(二)久留米 渚

 三月半ばのこと。


 大学付近での部屋探しのため、渚は高速バスに揺られて上京した。幼い頃、両親に連れられて何度か来たことのある東京の雑踏。浮き足立つ気持ちが抑えきれない。


「来月からここに住むんだよなぁ」


 長野とはまるで違う景色。緑の代わりに空高くそびえ立つ都会の高層ビル。息が詰まるような人の数。敷地を最大限活用しようと狭苦しく立ち並ぶ建物。田舎では見たことのない数多の誘惑。飽きがこないように設計されている大都市は、まさに夢と希望に溢れた別世界のよう。


「すげぇな、東京」


 渚は雑踏をかき分け、快速電車に乗り込み大学付近まで出た。初めて手にしたICカードで改札をくぐる。無事に構内へ入ると、妙に感動して、「はえー」と間抜けな声が出た。


 電車を乗り継いで大学の最寄り駅まで小一時間。東央大学前で下車した渚は、駅に隣接する賃貸業者の店舗に入った。今日はここで物件をいくつか紹介してもらうことになっている。


「どうも、宜しくお願いしますね。ああ、それと、入学おめでとうございます」


「あっ、はい、ありがとうございます」


 対応をしてくれたのは朗らかで柔和な雰囲気の女性だった。若い、とまでは言えないが、落ち着きのある所作に大人びた印象を受ける。


「今日は私、大宮が担当させていただきます」


 大宮、と苗字の書かれた名刺を店員から受け取り、渚は席につく。簡単に挨拶を済ませた後、どういう物件がいいのか要望を伝えながら、カタログを開いて気に入った物件に目星をつけていく。


 しかし、渚が想像するほど家を選ぶということは簡単なことではなかった。


「んー……。久留米さんがピックアップしたところですが、どこも入居する方が決まっているんです。申し訳ありません」


「え、だってまだ三月中旬ですよ? そんな冗談みたいなことがあり得るんですか」


「条件の良い物件はすぐに埋ってしまいますから。合格が決まって数日中に入居先を決められた方が大勢いらっしゃったので……今年は激戦なんですよ」


「そんな……」


「本当に、もう少しいらっしゃるのが早ければ……」


 申し訳ありません、と大宮が軽く頭を下げる。そんな姿を責める気にもなれない渚は、渋い表情を浮かべながら再びカタログを捲る。呻き声をあげながら物件をいくつか見せてもらうが、写真を見てもピンとこない。何度も首を捻りながらカタログの頁を往復する。


 やがて行き着く最終ページ。ここまでくると、渚の目にかなうどころかロクでもない怪しい物件が申し訳程度に掲載されているのが普通。半ば諦めたように、とりあえず目を通す。


「……あれ。この物件、良さそうですね」


「ああ、そこですか」


 カタログの最終ページ、それこそ注視しなければ見落としてしまいそうな箇所に小さく掲載されているそれに、渚の目が止まった。


 一部屋あたり1LDK。それが八世帯分。ということは、アパートだ。風呂トイレ別、エアコン付き、間取りも良好。大学から徒歩五分という立地にもかかわらず家賃は月五万円強という、あまりにも魅力的な物件。スペックの割に安価な物件ほど、テレビのワイドショーなどで良く見る「曰く付き」という文字が間髪入れずに続くものだが、これもその一つなのだろうか。


「実はその物件、空きはあるんです。それも四部屋……」


「こんなに安いのに、まだそんなに空いているんですか」


 やはり、なにかある。半ば興味本位で「どうしてです?」と渚が尋ねると、大宮は苦い顔を浮かべた。


「ここの大家さん、少し偏屈なんですよ。入居希望者と面談をして、自分が認めた学生しか入れないんです。素養や態度に何の問題もないようなが学生がひっきりなしに面談をするんですが、当の大家さんは首を横に振るばかりでして……。それで、普通はご紹介しないようにしているんですよ」


