第5話 拝啓ご両親、自分が変だと悩んだことはありますか?

 僕としては病院という施設にあまり縁が無かったので、正直な話、どういった病院が普通なのかという印象が薄かったりします。


 身体だけは親譲りで頑丈にできていて病気なんて一度もしたことありませんし、予防接種も学校でやるような物しか受けた覚えがありません。健康診断も大学生になって大学構内で受けたのが始めてで、非常に新鮮だったのを覚えています。


 僕が個人的にお世話になったことがある医者というのは、本家と懇意にしていて往診してくれるようなお医者様か、運動して身体を痛めた時の骨接ぎさんくらいでした。


 だから、この見上げるほど巨大な病院というのは、何というか違和感の固まりでしかたないのです。


 「国際衛生維持局疾病研究病院つっても、まぁ実態は姥捨て山みたいな?」


 「せ……班長、それ絶対お偉方の前で言わないでくださいね。死ぬなら一人で死んでください」


 「あんだと? そこは上司に殉じる可愛げをみせてみろよお前。何年の付き合いだ」


 来て欲しくない来て欲しくないと思うほど時間は素早く過ぎてしまうもの。初めての局外実習がある金曜日。僕は先輩に連れられて、非常に大きな病院の前に居ました。


 国際衛生維持局疾病研究病院という、手書きすると名前を出さないといけなくなる度にイライラしそうなほど長い名前の病院は、その名の通りWPS出資の病院であり、日本には東京と大阪で二箇所設置されています。


 東大阪の外れの外れ、大阪府内だと言われてもいまいち実感し辛い田舎の方にあるこの病院は、高速を使えばWPS大阪事務局から30分ほどで辿り着けます。周りには街と言うより集落と呼ぶ方がしっくりくる、過疎化の波が絶賛到来中の寂れた町が一つあるだけ。こんな立地に建てたのは、それこそ班長が仰る通り研究施設としての側面が大きいからでしょう。


 一般向けのパンフレットを読めば分かる事ですが、ここでは再起性症候群と再起現象の研究を行われており、効率的な予防や将来的な症候群の治療を目指し、様々な地域から集まった俊英が日々研究を続けているそうな。その傍らでターミナルケア、班長が仰るには何時死体に変わるかも分からない人間の面倒も見ているという、非常に世知辛い世情を汲んだ場所でもあります。


 今の世の中、人は死ねば皆動いてしまいます。となると今にも逝ってしまいそうな人間を無力な人間ばかりの中に置いておくのは危険なのです。なにせ再起現象の平均発症時間は40~50分、救急車が回収して執行官が到着するのに必要な時間よりずっと短いものです。


 実際、夜中に痰を詰まらせて窒息死した老人が再起し、一つの老人ホームが全滅するという大事故に発展したことが10年前にあったそうです。そんな事故を防ぐため、いよいよ危ないとなる前に命脈が尽きそうな人間は一箇所に集めてしまおう、とこの病院に大勢が集められているとか……。


 「どうした新入り、テンション低いな」


 「朝食を抜いたからでは?」


 「ああ、腹減ってんのか。だが、また反吐吐きかけられるのは勘弁だからなー」


 テンションが朝から底値を絶賛更新中の僕と対比して、メンター二人は本当に普段通りお元気そうでなによりです。ええ、皮肉ではないですよ、ありませんとも。


 「まぁいいや、テンション高かろうが低かろうが人は死ぬからな。そして人が死んだら私らは仕事をせにゃならんのだ。手前が死なんためにな」


 「そういえば昼間当直って久しぶりですよね」


 「そうな。ベテランになればなる程昼夜逆転生活を強いられるから困る。メンター様々だな」


 仕事にテンションの高さは関係なく、メンターとして僕の心情を斟酌してくれるつもりもないのか、お二方はずんずんと院内へと進んでしまいます。そして僕も社会人として気が向かないからと陰気な顔ばかりしている訳にもいかないので、その後を追いました。


 新しい病院ということもあり、広いエントランスは妙に冷え冷えとしていました。総合受付にもなっているエントランスには、大勢が座れるように沢山のソファーが並べられていますが、大病院にありがちな受診者の大行列は何処にもありません。


 それこそ今から入院しようとしている高齢者とその家族が一組座っているだけで、本当に人が少ないのです。受付の看護師さんも態度は真面目ですが、何処か暇そうな雰囲気を纏わせています。


 「今日は研修かねて表もミルが、普段は裏の職員用エントランスから入るんだ」


 「一応規則といえば規則なんで覚えておいてください」


 「はい。裏からしか入っちゃいけないのですか?」


 「まー、そりゃ病院で陰気くさい喪服の集団なんざ誰も見たくねぇからな。縁起でもねぇ」


 職務中、という臭いを全く漂わせない調子で雑談しながら病院の中を進んでいきます。所々看板を見れば、一応普通の心療内科や外科、救急医療センターなどもあるようですが、一階の何処を彷徨いても人気は驚くほど少ないです。平日の九時、診療時間開始直後の病院といえば話に聞くに混み合っているのが相場のようにも思えますが、やはり立地と性質の問題で誰も来たがらないのでしょうか。


