(三)久留米 渚

 入居時のやりとりを、いまでもたまに夢じゃなかろうか、と渚は思う。


 引っ越してきてから一週間が経ち、生活感が染みつきはじめた新居は、想像していたとおり、渚にとって住みやすいことこの上なかった。


 窓の外では桜の木々が優しい色を身にまとっている。陽の光が暖かい。長野とは気候が違うから妙な感覚だが、嫌いじゃない。


「時差ぼけならぬ季節ぼけ、ってところかな……」


 高校まで過ごしていた長野と違って、東京はすでに桜が咲いている。季節の訪れが一足早い。


 松本辺りだと四月でも雪は降るし天候によってはダウンが手放せないこともあるというのに、東京だとセーターを羽織っていれば充分に過ごせることに驚いた。しかも、入学式に合わせたかのように見事な満開だ。


「遊んでばっかいたけど、もう明日から大学生なんだよなぁ……」


 二十日もあったモラトリアムは、あっという間だった。東京の生活に慣れるため、数日遅れでに上京をしてきた友人と田舎者然とした東京散策を敢行したり、梓を呼び寄せて東京デートを満喫したり。千葉にあるネズミの王国にも初めて乗り込んだが、余りの人の多さに二人して酷く疲れてしまった記憶が一番根強く残っている。


 そうやって楽しい日々はあっという間に過ぎていき、気が付けば月末になっていた。


 三月最終日の今日はいよいよ、待ちに待った、アパート住人との初顔合わせイベント、ということになっている。


「あれだよな……、本気で信じていいんだよな……」


 いよいよ、というのも相当に変な状況だけれど、仕方がなかった。


 奇妙なことに、今日までアパートに住んでいるはずの誰とも遭遇していない。極々普通の生活をしているはずで、ゴミ出しをしたり、買い出しに出たり、何度かコンビニへ出向く機会もあって部屋の中と外を往復したが、終ぞ誰とも挨拶すら交わせていないのだった。


 なので、渚はここ数日、生活音を気にしていた。悪趣味だと分かってはいるが、結構聞き耳を立てて過ごしていた。


 それで分かったことが幾つかある。


 隣人は深夜に帰ってきては早朝に出かけていく。そのまま日中は帰ってくることもない。寝ていると時折馬のいななくような音が聞こえてくるのでバイクに乗っているのだろうが、いよいよバイクの姿も拝んだことがない。


 二階には女性が三人入居している、ということを管理人である野村から教えてもらっていた。しかし、挨拶に行ってもタイミングが悪いのか誰もいない。それか、出てくれない。渚が訪れても決して玄関のドアは開かないのだ。酷い居留守を使われ続けている。


 そしてまた、二階の住民の生活力にも渚は疑問符を抱かずにはいられない。夕方頃に買い出しを終えて戻ってくると、ほぼ必ず、アマゾンのロゴを付した大型のダンボールが二階へ届く。そしてその翌日には、共有のごみステーションに大量の空箱が捨てられている。あまりの数に、最初のうちは仰天したものだった。


 ちなみに、彼女たちがごみを捨てるのはどういうわけか渚が不在にする時間。偶然が続いているのか、それとも図っているのかは判然としないが、気持ちのいいものではない。


 そういう生活を一週間も続けているということからして、彼女たちは三人揃って食糧からファッション、日用雑貨、すべて通販任せだと思うのが筋という話だし、だとしたら全員が引き籠もりなのかもな、と思い至っているまである。


 自分とはかけ離れた生活スタイルであろうと口を出すつもりもないけれど、得体が知れなかった。少なくとも、これまで付き合ってきた渚の友達にはいないタイプだ。


 一体、どんな人たちなのだろう。


 期待よりも不安が大きい。田舎者を受け入れてくれるような人たちであってほしい。会話についていけるだろうか。はぶられるようなことだけは嫌だな。そうやって、自然と後ろ向きな考えばかりが過ぎってしまう。


「いや、考えないようにしよう。せめて頼まれたことくらいはしっかりやらないとな……」


 渚は首を振って気を取り直す。


 今宵の宴のために買ってきた食材をいくつか選別して、袋に取り分ける。大判振る舞いをしただけあって、結構な量になってしまった。買いすぎたのは否めないが、足りないよりは良いと思って揃えたものだ。


「まぁ、自炊には慣れてるからいいんだけどさ……もう一人くらい当番がいてもよかったよな……」


 どうしてこうも運がないのか。いや、悪運が強いと言うべきなのかもしれない。


 朝一番のニュースが終わるだろう時間に管理人の野村が「おはよう」なんて暢気のんきな声で唐突に部屋までやってきて、顔会わせ会を開くことを伝えてくるや否や、具体的な説明もないままにくじを引かされた。そして運の悪いことに、晩餐ばんさんの支度係になってしまったのだ。


