第4話『水の精』
カシャーン、ガシャンとシンバルがすり合わされる。
真っ赤に染まるの広場の空に、それは獣の遠吠えのように孤独に響いた。
徐々に音と音の間が狭くなる。同時舞う青い薄衣。
タッと幕から飛び出したカフィが、跳ねるように観客の目前を一走する。手足の金装飾がジャチジャチと川鳥の鳴き声をあげ、背中に紐で吊した
ぉおっとどよめきが波のようにカフィの後をついて走る。扇状に集まった観衆の前を一息に駆け抜けると、勢いそのまま噴水の後ろをぐるりと回って広場を一周、踏み切って噴水前、舞台中央へと着地する。土鈴がコロカロンと一度大きく鳴った。
満面の笑みを客席へ向けたままぺこり、と腰を折るカフィ。思い出したように拍手が起こり、誰かがヒュゥと口笛を吹く。
モニカは音を立てぬようシンバルを脇へ置くと、小鼓を正面に、木のばちを両手に取る。カヤの胴に水牛の皮を固く張ったそれは、叩くとコンと高い音がする。
トコトコトコトン、と四連打。中二つを強く、打ち寄せる波のように単純な打音をゆっくりとしたテンポで繰り返す。
数回続けたある四打目、カフィの体がにわかに上方へ躍り上がった。揃えられた足はきれいな弧を描き、一周して着地する。宙返り、そして笑顔で一礼。
次の四音で再び跳ぶ。さっきは後方、今度は前方。
四音で跳ぶ、捻りが入った。土鈴がゴロンと鳴る、四音と四音のちょうど合間に。
跳ぶ、飛ぶ。旋律は変わらない、これだけだ。ただどんどんと早くなる。
「――
観客の行商人風の男がつぶやいた。それは聖手国の貧民窟から生まれた見せ物踊り。若者たちはその高さと形のおかしさを競い、物乞いの子は日の食い扶持を誰かが恵んでくれるまで爪を割りながら跳び続けるという。
カフィの手足がはじけるように広げられた。行儀のよい大道芸だったそれが、途端に踊りとしての艶を帯び始める。
あるジャンプで逆さになって前後に大きく足を開いたとき、ピュゥと誰かの指笛が響いた。
「いいぞ嬢ちゃん一枚脱げ!」
「やれやれ!」
男たちの下卑た歓声にカフィはにっこりと笑って返す。手すら振りそうなほど親しげに。嬉しそうに。
その様子が普段の子供っぽい彼女とはあまりにかけ離れていて、モニカは息をのむ。四音と土鈴の音はもはや繋ぎ目がわからないほど早くなっていた。
ひときわ高く跳んだカフィの体が、太陽に捧げられた生贄のように激しく弓なりに反る。そのまま頭を下にして石畳へと落下、あわや激突というギリギリで体を丸めて回転し着地する。客席では悲鳴と安堵の吐息が重なった。
すくと立ち上がり、うやうやしく一礼。
今度こそ、満場の拍手がカフィに注がれた。それに手を振り、笑みを返して、疲れを感じさせない軽快さで控え幕の中へ引っ込んでいく。
入れ替わりで表れたのはセレジェイだ。カツン、カツンと硬い靴が石畳を叩く。胸を張って目線は眉間のやや前。赤いネクタイをしきりに直しながら舞台袖で立ち止まる。
彼に集まった客の視線を奪うように今度は、モニカの目前を横切ってマーガレッタが中央へと進み出た。
服装はいつもと変わらず。違うところといえば一枚羽織ったケープ状の肩掛けだろうか。丈夫そうな厚手の布地に里花の刺繍が、王族というよりは町貴族の箱入り娘を思わせる。であれば高貴な彼女の普段着も、精一杯の見栄で仕立てた一張羅へと意味合いを変えていた。
くるり、くるりと緩やかなステップで舞うマーガレッタ。彼方を見る目も相まって誰かを待っているよう。
そこへ歩み寄ったセレジェイが片膝をつき、その手を取った。大仰な仕草で頭をたれ、真摯にしかしどこか冗談めかした様子でダンスに誘う。モニカは持ち代えたバイオリンで、甘いロマンスを奏ではじめた。
