第18話『流れ落ちる』

 雨はいっそう強さを増し、まるで町全体が執拗に水を撒かれた植木鉢になったようだった。どこの地面にも薄く水が張っていて、川を渡っているのとそう変わらない。


「わっ、わっ、セレジェイさん、わーっ!」

「何だ、やかましい」


 山を経由していない水、つまり館の周りは比較的安全なはずだがもしもがないとは言えない。第一ぐしょぐしょの布靴で帰りを歩かせるのも忍びなかったのでラピスはセレジェイが抱えて走っていた。


「は、は、破廉恥ですっ、女は男の人に腰を抱かれたら妻にならないといけないんですよ倫理的に!」


 不安定なのか、セレジェイの頭を抱きしめるように掴まりながらラピスが喚く。


「いつの時代だ! お前は社交ダンスも踊ったことがないのか!?」

「そういえばそうですね、あれ?」


 頭を上げてかしげたラピスの目が前方へ見開かれた。


「セレジェイさんっ、います!」


 即座に、セレジェイの右目がそれを捉える。

 人間の女の形をした水妖精。霧のようだった体はもはや水の塊と言ってすらよく、はっきりとした容貌かおかたちは憎悪か憤怒に歪んでいる。


「くそ、あいつらもか……!」


 井戸水が汚染されている以上、土地の水精ほとんどが影響を受けていると見ていい。つまりはラピスを狙ってくる。


「他に館の入り口は!?」

「鍵の外れた窓くらいしかありません! それも反対側です!」


 正面玄関はすぐそこだ。もっとも、水妖精の群れを突っ切ることが出来ればだが。


「追い散らす! 気をしっかりもて!」


 セレジェイはぐんと強く足を漕いだ。水妖精は五体、距離が縮むにしたがってセレジェイの右目が脈動する。

 黄金の目に、鱗のような紫銀の外皮。決して人ではあり得ないその容貌が、顔の右半分を侵食していく。患部を囲うように穿たれたピアスが火にかけたような熱をもつのに、ラピスが驚いたように腕を離しわたわたと別の場所を掴み直した。

 妖精にも序列がある。序列とは力の多寡だ。低位の精は高位の精に場所を譲り、高位は低位を呑み込んで己の一部としてしまうことすらある。セレジェイの右目を喰った妖精はケガレの強さでは最悪の部類だが、そのぶん他の妖精を寄せ付けない。

 しゅうしゅうと蛇のような声が枯れた唇の隙間から漏れる。絡み合い一弾となって文字通り殺到しかけていた水妖精は、その直前で弾けるように五方へ散った。悲鳴のような怨嗟の声が豪雨の中に木霊する。

 再集結しようとする気配を感じて、セレジェイは蹴破るように玄関ホールへと転がり込んだ。ラピスを床へ降ろすと、一も二もなく扉を閉める。


「――ッ、は……ァ、」


 下ろした前髪の上から右目を押さえて、扉を背にもたれるように座り込んだ。


「セレジェイさ……っ……」


 割れた仮面のようなその有様に、声をかけたラピスが息をのむ。

 徐々に、徐々に人間の顔を取り戻しながらセレジェイはひび割れた声で言った。


「コールマイト卿の部屋に案内してくれ」


                  ◇


 それは半面を窓に、半面を本棚に囲まれた空間だった。本棚の前には執務机が、館の角にあたる窓辺にはベッドが設えられている。寝室と執務室は普通この規模ならば分けるものだが、一部屋にまとまっているのは主の体調ゆえか。


「ラピスか……屋敷を飛び出したと聞いて心配したぞ」


 コールマイト=シャーリクはゆったりとした長袖を着てベッドに横たわっていた。上体こそ起こしているもののその顔色は青黒く、一目で重篤と分かる。


「後ろにいるのは……昨日の座頭か。こちらから逗留を願っておきながら、此度はすまないことになった」


 未だ前髪で隠し切れないセレジェイの異貌を見ても慌てた様子ひとつ見せない。セレジェイは頭を下げた。


「今この町で起きている異変に二、三の心当たりがあり、再びのお目汚しをいたしました。お話をお聞かせ願えればと思います」


 その言葉をのみこむように、領主はゆっくりと頷き応えた。


「座頭相手に話すことなど何もない」

「そんな、お父様!? ……っ!」


 ラピスの反発にもじろりと目をやるのみで、それ以上は何も口にしようとしない。

 まあそうだろうなとセレジェイは確信をより強くした。二、三どころか相手はこの出来事の全容に近いところまで把握しているのだ。もしそうでなければここまで冷静ではいられないだろうし何より、領主の重病に際して医者も司祭もついていない今の状況が説明できない。


「分かった、言い方を変える。――国が滅ぶぞ。知っていることをすべて教えろ」


 こけ落ちた顔に浮かんだのは怒りか驚きか。傍らに置かれた銀の呼び鈴に伸びかけた手を止めるべく、セレジェイはさらに言葉を重ねた。


「力を貸してやると言ってるんだ! こちらも踊り子が一人やられた、はいそうですかと引くわけにはいかない!」


 一度は領主の指先に収まった呼び鈴が、ぽろりと絨毯に落ちた。顔の中でぎょろりと浮いた目が、ありえないと言うようにセレジェイを見返す。


「……何だと? そんな筈はない、これは我が一族だけの……」


 それ以上言うまいと口を閉ざすが遅い。


「やはり、妖精憑きか。この家は」


 セレジェイの言葉に領主は苦々しく顔を歪めた。

 妖精憑き。ある家の人間にばかり同じ妖精がケガレをもたらす場合をそう呼ぶ。家屋に住む妖精の害と違うところは、妖精が家系そのものに執着する点だ。

 ここ共和国ではそう珍しいことではない。妖精の力を利用して家や国を栄えさせようとするならば、よほどうまくやらない限り何らかの縁が結ばれてしまう。


「町は凶暴化した妖精で溢れてる。うちの踊り子がケガレを受けたのも、住民の一人があんたと同じ症状だったのを貰ったからだ。雨期が終わるまでまだ十日以上ある。自分以外は大丈夫だとたかを括っているのなら――」