 ぐるりと歩くだけで少し疲れる院内の一般スペースを案内して貰って、僕がすれ違ったのはたった三人の看護師さんだけ。愛想良く会釈してくれる彼女たちは、書類を運んでいるだけで忙しそうという感じはありません。


 「一階は大体回ったか。ま、こんな感じで基本的に一階には診療スペースなんぞがあるが、ここが大賑わいしたことたぁねぇし、私達が来ることも……あっても救急医療センターくらいか」


 「死人が出なきゃ仕事になりませんしね」


 確かにそうです。僕らが病院に詰める理由は一つ。死人が出た時、非再起処置ができるのは僕たちだけだからに過ぎません。なら、死人が関係しないセクションと無関係なのは当然の話でしょう。


 その後、二階にはリハビリセンターがあり、三階以降は全て病室だと教えて貰いましたが、そこは見て回りませんでした。本格的に用事がありませんし、態々見て回らないといけないような造りでも無いとのことで時間短縮だそうです。


 一旦エントランスから出て、裏口の職員用エントランスへと向かう間、ふと違和感を覚えました。案内表示板はそこら中に貼り付けてあるのに、今思い返せば院内図が何処にも無いのです。これだけ広い病院ですから、地図の一つも無いと苦労しそうなのですが。


 分からない事は直ぐ聞いた方が良いので聞いてみれば、班長は意外そうな顔をした後で嬉しそうに教えてくれました。


 「良いことに気がついたな新入り。確かに案内板はあるが、ここには地図は無い。一応あるがアイズオンリー、複写禁止の持ち出し禁止の品だけだ」


 「はぁ……どうしてですか?」


 「そりゃお前、テロの対象になり得るからだよ」


 「え?」


 爽やかな朝の陽気に包まれて、班長は何処までも物騒な話を楽しげにしてくれます。僕はそれにぼけっとした顔で答えるしかできませんでした。


 「パンデミックは一度始まると加速度的に危険度が増すからな。それこそお前、初動を間違ったら大都市丸ごと消毒沙汰だぞ。となるとだ、ここには大量に死体のサンプルが置いてあるし、入院患者も数百人だ。狙われたらコトだぜ」


 「ああ、確かに……」


 「駅やら空港、水道局よりはマシだが、それでもヤバイ血液サンプルをウン十リットル規模で補完してるし、最新の研究データだとか献体がナンボでもある。となるとテロ対策をせにゃならんのだが……」


 如何せん普通の人間も多用する病院となれば、僻地に立ててもトラップてんこ盛りにはできないのは道理ですね。それこそ世の中には危険という立て札を見ても、それが立っている意味を理解できない阿呆はつきません。罠で怪我されたりしたら、阿呆が悪くても作った方が責任を取らされる世の中ですから、残念ながら評判を考えると殺し間を作ることもできないのです。


 「だから予防的観点で地図は一切無い。地図が分からんと計画を立てるのも難しいからな。施工図だって保管してあるのは弄った偽物で、もう原本なんて残ってるかも怪しいぞ」


 何処かを襲おうと思えば、地図が無ければ計画を立てるのは非常に難しくなります。何より迅速に欲しいものを奪わねば、包囲されて結局目的を果たせなくなるかもしれないのですから。


 故にこれだけ大きな建物でも、入院患者用のフロア以外に地図はないのです。とはいえ、道を覚えないと仕事にならないというのは、勤める側からすれば不便以外の何物でもありませんね。備品倉庫とか沢山ありそうですし、何より迷ったらどうするのでしょう。


 表側の見学が終わった後に通された裏口の職員用エントランスは、表と比べて随分と厳重な佇まいでした。


 車で突っ込んでも突破は難しそうに堅めてあり、頑丈そうな車止めが過剰なくらいに並んでいます。所々にある溝は、いざという時に防弾壁を立てて籠城するためにあるのだと先輩が教えてくれました。


 そしてエントランスの中で待ち受けるのは、腕に警務と書かれた腕章をつけて短機関銃をぶら下げたWPS職員数名。空港にあるような検査ゲートまでもうけられている物々しさ。地下の研究区画には、物理的にここからしか入れないよう作ってあるそうなので厳重なのも当然でしょう。


 ただ、ここまでやってもコトが起こったら簡単に突破されたり、内側から死体が溢れて来そうだと思ってしまうのは映画の見過ぎでしょうか。


 「おう、お疲れさん」


 「おはようございます。あれ、昼シフトですか、珍しいですね」


 「まぁな、研修様々だよ」


 局員証を見せて気軽な調子で言葉を交わす警務部員と班長。入退名簿に名前を書いて捺印までしていますが、空気はどこか弛緩していてやる気など欠片も無さそうでした。外見の物々しさに相反して、重要施設らしからぬ軽やかな空気があります。これが身内補正というやつでしょうか。


