第26話『踊りの始まり』
ホールを満たすざわめき。
ひとつひとつは小さいが、どこか地鳴りめいて聞く者を不安にさせる。
動揺が広がっていた。急ごしらえとはいえ武装した一団が乗り込んできたのだから無理もない。これまで曲がりなりにも庇護者であった神父が
不意に照明が全て消え、ホールが薄暗闇へ落ちる。
悲鳴があがった。子供は涙腺を緩ませ、声を上げて泣くために息を吸う。
誰もが緊張状態となったその瞬間、ステージをスポットライトが照らしていた。
「皆様」
壇上に浮かび上がった影を見て、多くの人がほっと息を吐く。
「今夜もお越しいただきありがとうございます」
空気がふっとやわらいだ。ぎゃあ、と泣きだした赤ん坊を母親が落ち着かせる声。一瞬マイナスへと振れた反動で、全員がよく見慣れたその姿に強い安心感を抱く。
髪を香油で整え、詰め襟のシャツと灰黒の上着に身を包んだサトランは、やつれてはいるものの変わらぬ笑顔を彼らへ向けた。
「常にも増して強い雨、恐ろしい何かを見た方もおられましょうか。ご心配なく。ここは神の舎、善良な者に幸あれと祈り創られた場所」
聞く者を惹きつける口舌は流石と言うほかないと、舞台袖でセレジェイは感心する。仮初めにも背教者と断じられた後ろ暗さなど微塵も感じさせぬ。
「皆様にホット・ビールを!」
声に応じて、教導官らがグラスを持って人の間を巡る。彼らもまた、キーハ副務官の拘束で目が覚めたように通常業務へ戻っていた。
「こう降り篭められては気も塞ぎます。今夜はラピス姫様の御計らいでお酒と舞台を供させて頂くことと相成りました。姫様の新しいご友人たちも交え、一風変わった趣向となります。どうかお楽しみください」
ぱらぱらと拍手が起こり、次第にホール全体に広がった。
「舞台はここ、ヴァレリの町。主役はラピス姫様のご高祖にあたるお方」
様式は変則の歌劇。分類は史劇の体をとる。
「彼女は聖歴13年、その儚くも尊い生涯を終えました。そしてそれに先だって、ある細工職人の息子さんが亡くなられています」
史劇にあって史劇にあらず。これは正史を改竄する物語。
「姫と職工の男。もう聞き飽いたという方もどうかご傾聴を。そう、これは美しくも恐ろしい宝石竜と縁を結んだ姫の物語。神にすら届いた、人の子の愛の物語」
陰惨な事実を塗り変え、荒ぶる
◇
真っ暗な中、朗々と最初の詞は立ち上った。
場面は姫と男の掛け合いから始まる。
「 ――かくも煩わしき我が身。貴方の待つ庭の土すら、一人では踏めぬもどかしさ」
「 ――おおかくも卑しき我が身。貴女を映した流れ水に、一人まぼろしをみるばかり」
それは一人の歌手による
彼の歌は座頭の使う楽器とある面近しいのだろうとセレジェイは思う。妖精に好まれる波長、音質、そして幅広さ。
とはいえ、男声と女声を一幕の中で繰り返し切り替えるなど離れ業を越えて狂気の沙汰であることは疑いない。加えて通しでの歌い続け、いかに訓練を積んでいようが保って半時、その後半すら運と気力に左右されるだろう。
「 ――たった一度のお祭りの日、夢での逢瀬はもうたくさん」
「 ――待ちに待った祭礼の日、開かれた窓に梯子を架けよう」
初めて舞台が明るくなる。無人のそこへ、セレジェイは踏み出した。
反対の舞台袖からは純白のドレスを着たラピス。二人は中央で一瞬の躊躇のあと固く身を寄せ合う。モニカが羊飼いの恋歌を奏ではじめた。
「……本当に良いのか」
サトランが
「はい。私は私として、この町を守りたい」
ラピスの書いた物語で、怨嗟に塗れた歴史を塗り潰す。そのためには踊りで毒竜を活性させた上で、ラピスとの間に強い縁を結ぶ必要がある。
それは呪いの受け入れと同義だが、こちらの幻想で竜そのものを変質させる唯一の機会でもある。それが出来るのは伝承を信じ、竜と二番目に強く結ばれたラピスをおいて他にない。
綱渡りの舞台となる。特にラピスは場の中核だ。
「何だってします。あなたに委ねます。……わたしが、《竜》を鎮めます」
裏切られた思いでセレジェイはその答えを聞いた。そこにいるのはもはや力無い自分を責める少女ではなかった。
サナギが柔らかな羽でその殻を破るように。
美しい、と心底から思う。
「ああ、そのために俺はここに立っている」
言って身体を離す。離れないのは背に回した腕と左手だけ。
サトランの歌に合わせるように緩急をつけた。ラピスはやや固さがあるもののしっかりとしたステップでついてくる。
「 ――私の中に貴方が在るように」
「 ――私の中に貴女が在るように」
――それは婚姻の誓い。一目惚れのように惹かれ合った姫と青年は、ただ一晩の逢瀬にそのさき一生分の愛を掛けようとする。誰よりもこの一瞬の価値を知る自分たちの思いは、余人の一生を越えて余りあると謳う。
「 ――二人の絆永く結び」
「 ――血の契りをここに」
この町の伝統的な婚姻の作法は、互いに傷つけた左薬指を触れ合わせるものだという。相手の血を受け入れることで魂を共有した証とする。
向かい合い、緊張した面持ちでラピスが儀礼用の短剣の柄を差し出した。
