第一章 海咲沙姫ー1

「あ、ちょ困ります!」


 明らかに秘書といった格好をしたお姉さんを押しのけ、この大きな病院の中でもおそらく一番高そうな扉の前にたどり着く。


「失礼します!」


 扉を開けた先にいるのはぎょろりとした目をわざと細め飄々とした表情は何を考えているのかまるでわからない。狸親父という表現が日本一似会うと言っても過言ではないであろう。


「なにか用かな、海咲沙姫先生?」


「なにか用かな、じゃないですよ!なんで私がターミナル所属になってるんですか!?」


 一本たりとも生えていないあごひげをさすっている様を見ているとおちょくってんのかクソジジイと怒鳴り散らしてやりたくなる。


「なんでもなにももともとそういう約束で君はうちの病院に来たんじゃないか」


「そんなわけないじゃないですか!私は外科のドクターになるためにここに来たんです!大体雇用の話をしたとき外科医として勤務するって条件でサインしたじゃないですか!」


「ふむ、そう言われてもここにその時の書類があるがどう見ても外科とは書いてないんだが…」


「はぁ!?」


 狸がデスクから引っ張り出した書類をひったくって内容を見るとたしかに生活促進科での勤務となっている。


 そんなばかな!たしかにあの時は外科って書いてたはずなのに…!


「君の勘違い、あるいは書類の確認ミスということではないかね?」


「で、でもたしかに私は…」


「君が記憶違いをしている可能性と書類のインクが一人でに動きだし書き変わる可能性、どちらが高いと思う?」


「…わかりました」


「うむ、わかってくれて何より。では早く勤務に戻りなさい」


 どこでどう間違ったのかは知らないがこのままだと私は外科医にはなれないらしいことだけは理解できた。冗談じゃない。私は外科医になるために、いや、医者になるために何年も勉強してきたんだ。ターミナルなんかに送られるくらいならいっそのこと…


「辞表でも出すつもりかな?」


「…っ!」


「図星だね」


「…たとえこちらのミスによる手違いだったとしても、私は医者になれないならこんなところに用はありません」


「いろいろと気になる点があったが…まぁいい、1つずつつぶしていこうか」


 自分の病院を新卒の新米女性医師にこんなところとまで言われてさすがに癇に障ったのか少し眉をひそめる狸、じゃなくて病院長。


「まず一番大きな誤解からいこうか。医者になれないなら、と言ったね?」


「…それがなにか?」


「生活促進科は立派な専門の診療科だ。無論医師免許が必要だし、専門医の資格もある。君は間違いなく医者になれたはずだが?」


「ご冗談を。ターミナルの人たちを医者だと思ってる医者なんていませんよ。あんなの医者のやる仕事じゃない」


 吐き捨てるように言った私の言葉に部屋の後ろの方で聞いていた秘書さんがさすがに耐えかねたのか声を荒らげようとして病院長に制止された。


 病院長はなにやらふむふむとうなずいて私の言葉を咀嚼する。


「なるほど君の意見には一理ある。現に昔は生活促進科なんてものはなくて介護福祉士やその他医療従事者がやっていた仕事に毛が生えたようなものだ」


 驚いた。私の意見であり、ある程度医者の中の一般論となっているさっきの言葉を他でもない海東直虎が肯定したのだ。全国の民間病院で初めてターミナルを導入し、ターミナルの発展に情熱を注いできたと言われているこの人が。


「私は自分の意見や自分の考えが必ずしも人に理解されるとは思っていないし、そうあるべきではないと思っている」


 私の意外そうな顔を見て何を言わんとしているのかがわかったのだろう。からからと笑った後楽しそうに話す病院長は御年63歳とは思えないくらい若々しい。まるで楽しいおもちゃを手にした子供のようだ。


「当然理解してもらえるよう努力はするがね。さて、話を戻そうか。海咲先生は今すぐうちの病院を出て、外科医として雇ってくれるところに転職したい、と?」


「はい」


「つまり勤務開始初日にして『ここは私が求めていた場所ではない』と言ってこちらの都合も契約書も無視してやめていく、と?」


「…はい?」


 ちょっと待ってほしい。それだとまるで私が就職できないのを社会のせいにするダメなニートみたいでめちゃめちゃ嫌なんだけど。


「まぁ悲しいが仕方ない。契約書の方は私が白紙にしておいてあげよう」


「本当ですか!?」


「もちろんだとも。未来ある若い医者のたっての願いならばかなえてやるのが年寄りのつと目であろう?」


 病院長の妙に物わかりの良すぎる言葉に飛びついて今すぐにでも辞表を提出しそうになる。だがおかしい。この狸親父がそんなに簡単にこちらの言い分を飲み込むとは考えられない。


「とはいえ私も人の子だ。期待の新人が一日でやめていってしまったことに心を痛めるのはしょうがないとは思わないかね?」


「それは、まぁ…」


 ターミナルで働くことのどこに期待をされていたのかがさっぱりわからないがとりあえずうなずいておくことにする。


「そして悲しみを癒すために知人と飲みに行って愚痴をこぼすくらいは許してほしい」


「…おい」


「あぁもちろん君の再就職先のことはこちらで何とかしよう。ちょうど関東の病院の関係者と飲みに行く理由ができたことだ、私の方から丁寧に説明しておくさ」


 つまりはこういうことか?


 私が転職先に選びそうな病院の関係者に片っ端から『海咲沙姫はニートのような言い訳をして一日で仕事を頬りだしたクズだ』と吹聴して回る、と?


「だがやはり私も君にやめられてしまうのは辛いのでね。ここで一つ提案がある」


「…なんでしょうか?」


「一年、一年だけ生活促進科で医者をやってくれたら、来年の春からうちの病院の外科に椅子を用意しよう。ちょうど来年で退職する先生が1人外科にいるのでね」


 にこにこと心の底から楽しそうな様子で妥協案を提示してくる病院長。かつてこれほど人に対して苛立ちを覚えたことはないかもしれない。絶対いま額に青筋が浮かんでいるだろう。


「外科の専門医を取れるのが一年遅れるが、そこは妥協してもらいたい。どうかな?」


 どうかな、じゃない。おそらくこの話が始まった瞬間から病院長は戸の展開に持ってくるつもりだったのだろう。つくずくいい性格をしている。


 だがニート疑惑をかけられた状態で就職活動に励むよりかはまだ現実的かもしれない。


「はぁ、わかりました。一年だけ働かせていただきます」


 結局初勤務の午前中は狸に化かされることで費やしてしまった。どうしてこうなったのだろうか…



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