 とはいえ紙の上での手続きにそこそこ時間がかかるらしく、先輩に促されてゲートを通るための準備を始めます。金属やら何やらを隠し持っていたら云々のアレですよ。


 「重要施設やテロ云々の話を脅すようにしましたが、実はそこまで重要な代物はないんですよね、ここ」


 「え?」


 備え付けのカウンターにあるトレイに荷物を開けていると、唐突に先輩がそういいました。その時僕はきっと、誰からみても間の抜けた顔をしていたのでしょう。つい先ほど、班長があれほど脅すようにヤバイ物があるヤバイ物があると言っていたのですから。


 「家の国、色々五月蠅いでしょう。大っぴらに再起性死体の献体とか持ち込んだり研究してたらクレーム来るんですよ。昔あったんですよね、どっかの基地開発みたいに変な連中が押し寄せてくるようなことが」


 「ああ、はい……」


 「だから透明なガラスの向こうに沢山の再起死体がサンプルとして詰め込まれて……なんて事は無いんで安心して勤務してください。ゲームとか映画みたいなことにはなりません」


 そういう危ない研究はグリーンランドの研究施設でやってるんですよ、と教えてくれて、なんだか酷く安心してしまいました。よかった、何かの手違いで検体が解放されて、施設が全滅ということにはならないのですね。


 感染源となりうる大量の血液サンプルも、正直な話、考えてみれば然程重要とも言えませんでした。それこそ必要なのであれば誰かを殺して再起させ、後は吊して血を抜けば一人あたり4リットル前後の血液が絞れるのです。テロをしでかすような組織なら、一人二人攫って血液を絞るくらい余裕でしょう。それこそ、こんな施設を襲うのに比べて手間も時間も全然かからないでしょうし。


 「研究もサーバーで共有されますからね、今やグローバルにネットで接続される世の中ですから。施設一個襲った所で手に入る物なんてたかが知れてるんですよ」


 「ですよねぇ」


 なんだか気抜けして笑ってしまいましたが、先輩は普段通りの鉄面皮のままでした。つまりは、今の話は大真面目で冗談を言っている訳ではないのでしょう。返って安心できますね。ああ、よかった、自分の職場がよく分からない組織に襲われて壊滅するような施設ではなくて。


 「お前ねー、ネタばらしするの早すぎだろ」


 「無闇に脅したって仕方がないでしょう」


 手続きを終えた班長と一緒に荷物を検査してもらい、自分たちもゲートを通ります。特に何かに引っかかることも無く、他の警備員と同じく弛緩した空気のまま進むことができました。


 研究区画は地下にあるそうですが、僕が案内されたのは一階にある宿直スペースという看板が掛かった一角でした。中に入ると、そこには半分死んだ眠そうな顔の男女が数名……。


 「あ、交代きた……」


 「お、おお、やっと帰って寝られる……」


 目の下に濃い隈を刻み込んだ長身の男性がパイプ椅子の上に身体を投げ出すように座り、その横では三つ並んだパイプ椅子の上で一人の女性が横たわっていました。


 「今だけ性悪女が神々しく思える」


 「ああ、とんでもない美人だ……結婚してくれ、ちまっこい後輩氏」


 「そっちかい」


 メモ帳と内線用電話が置いてある机でも中年の男性と、壮年に足を踏み込みかけた男性が並ぶように突っ伏して死んで、いえ倒れていました。皆一様に疲労の色が顔に色濃く表れ、消臭剤の臭いを強烈に漂わせています。


 事務局で何度かすれ違った事のある人達。言うまでも無く、僕の先達にあたる執行官の方々です。


 「何があったし。あと、これは私んだからやらんぞ。便利な小間使いを早々盗られてたまるか。誰が私の部屋の掃除をすると思ってるんだ」


 「蹴り倒すぞ。私はアンタの小間使いになったつもりは無い」


 動く死者を葬る側よりも、むしろ葬られる側のように思える有様の先輩諸氏を見て、メンター二人は慣れたように宿直室へと入っていきました。え? この有様を見て突っ込みは殆ど無しなのですか?


 軽くひきながら入室すると、死人達がノロノロ起き上がって荷物を纏め始めます。眠気覚ましのガムが入っていた空のボトルやコーヒーの空き缶を束にしてゴミ袋に放り込んだり、死化粧が施された死人の顔の方が幾分かマシな顔を洗いに行ったりと動いていますが、その一つ一つの動作が酷く鈍い物です。


 夜勤とはそれほどに激務なのでしょうか。隣には仮眠室というプレートがかかった部屋が用意されているくらいだというのに。


 「何があったんだよ」


 班長が荷物をロッカーに放り込みながら問うと、椅子の上で寝そべっていた女性が死んだ目で応えます。


 「一色と二朱の班が20時くらいだったかしら、近所の廃墟で事件あったって呼び出されて出てったのよ」


 「あ? 裏の山か? 心霊スポットがあるとかいう」


 「そ。廃診療所に肝試しに行った馬鹿学生共が死体見つけたのよ。それも立って動くヤツ。その強制執行で近所のマッポに呼ばれて出てったわけ」


 セミロングに切りそろえた髪と小柄でスレンダーな体躯、そしてすっと通った切れ長の瞳から美人で丁寧な印象を受ける人ですが、その口調は酷く乱雑で荒っぽい物です。班長の男性的な口調とはまた違った荒っぽさが、何とも逆らい難い雰囲気を醸し出していました。