いかにも好青年らしい爽やかな笑み。それへ。
小さくするどい靴の爪先がめりこんでいた。
――踊り『水の精』のあらすじはこうだ。
若い貴族の青年と幼なじみの女。
青年は幼なじみに恋し思いを伝えるが、彼女は少しの高慢さによってそれを拒絶してしまう。自分の気持ちすらよく考えぬうちに。
音楽が尻すぼみで途切れる。石畳の上を派手に転がり、じたばたと悶絶するセレジェイ。女性客からは
薄いドレスに裸足のエマが、セレジェイと同じ舞台袖から立ち上がる。
――傷心の青年はあるとき森で美しい少女に出会う。
少女の無邪気な様子にすっかり魅せられた青年はその手を取り、恋に落ちる。
少女も戸惑いながらもそれに応え、二人は夫婦となる。
だがその際少女は自分が水の精であると明かす。生まれを越えた二人の結婚に、水の王は厳しい掟を科す。
粉に挽いた貝殻を海藻の煮汁でのばした特別の白塗りを首から下へほどこしたエマは、一人だけ風景から浮き上がって見えた。
モニカは再びバイオリンを構える。
セレジェイいわく昔から決まっているというここでの伴奏は、幸いにもモニカが弾き慣らしたものだった。『森のワルツ』と題される、子守歌にも使われる柔らかく楽しげな旋律。
セレジェイとエマは片手を繋ぎもう一方の腕を互いの体へ回して踊り始める。
背の高い二人だが、微妙に絵にならないのはエマのたどたどしい演技のせいだろうか。おっかなびっくり足を出し、引かれるままにトテトテとついていく様はまるで父親に初めてダンスを教わる小娘のよう。全体の空気が緩んだ。
セレジェイが舞台中央へとエマの手を引いて行こうとする。しかし彼女の足は根を張ったように動かない。
押し引きを繰り返すうち、パッと手をふりほどいてエマは崩れ落ち、途方に暮れたように天を仰ぐ。
筋書きを知りながらもモニカは、水精の少女が葛藤から救われることを願わずにはいられなかった。哀切が演技に満ちていた。本当に演技なのかと疑うほど。
しかして救いは差し伸べられる。現れたのはカフィ。ただしその顔は頭からかぶった青い薄衣により客側からは窺えない。
差し出されたのは、一振りの短剣。
――もし男が他の女を愛したならば、お前は彼を殺さなければならない。
水の王は、青年と行きたいと願う水の精に誓わせる。
短剣をドレスの中へ仕舞うエマ。
凶器を身に宿したとは思えぬ無垢な笑顔でセレジェイの手を取り立ち上がる。
理解していないからだ。物語という悪辣な運命線が、その刃にどんな意味を含ませているのか。
ともあれ、晴れて彼らは中央で踊り出す。子守歌よりもずっと甘やかな旋律で。
羊飼いの青年が妹である少女へ弾き贈ったと伝わるその曲は、由来と合わせみたときあまりに情熱的に過ぎるという理由で公の演奏がはばかられたことすらある。
これもまた有名な曲でモニカが弾くに苦労はなかったが、ただし後半徐々にテンポを上げるよう指示されていた。
満面の笑みでターンを踏むエマ。
先までのたどたどしさは消え、実に楽しそうにくるくると回る。セレジェイもまたそれに付き合うように応えていた。
だが、そのうち誰もが気付き始める。早すぎると。
本来男性が女性をリードするべきダンスは、もはやエマが一方的にセレジェイを振り回すように変化していた。
「うふ、うふふふあはっ」
エマが声高く笑う。酔ったように。
これは歌劇ではない。演者は喋らないし、公演前に一度合わせてみたときもそんな様子はなかった。モニカが戸惑いを込めて広場へ目を凝らした、そのとき。
見た。二人の後ろで静かに水を湛えていた精霊の泉が。
渦を巻いていた。ぼこぼこと小さな波が隆起して、確かな流れが生まれつつある。
客側からはまだ死角になっているのか、誰かが気づいた様子はないが……