「そ、そうなんですか。面談、ですか……」


 期待していた答えとは随分と趣が異なっていたものの、やはりそれ相応の事情があるのだと渚は理解する。


 面談なんて高校受験で一度経験したことがある程度だ。緊張のあまり頭が真っ白になって盛大に失敗した記憶が蘇り、少し憂鬱な気分になる。


「そんなに怖がらないでください。試しに受けてみるって人も多いですよ。なにせ、駄目元ですし、失うものがないわけですから」


「……ちなみに今からこの物件、見て回れますか?」


「アポを取ってみますね」


 大宮はそう応えると、店の裏側へと潜っていった。


 面談をして大家が最終判断を下すというのは珍しいのだろう。少なくとも渚は聞いたことがない。道理でこの時期で部屋が埋っていない、という理由も頷けるというものだった。


 面接制度さえなければ、とっくのとうに売り切れ御免となっていたに違いない。


「それにしても……」


 一体どんな人なのだろうか。


 渚のなかで、期待と不安が綯い交ぜになって芽を出す。


 正直なところ、入居できるだなんて露程にも思っていない。素養がいいやら頭の良い人ですらお断りを受けているのだから、ツキのない自分は、尚更に面接で合格する目がない。


 けれどここを逃したら、大学付近に住むことは諦めるしかない。他の物件は、住むに堪えない。本当にどうしよう。ここを逃したら、通学に不便だけど隣駅付近を当たるしかなくなるな。


 待っている時間でそんなことを考えながら適当にカタログを眺めていると、黒いファイルをたずさえて大宮が戻ってきた。


「お待たせしました。面談しおてもよいよ、との返事をもらいました。これから車で向かおうと思いますが、準備はいいですか」

「勿論です」


 賃貸業者の社有車に乗り、大宮の運転で都道を走る。


 アパートへ向かう途中、大学の敷地内にそびえ立つ白壁のキャンパスの姿を拝んだ。白を基調としたシンプルすぎるデザインは、どこか味気ない。


 間もなく目的地に辿り着く。


 大学から徒歩五分との謳い文句のとおり、大学から本当に近い。


 アパートの外観は明るい煉瓦色で統一されていて、小洒落た洋装の趣きだった。一階と二階で多少作りが異なるらしく、向かって右端の一室は他と比べて一回り間取りが広くなっている。


 車から降りた大宮が、その一際大きな一室の呼び鈴を鳴らした。


「ごめんください。さきほど連絡差し上げました、アイレントショップの大宮です」

『鍵は開いてるから、中に入ってきなさいな』

「分かりました。それじゃ、久留米さん、中にあがろうか」


 大家の許しを得た大宮の後を追うようにして、渚は「し、失礼、します」と恐縮しながら部屋へとあがった。


 大宮の案内で廊下を渡った先に広がる客間に通された渚は、緊張した面持ちのまま、用意されていた座布団の上に腰を下ろす。台所で茶菓子を準備する大家さんは、渚の予想よりも随分と若く見える。三十代の半ばといったところで、外見からは、話に聞くような偏屈さを窺い知ることはできない。


「大宮さん、毎度ご苦労だね」

「いえいえ、仕事ですから」


 大宮と二、三やりとりをしながら、大家は電気ジャーで沸騰させたお湯を急須に入れる。急須から円卓に置かれた湯飲みに熱湯が注がれて、香ばしいほうじ茶の薫りが広がっていく。


 渚はこれまた恐縮した気持ちで湯飲みを受け取り、「いただきます」と断わりを入れてから啜る。緊張の糸がほぐれていくような暖かさに、思わず「ふぅ」と息が洩れた。


「それでは、私は先に車に戻っていますね」


 渚が一息ついたタイミングを見計らったかのように玄関へと踵を返す大宮の背中に、大家が「ちょっと」と柔らかい声を掛ける。


「折角、大宮さんの分も準備しようとしたのに。一杯くらいどう?」


「お気遣いだけで結構です。私がゆっくりくつろいでしまうと面接ができないでしょうしね。また別の機会がありましたら、そのときにでも」

「そう。じゃあ、また今度ね」

「そのときは遠慮なくお言葉に甘えさせていただきます」


 丁重に断わりを入れた大宮は、「それでは」と軽く頭を下げて部屋を出て行った。取り残された渚はどうにもいたたまれない気持ちになり、誰もいなくなった玄関をじっと見つめてしまう。


 そんな渚を優しく見守るような眼差しで、大家が口を開いた。


「私はこのアパートの管理人をしている、野村と言います。宜しくお願いしますね」


 渚は玄関に向けた視線を大家に向け、咄嗟に居住まいを正す。


「あ、えっと。来年から東央大学に入学することになりました、久留米渚と言います。よ、よろしくお願いします」

「もっと肩の荷を降ろしていいからね」

「す、すいません」


 渚は反射的に頭を下げた。それからすぐに頭を上げ、目と目を合わせないようにしながら野村と向かい合う。


 彼女に対して特に変わった印象は受けない。極々普通の、物腰の柔らかそうな女性だ。黄色のプルオーバーに白色のパンツは、真新しいのか皺も汚れもない。肩口あたりで切り揃えた細い髪が、幾分か若い印象を演出しているのかもしれない、と渚は素人ながらに思う。