 「そりゃついてねぇな」


 「それだけじゃないのよ。三つよ三つ、仏さんが三つ! しかも事件性アリアリな様子だから七種の班も駆り出されたのよ!! 残るのが私と五月女の班だけになるってのに……」


 既に十分乱れた髪を掻き乱し、辛そうに叫ぶ女性。喪服を着た女性が我を忘れて怒鳴っている様は、なんだかホラーかお家騒動物のドラマのようで恐ろしくもあります。


 「落ち着いてください三和さん。コーヒーでも如何ですか?」


 「ああ……すまないわね、いただくわ」


 先輩が差し出した水筒を受け取って女性、三和さんは漸く落ち着きを取り戻したようです。話を聞くに夜間当直は四斑体制ですが、その内の二つが抜けたと考えれば忙しかったのも何となく分かります。


 「あら、美味しいわね。インスタントじゃないわね?」


 「ええ、きちんと朝ドリップしました」


 「おい後輩、それ私のだろ。まぁいいや、でお前ら四人が死んでる理由は?」


 ああ、と班長から先を促されて三和さんは面倒臭そうにそれから起こった事を話し始めました。


 「それから2時くらいに六階の患者さんが一人亡くなるし、執行手続きとってたら近くの高速出口で馬鹿が逆走やらかして大事故よ。七人も運ばれてきたわ。その内の二人は手当てしても長く無さそうだから、いつでも執行始められるよう待機しろって言われるし……」


 事態を把握しかねている僕を置いて、勤務経験から辛さが分かるらしい班長と先輩が捻り出すような呻き声を上げました。書類の作り方は研修で習ったのですが、そこまでハードな量では無いと思うのですが……。


 「その上! さっきの廃墟の件で出張ってたマッポの馬鹿が一人噛まれやがったのよ! あれほどドアを不用心に空けるなって研修もやったのに! 絶対に一人で探しにいかないで、全部執行官に任せろって周知させてたのに!!」


 「おわ、ってこたぁ死体が都合四つと感染者が一人か……」


 「それだけなら良かったんだけどね……」


 項垂れる三和さんの肩を深い隈がある男性が叩きました。先ほどまで椅子で死んだように身体を投げ出していた人です。


 「その感染者が、俺は死なないんだとか言ってチャカ抜いて、廃病院に立て籠もってなぁ……俺らも増援に引っ張ってかれたんだ」


 「お前もか四戸……」


 「え? じゃあその三人の執行は五月女さんと六笠さんだけでやったんですか?」


 内線電話の前で死にかかっていたお二人が、非常に重々しい動作で頷きました。後で聞きましたが、五月女さんが中年のベテラン執行官の方で、六笠さんが私より一年先輩の執行官だそうです。


 「それで帰ってきたのが15分前よ。結局強制執行することになったし……」


 「あー、そこまでいっちゃったかー」


 「先に行った2斑は向こうで缶詰ですか。多分署の方まで行ったりで昼までコースですかね?」


 感染者と強制執行……考えるだけで吐き気を催しそうな内容ですが、そういうことなのでしょう。感染を広める危険性がある感染者は、安全の為に非情な措置を執らねばならないこともあると聞いてはいましたが……。


 実際に事件があったと聞かされると辛くなります。


 「中々ハードな内容の日報だな。今日初日とか運が無いヤツがいるみたいだ」


 「ああ、その子? 貴方たちがメンターやってるのって」


 入り口の辺りで所在なさげにしていた僕に、居住まいを正した三和さんが間合いを詰めてきます。そして上から下まで品定めするように見つめた後で……何か、可哀想な物を見るような目で見られた上、肩に手を添えて慰めまでもらってしまいました。


 「苦労するわね……いい? あの女、多少所じゃなくて変な所あるから、困ったら後輩ちゃんに言いつけるのよ? あの子はまだマトモな方だから」


 「は、はぁ……」


 誰が変な所があるだとか、まともな方? というメンターお二人の遺憾そうな声が聞こえてきましたが、聞こえなかったことにします。一応気を遣ってはいただいていると思うので、僕としては妙なアクションを起こさない方がいいでしょうし……。


 「じゃ、私達は帰るから。初実習頑張りなさいね」


 「辛いこともあるだろうが心を強くな。初任給は人の倍近いんだ」


 「危険手当もでるぞ!」


 「残業申請は面倒臭くてもしっかり忘れずにな?」


 ぞろぞろと片付けを終えた宿直勢が引き上げていきます。頑張れよと一人一人肩を叩いてくださったり、選別だとボトルガムの残りをくれたりしました。有り難いとは思うのですが……憂鬱さを抱えてきた精神が、将来の厳しさにふれて悲鳴を上げていました。


 え? 何なんです? 今までの一連の流れは。いや本当に。


 僕はそんな目に遭いかねない職場と職責を負ってしまったのだと、今のやりとりで更に深く認識させられてしまいました。ただでさえ実習で“死体”相手に仕事をするかもしれないのに……そんなことまで?


