人生を賭けた交渉②

 明石涼子はダイニングから離れると洋室の隅に置かれた敷布団を広げてそこに正座した。そして椅子に座ったまま固まっている俺に両手を差し伸べると明石涼子は妖しい笑顔でこう言ったのだった。


「ほら、先輩。ママでちゅよ~。こっちに来て膝枕してあげまちゅからね~」


 口調はとっても優しいのに目が全く笑っていなかった。こちらを見る彼女の視線がはっきりと『拒否権はないんですよ、共犯になりましょうね先輩』と言っていた。

 妖艶に光る瞳をこちらに向けて笑いかける彼女は後輩の綺麗な女子大生というよりは、欲望を弄び相手を堕落させることを至上の悦びとするサキュバスみたいだった。


 俺は泥沼に嵌まったような心地がした。しかし同時に俺は知っているのだ。生暖かい泥沼というのは全身を任せてしまえば存外に気持ちが良いものだということを。

 俺はまるでゾンビのようにフラフラと後輩の膝枕へと吸い寄せられていった。罠の可能性があると知りつつも針に喰いついてしまう釣り堀の魚はきっとこんな気分なのだろう。


 誘われるままに俺は明石涼子の膝の上に頭を乗せた。仰向けに寝転ぶと後輩の妖艶に光る二つの瞳が俺を見下ろしていた。高跳びの選手なので胸は大きくないが膨らみがあるのはちゃんと分かる。雛姫の膝枕とは違って筋肉のしっかりしたアスリートの太ももだった。それでも寝心地は悪くない。低反発枕と高反発枕の違いのようなもので、一概にどちらの方が良いとは言えない。俺は個人的に雛姫の膝枕の方が好きだが、明石涼子の方が良いという人も少なくないだろう。


「ほら、先輩。ママって甘えていいんですよ~。一応、隣の部屋には誰もいませんけど下の階に聞こえると恥ずかしいのであまり大声は出さないでくださいね~」


 ママって甘えていいんですよ~、と明石涼子はまるで許可するみたいに言ったが実際にはそう言えという実質的な命令だった。膝枕に誘う彼女の姿に俺は覚悟を決めた。


「ま、ママ~~っ。ママのお膝、気持ちいいでちゅぅぅぅぅぅぅ~~~~」


 さすがに二回目ともなれば慣れたものだ。決して慣れたくはなかったけれども。

初めての性体験は痛いらしいが、赤ちゃんプレイは二回目もイタイ。きっと何度目でもイタイだろう。我ながらなんという有様だろうか、陸上部後輩の膝枕に頭を乗せて足をバタバタさせながら「ママー、ママー」と連呼しているのだ。しかし屈辱だが耐えねばならなかった。恥辱を耐え忍んだ先に活路が開けるからだ。


 これは俺の作戦だ。本気の赤ちゃんっぷりを見せつけることで明石涼子をドン引きさせて相手の気勢を挫こうという逆張りだった。ここでガツンと明石涼子に赤ちゃんプレイのレベルの高さを教えておくことで、相手のやる気を削ぐ。そういう作戦なのだ。

 さぁ、刮目せよ! 俺が赤ちゃんプレイの敷居の高さってやつを教えてやるぜっ!


「ママ~、ボクちゃん、かわいいですかぁ? ボクちゃんをナデナデちてくだちゃぃ」


 どうだ、俺の華麗な赤ちゃんっぷり。ドン引きするなら引くがよい。

俺の共犯者になるということはこういうことなんだぜ。このレベルにまで堕ちてくるということなんだぜ。人としての尊厳をドブに捨てる覚悟が必要なとても危険な遊びなんだ。

 さぁ、どうする明石涼子。お前は俺のプレイについてこられるかな?