「ラピス!……お前は部屋に戻っていなさい」


 セレジェイの言葉を遮って、一際大きな声で領主が言った。ラピスは心外そうに胸に手を当てると首を横に振る。


「いいえお父様、大事な話ならわたしも――」

「戻れと言っている! っぐ、ゴホ……っ、戻っておくれ、お前には聞かせられぬ話なのだ」


 せき込んだ領主の口からは小石のような塊がこぼれ落ちた。肺の一部が石化し始めている。ラピスは痛ましそうにそれを見た後、こくりとうなだれた。


「っ分かり、ました……」


 顔を見せまいとするように俯いたまま、足早に部屋を出ていく。セレジェイは床に落ちた領主の欠片を拾い上げた。


「……余程酷いらしいな」


 言われ、大儀そうに横になった体がより深くベッドへ沈み込む。


「何年も付き合ってきたものだ。今さら多少悪化しようが大したことはない」


 くたびれた笑みを浮かべた領主にセレジェイは厳しい目を向ける。


「違う。この家が背負い込んだ呪いがだ」

「……気付いていたのか」


 セレジェイは簡潔に説明した。ルフ老人からケガレを除くために踊りを行ったこと。妖精が場に居合わせたラピスを襲い、シャーリク家への呪詛を吐いたことを。

 意外そうに聞いていた領主は次第に目を閉じ、腕を組み、深く考え込むように顎を引く。セレジェイが話終えると、まずひとつ訂正した。


「それは呪いではない。当家の父祖らが我々に残した加護だ。なぜ市井の人間にそれが現れているのかは分からんがな」


 疑問の答えを求めるように、領主はセレジェイに語り始める。


「……共和国がここ南西の荒野に根を張ろうとした時代、有力者たちが次々と土地を開拓するなかで、シャーリク家は一歩後れをとっていた」


 複数部族の統一化と、外的脅威への備えとを同時に早急に行わなくてはならなかった共和国は、最初の議会においてある取り決めを行った。入植し、開拓し、規模と年数に応じた税を納めた者に土地の所有を認める、新地開墾令である。


「他の領主に先を越され、足を延ばしに延ばしてたどり着いたのがここ、ヴァレリだった。見てきただろう、作物など育たず、家畜とて満足に養えず、石と鉄に頼るほかはないこの町を」


 セレジェイは頷いた。それを見ているのかいないのか、領主は続ける。


「父祖は鉱脈を擁する地脈の精と自家とを結びつけることにした。それもただ利用するのみでなく、子孫永代にわたりその恵みが消えることのないように」


 言葉裏に感じた不穏を、セレジェイはそのまま口にした。


「……まさか、意図して妖精憑きを作ったのか?」


 師からは妖精に関わる知識と技術を学んだが、そんな術は聞いたことがなかった。


「父祖の擁した術士の一派はそうしたわざに長けていた。結果シャーリク家は代々にわたり鉱脈と稀石の場所を言い当て、領地を富ませる中で権勢を保ってきた」


 迂遠な物言いにじれて歯噛みする。


「肝心なところをぼかすな。何をしたらあんな憎悪の塊が生まれる?」

「術士たちが用いたのは、家に深い思い入れを持つ人間を地脈の精……父祖はこれを《竜》と称したが……それに喰わせるという手法だった。命を賭した思いならば強大な竜といえども感化できる。少なくとも興味の向きを変える程度ならばな」


 それは原始的な供犠、人柱ひとばしらなどと呼び慣わされた習俗を体系化したものと思われた。命や体の一部を代償に妖精を操ろうとする試みは文明以前のコミュニティにおいて行われていたと言われている。身を奉じるのは共同体の指導者であったり、その委嘱を受けたシャーマンであったりした。集団のために血を流す行為が、彼らの地位をより確かなものにした。


「まさか、父祖自身が?」


 領主は首を振った。顔に落ちる厭世的な陰がいっそう濃くなって見える。


「父祖と妃の間には娘があり、娘には互いに想い合う職工の青年があった。家の繁栄を願う父祖の思いよりも、青年が姫を愛しそして末期まつごに抱くであろう絶望と恨みの思いこそがより強く長く《竜》を支配出来ると術士たちは考えた」


 セレジェイは頭に血が上るのを抑えかね、短く怒りを吐いた。


「何も知らない人間を生け贄にしたのか……!」


 領主の身体がこわばる、額に脂汗が浮く。


「ああ……そうだ。そしてこれは、一族当主にしか伝えられぬ秘事でもある」


 べちゃり、と。

 身体をくの字に曲げたコールマイトの襟首から、泥蛞蝓が這い落ちる。その姿は異様にはっきりとして、もはや実体があるかのようだ。四、五体と溢れるように床へ落ち、その口はすべてセレジェイへと向けられていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る