 一瞬意識が遠のきかけ、ふらっと来てしまいました。ああ、本当に本当にどうしてこんな職場に…………。






 あの後、茫然自失としてしてしまいましたが、自分を取り戻したときに手帳には色々と書き込みがあったので、自失しつつも身体はしっかりと動いていたようです。


 内線がきた時の手順や、備品が何処に入っているかなどはしっかりと普段通りの几帳面さを発揮することができました。


 現在時刻は午前11時。宿直室で僕はPCの日報を読んでいます。その傍らで班長は暇そうに私物のスマートフォンを弄り、先輩は文庫本片手にコーヒーを啜っていらっしゃいました。


 当直中は基本的に内線が鳴って呼び出されない限りは自由にしていていいそうです。夜間宿直の場合は二時間に一度見回りに出るそうですが、昼間は余所からの増援も望めて一斑で十分と判断されるほど暇だそうなので。


 年間の大阪府全体での死者は八万人程度。一日平均で250人前後死んでいることになりますが、それは大阪全体に分散してのことであり、更には行方不明による実質死亡も含んでいるので、病院で亡くなる数は更に少なくなります。


 つまりは、病院に詰めていても毎日やることがある訳でも無いのです。


 先輩が仰るに、大体三回に一回くらい非再起処置の執行があり、月に一度くらい事故や事件で大荒れになる程度だそうです。


 そこまで肩に力を入れなくとも、想像よりも仕事は少ないのです。故に私も仕事を覚えるために今までの日報をのんびりと……。


 「あ」


 「ん」


 「おっ、内線だ。でろ新入り、ほれ早く」


 とか思った途端、机の傍らに置かれていた内線が嫌な音を立てました。ディスプレイを見やれば、六階ナースセンターとの表記がありました。


 畜生何で平和だと考えていた時に……! 神は寝ているのですか!?


 妙に重い手を伸ばして内線を手に取れば、若い看護師さんの震えた声が聞こえてきました。時期が時期です、僕と同じで新任なのでしょうか。彼女の焦りと恐怖を帯びた声は、一方的に611号室の平井さんが危篤状態にあるとのことでした。


 危篤、すなわち命の危機であり、恐らく助からぬであろう状態に陥ったとのこと。


 顔の血の気が一気に引くのが分かりました。


 今から誰かが死ぬ。そして仕事をしなければならない。その仕事とは……。


 僕の顔色の変化から、何が起こったか察したのでしょう。班長と先輩は素早く立ち上がり、壁際に備え付けられたロッカーへと向かったり、パソコンとプリンターを起動したりしています。


 マニュアルに従うのであれば、どれほど保ちそうか僕の方から聞かねばならないのですが、向こうも相当焦っていたのでしょう。準備をお願いしますといって一方的に切られてしまいました。


 「どこだ? 状況は?」


 荷物を仕舞うロッカーとは別のロッカー。重々しい造りで電子錠が据えられた特別であろうロッカーに何事か打ち込んでいる班長が、僕の困惑など知った事かとばかりに問うてきます。まぁ、そうですよね、仕事なのですから。


 「えっ? あっ、えっと、六階の、六階の……611号室の、ひ、平井さんです」


 「落ち着け新入り。状態は?」


 「えっあっ、その……」


 落ち着けと言われてもどうすればいいのか。ただただ思考が纏まらず、通話が切れた後の電子音を垂れ流す受話器を置くことすら適いません。どうすればいいのかと手帳へ縋るように目を落としていると、先輩が助け船を出してくれました。


 「警報鳴ってないんで落ち着いてください。まだ死んでませんし、再起もしてませんから。マニュアル通りに号室、名前、状況、見込み時間。はい復唱」


 「ご、号室、名前、状況、見込み時間……はい!」


 マニュアル通り、良い言葉です。そう言われると、安定した対処法があるのだから、それに従えば大きな失敗は起きないと精神が落ち着きます。平坦で普段なら少し不気味にすら感じる先輩の言葉が、焦ることでも何でも無いのだと落ち着いた調子もあって僕を少しだけ冷静にしてくれました。


 「状況は危篤、見込み時間は聞けませんでした」


 「新入りぃ、危篤状態ってのは曖昧すぎるし、私達の業界で使うべき単語じゃないぞ。次からで良いからもっと細かく聞け。呼吸止まってんのか止まってないのかで大分違う。脳が死んでからが再起現象までのカウントダウンだかんなぁ」


 班長は僕の至らぬ所を怒るでもなく、甲高い電子音を立てて開いたロッカーから荷物を取り出しながら改善点を指摘し、気負うなと励ましてくれます。ガチガチになってもならんでも人は死ぬのだから、そう普段通りの笑みと共に告げながら。


 「危篤ってことなら、まだ余裕ありそうですよね」


 「だなー、多分向こうも新人だろ。くたばってたら死んじゃいましたくらい言うだろうし。後輩、お前執行書面の用意させとけ。私はちょっと先に下ん降りるから」


 「アイマム」


 ロッカーから取り出された大きなアタッシュケース片手に班長は宿直室を足早に出て行ってしまいました。慌てもせず、焦りもせず、適度に脱力して任務に挑む。これがベテランの風格というのでしょうか。