「トップバッターで引いてもらったのに、とことんツキがないね。久留米くんってば」


 はずれを引いた瞬間、野村にそう笑われた。


 反抗のしようもなく落胆した渚に空部屋の鍵と二万円を手渡してきた彼女は、

「これで食べ物は適当に見繕っていいからね。鍵番号のとおり一○二でやるから、料理は適当にそこで準備しておいて。電気、ガス、水道と全部通ってるから」

 なんて主催者らしからぬ丸投げをかまし、そのまま行方をくらましたのだった。


 というか、丸々インフラ整えておきながらパーティ用に空室にしてるって、どんだけだよ、と。


 そんな詮ない愚痴を溢しつつも、会を台無しするわけにはいかなかったので、最寄りのスーパーで食材を買い込み、いまに至るというわけだった。



 すでに窓の向こうでは夕焼けが空を染めている。都会のノスタルジアには長閑さを感じない。なんで入学式前日にこんなことをしているのだろうと、食材を広げながら今日一日を振り返って、虚しい気持ちになる。


 晩餐は水炊きとローストビーフ、それに海鮮ちらし。どれも渚の好物で揃えた。これくらいのわがままは許してほしい。そう思う一方で、月に一度あるかないかの贅沢ぜいたくをこうもいっぺんに味わって良いのだろうか、と平民ならではの思考が頭を掠める。


「まあ、別に僕のお金でもないし、それに顔合わせ会だもんな。贅沢してもいいよな、今日くらい」


 言い訳じみた独り言を呟きながら水炊き用の白菜を切っていると、来客を告げるチャイムが鳴り響いた。


『下準備は着々と進んでるかしら』

「まあ、ぼちぼちです。あがりますか?」


 モニター越しに野村が頷いたのを確認して、渚は玄関の鍵を開ける。


「一体どこ行ってたんですか」

「少し野暮用で新宿までね。朝早くから出払っちゃってごめんなさいね」

「別にいいですよ、けど、晩飯には文句はなしですからね」


 渚は愚痴るように言い、台所へと戻った。渚の隣に立った野村は「おお、凄い」と感嘆しながら食材をまじまじと見る。


「文句なんかないよ。こんな豪華な献立にしてくれるだなんて、嬉しい限りだわ」

「そう言って頂けるのであれば、はずれを引いた甲斐が少しはあったってもんですけど」


 渚はふくれっ面で応えながら、水炊きの具材を一口大に切っていく。野村も包丁を片手に下準備に取りかかる。


「仕事は一段落ついたんですか」

「ぱっぱと終わらせてきたから大丈夫よ」


 野村はどうやら在宅でできる仕事をしているらしく、管理人業と二足の草鞋わらじを履いている、とのことだった。都心に出払うことがままあるようで、今日は偶然にもその日が重なってしまったらしい。


「久留米くんに任せてばっかりだと、さすがに悪いなと思ってね。野菜が切り終わったら次はなにをすればいいかしら」

「水炊きに入れる鶏肉を適当に切っておいてください。僕は海鮮ちらしを作ります」


 野村に指示を出しながら、部屋の中に美味しい匂いを充満させていく。ようやく下ごしらえを一通り終えた頃には、夕陽も完全に沈み、窓の外も暗くなっていた。


「そういやこの部屋、時計がないんだった」


 渚はリビングに放っていたスマートフォンを慌てて掴み、画面を確認する。開宴まで二十分を切っていた。そろそろ呼びにいかないと、時間通りに始められない。


「野村さん、そろそろ皆に声を掛けてくるべきかと。あとは僕が用意しておきますんで」

「あら、もうそんな時間なの。それじゃ、あとは任せたわね」


 野村を見送ってから、渚はテーブルに料理を並べ始める。


 もう、いよいよだ。


 ああ、そうだ、そういえば自己紹介のことを考えていなかった。


 そんなことに今更になって思い至る。どうしようか考える間もなく、インターホンが鳴り響く。戻ってくるにしても大分早いな、と思いながらリビングから叫ぶ。


「鍵は開いてるんで、勝手に中に入ってきてください」


 準備が終わっていないから手が離せない。玄関のドアが開き、中に入ってくるのを音だけで認める。廊下を擦るように歩く足音を聞きながら、

「野村さん。まだ準備終わってないので手伝って――」

 箸を渡そうと振り向いた渚の声が、最後まで続かず、そこで止まってしまう。


 てっきり、野村が戻ってきたとばかり思っていた。


「あ、あの。ここで、顔合わせ会の会場は、合っているんでしょうか」


 誰だ、君。


 そう言いそうになって、渚は咄嗟に開きかけた口を噤む。


 いや、待て。顔合わせって言ったか。つまり彼女はこれから始める会のメンバーということか。数瞬でその答えに行き着いた渚は、「ここで、あってます」と喉から絞り出すような声で応えた。


