(六)友野 優希

「どうだい、調子は」


 優希がベランダに出ると、野村は憂いの表情を浮かべて煙草を吸っていた。


 滅多なことでは二人きりになることもない。けれど今日に限ってどういうわけだかあたしを呼び出したここの管理人は唐突にそんな台詞を口にする。


「ぼちぼち。美冬の恋愛沙汰で色々あったけど、それを除けばいたって順調」


 言いながら、優希は右手の甲で額を拭った。


 ベランダは蒸し暑い。部屋にウーロン茶を置いてきたのは失敗だった。不快極まりない空気が頬を撫でる。


「こっちの生活には慣れた?」


「慣れるもなにも普段から引きこもってるんだから、どこにいたって一緒だよ」


「少なくとも、これまでの閉塞的な環境からは抜け出せているでしょ? 部屋の様子は相変わらずみたいだけど、ここの皆とも仲良くしてるようじゃない。対人関係も良好みたいだし。随分と大人しくなったわね」


 何本目になるかも分からない煙草を取り出しながら、野村はからかい調子で言う。呂律こそはっきりしているが、煙草のペースが早い。相当に酔いが回っている証拠だ。


 酒に酔った勢いで馬鹿にしないでほしかった。もう立派な大学生だ。親の脛を囓らないと生きていけないほど幼くない。誰に甘えるでもなく、きちんとこうやって生きている。


「あたしだって、もう十八だから」


「デビューした頃はどうなることかと冷や冷やしたけど、もう大学生だもんねえ。時が経つのは早いわ」


「あたしだってデビューしてからはそれなりに成長したつもりだよ。少しくらいは周りが見えるようになったもん」


「一体どの口が言うのよ。利かせすぎてたエッジが少し丸くなっただけでしょ? 生活力のなさは改善してないみたいだし、美冬ちゃんと氷山ちゃんにはおんぶに抱っこだって、東郷編集長も苦笑いだったわよ」


「そ、それは」


「たまに久留米くんにも厄介になっているようだしね。台所が書庫になってるって美冬ちゃんから聞いたわよ? 料理なんて全然してないんでしょう」


「うっ……」


 壊滅的に料理のセンスがない優希にとって、渚の存在は大きいのは紛うことなき事実だ。ときどき厄介になっているのも嘘ではない。


 家事ならなんでもこなせるあの男は、女の敵だとすら思う。本当に普通で、少し不遇なだけの大学生。創作なんて言葉とは無縁の一般人。


 頼ってはいる。けれどそれは、友人としてであってそれ以上ではない。だから変に気負わずに済む一方で、ふと違和感を覚えることだってある。あまりにも自分自身と毛色が違うからだろうか。


「そういえば、渚のことでずっと不思議に思ってることがあるんだけど」


「なに?」


「どうして渚を入居させたの? ここをトキワ荘みたいにしたいって、前にそう言ってたじゃん」


 漫画の神様と崇められている手塚治虫をはじめとして、有名な漫画家がこぞって集まり日夜漫画を描いていた、そのアパート。豪華な顔ぶれが、まだ若い頃、有名になることを夢見ながら互いに切磋琢磨しあっていた場所。


 手塚治虫はあたしじゃなくて、ファンタジーの巨匠だとかホラーの重鎮とか呼ばれているこの管理人だけど。あたしはポジション的に誰だろう。さしずめ、藤子先生あたりかな。夢を叶える四次元ポケットとあたしの作品を無理矢理こじつけて、そんなところ。


 東央大学に進学することが決まっていた優希と美冬をここに連れてきたのは野村だ。デビュー当時から縁あって世話になっていたところに話があった。


 編集者を入れたいね、という話になったときは、鳳凰書店の東郷編集長をつたって颯馬をここに呼び寄せた。さらに、面接で偶然引っ掛かった文香を招き入れて。彼女の場合は運という要素が強いけれど、作家になれたんだから、その持ち合わせは必然だったのかもしれない。


 ただ、渚は違う。


 クリエイターになる気はさらさらなさそうだから、颯馬みたいに編集者志望なのかもと最初は勘繰っていた。でも、見る限りだとそうでもない。


 しばらく黙っていた野村が、思い出したように呟く。


「あの子と面談したときにね、ピンと来たのよ。ああ、この子はここに必要なんだわ、って


「たったそれだけの理由なの」


「たった、とか言わない。女の勘ってのは大事にしないと。彼はクリエイターじゃないけど、皆の潤滑油になっているのは確かでしょ? 美冬ちゃんも随分と世話になったって聞いたわ」


