第3話『森の祭儀者たち』

 力を失った《精霊の泉》を直してほしい、というのがルフ老人からの依頼だった。


 水の妖精を使った流水機構。森辺の民を祖にもつラウルス共和国が先進する精霊工学の成果のひとつで、水盆へ汲み上げた地下水を、制御した水妖精によって撹拌し続けることで腐敗や澱みを抑制する。噴水機構をもつ物もあり、今エマとモニカが目の前にしているのもそれだった。


「それでは、お二人は同じ一座で修行されたんですか?」


 町の中央、真っ赤な領主館にほど近い広場は、平穏を取り戻したように見えた。少なくとも先のような忌避の視線を今は感じない。

 広場中央にある石造りの泉のへりに腰掛けて、二人は会って間もない互いの身の上などを話していた。


「えぇ、私は踊り子として、セレはそれをまとめる座頭としての勉強ね」


 背中から泉のほうへ乗り出して、ちゃぷんと手をさし入れるエマ。撹拌が止まって久しいのか、水は濁り底を見通すことができない。


「セレが一人立ちするとき、私を誘ってくれたの。もう踊り子として存分に働ける時期は過ぎてたけれど、それでいいからって。嬉しかった」


 手についた滴を爪弾きながら、泉のあちこちをのぞき込んだり触れたりする。まるで昨日のことのようにはにかんだ笑みを浮かべるエマに、少し躊躇ってからモニカは訊ねた。


「あのーそのー不躾なことを訊くようですが、お二人は恋人同士だったり……?」


 少年のような格好をしていてもモニカも年頃だ。おまけに同業は男がほとんどで、たまにつく女性客ともそう込み入った話など出来ない。それこそ一週間、一ヶ月という長仕事に恵まれない限りは。

 今がその時と振った話題。だが。


「――愛しい人、どうか見捨てないで。私はあなたを殺すでしょう」

「え……?」


 どこか曖昧模糊とした、歌うような言葉。思わず聞き返すようにエマを見る。


「詩話『水の精』の一節ね。これ全部がきっとそうだわ」


 陶器のような指先が、再度水面へさし入れられていた。水盆の内壁を何重にも囲って走るその羅列は。


「妖精文字、ですよねそれ。読めるんですか?」


 かつて森辺の民が見つけた遺跡に記されていたという、異郷の文字。起源も発音も定かでなく、分かるのはそれが妖精たちを律するルールのように作用すること。妖精文字は一部の人間たちの間で秘匿され続け、彼らが森を追われ共和国となってからも神秘性を保ち続けている。


「小さい頃、一座で一番のお婆ちゃんに習ったの。書けはしないけど、読むだけなら」


 水盆の内は苔むしていて、文字も一部しかうかがえない。しかし紋様と見紛うほどにびっしりと刻まれたその様は。


「まるで聖手教の祭壇みたいですね」


 神への賛歌を連ね、ステンドグラスに神話を描いた教導舎の聖堂のようだとモニカは思った。エマはうなずく。


「そう変わらないわ、妖精も、神様も。ある事の別側面。確かな形をもたないから、見る人や場所によって姿も性質も変わる。彼らはそうやってあるべき自分を探しているの。妖精文字はそれを一つの形に押し留める容器みたいなもの。……おとぎ話にあるでしょう、『妖精の輪フェアリーリング』」


 それは大陸のどこの生まれであれ一度は類型を聞かされるであろう物語。森で迷った男が偶然、妖精たちが輪となり踊る夜会を目撃する。


「私たち踊り子は妖精と交わる。彼らを真似て、彼女たちの物語を唄って。そして別れるときに少しだけお願いするの。こんなあなたでいてほしい、こうならもっと素敵って。妖精と人との橋渡しをするの」


 エマは両手の人差し指を立てて、胸の前で寄り添わせる。二本はまるで恋人同士のように睦み合い、やがて小さく先端を触れ合わせて離れる。


「でも、それじゃあ森のケガレが」


 モニカは恐ろしい物語の続きを思い出していた。森に迷い、妖精たちと一晩踊り続けた男は、白痴となるのだ。自分のことを思い出せず、底の擦り切れた靴をひきずった状態で発見される。彼が森へ入ってから、半年の月日が経っていたという。

