第19話『分断』


「な……っ!?」


 セレジェイは右目でもって泥蛞蝓と対峙する。それらは一定の距離以上には近寄らず、鋸歯を鳴らして威嚇するように身をもたげる。部屋の床に、半円状の拮抗線が生まれ、コールマイトはそれを眉一つ動かさず眺めていた。


「話を聞いた時点で、《竜》の本質へ迫ると同時にシャーリクの係累と見なされるのだ。私も婿としてこの家に来てすぐに先代から口承を授かり、ケガレを受けた」


 彼が入り婿と知ってセレジェイは少なからず驚いた。いくら家長のみの秘密とはいえ完全に隠し通せるものではない。噂くらいは立つだろうし結婚を考える相手ならばなおさら調べがつくだろう。彼が何も知らず婿入りしてきたとは考えにくい。


「っそうか、それで《宝石竜》か……!」


 祖先たちが行った非道を、そこから連綿と続く竜の加護という名の呪詛を覆い隠すために語られた、偽りの歴史。


「あぁ……もっともそんな欺瞞は少し調べればそれと知れる。それでも町の者がそれを信じるのは、それが美しい夢だからであろう」


 コールマイトの声には羨むような響きがあった。日陰から日向をのぞくような。


「……あんたはそれでよかったのか?」


 問いにその目が遠く細められる。


「どうだろうな。ただ、哀れだった。人の半分に満たぬ寿命しか与えられずに、そういうものだと笑っていた女が」


 声には熱が戻り、だらりとベッドから投げ出された手が拳を握る。


「救うのだと、方々に手を尽くした。書物を漁り、高名な学者や司祭を招いて。だが無駄だった。水晶が割れるように崩れていくその体を、私は部屋の外から見ていることしかできなかった。ならばせめて、同じように竜の餌食となることがその償いと――」


 かっと怒りがセレジェイの後ろ首を突き上げた。


「ふざけるなッ!」


 みなまで言わせることすら腹立たしく怒鳴った。


「ラピスはどうなる、一人残されたあとにあんたの後を追えとでも言う気か!? 諦めるのは勝手だが、あいつのことまで投げ出すんじゃない!」


 たとえ真実を抱えたままコールマイトが死んだとしても、彼女に流れるシャーリクの血がいずれ竜を呼び寄せるだろう。そして今なお呪いの範囲は広がりつつある。


「あんたが多分、最後の砦だ。最も優先度が高いあんたが死ねば、一気に喰われるぞ。ラピスも、あんたが家族同然だと言った町の人間も」


 石毒の流入という実体的な事象が、竜から人への干渉を容易くする潤滑油となり保たれてきた均衡を危うくしているのだ。それにより、シャーリクの係累のみを狙うという特質も曖昧になりつつある。