 「では新入り、状況が進む前に執行関係の書面を作って出力してしまいましょう。どのみち死亡診断書が出てからでないと執行はできませんから、慌てずに」


 「はっ、はい!」


 先輩は僕の隣に椅子を持ってきて、パソコンで必要な書面の作り方を丁寧に指示してくれました。研修で作り方は習っていますし、フォーマットが置いてある場所も共通なので指示が無くとも普通ならできるのですが……今は凄く有り難かったです。まだ心がざわめいて、普通の作業を普通にできる自身がありませんでした。


 書面の作成そのものは、既にシステムが構築されているので非常に簡単です。某有名ソフトはカルテとシステムでリンクされているので、病室名を打ち込めば勝手に入院患者の情報が転写されて、後は執行官の情報を入力するくらいしかやることが無いほどです。


 大事なのは出力された情報をエビデンスと照らし合わせて間違いがないか確認すること。これを間違っていると、全く違う誰かに対して執行してしまったことになってしまい、後々大事に発展しかねないのです。というかなったことがあるそうです。


 「いいですか、人間の頭は兎角ロースペで、かつ自己補正が多いものです。見直しをするなら、まず文書を紙に出力してからやりなさい。その方が分かりやすいし、修正した所を残しておけるので修正し忘れることが減ります」


 「はい、承知致しました。まずコピー用紙で印刷してチェック……」


 「本番の時は専用の複写防止用紙を使いますが、まず一度普通のコピー用紙で出力すること。失敗すると怒られるんですよ、シリアルも打ってある紙なんで。失敗は絶対に無くなりませんが、減らすことはできるので減らし方を覚えてください」


 「はい! 分かりました!」


 一つの作業に打ち込んでいると、乱れていた心が落ち着いていくのが分かります。この後、直視したくない現実が待ち受けていたとしても、どこか平静でいられるのです。


 指示に従っていると時間が過ぎるのがあっと言う間で、書類はものの15分ほどで全て仕上がりました。転写防止措置の施された分厚い専用紙に専用プリンターで印刷した、執行関係の書面を先輩がチェックし太鼓判を押してくれました。


 現金な話ですよね。つい先ほどまで完璧に慌てふためいていたのに、ちょっと作業して誉めてもらっただけで落ち着けるのですから。人間というのは本当に単純にできています。それを分かって、班長は先輩に僕を任せたのでしょうか?


 「よくできていますよ、新入り」


 「あっ、ありがとうございます!」


 「これはご褒美です」


 え? と突然言われた言葉に反応しかねて口を開けると、何かを放り込まれました。危うく舌の上を滑って喉の奥に転がり落ちかけたそれは、慌てて受け止めた舌の上に柔らかな甘さと心地よい酸味を広げてゆきます。


 確かめるように二度三度と舌で弄んで、漸く何か気付きました。


 「……あめ玉?」


 「大阪人のマストアイテムです。紅茶味ですよ」


 「……美味しいです」


 それはよかった。そういって先輩は張り付いたような鉄面皮を薄い笑みに歪めました。班長に意趣返しをしている時の外連味溢れる笑みでは無く、何処か満足そうな笑みに。


 甘味というのは精神を落ち着ける作用でもあるのでしょうか。心に残っていたささくれたような乱れの残滓が、甘くて優しい紅茶の味に整えられていくようです。何となく、この先輩達についていけば大丈夫だと、口の中のあめ玉が励ましてくれているような感覚すら覚えました。


 先輩がクリップボードに書類をしまっていると、内線が再び音を立てます。反応が遅れた僕の代わりに、先輩の手が驚くほどの速さで閃いて受話器を取り上げました。そして、数度のやりとりの後、小さく嘆息して首を横に振りました。


 「611号室の患者さんが息を引き取ったそうです。蘇生措置の後、非再起処置に入るので準備しましょう」


 書類が無駄に終われば気楽だったんですけれどね。先ほどの笑みとは違い、口の端を吊り上げるように歪める笑みを浮かべて先輩は宿直室の扉に向かいました。


 ……今の笑みは何だったのでしょうか。どこか精神的な不安を煽る、死体のような普段の印象を塗りつぶす黒い感覚。何処かがおかしいと、頭の片隅にある何かが悲鳴を上げるような笑み。


 人は、一体何をすればあんな笑みを作れるようになるのでしょうか?