「面接なんて大仰に言われていて恥ずかしいんだけど、アパートに入居したい人とはこうして少しお話をさせて頂いていてね。大宮さんからこの話は聞いているという理解でいいかな」

「はい」

「それじゃ早速だけど、いくつか質問をさせてもらおうかしら。まず、あなたを一言で表すとしたら何ですか? ちなみにこの答えだけで何かを判断するということはないから安心して頂戴」

「あ、はい……ええと」


 渚は逡巡してしまう。


 まず脳裏に浮かんだのは、巡り合わせが悪い、ということだった。


 運が悪くて見放されている。なにかと小さな不幸が続く。そういう、ネガティブな言葉ばかり。後ろ向きなレッテルばかりが頭の中でぐるぐる駆け回る。考えれば考えるほど、引っ込んでいてほしい思考に自らはまっていく。気がつけば袋小路に追い詰められているような、そんな気持ち。


 いやいや、と小さく首を横に振って、渚は手元の湯飲みを見つめ直す。

 運が良ければ茶柱が立つだろうが、その期待も虚しく茶葉は完全に沈殿してしまっていた。たったそれだけのことなのに、その事実が、この面談の結末を暗示しているように見えてしまう。


 そう思ったら駄目だった。


 香ばしい水面から目を逸らす。


 無理だ。本当に、無理だ。というか、駄目だ。参った。降参。


 久留米渚という人間の、どこかにあるだろう良い面を端的に表せる文句が出てこない。


 黙ったまま悩んだ挙句、

「あまり良い印象ではないと思いますが、僕は、ツキがないんです」

 と答える以外になかった。


 野村は「ふうん。そう」と表情を変えず、間髪入れずに次の質問を渚にぶつけてくる。


「ツキがない、ね。それって、具体的にはどういうこと?」

 まさかその回答を抉ってくるだなんて思いもよらず、渚は小さく唸る。

 しかし、ここで臆しても意味はない。良い心証を与えるなら、正直に吐露するまでだ。


「ええっと……うーん……その、例えばなんですけど――」


 渚は記憶を探りながら滔々と答えることにした。腹は据わった。隠しても意味はないし、どうせだったら質問を重ねたことを後悔させてやろうという気持ちすら芽生え始める始末。不幸自慢はお手の物だ。


「大したことない話だと、小銭を入れたズボンのポケットに穴が空いていることがあったりとか、限定品を買いに早朝から列に並んだのに目の前でお目当てのものが完売してしまったりとか。もうちょっとひどい話になると、高校ではバドミントンやってたんですけど、三年のとき体育館で練習していたら床に垂れてた汗で足を滑らせて骨折したりとか。あとそれからですね――」

 

 これまで何十、何百と経験してきた小さな不幸を並び立てる。

 箪笥たんすに眠らせていた記憶を引っ張り出すと別の抽出ひきだしがひとりでに開くようにして、紡ぐように別の記憶が顔を出す。勝手に出てくるものだから止める時機タイミングを逃す。止めどなく饒舌じょうぜつにに、世にも不幸な物語を語っていると、「もうそろそろ、そのあたりで」という野村の声が割って入ってきた。


 たじろいだ表情を浮かべる彼女を前に、渚は「す、すいません、上手く区切りをつけられなくて」とまたも頭を下げる。


「いやいや、いいのよ。それにしたって久々に驚いたわ。そこまで自分の運のなさばかりを覚えているなんて人、中々いないものだから」

「とりとめもなく、ろくでもない話ばかりしてしまって、すいません」

「いやいや、いいのよ、別に。これはこれで面白いし」


 朗らかに笑ってみせながら、彼女は「それでは次の質問だけど」と切り替えていく。

「この部屋に応募してきたのはどういう理由かしら」


「面接がどうのってのはあんまり関係ないです。良い物件は軒並み先約があって、でもなにかないかなってカタログ見ていたら偶然見つけて。それと、強いて理由を挙げるとしたら、なんというか、部屋の写真をから住みやすい雰囲気を感じたんです。物事に打ち込むような人が住むことを想定して作られているような、そんな快適さがあるなぁ、とか。だから、なにか新しいことを始めるにはうってつけなのかな、って。あっと……そう言っておきながら、僕は特にやりたいことなんてまだ見つかってもないんですけど」