 コールマイトは呆然と天井を仰ぎ、髪を掴むように頭を抱えて唸り声をあげた。


「それは、しかし、もはや手は尽くしたのだ。これ以上どうすればいいっ!」


 セレジェイは目を閉じる。人間の目だけを。残された右目は爛々と光と大きさを増し、皮膚は首までが鱗状にめくれあがる。

 歯を軋らせていた毒龍の落とし子たちは、そのひと睨みで一斉に体を薄れさせて霧消した。


「俺は、二度と失うつもりはない」


 激しく振動する左半面のピアスを手のひらで押さえつけながら言う。

 節制を心がけてきた。持たないよう、満たされぬよう。

 持てば争いの種となり、満ちればいずれ失う。

 だが一線はすでに越えてしまった。そうせざるを得なかった。美しさを、他の何に望むべくもない輝きを前にして。

 それが今、消えようとしている。


「竜を鎮める。あんたはそれまで死ぬんじゃない」


 コールマイトは呆れたような、しかしどこか吹っ切れたような溜め息で応じた。


「あぁ……やってほしいよ、やれるものならばな」



 その時。

 どたどたと、にわかに廊下が騒がしくなる。

 無数の足音は部屋の前で止まり、荒らかにドアが打ち開けられた。

 居並ぶのは、灰色の法衣を着た男たち。その後ろには町の住民と思われる老若男女が続いている。殺気だった彼らは、セレジェイの容貌を見るとひきつった悲鳴を口々に上げた。


「……何だ、貴公らは」


 無理に体を起こしたコールマイトが誰何する。一歩踏み出した教導官はさすがに落ち着いていて、恭しく頭を下げた。


「ご無礼をお許しください。ご存じの通り城下には魔精が溢れております。教導舎でも避難してきた人々を保護しておりますが場所が不足しており、ついては被害の少ないこの御屋敷を解放いただきたいと思いお願いに参りました。加えて」


 教導官がセレジェイの額あたりを見る。その目つきでセレジェイは思い出した。サトラン神父の脇に控え、広場でエマを罵った男だ。


「加えて、異変の原因であるところの踊り一座の身柄を拘束させていただきたく。これは教化権に基づいた正当な行為であります。いやはやしかし、手間が省けた。おい!」


 男が背後の教導官らに声をかけると、儀杖を構えた彼らはセレジェイに殺到する。

 寸前、セレジェイは床を蹴っていた。



                  §



 ごおごおと雨の音。

カフィはそばだてた耳の一寸先に水の壁があるような錯覚を抱く。

 そんな闇を抜けて、ガラスの割れる音がした。


『ちく……う! 離……! こ……盲信者ども……!』


 真っ暗な厩舎の中でひとり、壁に張り付いて様子を窺っていた彼女はぴくりと顔を上げた。


「っ、今、あいつの声がした! 教会の連中にやられてる!」


 少し前からランプの明かりは落とされ、声量も最小限だ。用心の原因は先ほどから聞こえる無数の足音だった。


「やっぱり……この人の数、尋常のことではないと思いましたけれど……モニカ、馬車を出す準備をして」


 マーガレッタが言う。不安げに空足を踏む馬たちを落ち着かせていたモニカは頓狂な声をあげた。


「うえぇ!? この雨の中を? 行くあてはあるの?」

「そうだよ、それに、あいつを見捨てるのか!?」


 カフィも反対する。唯一つけていた湯を沸かす為の炉を吹き消してマーガレッタは立ち上がった。


「そのあいつが言ったのよ。何かあったら私たちだけでここを離れるようにって」


 冷たく細められた目がカフィを見下ろす。そこからは一切の感情らしきものが抜け落ちていた。


「だからってなあ……っ!」

「自分が犠牲になって私たちを逃がす。あれがそんな殊勝な人間に見えて?」


 なおも食ってかかろうとするカフィの肩へ手を置く。即座に払われたそれを宙に浮かせたまま、やれやれという調子で溜め息をついた。


「あれはもっと自己中心で、ちゃらんぽらんな性格よ。頭だって悪くない。そんな奴がこの四人だけは無事でいるようにって言ったのよ。つまり、それさえ果たせば後々取り返せる」


 カフィが握った拳を両脇へ振り下ろし怒鳴った。


「連中は異教徒には容赦がないんだ! すぐに殺されるかもしれないぞ!」

「この状況でそれはないわ。処刑をするなら全てが終わった後。それまでに起きた諸々の元凶として殺すのが一番効率的だもの。何が起きてるのかは分からないけれど、彼らが異端に求める役割はどこまでいってもそういうもの」


 淡々と口にするマーガレッタの襟首を、ついにカフィが掴んでいた。


「……貧民窟じゃあ、仲間を見捨てるのが一番の悪だ。どんな理屈をこねようが、一人逃げ帰れば私刑と決まってる」


 墓穴のような暗がりの中、憎しみすら湛えた目が白貌を睨み上げる。常ならば気圧されるであろう眼差しに、マーガレッタは仮面めいた表情を崩さない。彼女は今、あらゆる余事から隔絶した場所に自分を置いていた。その弟をして虎狼のようと言わしめた精神性がここにある。


