奴隷邂逅【14-2】

 意識が、深く沈み込んでいた。身体が、酷く冷たい。ぼやけた遠景を眺める様に、過去の追憶が焼けたフィルムを回す。北での親父との接触、母子への過ち、爆弾作りの日々、ロビーの小間使いとしての暮らし……。コマ送りの走馬灯が、逆行して呼び起こされる。灰色の記憶に、特別な感動は覚えなかった。味気なく、生の充足を得られないままに過ぎた年月。その始点である地下室に場面が移った途端、解像度の低い画面が乱れた。白色のノイズが縦横を走り、薄暗い地下室が塗り潰されてゆく。何事もなく現実世界に意識が戻ると予期していた矢先、そいつは予期された世界を割いてフェードインした。

 そこかしこが暗い灰色で埋め尽くされた部屋。そこで幼児学級にも通わぬ背丈の子供らが、腕を後ろに拘束されて転げられている。天井の隅に、赤いランプを灯す監視カメラが吊られている。異様な光景だが、吐き気を催す現実味が横たわっていた。窓一つと存在しない精神病棟じみた室内に、一枚だけ存在する鋼鉄のドアが軋みを上げる。踏み込んできた足は艶の乗った黒革に包まれ、並みならぬ仕上げの黒い布地に覆われている。革靴の男が部屋に進入するや、子供らの失意に満ちた眼が、束の間の生を取り戻す。弾かれた様に各々が部屋の隅へ芋虫よろしく這って逃げ、数人は他を踏み台に丸まって、壁に団子を成した。子供らを狂気に陥れた男の顔は、薄明かりの所為か、黒い靄に遮られて窺えない。まるで、メディアに掲載された特殊部隊みたいだ。そいつの腕を辿っていくと、暗所でも鈍く輝く一筋の光が右手に収まっていた。一見してそれと分かる、ナイフであった。直感が囁いている――早く起きなきゃ駄目だ。男の影が視界を満たす割合が大きくなる。冗談じゃない、止めてくれ。スーツの男が、目と鼻の先に屈み込んだ。くそったれ、いかれたサイコ野郎が!仮想現実にもかかわらず、息が苦しくなる。鋭利な刃が近付く。少しだけ刃こぼれを起こしているのが見て取れる。背筋が、感覚を失う。

 嫌だ。こんなのは人の扱いではない。排気ガスめいた靄で表情こそ見えないが、スーツの男は確かにほくそ笑んでいた。弱者は淘汰される。頭の隅の何処かで誰かが説いたのと時を同じく、冷たい刃の先端が頬の皮膚を突き破る。その場に似つかわしくない声が響いたのも、それとほぼ同時であった。


 残酷な金属とは別の、乾いた感触が頬を滑る。重力の方を見やれば、覚醒時に相手取っていたノートが揉みくちゃになっている。自分でも驚愕の間抜け声を吐いて上半身を起こすと、黒のメイド服を纏うブリジットが不審を隠せずに控えていた。どうやら、護衛対象に救われたらしい。

「また、うなされていました」

「らしいな」

 強張った筋肉を解しつつ、周囲へ視線を巡らした。物騒なペットボトルは既にボストンバッグに収められ、ノートの計画も乱れて解読不能に相成っている。いつの間に睡魔の奇襲を許したかは判断付かぬが、昔から小狡いところは変わっちゃいない。ともあれ、恋人に己の好んで晒したくない部分は見せずに済んだ。熱っぽい額を押さえてペンを持ち直し、皺だらけのページを破り捨てる。どうせメモ書き程度であるし、邸宅への攻撃案は既に脳内で構築済みだ。あとは焼いてしまえば、証拠は残らない。ペンの尻をノックして再び見取り図の予想に定規を滑らせる俺の手に、ブリジットのそれが待ったを掛ける。

「余り根詰めてはいけません。疲れがお顔に出ています」

「いや、しかしだな……」

 ブリジットの人差し指が、ぴっと俺の口にあてがわれる。

「駄目です。もしお仕事が残っているなら、少しお休みになってから。ね?」

 そうして脂にまみれた頭髪を、彼女は撫ぜる。全く、大馬鹿野郎だ。彼女の障害を取り除くべき俺が要らぬ気を遣わせているのでは、滑稽過ぎて目も当てられない。

「ところでヒルバート様、今晩は何処かへお出掛けで?」

 唐突な鎌掛けに、心臓が握り潰される。驚嘆の面持ちで見返すと、ブリジットは口許に手の甲を置いてくっくと喉を鳴らす。

「だって、そういうお顔でしたもの。今日はお帰りにならないと考えて宜しいですね?」

 度肝を抜く洞察に、俺は正真の阿呆面を晒して首肯するのみであった。一瞬、微笑を浮かべる彼女の背中に、黒く妖しいビロードの双翼が見えた気がした。

 夕食を摂った後でシャワーを浴び、鏡の中の自分を相手取ってブリーフィングを開いた。やる事は決まっている。マーティン・アボットの牙城を密かに襲撃し、家主を殺す。字にしてみれば極めて簡単だ。だが、もし失敗したら?連隊の支援はなく、緊急時の逃走ルートも確保されていない。頼れるのは我が身だけ。遅れて訪れた懸念に、自律神経が機能を放棄する。たまらず、涙が頬を伝う。あの子を守れなかった未来に怯え、嗚咽にバスタブの中でうずくまった。惨めな悲哀の発露を悟られない様、窒息するくらい口を押さえた。脆弱な感情の奔流の切れ目を狙って立ち上がり、鏡に再度向き合う。兵士にもう迷いはなく、冷徹な双眸がこちらを射貫いていた。


「仕事が終わったら、ちゃんと帰ってきますよね?」

 平服に着替えたところで掛けられたのが、そんな問いであった。彼女の訝しむ通り、下手を踏めば俺は明日の陽を拝めない身になる。敵勢力はそこらのホームレスや、若さを持て余した三流大学生ではない。ネット上の噂が正しければ、傭兵上がりのろくでなしだ。正規軍の手に負えなかった悪漢が相手なら、こちらを殺すのに如何なる手管の行使も辞さない。やり辛い相手には違いない。群れを成す野犬に真っ向から殴り掛かる我が身を、嘲笑したいくらいだ。

「大丈夫だよ、楽な仕事さ」

 鏡で確認しなかったが、ブリジットに微笑みがなかった辺り、ひょっとすると全てを見透かされていたやもしれない。やはり、俺には過ぎた女だ。

 あと数分もすれば、事前に連絡していた兄弟が揃ってやって来る。ブリジットには訪問警護を伝えていないが、やむを得ない。小さなパーティを開ける事態ではない。

 警護対象玄関ドアに近付けさせるのも危険と考え、別れはリビングで済ませた。いつもは軽くキスでもするところを、彼女はひしと胸にしがみ付いてくる。衣服を通して、愛した女の体温が伝わる。涙腺が緩みかけた途端に彼女は固く結んだ腕を解き、「お気を付けての」一言で送り出してくれた。寂しげな瞳と憂いの籠もった声音が、頭にこびり付いて離れなかった。

 イグニッションにキーを挿して大出力のエンジンを始動し、下唇を噛み締める。バックミラーに映る貌は、既に人の様相を呈していなかった。助手席のボストンバッグをシートベルトで固定し、首都へ向けてアクセルを踏み込む。この一夜で、片を付ける。


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