 具体的に何がおかしいのかは、おかしいと感じた自分が言うのも変ですが、分かりませんでした。ただ違和感を抱き、先ほどの柔らかな笑みとのギャップに驚くばかりです。


 就職してから翻弄されるばかりで、僕はどうしたらいいのでしょうか。


 「新入り? 行きますよ」


 「あっ、はい!!」


 この人達にも、そんな時期があったのでしょうか。事態の推移に弄ばれ、自分をなくすような時期が。


 小さいけれど素早く動く背中を追いかけながら、僕は何となく、きっとそんなことは無かったのだろうと思いました。良くも悪くも僕は凡俗ですが……あの人達は、何かが違うように思えましたから。


 きっと、僕と違って強く生きていけるような人なのでしょう。たとえ今と有様が大きく違ったとしても…………。






 妙に冷え冷えとした部屋に僕たちは居ました。地下の研究区画に設けられたここは、いわゆる霊安室です。遺体を痛めないよう安置するための冷蔵装置がずらりと並ぶそこは、清潔な筈なのに据えたような臭いがするような気がしました。


 こびり付いた死の臭いとでもいうべきでしょうか。ここに収められた数え切れない死人の臭いが残っているような、ありえない感覚がするのです。


 そして、そこに居るのが幽霊のような女性であれば、尚更死のイメージは肥大していくのです。


 一人の女性が空の処置台の前に立っていました。大きく開いた胸元と短いタイトスカートは、空調が寒すぎるほど効いたここに全く釣り合いません。たとえ柳のような細くも起伏に富んだ体躯の美人が着込んでいたとしてもです。


 細いフレームと適当に羽織った眼鏡が、彼女が医者であることを辛うじて教えてくれます。そうでなければ、あり得ない格好も相まって僕はOLの幽霊か何かだと勘違いしていたことでしょう。


 先ほど等閑な自己紹介をしてくれた彼女は、この施設の主席検死医だそうです。扱いを誤ると大変なことになる物を扱う人達のトップとなると、本当に雲の上のお人と言って良いでしょう。まだお若そうに見えるのに管理職ということは、本当に有能で海外勤務も豊富なのでしょうか。


 「ほんと、運び混まれる仏さんの多い日ね」


 「そんな日もあるさね。中東よりマシだろ」


 「難民キャンプというより、あそこはもう精肉場よ。研究してる暇なんてないもの。動いたら悲惨で、動かないと暑さと虫で直ぐ駄目になる。研究者殺しね」


 僕ですら見上げるほど背の高い班長と並ぶと随分小柄に見えますが、それでも女性の平均身長を大きく上回る彼女の手には、既に必要な書類が渡っています。院内ですら自動化が進み、死亡診断書が医師から手渡しされずに送られてくるのは、システム構築の素晴らしさを褒め称えるべきなのでしょうか。


 まぁ、その思考すら聞こえてくる物騒過ぎる会話から逃れたいだけなのですが。


 「やっぱ酷いのか?」


 「頭割れてるのはマシね。怪我なのか噛まれてるのか分からないから、もう血が流れてたらとりあえず殺しとけみたいな所はあったし、器具だって面倒くさがって牛刀で首叩き落とすのも普通よ」


 「こわ。紛争地とか派遣されたくないわ」


 「毎週何人か噛まれるか抵抗されて殉職するから、もう顔を覚えてられないわよ向こうだと」


 早く、先輩早く帰ってきて……!


 切実に祈る僕ですが、今ここにあんまりヤバイ流れになるとカットを入れてくれる先輩はいらっしゃらないのです。何故なら、入院患者がいるフロアから亡骸を受け取りに行っているので。はい、死体の移送にも執行官か救急医療の従事者が必要なのですよ、非常に手間ですが。


 「お待たせしました」


 ここで無邪気に先輩が戻ってきた! これで勝てる! と喜べたらいいのですが。


 実際はそうもいきません。何故なら病院の職員を伴ってやって来た先輩は、痩せほそった老婆のご遺体が乗ったストレッチャーを押していたのですから。


 この枯れ枝のように痩せ細り、今では呼吸で胸が上下することも無くなった老婆が平井さんなのでしょう。死因は分かりませんが、痩せすぎた顔と身体、そして死後間もないにも関わらずかなり悪い顔色が長い闘病の末の死だったことを伺わせます。


 「おし、じゃあ処置に入るか。新入り、しっかり見とけよ」


 「非再起措置手順と措置器具の情報は頭に入っていますね?」


 「は、はい」


 非再起措置。それは起き上がる可能性のある死体を大人しく眠ったままにしておくために必要な措置。すなわち、ご遺体を“破壊する”のだ。


 再起死体を非活性化する方法は一つだけ。その方法を予めとることで、死体は再起現象を起こさなくなる。もう言わなくとも分かるでしょう、昔からゾンビを倒すための方法なんて一つしか無いのですから。


 「一回しかやらないからちゃんと見ろよー。というか一回しかできないからなー」


 「記録開始します」


 中枢の破壊。話はシンプルです。刃物で行動中枢を司る脳幹、あるいは小脳を破壊してやれば、死体は30年前と同じく黙して二度と起き上がることはありません。むしろ、そうしなければ世界中の何処ででも、たとえ噛まれなかったとしても死体は起き上がるのです。だからこそ僕たちが今ここで、こんな仕事をさせられているのですが。


 宿直室のロッカーに格納されていたアタッシュケースには、中枢を効率よく、そして見栄えをあまり損ねないで破壊するための装置が収められていました。馬蹄にも似た形状のそれを首に嵌め、手順通りボタンを押せば装置の内側で畳まれていた刃が空気圧で押し出され、脳幹を破壊する……やっていることの本質と比べれば、実に簡単ではないですか。