「まぁまぁまぁまぁ、可愛らしい。先輩ったら赤ちゃんになっちゃったんでちゅね? と~ても可愛いでちゅよぉ。よしよししてあげまちゅからね~」


 余裕でついてきた。しかも、明石涼子はドン引くどころか乗ってきた。

 無様な俺の姿を見ても一切の動揺を見せることはなく俺をあやしてきた。俺は甘やかされていた。エスポワールのケーキよりもずっと甘い誘惑にスポイルされていた。


 明石涼子に頭を撫でられた俺は当初の作戦など一切忘れて、その心地よさに酔いしれる。


「あ~ん、ナデナデきもちいでちゅぅぅぅぅぅぅぅ」


 早々に牙を抜かれた俺はあっという間に明石涼子の軍門に降った。まるで犬だ。いや、犬ではない。赤ちゃんになったのだ。無力で何もできないバブバブの赤ちゃんになってしまった。


 うん、もういいや。俺はそう思った。

 なんにせよ彼女は無事に俺の共犯者になったのだ。当初の目的は無事に達成したのだ。素晴らしい外交官っぷりだったではないか。社会的な死を迎えたはずが、起死回生のファインプレイだ。一体、俺以外の誰がこれと同じ手口で目的を達成しえたというのか?


 ははは、ははははははは。

 乾いた笑いしか、でねぇ。涙がちょちょぎれそうだ。


「ママー、ボクちゃんをナデナデしてぇ。ボクちゃんを褒めてぇぇぇぇぇぇ」


 情けなくて悲しくて無様なボクちゃんを許して欲しくて俺はママに懇願した。正直、恥ずかしい、恥ずかしいのだが、その恥ずかしいが気持ちいい。ありのままを曝け出す。それがこのプレイの肝だ。心を開いて『あらゆるしがらみ』の束縛から解放されるのだ。


「は~い、ママのことあいしてまちゅか~。ママのことあいしてるって言いましょうね~」


「ママ~、ボクちゃんママのことちゅきでちゅ~。ママちゅきちゅき~」


「いい子でちゅね~。ボクちゃん。じゃあ、ママのことあいしてるっていえるかなぁ」


 どうやら明石涼子は俺に『あいしている』と言わせたいらしかった。

 まぁ、普通なら言わない。普段なら絶対にそんなことは言わないし、言えないだろう。仮に言うことがあったとしても、それは本当に愛している相手にだけだ。俺は明石涼子のことは嫌いではないが愛しているわけではない。


 しかし、今は明石涼子の赤ちゃんだった。赤ちゃんがママを愛するのは普通のことだ。だから俺は少しだけ迷いつつも遠慮がちに言った。


「うん、ボクちゃんねー。ママのことあいちてまちゅ~」


「まぁ、ママ嬉しい。本っ当に可愛い! ボクちゃんよしよし~よくできました~」


 明石涼子はそれを聞くととても嬉しそうにして俺の頭をごしごしと撫でた。赤ちゃんを撫でるというより、それはまるでちゃんと芸をした大型犬を撫でるみたいな撫で方だった。


「ボクちゃんには~、ご褒美におしゃぶりあげまちゅよぉ。おしゃぶりしましょうね~」


 明石涼子はそう言って右手の人差し指を俺の口元へさし出してきた。

 彼女は自分の人差し指をおしゃぶりに見立てているようだ。どうやら指を舐めろということらしい。おしゃぶりのようにちゅぱちゅぱと彼女の指をしゃぶれ、とそういうことらしい。


 マジか、後輩。レベル高いな。ボクちゃんちょっと引いたぞっ。


 少し気持ちが怯んだものの俺はプレイを続行した。

 遠慮がちに舌を出すとそっと涼子ママの指を舐めた。指の第一関節あたりを舌先でなぞると石鹸のカモミール香料の匂いがした。最初は恐る恐るその指を舐めていたが、次第に唇も使いだし、そうしてとうとうおしゃぶりのように指を咥えてしまった。


 ぱっくりと指をしゃぶった俺の姿を満足気に見下ろしていた明石涼子は

「は~い、よくできまちたね~。いい子でちゅよ~」と言った。


 うっとりと愛おしげに薄めた明石涼子の瞳に一種の狂気が宿っているのを感じて俺は恐怖を覚えた。まずい、引き返さなくてはならない。俺はそう思った。


「じゃあね~、次はママのおっぱいを飲もうかな~」


 明石涼子はそう言うと突然、着ていたパーカーを脱ぎだした。そこに一切の躊躇いはなかった。目の前にいるのは赤ちゃんなんだから当たり前、という風に脱いでいた。


 さすがの俺もこれ以上はマズイと感じた。薔薇の刺繍が入った白いブラジャーがチラリと見えた時点で俺はストップをかける。止めなければ明石涼子はマジで俺におっぱいを飲ませるつもりだろう。