「……っ!」
ぬるりと起きあがった小波、それが形どった何かと目が合ったような気がして、咄嗟にモニカは顔を伏せた。
――結婚した二人は、町で共に暮らすことになる。
けれど少女の無垢さと奔放さは人の社会に馴染まなかった。
破天荒を繰り返す少女に青年はいつしか嫌気をおぼえるようになる。
エマの口が何かの言葉を紡いだ。それは小さく、踊る二人以外には聞き取れないものだったが、モニカにははっきりと口の形が見て取れた。
――しい人、どうか見捨てないで。わたしはあなたを――
それはエマが泉の縁で詠みあげた、詩の一節。
パッ、とはじけるように二人の体が離れる。
セレジェイが踊りの激しさに耐えかねて手を離してしまった形だ。
絹を裂くような悲鳴と共に、ふらつきながらエマは退場する。
あとに一人立ち尽くし呆けたように、やがてがっくりと膝を着くセレジェイ。
しかしそんな背中におず、と手を差し出す者がある。マーガレッタだ。
――あるとき青年は少女を痛罵し、ショックに耐えかねた少女は水へと還ってしまう。
青年は後悔するが全てが終わった後だった。
失った後でこそ真にかけがえのないものに気付く。けれどその境地へ至ったのは青年が最初ではなかった。はじめ彼を拒んだ幼なじみの女もまた。
同種の傷を知る二人は互いを慰めあい、やがて結婚する。
§
むっつりとした表情で睨み上げてくるマーガレッタを、セレジェイは懐かしい思いで導いていた。
昔、こうして教育係の前で踊ったことがあった気がする。その頃はまだ姉と弟という関係にふさわしい構図で、見上げる姉の目はいくぶん柔らかかったように思うが。
「可愛げのないこと。以前は私くしが足を合わせてあげていましたのに」
ぼそりとセレジェイにだけ聞こえる声でマーガレッタが毒づく。
「俺は昔から上手かっただろう。踊りの途中で口を開くな。もうそこまで来ている」
たしなめるように言ったセレジェイがマーガレッタの肩胛骨に力をこめると、彼女はむっとしながらもおとなしくそのリードに従った。
身長のバランスの悪さはあるものの、お手本のような社交ダンスを踊った二人は、どちらともなく躰を離す。
マーガレッタはスカートの両裾をつまみ、セレジェイは軽く腰を折る。マーガレッタが幕へ消えセレジェイはそれを見送った。
だが客の視線はすでにその背後、逆の舞台袖へ佇むエマへと集中している。
――青年は幼なじみと結婚するが、そこは彼にとって色を欠いた絵画のような世界だった。青年は、己の心がかの水精の少女へ傾いたままであることを知る。
しかしてある夜、青年の前に彼女は現れる。
悲壮な表情で。掟とともに下された短剣を手に。
驚愕に背筋を張りながら、ふらりとエマへ近付くセレジェイ。
エマもまた、この一瞬だけは身を蝕む呪いを忘れて胸を押さえる。
一歩、また一歩と二人の距離は近付き、やがて舞台の中央へ。セレジェイが両腕を広げ、エマが身を投げるようにそこへ倒れ込もうとするその瞬間。
山崩れのように激しい土鈴の音。異形の仮面が割り込んでいた。
四肢を狂乱したように空中で振り回し、二人の周囲を跳ね回る。特大の真珠を生んだアコヤ貝の殻を粉にし固めた巨大な面に、海の名を履く宝石の目、ワニの一番大きな歯ばかりが並んだ口。
それが最初、楽しげに華やかに宙を舞った少女だと気が付くのに、誰もが一瞬の間を要した。
津波のような太鼓の旋律が耳を覆い、さらに。
水面が爆発する。これまでが創意と技術の見せたひと時の夢ならば、ここから先はまごうことなき妖幻の郷。
《精霊の泉》が湧き立っていた。
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