 尊ばれ、遺族に囲まれて見送られるべき遺体を破壊しているというのに。


 淡々とレコーダーに処置手順が吹き込まれ、班長はテレビの電源でも切るような気軽さで処置を終えてしまいました。少し小突いただけで折れそうな老婆の首から血液が零れ、処置台の上へと惰性で垂れてゆきました。


 「ほい、これにて執行完了っと」


 奇妙な首輪が被さっている以外、見た目に大きな変化はありません。扱いこそ難しくなりますが、葬儀の際はご遺族に返却するのですから、大きくご遺体を損ねるようなことができないのは当たり前と言えば当たり前でしょう。


 しかし、見た目に反したコトの重大さが、僕の脳髄を責め立てるのです。


 必要な仕事だというのは別っていますとも。放っておいたら死体が起き上がり、更に死を呼んでしまうことも。それでも、そうであったとしても……。


 「新入り……あだ名を付けてやろう」


 「え?」


 死体から目を離せずに居た僕の身体が強引に動かされました。同時に動いた視線の先には、平素と何ら変わらぬ満面の笑みを浮かべた班長の顔がありました。


 「最初の業務を見届けたからな。特別だぞ? まぁ、色々あったからスピューにしてやろうと思ったんだが……」


 「それは流石に可哀想なのでやめさせました」


 反吐……それは確かに勘弁願いたいです。しかし、何だって急にそんなことを。


 「私達は今日からお前をビギナーと呼んでやろう、この業界の初心者君」


 また捻りの無い、という先輩の呟きを無視して班長は続けます。さもこの命名が重要な、何か意味があることのように。


 「いいか、何か苦しんでいるようだから言っといてやろう。この業界、頭のネジの一本二本外してないとやってられんぞ。そして、ネジが外れているからこそ、この最前線が返って生き残りやすいんだ」


 「はぁ……」


 「考えてみろ自称善意の一般人。私達は合法的にチャカを持てるし、感染者を非常措置で殺しても殺人罪にはならず、再起死体を倒しても遺体損壊罪にも問われん。何が起こるか分からん世の中で、これほど恵まれた職業は少ないぞ?」


 ……この人は何を言っているのでしょうか。こんな場面なら普通、尊い仕事だとか誰かがやらねば云々の話をするのではないでしょうか? だのに口をついて出るのは、この仕事のメリットと、僕が繊細な考え方をしていることで被るであろう不利益ばかり。


 元気づけようとしてくださっているのか、それとも迂遠に罵倒されているのか判断がつきません。


 「だからなビギナー、さっさと慣れちまえ。いいか、極論あんなもん肉の塊だ。私達だってわめき立てる肉で大して変わらん。だが、喚いていたいなら相応の仕事ができるようにならにゃお話にならんわけだ」


 いつの間にか、班長の怜悧に整った顔が間近にありました。殆ど鼻と鼻が触れあいそうな間合い。しかして、そこには艶っぽさも何も無く、呼吸すら難しくなるほどの強烈な威圧感だけがありました。彼女の目の中で渦巻いているものはなんでしょうか。


 そして、彼女の目に映る僕の表情は……薄らとですが、これは……。


 「それができなきゃ私が始末つけてやる。いいかビギナー、いつまでも健常者のフリをし続けるんじゃないぞ。もう世の中全部がどっか狂ってんだ、それに合わせにゃ、逆にお前が狂人だ」


 狂人? 僕が……? 僕が考えていることが普通なのではないのでしょうか。むしろこれが、こう考える方が……。


 「その考えが抜けない間は、お前はビギナーだ。ま、ルーキーじゃなくてビギナーと呼ぶことにした意味を暇なら考えてみな」


 「あ、意味あったんですか」


 「ほんと失礼な、お前。まぁいいや、じゃあ後頼むわ、あー、そろそろ昼飯だなー。何食うか……」


 おかしいのは何なのでしょう。少なくとも僕では無いと思っていました。ですが、面と向かって色々言われると分からなくなってきました。


 「行きますよ、ビギナー」


 「……はい」


 考えがまとまらないまま、ふわふわした気分で先輩の後を追いかけていると、いつの間にか全てが終わり、僕は官舎の自室で寝床に入っていました。あれからどう動いたのか、どう考えて今日を終えたのかが全く分かりません。


 僕は、やっぱり変なのでしょうか。


 僕は生まれた時から死体が動くのが普通の世界に生まれました。それでも、死者は尊いもので尊重しなければならないと教え込まれてきたのです。


 ですが、それと同時に動きだした死体が如何に脅威か、どれほど世界を脅かしているのかも、毎日嫌と言うほどテレビや新聞で触れてきたのも事実です。


 拝啓、親愛なるご両親。やっぱり僕は、この仕事にむいていないのでしょうか。それとも、僕が世間からずれているのでしょうか。考えても答えがでないので、よかったら教えてください。


 ……それでもきっと貴方たちは、僕に頑張れと言うのでしょうね…………。

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