「タンマ! ちょっとタンマ!!」


「ん? どしたのかな? マンマが欲しいの~」

 明石涼子は俺の制止に耳を貸さずパーカー半脱ぎ状態でそう言った。俺は慌てて膝枕から上体を起こすと彼女に手の平を見せるように両手を前に出した。


「マンマじゃない。タンマだ。ここで止め、止めね。癒し屋さんはそこまでしないから。俺もそこまで求めてないから」


 赤ちゃんモードから通常モードへ切り替わった俺の変化に気が付くと、明石涼子もママンモードから後輩モードへと表情が切り替わった。彼女は先ほどとはうってかわった平坦な瞳で俺を見つめると大きく溜息をついた。


「つまんないです。せっかく良いところだったのに……」

 明石涼子は拗ねるようにして唇を尖らせた。


「俺はつまんないどころか、途中から怖かったよ。どこまでやらせる気だったんだ」


「どこまでって、行けるところまでかなぁ~」


「マジかよ。平然と冒険家みたいなこと言いやがって……」


 俺があきれ半分にそう言うと明石涼子は得意そうにフフ~ンと笑った。そして俺の方に冷たい流し目を寄こすと「先輩ってば案外、意気地なしなんですね!」とわざと挑発するみたいにそう言った。


「意気地なしとは心外だ。たっぷり育児させてあげたじゃないか」

 そんな挑発には乗らないよ、というように俺は冗談でかわした。


 その冗談が少しは面白かったのか明石涼子は「フフッ、確かに」と笑うと、大人しく脱いでいたパーカーを着なおした。


「まぁ、今日のところはこのくらいで満足しておきます」


「その言い方だと、次があるみたいに聞こえるぞ……」


「もちろんですよ。だって私たち共犯者じゃないですか。癒し屋さんが必要になったらいつでもどうぞ。わざわざお金を払ってまでする必要はないですよ。私ならタダですし」


「タダより怖いものはないって言うよね?」


「そう思うのなら次もケーキを持って来て下さい。甘いケーキと甘い時間。悪くないと思いません?」


「どうだろう? 食べられるのは俺のような気がするよ」 


 俺がそう言うと明石涼子はコケティッシュな笑みを浮かべた。

 大抵の男ならきっと恋に落ちてしまうとても魅力的な笑みだった。


「いつかは食べてみせますよ」


 俺は、オヤスミ、と言い残して玄関からでると扉をゆっくりと閉めた。俺はしばらくの間、扉に背中をあずけたまま夜空を見上げていた。仲秋の月明りで夜空がとても明るい。雲のない澄んだ空にはぽっかりと丸い月が浮かんでいる。


『いつかは食べてみせますよ』


明石涼子が最後に言った言葉を思い出しながら、いつもより大きな月を眺めていると俺は漠然と気が付くことがあった。


彼女は『俺が赤ちゃんプレイをしていたこと』を怒っていたのではない。

彼女は『俺に赤ちゃんプレイをする相手がいたこと』を怒っていたのだ。


 そう考えると明石涼子のおかしな態度に全部説明がついた。

 俺も馬鹿ではない。それが意味することが何かくらいは分かった。


「まいったな……」と俺は満月を見上げながらそう呟いた。


 満月は人を狂わせるというのは本当だろうか?

 月から派生した言葉でルナティックという英単語もあるくらいだ。精神異常や狂気といったニュアンスを持つその単語は元々ラテン語で『月に影響された』という意味らしい。


 思わず見蕩れるほど綺麗な月を眺めながら俺はその影響力を想った。

 重力で地球上の海水を引っ張って潮の満ち引きを起こしているくらいなのだ。その影響力が海だけにとどまっているはずはない。当然、人の身体や精神にも影響を与えているだろう。今日あった色々な出来事も月の重力に影響を受けたせいなのかもしれない。そうではないのかもしれない。けれども個人的には月のせいにしておきたい気分だった。


明石涼子との出来事が『ルナティック』だったのか『蜜月』だったのか、月を眺めながら考えてみたけれど今の俺にはどうにもよく分からなかった。





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