第十七話 サム・マネー

 小熊と礼子が導入したハンドルカバーは、予想以上の優れものだった。

 そろそろ薄いグローブでカブに乗ると手がかじかむほどの寒さになってきたが、ハンドルカバーを付けてからは軍手で充分。

 寒さに備えてグローブを厚くするのは、手に出来るだけ空気の層を重ね、保温効果を高めるためというが、手の周囲に無風の空間を作るハンドルカバーの構造がいかに効果的か思い知らされた。

 手だけでなく上着の袖を封鎖するので、上半身まで今までより暖かくなったような気がする。

 防寒とは即ち防風かもしれない。小熊はまた一つカブのこと、バイクのことを知った。

 とりあえず、今のところは制服の上に着るライディングジャケットとハンドルカバーで、カブに乗っていても寒くなくなった。だからといって防寒対策が一段落したかといえばそうでもない。

 まだカブに乗っていなかった去年や一昨年も、その前も経験した南アルプスの冬は、これから本格化する。


 文化祭が終わり、通常授業の始まった学校の昼休み。

小熊もいつも通り、カブのシートに座って弁当を食べていた。代わり映えのしないご飯とレトルトだが、弁当箱が百均のタッパーから角型飯盒のメスティンになった。

 朝の準備をしている間に炊いたご飯を、そのまま持って来ることが出来るようになったという実用的な理由だけでなく、弁当箱が間に合わせからお気に入りの物になったことで、食べる物は同じなのに昼食の時間が少し豊かになったような気がする。

 向かいにはハンターカブのシートに座り、やはり毎日あまり変わらないサンドイッチを食べている礼子が居る。

 ライ麦パンにレタスとトマト、ハムを挟んだ礼子のサンドイッチは、彼女の暮らしているログハウスから学校までの途中にあるパン屋で買っていると聞いた。

 別荘滞在者向けに開店したという、ドイツのチロル地方を思わせる三角屋根のパン屋は、小熊も礼子の家に行く途中で何度か通ったが、とりあえず今の小熊はスーパーの食パンより高価なパンには興味が無かった。

 

 小熊は弁当を食べながら、これからの事を考えていた。

 もっと分厚い冬用のライディングジャケットや、防寒にとても効果的だという透明なウインドシールドなど、冬の本格化に向けて気になる装備は色々あるが、今のところはこれ以上の買い物をする気になれない。

 奨学金の振込みはまだ先で、しばらくバイトをしていない小熊の財布事情。今月はハンドルカバーやメスティンで色々と使ってしまった。

 新車在庫のハンターカブを買って、仕送りを貯めていた金がスッカラカンになったという礼子も似たような状態らしく、さっきから金が無い金が無いと嘆いている。

 とりあえず今は、新たなる防寒装備を買うことは控えようと思った。カブで快適に走るための買い物で、カブで走り回るガソリン代に事欠くのは本末転倒。

 昼食を食べ終えた小熊は、家で作った麦茶が入っている保温マグボトルの水筒を一度手に取ったが、テーブル替わりのリアボックス上にまた置いた。向かいの礼子に手を伸ばす。

 礼子は小熊と同じようなマグボトルを放り投げてくる。キャッチした小熊は蓋を開けて一口飲む。中身はコーヒー。麦茶よりそっちの気分だった。


 週末に礼子のログハウスで過ごす時には悪くないと思ってたコーヒーは、ひどい味がした。パーコレーターで粗挽きのコーヒーを煮出して時間が経ってることと、礼子がコーヒーを淹れるのがヘタだという理由もあったが、何よりコーヒーを不味くしているのは、金が無いという小熊の気持ち。

 小熊と礼子の居る駐輪場から見える自販機のコーヒーすら買えない。飲むものがこれしか無いとなると途端に不満が出てくる。

 礼子にマグボトルを返した小熊は、カブの上で体を伸ばした。放課後にはカブで走り回りたい。でも財布の中が寂しいと、燃費のいいカブのガソリン代でさえ散財のように思えてきて、遠出することを躊躇うようになる。

 礼子が小熊のマグを勝手に手に取り、中の麦茶を飲んでいる。さっきコーヒーを飲んだ小熊と同じような顔。

 冬の冷たい風だけでなく、懐の寒さもまたバイク乗りの敵だと思った小熊は、近づいて来る人影に気付いた。


 低い背。蒼みがかった長い髪。ちょこちょこと小走りにやってきたのは、同じクラスの女子、恵庭椎。

 学園祭ではクラス模擬店のイタリアン・バールでバリスタ役を務めた子で、礼子が毎朝サンドイッチを買っているパン屋の娘。

 そういえば、この椎という子は学園祭で必要になったカフェ什器を小熊と礼子がカブで運んだことに感謝して、エスプレッソマシンで淹れたコーヒーをくれた。

 あのカプチーノは美味かった。そう思ってると椎の顔までもがコーヒーに見えてくる。甲府や中央市にもエスプレッソやカプチーノを出す店はあるが、今の小熊にはそれを飲みに行く金も無い。なんだか椎が憎くなる。

 教室からここまで走って来たのか、椎は少し息を切らしながら話しかけてきた。

「クラスの子に聞いたけど、本当にここで食べてるんだ」


 小熊は「だから何だ?」としか思わなかったが、毎朝サンドイッチを買っている礼子は幾らか愛想よく振舞っている。

「どしたの?こんなとこまで」

 そこで椎は用事を思い出した様子で、制服のポケットから幾つかの紙片を取り出す。

「あの、うちの店のカフェスペースに、エスプレッソマシンを置くことになったんです。それでこれ、無料チケットです、良かったらお店に来てください。パパとママも二人にお礼を言いたいって」

 小熊と礼子は顔を見合わせた。コーヒー飲む金も無い、遠出する金も無い。そう思ってたら、近場で美味いコーヒーにありつけるという話が飛び込んできた。  

 二人で思わず吹き出し、笑い出す。小熊は不思議そうな顔で見ている椎に言った。

「今日でもいいのかな?」

 椎は胸の前で手を合わせながら返答する。

「喜んで!」

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