 妖精は自然物の化身だ。彼らに時間や記憶といった概念はおおかた無く、彼らと交われば人はそちら側へと引っ張られる。心であれ、体の一部であれ。それが俗に森のケガレ、妖精症グリムスとも呼ばれるもの。


「そうね。うふふ、そうなったら怖いわ」


 モニカを脅かすように悪戯っぽく笑ったエマは、勢いをつけて立ち上がった。遠く手を振る先にはセレジェイとカフィ、マーガレッタ。


「でも踊るの。何よりも綺麗って言ってくれた人がいるから」


 やだ格好つけ、と自分で吹き出して、彼女はぺろっと舌を出した。



                  ◇



 妖精との交感を生業とする踊り一座は、かつて森辺の民と呼ばれた大陸中南部の小部族たちが、時を同じくして台頭したガウェン聖手国に軒並み滅ぼされ、南西に広がる荒野へと逃れたことに起源を持つ。

 森を失った小部族は集合して新国家ラウルスを形成した。荒れ地は人が住むに難多き場所だったが、土と友誼を交わし岩と心を通わす森の祭儀者たちがその開拓に大いに貢献した。

 祭儀者たちは新国家で一様に高い地位を得た。彼らは瞬間的に祭り上げられ、しかしやがて梯子はしごを外されるような憂き目にあう。

 事実上の敗戦国家ラウルスの、聖手教への改宗。



 オレンジ色の太陽が明るい、夕暮れ前の中央広場。

 モニカは道すがらセレジェイに聞いた流浪の踊り手たちの歴史を思いつつ、なめし革の敷物に広げられた楽器たちを見下ろした。


「うわあ、大忙しだ」


 大鼓、小鼓、見たことのない土製の笛や鈴。バイオリンだけは自前で、それなりに年期の入ったものだがそれでも他の道具には及びもつかないのが分かる。

 長く人の手で奏でられ、大切に保管されてきたのだろう。見ているだけでモニカは暖かい気持ちになった。

 音楽を愛する人はきっと、どこか寂しがりなのだとモニカは思う。夜道で子供がわざと明るい歌を口ずさむように。人にはどうしようもなく孤独な時があって、きっとそれは必要なことなのだけど、それでも誰かに触れたいという断ちがたい思いが唇を、喉を震わせる。そうして出来たであろう曲をモニカはいくつも知っていた。


「あぁ、緊張するう」


 モニカたちの馬車が二十台は停まりそうな広場に、扇状に出来つつある人垣を見てごくりと唾をのむ。馬借仲間と弾き交わしたり、乗せた客の退屈しのぎに弾くことはあっても、大勢の前で演奏した経験などない。楽士でもないのだから当たり前だ。


 バイオリンの音を理由に馬車牽きを頼まれたときも、本当は断るつもりだった。自分は馬を見る目とその扱いで身を立てる覚悟で、所詮手慰みを褒められてもほんのちょっとしか嬉しくないと。けれどあまりに直載に褒めちぎられて、ついでに唇だの声だの胸だの、全然関係ない上に恥ずかしいことまで賞賛されて、倒れそうなくらいアガッてしまった後、気付いたら馬車の御者台に座ってしまっていた。


「僕ってちょっと流されやすいのかも……お給料はいいからいいけど」


 長期の仕事としては相場よりちょっと高いくらいだ。それに蒸し暑い乾期と雨期の境、日がな交易所の前で客を引くよりはひさしのある御者台でそよ風に吹かれているほうが断然良い。

 少し離れたところでは、露出の高い衣装に青い薄布をまとったカフィが、集まってきた客たちの間を飛び回って挨拶していた。見物人は労働帰りの男たちが主で、その間に怖いもの見たさの女性や何事かと目を輝かせる子供の姿も見える。