「ちょっと早かった、かな」

「ああ、いや。そんなことはない、けど。ごめん、まだ準備ができてなくて。適当に座ってて」

「うん。わかった」


 ゆるめのワックスでくしゃっと癖をつけた明るい茶髪。くっきりした二重で、釣り上がった目尻には、気の強そうなイメージが立った。薄い桃色のカッターシャツにピンクベージュのタイトジーンズ。目尻をもっと柔らかくすれば梓と瓜二つだ。


愛生あいおい文香ふみか、といいます。宜しくお願いします」


 か細く、けれど芯のある声。そこだけは、梓とまったく異なるものだった


「僕は、久留米渚です。この春から、東央大学の法学部です」

「あ、そうなんですね。私も法学部なので、仲良くしてくれると嬉しいです」

「そうなんだ。ちなみに出身はどこ?」

「東京です。ええと、久留米くんはどこなの」


 こそばゆさを胸の奥で感じながら、渚は答える。


「長野県。田舎もんなんで、東京のこと色々と教えてもらえるとありがたいかな」

「うん、こちらこそよろしく。長野って、やっぱり東京と違っていまも寒いの?」

「寒いよ。全然違う。長野は先週も雪が降ったし、まだ桜も咲きそうにないし。東京と比べると開花は一ヶ月ぐらい遅いんじゃないかな」


「そうなんだ。そういえば、こっちは二月に十センチくらいの大雪が降ったっけな。電車とか遅延ばっかりでさ。学校行くのも受験先の大学まで行くのも大変だったんだ」


「東京は電車がすぐ止まるって聞くし、大変だよね、そういうところは」


 長野だったら、その程度はざらに降り積もる。それでも電車は遅延しないし、警報も出なければ学校が臨時休業になることなんてことも滅多にない。


「そういや東京が実家なのに、そこからは通わないんだな」

「東京っていっても埼玉に近くて。通学に二時間も掛けらんないなあと思ってさ。定期代も馬鹿にならないし。ここに住めるなら定期を買うのとそんなに値段も変わらないからね。なんか、旨そうな匂いでお腹減ってきちゃった」


 椅子に腰掛けた文香がお腹を擦りながら言った。


「まだ他の人が来てないから待っててくれるかな。もう少しだけ我慢してくれ」

「そんな殺生なぁ」

「ちょっとで済むからさ。ごめんね」


 渚はどこか不満そうな表情を浮かべる文香なだを宥めていると、そこでまた来訪を告げるベルが鳴った。


「鍵、開いてますよ」

『はいはい。それじゃあ入って入って』


 インターホンの画面に今度こそ野村の姿があった。アパートの住民を引き連れて戻ってきたようだ。彼女の背後から二人の女性が、中の様子をきょろきょろと窺っている。


 派手な金髪に染まった髪の女性と、その正反対で、濃い黒髪の女性。どちらも、渚がこれまで見てきた同年代の女性と比べるまでもなく綺麗だ。田舎者の野暮やぼったさみたいなものをまるで感じない。都会のオーラをひしひしと感じる。都会、やっぱすげぇ。


 よわい十八年にしていよいよ運気の巡りがきている、と渚は思った。こんな女性たちと一つ屋根の下で大学四年間を過ごすだなんて、勝ち組のようなものじゃないか。


 いや、でも、浮気とかはしないけど。 梓という、心に決めた彼女がいるのだから。鼻の下は伸ばせない。


「そうそう、あとは藤代くんだけど、さっき仕事が終わったって連絡があったわ。これから新宿を出て寄り道しないで戻ると言っていたけど、それでも小一時間はかかるだろうから、先に顔合わせ会をはじめてしまいましょうか」


 ぱんっ、と手を打った野村が席についた。小鴨こがものようにその後ろをついてきた二人は、どちらも少し気後れしているように見える。


「ささ、料理が冷めないうちに。久留米くんが用意してくれたのよ。みんな彼に感謝してね」


 へぇ、と同年代三人から驚きの声が洩れたのを渚は聞き逃さなかった。


(ナイスアシストだ、野村さん!)


 胃袋を掴んでおけばこの場は乗り切れるはず。


 そう信じて、渚は気合いを入れた。

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