第三章 クッキーとコスモス

 夏の気配はすっかり消え、木々は紅葉し始めた。コンビニののぼり旗もソフトクリームやパフェから肉まん、おでんに替わっている。レジ袋を下げてコンビニから出て来た雷五郎は大学に戻る。


「お帰り」

 午後の講義が始まり、昼休みに比べて静かな食堂に居たのは靜也だ。

「ただいま」

 雷五郎はレジ袋を机に置くと席に座り、肉まんを頬張り始める。モチモチした生地に包まれたジューシーな肉が彼を幸せな気持ちにさせる。昼食を食べた後だが、この肉まんは幾つでも食べられそうだ。


 肉まんを食べ終えると彼はゴミを纏める。

「来週の土曜何処かに遊びに行かない?」

 雷五郎の誘いに靜也は両手を顔の前で合わせながら答える。

「ごめん、その日は用事があって……。また今度誘ってよ」

 文奈にも同じような事を言われて断られている。

「それじゃあ、仕方無いな」

 来月は大学祭があり、この時期は皆忙しいのだろうかと思いながら雷五郎はそう言う。


 文奈とは学部が異なるため履修している講義が違う。それもあり後期の講義は文奈と時間が合わず、あまり一緒に居られない。それでも週に一度だけ昼休みは一緒に過ごせる。今日は週に一度のその曜日だ。それなのに文奈の口数が少ない。先週もそうだった。

 もしかしたら自分と一緒に居て楽しくないのではないかと彼は考えるも頷かれたくないので訊く事が出来ない。彼女は常に考え事をしているように見える。倦怠期なのかもしれないと自分を無理矢理納得させて昼休みを終える。


 次の日、三限が突然休講になってしまった。休みになるならもっと早く言ってほしかったと思いながら講義室を出た雷五郎はすぐに食堂に戻る。

 文奈は今日の三限は空きコマだ。彼女はそういう時はよく食堂に居る。彼女と出会える事を期待しながら窓際の席に向かうと予想通り彼女の姿が其処にあった。しかし、文奈の目の前には靜也が座っている。雷五郎の頭は真っ白になる。思わず自分の目を疑ってしまう。


 二人は楽しそうに談笑をしている。昨日の彼女はあんなに笑っていない。自分と居るより靜也と居た方が文奈は楽しいのか。もしかしたら自分に愛想を尽かして靜也と付き合おうとしているのかもしれない。もう既に付き合っている可能性もある。遊びに誘った時だって二人揃って用事があると言っていた。雷五郎は瞬時にそのような考えを巡らす。


 雷五郎はこれ以上二人に近付く事が出来なかった。まるで結界が張られているようだった。彼は踵を返すと二人に見付からないように食堂から去って行く。

 誰も居ない校舎裏の壁にもたれ掛かりながら彼は溜息をつく。やはり自分のような男は異性から好かれないのだと痛感する。靜也の方が痩せているし、雷五郎よりもモテるというのは雷五郎自身も分かっている。分かっていても親友に彼女を取られるのは嫌だ。しかし、彼には勝ち目が無い。


 すると針のような雨が彼の体に突き刺さる。雨は徐々にアスファルトを黒く染めていく。俯いていた彼の顔を雫が滴り落ちる。彼は濡れても気にしなかった。今は冷たい雨に当たっていたい気分だった。


 大学祭が終わった後の休日、血の滴るような紅葉が広がる石蕗山つわぶきさんに雷五郎と文奈は来ていた。紅葉の名所である石蕗山は街の北東にある。小学生の頃、雷五郎達の間ではエベレストという名で親しまれてきたが、今思えばエベレストと呼ぶほど大して標高が高い訳ではない。


 今日のデートに誘ったのは文奈の方だ。彼女が誘ってくれたのは予想外だった。大学祭も彼女と回り、彼女は楽しそうにしていたが心の中で考えている事など理解出来ない。雷五郎と遭遇するかもしれない大学祭で靜也と回るほど彼女は愚かでない。

 雷五郎は談笑をしている文奈と靜也をあの後も数回見ている。雷五郎よりも靜也に会っている回数の方が多いのではないかと彼は疑っている。

 いつ別れ話を切り出されるか分からない状況でデートなど楽しめない。

「綺麗だね」

 紅葉を見上げる彼女に雷五郎は曖昧な返事しか出来ない。


 山の中腹に辿り着くと紫色の暖簾が掛かった一軒のうどん屋が見えてくる。暖簾には白い文字で『紫御殿むらさきごてん』と書かれている。今日は此処で昼食を取る事になっている。御殿と店名に付くが、建物は立派な邸宅ではない。店自体はこぢんまりとしている。食事をする店は文奈が予め決めてくれていた。この店は雷五郎のよく来る店だ。店内は客で賑わっている。

 テーブル席に座り、頼む料理を決めると水を持って来た店員に注文をする。


 暫く待っていると料理が運ばれてくる。雷五郎が注文したのはかけうどんとカツ丼だ。彼はまず艶のあるかけうどんを食べる。雷五郎は弾力のあるこのうどん屋の麺が大好きだ。


 今度はカツ丼を頬張る。カツの衣はさくさくしていて、厚みのある肉からは肉汁が溢れ、口の中に広がる。カツをとじている半熟の卵も美味しい。カツ一切れでご飯が何倍も進みそうだ。落ち込んでいても食欲はある。