「それってつい最近のこと、だよね」


「そうよ。挿絵が描けなくなって泣きついたって。恥ずかしそうに語ってくれたわよ。優希が言った色恋沙汰ってやつだろうけど」


 大喧嘩をしてから数日経って、美冬が一枚の挿絵を描き上げてきたときのこと。


 ――私は恋も仕事も諦めないって決めたから。自分の力で前を見て歩こうって決めたから。


 挿絵の完成版を見せてもらったとともに、美冬の決意を聞いた。


 その確固たる言葉を聞けて、少しだけ嬉しかった。対等な関係になれた気がして、安堵した。


 あの決意を引き出したのは、渚だったのだろう。


「彼がいないと、このアパートは上手く回らない。プライドとエゴの塊を抱えて自由奔放に立ち振る舞う面倒なクリエイター集団に彼がいるというのは、とても大切なことだと思うわ」


「それは、そうかもね」


 世話になった手前、否定はできない。


「入居させたのも本当に気まぐれよ」

「そう」


 深く突っ込む気力が湧いてこない優希は、これでもうこの話題を打ち切ることにした。


 ここをどういう風にするのか、それも実のところあまり興味はない。クリエイターの巣窟にするのか、もっと大学生の寮みたいに気楽で住みやすい場所にするのか。


 あたしがやりやすい環境が維持さえできればそれでいい、というのが本心だ。


 トキワ荘になろうがなるまいが、優希にはまるで関係がないのだから。


「にしても、面白くなってきたわね。まさか本当に小説家デビューしちゃうだなんて驚いた」


「文香はさ」


「ん?」


「一山越えれば、あの子はきっと大成するだろうなって」


 それはあの選考でも言ったことだ。


 文香の中に眠る過去。それはどれほど残酷なものだったんだろう。


 あの作品から滲み出ていた人間の負の側面は、きっと想像の産物ではない。リアルさに鳥肌が立った。読み手の過去を抉るように問いかける主人公の独白。どの言葉も鋭かった。


 あれは、文香自身による過去との決別と清算を描いた物語だ。それは、間違いない。闇を覗き込んだからできあがった作品だ。


 次にどんなテーマをもって物語を紡いでいくのか。文香の作家人生はそれ次第だと思う。闇と光をかき分けられてこそ一人前。それができなければ、闇に飲まれて沈んでいくだけ。


「そうね。私もそう思うわ。愛生さんはこれから数年が踏ん張りどころね」


 吸っていた煙草の火が消え、次を取りだそうとした野村が軽く舌打ちをしたのが聞こえた。どうやらストックが切れたらしい。


「ライバルが増えて良かったわね。二年分の経験値なんてあっという間に詰められるんだから、覚悟して執筆したほうがいいわよ」


「あたしはいつだって全力だから。そうそう追いつかれはしないよ」


「強がっちゃって。ま、それも優希の売りか」


 一言で片付けられて面白くない優希は口を曲げる。


「ファンタジーの巨匠だかなんだか知らないけど、そんなステータスにいつまでも居座れると思わないで。いつかあたしがその座を奪い取ってやるから」


 そう突き付ける優希の隣で、野村は目を見開き、「くっ」と忍び笑うように喉を鳴らした。


「その威勢がいつまで続くかしらね。あんたの場所からでも、村野真姫奈わたしの背中は霞んで見えるんじゃない?」


「そうやって高をくくっていられるのもいまのうちだから」


「追いついてくるのを楽しみにしてるわ。さて、煙草も切れちゃったし、私もあそこに混ざろうかな」


 部屋の中では、四人とも行儀よく椅子に座りながら冷や麦をつついている。時折、渚が文香に話しかけて、その度に小さな笑いが起きていた。


「いつか、このアパートでの暮らしをまとめて本に出せたらって、渚以外の全員が頭の片隅で思ってるんだろうね」


「作家ってのは悲しい生き物だよ。自分たちだけの大事な思い出すら、そうやって文字にして切り売りしてしまいたくなるんだから」


 苦笑する野村の、その目だけは笑っていない。


「きちんと皆が思い出として消化できるまでは、あんたもここの生活を物語にするのはやめておきなさい」


「分かってる。今はドリーム・リアライザーでそれどころじゃないし」


 それでもいつかきっと、誰かが形にするんだろうな。あのトキワ荘の物語みたいに。


 そう考えた瞬間、優希の胸が少しだけざわついた。けれど、その気持ちには気付かないふりをする。いまの感覚も、数日が過ぎれば忘れるはずだから。忘れないといけない気持ちだと思うから。


「クーラーの冷房が恋しいわね。中に入るよ、優希」

「うん」


 些細な心の違和感を誤魔化すように、空に向かって深く長く息を吐く。


「もっと、頑張らないとな」


 夜空に浮かぶ月を見上げながら、優希は気合いを入れるように息を吸った。

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太陽は昇る 辻野深由 @jank

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