「へぇ……、ふうん、そっか……」


 急に野村の眼光が鋭くなった。渚を見定めるように、じっと覗き込んでくる。


「写真を見ただけで、そこまで分かった?」

「い、いや。分かったというよりも、ピンときた、って感じです」

「そっか、そっか。なるほどね。それじゃあ、最後に一つだけ。そんな久留米くんの趣味はなにかな?」


 自分がどう評価を下されているのか渚には見当がつかなかった。けれど、野村のペースで会話が進んでいき、気付けばこれが最後だという。


 随分とあっけない。こんなに意味のないようなことばかりを聞いてなにを判断するのだろうか。なんにしても、今のところ印象は決して良くないはずで、評価を挽回する機会はもうこれっきりということだけははっきりしている。


 慎重に、かつ誠実に。良い印象を抱いてもらえるような回答をしなければ。渚は頭を捻る。


「読書と音楽鑑賞、です。読書だと新書、小説、雑誌、評論、漫画、ノベルズと雑食です。ああでも、特に小説や漫画は初版で買いたくなる性分です」

「それはどうしてかしら」


「初版ってどうしても発行部数も少ないですし、レアな感じがあるじゃないですか」


「なるほど。コレクターみたいな人は必ず初版を欲しがるというし、もしかしてあなたはそういうタイプかしら?」


「うーん……そういうのとはちょっと違うかもしれないです。初版って、ものによっては誤字とか脱字とか、ちょっとしたミスがそのまま形になっていたりするじゃないですか。そういうのって、なんだか味があって心をくすぐるんですよ。作家も同じ人間なんだって安心するというか。遠い存在のはずの人が凄く身近になるんです。雲の上のような存在でも間違えることはやっぱりあるんだな、としみじみ思ったり。安心するって言うと、失礼かもしれませんけど、やっぱり、そういう人間味みたいなものを感じたりするんです」


「そっか。なるほど、理由はともかく、読書が趣味ってことなのね。ついでにもう一つだけ質問。好きな作家は誰かしら?」


村野むらの真姫奈まきなさんですね。これは揺るがないです。人生で初めて読んだ小説が、六家帝国物語だったんです。ご存知ですか?」


 得意げになった渚の声が弾む。


「知ってるわよ。私もその本は持ってるから」


「僕、あの壮大なファンタジーに夢中になっちゃって。しかもですよ、あれだけの大作を二十歳で書き上げたってことも凄い。学生であんな作品を書けるだなんて、って尊敬してるんです」


 村野真姫奈は、十年以上前、大手出版社の一つである鳳凰書店が主催するファンタジー小説系の新人賞で、大学在学中に大賞を獲得してデビューした作家だ。


 デビュー作である『六家帝国物語』は、重厚なファンタジーをテーマとしながら、圧倒的な情景描写と緻密な心理描写で彩られた壮大な長編作。新人作家としては異例の『全国書店員選考大賞』の上位十作品としてノミネートまでされ、デビュー直後から一気に多くの根強いファンがついた。


 それからデビュー一年後には書き下ろし作品である『幽者ゆうしゃおん』を発売して、これも売れた。ハードカバーで三十万部のヒットを飛ばし、ホラー作家としての地位も確立。いま最も多忙と言われる作家の一人だ。


 中学生の頃に父の書斎に潜り込んで六家帝国物語を手にして以来、渚はずっと彼女のファンで、作品も全部集めている。それこそ初版で。


「他にも好きな作家さんは何人もいますけど、村野先生の作品は僕のバイブルです」

「そうなんだ。私もね、あの作品には色々と思い入れがあってね……」


 どこか遠い目をしながら、野村が茶を啜る。


「そうね、うん。これで大体、聞きたいことは聞けたかな。答えも出ました」


 姿勢を改めた野村が、厳かな調子で呟いた。その声に、渚の背筋が反射的に伸びる。


 まだ話したいことが色々とあったのに、終わってみれば結局、自分の良さを伝えるようなことは何一つできていない気がした。趣味にしたって、好きな作家の話を少しした程度だ。それでは、評価のしようもない。


 そんな渚の内心を知ってか知らずか、対面に座る彼女はうっすらと微笑んだままだ。その表情が余計に残酷に思えてくる。いっそのこと「入居は認めません」とずばっと切られたいまである。


 隣駅付近で物件を探さないとな。

 渚は頭の片隅で思考を切り替えた。


「久留米くん」

「はい」

「あなたの入居を認めましょう」


「ああ、やっぱそうですよね。僕なんて――えっ?」


 頭の中でスイッチを切り替えようとしていた渚を現実に引き戻したのは、予想だにしない答えだった。


 入居していいと言ったか、いま。


「あなたの入居を認めます。早速ですが、部屋を見に行きましょう」


 渚にそう告げた野村は「よいしょ」と弾みを付けて立ち上がると、そのまま玄関へ向かっていく。「なにしてるの、久留米くん。置いていくよ」と声が掛かり、それで渚は我に返る。慌てて立ち上がり、野村の後を追いかける。


