドシールドとレッグガードで走行風から守られていても漏れてくる冷気をシャットアウトすることで、何時間走っても寒くないようになった。

 戦闘機の操縦やスキーなど、バイクとは用途の異なるウェアの素材はそれなりに丈夫だが、バイクに乗る上で重要な対摩擦強度に関しては若干心細く、転倒した時の安全性では革のバイクウェアに劣りそうだと思ったが、それは二人とも見て見ないフリをした。

 気温が下がり、足と足首にも寒さを覚えるようになったけど、小熊が夏に買った革のショートブーツは、元々スケート靴だっただけあって寒さには強く、靴下を普通の木綿から以前ジャケットライナーを作ってくれた手芸部の教師が、古いセーターをバラして今時珍しいハンドルを左右に往復させる自動編み機でソックスを編んでくれたので、それに履き替えるだけで解決した。


 パラディウムの布製ブーツを履いていた礼子も靴下をウールに換えたが、それでも寒さは解決しなかったらしく、以前履いていた革製の安全靴を出したところ、爪先のスチールが冷気を溜め込んでもっと寒くなることが明らかになり、結局バイトで稼いだ金をまた切り崩してレッドウイングのオイルレザー製ワークブーツを買った。

 顔の防寒については、今までホームセンターで買った作業用ゴーグルを気に入って、オープンフェイスのヘルメットにゴーグルという組み合わせで頑張っていた小熊は、結局これでは顔が霜焼けだらけになると思い、使用しているショウエイ・クラシックの正規オプション品として出ている開閉式のシールドを買った。

 首元から鼻までと口周りの防寒については、小熊も礼子も百均で各色出ているフリース製のネックウォーマーを使っていたが、手芸部の教師がウールのネックウォーマーを作ってくれた。


 南アルプスの冬はどんどん寒くなるが、気温が下がったらそれに合わせた装備を加えることで対処できる、寒いなら寒くないように備えれば寒くなくなる。

 寒くなくなるということは、温かくなるというわけではない。

 外は今日も寒く明日も寒くなる、そして明後日も寒さが続く。装備を整えてもなお、暖房の効いた家や出先の店から屋外に出るのが億劫になる、またあの寒空の下を走らされるのかと思うとウンザリさせられる。それがこれから先ずっと続くと考えただけで、陰鬱な気持ちになっていく。

 小熊と礼子はやっと気づかされた、冬がバイク乗りにとって敵とも試練とも言われる本当の理由。それは冬の寒さではなく、冬の長さ。

 あと二ヶ月もすればこの南アルプスの地にも春がやってきて、桜が咲くというが、それはこんな一日を何度繰り返せばいいのか、カブに乗る二人にとって、春はまだ手を伸ばしても届かず、目を凝らしても見えないくらい遠かった。


 その日も小熊と礼子は、外の冷風を遮断する宇宙服のような防寒ツナギを着て、灼熱の太陽の下をシャツ一枚で汗かきながら、風に吹かれて走った夏を思いながら走り回り、せめて胸の中だけでも熱く灼くべく、一杯のコーヒーを求めて椎の店に寄った。

 椎は居なかった。変わりに椎の父が、苦味が油のように濃厚で椎の淹れるエスプレッソに負けず美味いハワイアン・コナのコーヒーを淹れてくれた。

 椎はこの店のイートインスペースに、自分のバール・カフェを作るという計画を実行中で、冬休みも学校近くの郵便局で仕分けのバイトに勤しんだらしいが、店の中を見る限り、さほど進捗しているようには見えない。

 椎の父によれば、今はバイトとお年玉で得た金で必要なものを買い漁っているらしく、この寒空に負けずアレックス・モールトンの自転車を漕ぎ、家から最寄りといっても十kmはある日野春駅から電車に乗って、少しでも安い物を探し回っている。


 椎が居ないせいか、あるいはこの終わらない寒さがいけないのか、いつもより会話の少ない小熊と礼子は、コーヒーを一杯飲んだだけで店を出る。椎の父は自分が焼いた勝沼産レーズン入りの甘いライ麦パンを振舞えないのを残念がっていた。

 普段はここで小熊と礼子は、お互い逆方向にある自分の家へと帰るところだが、今日は礼子が甲州街道にあるショッピングセンターで買い物をするというので、小熊の家の方角にある牧原の交差点まで一緒に走る。交差点で礼子は右折し、小熊は直進した。

 買い物に付き合う気も起きない。行けば出先の暖房で暖かい思いをして、また外に出たくなくなる。さっき椎の店で同じ思いをしたばかり、ハンターカブで走り去った礼子も買い物の寄り道が楽しみというより、生活のための義務のような顔をしていた。

 そのまま日野春七里岩の坂を登り、自分のアパートに帰った小熊は、駐輪場にカブを停めてヘルメットを脱いだ。ライディングジャケットの胸ポケットで携帯が鳴る。

 礼子がやっぱり買い物に付き合えということなら、断って電話を切ろうと思いながらガラケーを開き、着信を見る、買い物に行っているという椎の携帯。

 電話に出ると、小熊にはまずカフェのバリスタっぽい明朗な挨拶をする椎にしては珍しく、消え入りそうな声が聞こえた。

「……助けて……」

  

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