 一方、文奈は釜玉うどんを食べている。

 食事を終えて店を出ると二人は山頂に向かって歩き始める。彼は擦れ違うカップルに羨望の眼差しを向けてしまう。文奈と付き合う前はそんな事は一度もしていなかった。


 暫く歩いていると二人は山頂に辿り着く。

 山頂には卵色の壁のレストハウスがあり、食事が出来たり、お土産が買える売店があったりする。観光客達は山頂からの景色を楽しんでいる。

 山の麓には高級住宅街が広がっていて南にはオレンジパークや杏陵東高校、南西には雷五郎達の大学や商店街、西には温泉街がある。文奈の家は此処からでもよく見える。

 背もたれが無い石造のベンチに並んで座るが、二人の心の距離は離れている。他愛も無い話をしながら文奈は笑っている。作り笑顔はやめてほしいと思いながら雷五郎も作り笑顔をしている。


 紅葉を堪能した後、二人は下山する。

「いっちゃんに来てほしい場所があるんだけど……」

 文奈がそう言ったのは帰り際だった。其処で別れ話をしようという考えが彼女の言葉から読み取れる。彼は言われるがままに付いて行く。彼は彼女との関係が終わる事を覚悟する。文奈と付き合い始めてから約七ヶ月。七ヶ月なら続いた方だ。雷五郎はそう考えて自分を慰める。


 文奈が連れてきた場所は大学だ。この時期は至る所で濃淡のある桃色のコスモスが咲いている。きっと告白をした場所で別れを告げようとしているのではないかと彼が考えていると案の定辿り着いたのは撫子橋だ。春に文奈に告白された思い出と夏に一緒に花火を見た思い出が蘇る。


 文奈とは別れたくないが、浮気するような女の子とは付き合えない。靜也と別れさせてもどうせ別の男と付き合い始めるに決まっている。文奈は靜也と幸せになればいい。雷五郎は二人に干渉するつもりは無い。


 雷五郎は俯きながら目を閉じる。脳裏には文奈の笑顔や彼女との思い出が次々と浮かぶ。気持ちが揺らぎそうになった。しかし、首を横に振って気持ちを固める。彼女の綺麗な目を見て口を開く。

「俺と別れて下さい」

 フラれるのは嫌なので、自分からフッてしまおう思った。

「え? 何で……?」

 文奈は信じられない物を見るように雷五郎を見詰めた。抑えきれなくなり、彼女の目から一筋の涙が流れる。決壊したダムのように次々に涙が溢れ出てくる。雷五郎は彼女が泣いている理由が理解出来ない。別れるのは彼女自身が望んでいた事だろう。泣きたいのは雷五郎の方だ。

「私の事なんてもう飽きちゃったよね。今までありがとう。バイバイ……」

 途切れ途切れに彼女は喋ると彼に背を向けて走り出す。


 遠ざかって行く彼女の後ろ姿を見詰めながらこれは自分に愛想を尽かした女の反応ではない事に気付く。

「待て!」

 彼は慌てて文奈の後を追う。脚力が自慢の彼が彼女に追い付く事は簡単だ。背後から文奈の首元に両腕を回す。彼女の涙が彼の服の袖に落ちる。泣き顔のまま彼を見上げた。

「どうして追いかけて来るの……?」

「ごめん。俺文奈に嫌われたのかと思ってた。だからフラれる前にこっちから別れ話を切り出そうと思ったんだ。本当は文奈と一緒に居たい」

 文奈は手の甲で涙を拭くと愛嬌のある笑顔で頷く。そんな彼女が愛おしい。


 彼は腕を離すと食堂で文奈と靜也が楽しそうに話していた所を見掛けた事を打ち明ける。

「嫌だ、いっちゃん見てたの?」

 文奈は笑いながらそう言うと茶色のショルダーバッグから赤い包装紙でラッピングされた箱を取り出す。

「お誕生日おめでとう。明後日はいっちゃんの誕生日でしょ? いっちゃんは食べる事が好きだからプレゼントはお菓子にしたの。このクッキー食べた事があるんだけど、美味しいよ」

 彼女からプレゼントを受け取ると正面から彼女を強く抱き締める。雷五郎は自分の誕生日をすっかり忘れていた。

「ありがとう」


 結局、彼女は浮気をしていなかった。文奈は今日の事を靜也に相談していただけだった。昼食を食べる時も山頂のレストハウスではなく中腹にある紫御殿を選んだのも靜也から雷五郎の好きな店を教えられていたからだ。


「この後、焼肉屋でご飯を食べようと思って予約したんだけど、いっちゃん来てくれるよね?」

 焼肉の話は事前に聞かされていない。彼女からのサプライズだ。彼は断る理由も無く、二つ返事をする。

「じゃあ、行こう!」

 文奈は雷五郎の手を取ると撫子橋の上を駆けて行く。それに釣られるようにして雷五郎も走り出す。

 薄い橙色と水色が入り交じる空の下、秋風が二人の頬を撫でる。コスモスの花が揺れる。




 第三章まで読んで頂き、ありがとうございました。

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