「そうでしょうね。知性のない獣を統率するには連帯感を与えることが第一ですもの。あなたこそ、そこから一人逃げてきたんでしょう?」


 ゆえにその言葉は鞘を忘れた剣であり、遊びや容赦とは無縁だった。大きな目をさらに見開いたカフィは、全身の力で掴んだ襟首を捻り上げる。


「言いやがったな、このっ!」

「二人とも」


 焼けた鉄と氷のような視線のぶつかりを、馬車の中からの声が遮っていた。身を起こしたエマが、カフィを宥めるように微笑む。


「喧嘩は駄目。これからしばらくセレ抜きで頑張らないといけないんだから」

「そんな、エマ姐様まで……」


 信じられないという顔でカフィは手を離した。踵を地に着けたマーガレッタが一度、小さくせき込む。


「カフィちゃん。私も、このまま捕まったらセレが怒ると思うの。セレのこと、大事に思ってくれるのは嬉しいけれど、今は……」


 カフィの灰色のくせっ毛が、恥じらいを隠すように押し下ろされる。


「別にあたしは……分かったよ。エマ姐様がそう言うなら」


 三人の総意を受けて、モニカもまた渋々と牛飼帽をかぶった。


「うぅん、まあ、確かにこのままここにいるのは良くなさそうですしね……」


                  ◇


 ゆっくりと、若干震えながら木戸が上がる。


「ふっ、ん……っ」

「うぐ、ぎ、ぎっ!」


 水を吸って倍ほども重くなったそれを、カフィとマーガレッタの二人掛かりで押し上げる。


「ちょっと、これ、どこか引っ……かかっているのではありません、のッ」

「お、前がっ、ひ弱すぎるん、だよ、背中を反らすんじゃ、ないっ」


 なんとかいっぱいまで開けたところへ、カフィがすかさずつっかえ棒を蹴り込んで固定した。


「出します、お二人とも乗ってください!」


 モニカの声に二人は、動き出した馬車の後ろへ飛び乗る。

 視界のかぎりを覆う水に、怯えた馬が足踏みをした。ぐっと口元を引き締めたモニカはその胴を手綱で一度打つ。


「いたぞ、奴らの馬車だ!」


 瀑布の中を進み始めた馬の嘶きを聞きつけたか、カンテラの火が闇の向こうに灯る。それは出発とほぼ入れ違いのタイミングだった。


「見つかりましたわ! 早くに!」


 モニカは無言で馬体を打つ。中型とはいえ居住式の馬車を引いているのだ。そう簡単に速度など出ない。


「そこどけ! このッ!」


 後ろをのぞいていたマーガレッタを押し退け、カフィが持ち出した瓶の中身を石畳へぶちまける。


「ぐっ!」「なんッ、うわあーっ!?」


 追っ手の後頭部を地面へ激突させたそれは貝殻だった。真っ黒な水に紛れた危険因子に、後続が二の足を踏む。


「ははっ、ざまーみろ変態ども!」


 常套の悪口スラングをたたいて得意顔でマーガレッタの方を向く。が、目が合うと先の確執を思い出したようにそれを逸らした。


「あなたって、単純ね」

「っはぁー!? 何か文句あんの?」


 含み笑いに、慌てるだけで何もできないよりはマシだと言い返そうとしてカフィは暗がりに浮かぶその横顔を見てしまう。


「いいえ。……少しだけ、羨ましい」


 無表情に遠くを見つめる彼女は、ガラスの向こうにいるような気がした。単に、小さな頃ショーウィンドウ越しに見た外国の人形に顔立ちが似ていたからかもしれない。

 勢いをなくした言葉は、カフィの口をついて出るまでに萎んでしまったようだった。


「まぁ、そうは言っても爪の先、いえ髪の毛の先程度だけれどね」

「何でそう一言余計なんだお前は……」


 猫じゃらしのようにつまんで突き出される黒髪の先端をうっとうしげに払いながら、カフィはその場へ腰を下ろした。

 幌を打つ水の音が一際大きく聞こえる。


                  §

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