 玄関を出ると、車内で待機していた大宮が声を掛けてきた。


「結果はどうですか」


「ええ、見ての通りです」


 野村がポケットから鍵を取り出すと、大宮は目を見開いて「本当ですか」と声を上げた。


「そう、ですか。それはよかったです。決めては何だったんですか?」

「直感です」

「は?」


 その答えでは納得がいかない、といった様子の大宮に、野村ははっきりと答える。


「このアパートには彼のような人間が必要だと、そう感じたからですよ」


「いままでにもいろんな人がいたのに、その子たちではなくて、彼ですか」


「ええ。久留米くんを入れるべきなんだと確信しました。彼を連れてきた大宮さんは大手柄です。後日、一杯驕りましょう」


「まあ、これで入居者が増えるのであれば、当社としてもありがたい限りです」


 謝辞を受けても釈然としない様子の大宮は、なんとも言えない表情のまま頭を掻いた。


「そうそう。これで一旦、新規入居はストップです。この物件はしばらく紹介をしないでおいてくださいね」


 野村の判断を聞いた大宮が、一転、今度は目を丸くする。


「ええっ、そんな。どうしてですか。久留米さんがここに住まうとしても、あと三部屋も空いているじゃないですか」


「それはそうなんですが、入学してからもしばらくはどたばたするでしょうし、いま住んでいる子たちにとっても好ましくないでしょうから」


「そんな……」


 野村の突然の言葉に、大宮は困惑した表情のまま固まってしまった。


 空き物件があることは大家にとっても家賃収入が減ることになってしまうからよろしくないはずだというのに、まさか自ら入居募集を取り下げるだなんて。渚にとって、そして大宮にとっても、解せない判断だった。


 その理由を説くように、野村はゆっくりと口を開く。


「ここに住まう彼らにとっては、この人数がちょうどいいんです」


 言葉の途中で彼女はアパートを振り仰いだ。


「すでに入居を済ませている子たちには、これ以上住居者を増やしてもストレスが募るばかりでしょうからね。彼らがもっと成長して余裕ができた頃に、募集を再開しようと思います。子どもが多いと、私も世話を見切れませんし。なので、しばらくは、これ以上は増やしません。その判断は覆りません。人数のことは、前から決めていたことですしね」


「そう、ですか」


 断固とした姿勢を前に、ほとほと困り果てた大宮は残念そうに肩を落として項垂うなだれてしまった。そうですか、そうですか。繰り返し呟いて、無理矢理納得しようとしている。

 お気の毒に、と渚は心の中で同情するしかない。


「そんな大人の話はさておいて。お待たせしましたね、久留米くん。あなたに用意するのは、一階になります。向かって一番右は先約で埋っていますので、その隣です」

「わかり、ました」


 渚は野村から鍵を受け取る。一○三とシールが貼られた何の変哲もない銀色の鍵が、太陽の光を受けて鈍く輝く。なんのことはない、どこにでもあるような形をしたそれが手中に収まったところでようやく、渚の中で大きな安堵が生まれた。


 これからここに住むことになるのか。隣駅で云々なんてこと、考えずに済むのか。


「まだ困惑の色が強いみたいだけど、少しは実感が湧いてきましたか」


 鍵を握る渚に、野村が微笑みかける。


「ええ、まあ。いや、未だに信じられないですけど。半信半疑って感じです」


 こうなることは本当に想像していなかった。不運の寵児、という二つ名を返上しなくてはならない気までしてくる。ここに住むことになるだろうなんて夢にも思っていなかった渚は、狐につままれた気分だった。手中に収まる鍵と、小洒落た赴きのアパートを交互に見やる。


「色々と期待していますからね」


「は、はあ……」


 この管理人に一体なにを期待されているのか皆目見当のつかない渚は、曖昧に返事をするしかない。


「それじゃあ、中を確認してください。最終的にここへ住むか否かを決めるのは、久留米くん自身ですからね。ほらほら」


「あ、はいっ」


 野村から急かされるようにして渚は鍵を開け、部屋に入る。


 傷一つないフローリングが光る八畳のリビング。綺麗に磨かれたダイニング。都市ガスが通っていて、コンロは贅沢にも三口ある。凄い。それに加えて、畳独特の香りが仄かに漂う和室の部屋。


 大学生が住むにしては明らかにオーバースペックだ。贅沢ここに極まれり、といった具合。文句なんかあるわけがなかった。


「……ここに決めました」


 渚の返事に、野村は満足げな顔をして「うんうん、よろしくね」と声を弾ませた。

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