「おうチビ、ちゃんと踊れんのかぁ?」


 最前列の若い男が、目の前にやってきたカフィを野次る。


「へっへぇ、そんなこと言ってると後でおひねり入れさせてあげないよ!」


 余裕の笑みでめあげて彼女は次の場所へと駆けていく。まるで花間を巡るハチドリのようだ。

 向かいでは、背中の大きく開いたドレスを着たエマがゆったりした動作で歩いていた。その片手は燕尾服を着たセレジェイに預けられ、さながら小貴族とそのパートナーのよう。

 ドレスの裾へ手を伸ばした子供に、屈み込んだエマは微笑んで手を差し出す。とっさに子供を抱き寄せた母親に嫌な顔ひとつせず、立ち上がってうやうやしい礼をした。

 どこかお祭りの前のようにそわそわした、晴れがましい空気が広場に満ちていく。それを。


「まったく、乱稚気騒ぎですわ」


 バッサリと切り捨てて、これまた見目麗しく化粧をしたマーガレッタはモニカの隣の敷布に両膝をついた。


「マーガレッタさん、結局どうするんです? やっぱり踊らないんですか?」


 彼女の場合、いかにも高貴な普段着がすでに絵になっている。ぴしりと眉間に縦溝を刻んで、小さな唇がいっぱいに開かれた。


「踊りますわ! ……無為徒食は聖手の神の教えに背きますもの。見せ物のように扱われることは耐えがたいですが、それでも落伍した弟に『食わせてやっている』などという侮辱を許すよりはマシです」


 ぶつぶつとまくし立てて、きっと正面を睨み据える。はあ、とモニカが溜息をつくほどに美人だった。「近寄り難い」と確実に前置かれるだろうが。


「あなたは、いいのですか」


 はぇ、と間抜けな声がでた。まるで視線を寄越さないので、一瞬ひとりごとかと錯覚する。


「僕ですか?」

「楽器の演奏は本職ではないでしょう。このように使われて不本意ではなくて?」


 そんな風に気遣われるとは思っておらず、モニカはううん、と首を捻る。


「必要とされるのは、嬉しいです。僕は……昔から馬の世話が仕事で、それが楽しくて、だから自分も馬借になろうって思ったんですけど。バイオリンを弾くのも同じくらい好きです。人様からお金を貰えるようなものじゃないって思ってただけで。今もそう思います、けど、良いって言ってくれる人がいて、その人が弾いて欲しいって言うなら、断る理由もないかなって……」

「……あなた、そのうち悪い男に引っかかりますわ」


 ちくりと刺すように言われて、モニカはそうですかねと他人事のように相槌を打つ。だがその後すぐ、でもそれなら、と。


「もう引っかかってるんじゃないでしょうか。あ、いえ、セレジェイさんを悪く言うつもりは無いんですけど!」


 思いつきで口にした直後にわたわたと弁解する。

 それにふっと吹き出したマーガレッタはすぐ口元を引き締め直し。


「別にあれがどう思われようと私くしの胸は痛みませんわ。どうぞ愚弟をよしなに」

「えええ、そんなよ、よしなにと言われてもですねっ」


 ぴっとモニカの鼻先にふれる人差し指。


「敬語はいいわ。マーガレッタじゃ長いからマーギーと呼んで」


 その言葉の真意をモニカが理解するよりも先に。


(始めるぞ)


セレジェイが噴水を挟んだ対面から合図するのが見えた。


「ぁ……は、はいっ!」


 がくんと頷いてからマーガレッタをかえりみる。


「まったく、なぜ私くしがこのような……」


 彼女は来たときと同じ不機嫌な表情でつぶやきながら膝を払って立ち上がった。仮設で垂らした控えの幕へ向かう、その背中に。


「え、えっと、マーギー! 僕、頑張って演奏しま、するからっマーギーも、その……!」


 これからすることを厭う彼女に、頑張れと言っていいのかモニカは迷う。

 ぴたりと立ち止まってマーガレッタは振り向いた。その表情は。


「……ええ、モニカ。私くしも、踊ること自体は嫌いではなくてよ」


 緩むことを禁じているのではと思うほどに微かな、淡い苦しそうな笑みだった。


                  ◇

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