セレジェイはそれをゆっくりと抜く。ライトの明かりが銀の刃紋を流れ、太陽のごとく輝く。
ラピスは竜に呪われた少女に過ぎない。
単身同化したとしても訳も分からぬまま食いつぶされてしまうだろう。先んじてセレジェイが潜行し、そうならぬよう安全を確保する必要がある。
これはただの歴史の再現ではない。セレジェイがシャーリクの係累となるための儀式だった。
「っ」
皮膚を撫でた刃の痛痒さにラピスが手首をこわばらせる。掌を上に交差させた二人の左手に、薄赤い
そのまま二つの手は絡み合うように指を合わせる。その、直後。
「――――ッ!」
セレジェイの脳裏を襲ったのは、絶息するような憎悪。
町中の、否、平野中の毒竜が一斉に自分を視たのを知覚する。無数の口が肌という肌に噛みつき、その向こうにある巨大な赤眼が心臓を爛れさせる様を幻視した。
甘やかなバイオリンが不協和音を連ねながら落ちていき、やがて消失する。我に返ると同時に明かりが落ち、セレジェイは倒れ込むように舞台袖へと後退した。
祭りの夜に会う二人、というのが果たして事実なのか創作なのかは分からない。が、もし事実だとすればなんと悲劇的な運命線に導かれたことだろう。
聖歴13年、神樹祭の夜。他ならぬその日のうちに男は命を落とすことになるのだから。
コールマイトの言うところの生贄。だがラピスはエマが目覚めた後の馬車で疑う様子もなく話した。宝石竜の詞の元について訊ねたセレジェイに対して。
男は竜に
――物語において姫は速やかに立ち上がる。恋人を竜から取り戻すために。
それはもしかするとラピス自身が描く理想だったのかもしれない。
ステージが照らされる。
荘厳なパイプオルガンを前に座るのはマーガレッタ、舞台には――
(ラピス……!)
雄々しく立つ少女はそこにいなかった。
あるのは両手で顔を覆いくずおれたラピスの姿。
その背は震えている。彼女はシャーリクの直系。セレジェイよりなお竜の憎悪に近い位置にいる。活性したその意思を一身に受けて無事でいられるはずがない。
マーガレッタが判断を求めるようにセレジェイを見る。ひとまず待つように指示をしようとして止めた。更に緊急に制止せねばならない相手がいたからだ。
「待て、カフィ!」
首根っこを掴んで引き戻す。なおもステージへ出ていこうとするのを、後ろへ投げるように転がした。
「だって……あんなの絶対大丈夫じゃないだろ!」
「今は任せて、お前は準備をしろ!」
最悪、劇の流れを飛ばしてでも隠し玉を投入しなければならなくなる。
ラピスだけは自分の抱いた理想を裏切ってはならない。彼女以外に幻想の《宝石竜》と言葉を交わせる者はいない。ゆえに助けに入るのは最後の手段だった。
「演奏を!」
その時、ステージ隅の暗がりから声があがる。
マーガレッタの指が、弾かれたように鍵盤を叩いた。
『妖しの郷に入りて』。美しくもおどろな旋律を巨大な金管が叫び、耳を覆う。
「 ――おお、巨大で恐ろしい龍の王よ!」
だがそれと競うのはサトラン。聖堂そのものを震わせるような高音は息をするのを忘れるほど美しい。
「 ――我が恋人を戻したまえ。吾が髪を梳いた手を、頬に触れし唇を、愛に満ちたその心臓を返したまえ!」
だが勇敢な歌唱は舞台のラピスを置き去りにして、否。
果たしてそうだろうか。では先ほどから、うずくまったラピスの震えが消えているのはどういうわけか。
心震わす歌声にもう一つ、掠れた声が重なった。
「 ――されば私は何物も惜しまず。髪も血肉も魂までも、残らず差し出して証としよう。我が愛の真なる証に」
震える足が伸ばされる。顔を覆っていた手が離れ、まるで涙のごとき血跡がライトに浮かぶ。
声の主であるラピスは奮然と立ち上がっていた。
「「 ――私は汝を恐れず! 導きたまえ汝が
蒼白な顔でラピスは唱和した。その悲壮と勇凛の佇まいに、演奏中にも関わらず満場の拍手が起こる。
セレジェイは一度そこから視線を切ると、準備した香炉を手に取った。
懸念は尽きない。むしろここからが本番と言っていい。
過去の事実とそれを元にした虚構、そして現在町が直面する問題。これらを三枚の紙に例えるなら、ラピスはその全てを貫き留めるピンのようなものだ。似通った構図を持つ事象それぞれに深い縁を持つがゆえ、本来交わるはずのない三枚に相互の影響を可ならしめる。
すなわち虚構から過去に、過去から現在に。
そのためには最低もう一本はピンが必要だ。職工の男、彼と同化した竜。先ほど縁を結んだばかりのセレジェイでは役者が足りないのは否めないが、多量の服香で自意識を削ぎ落とせば少なくとも素面のラピスよりは交わりやすい体になれる。
問題はその間、視野がないに等しい狭さになってしまうこと。
だがマーガレッタの言うとおり、信じて自分の役割を果たすほかはない。
セレジェイは開けた口にかざした香炉を、ゆっくりと傾けた。こぼれ落ちる煙はぼうっと夜光を放つ。
吸収が進むにつれ、その意識は曖昧になっていった。
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