第4話侠客の女、ロマーヌ・マクガヴァン

 まだ、サッスオーロの右袖に赤いカフリンクスがついていた頃の話である。

 三日前の雨が未だに残る湿った路地裏に彼はいた。昼間であっても、闇と排水と汚物の匂いが立ち込めている。石炭の煤で肺を悪くした咳がどこからともなく聞こえて来、足早に先を急いだ。


 酒場(パブリックハウス)の扉を開けると、カウンターの一番奥の席に座った。

「ランカーセン、アーセン、祈りはあっち、しゃべる声、モイリュート……」


 時代遅れにも獣脂蝋燭を使う酒場の匂いは最悪であった。加えてアップライトオルガンの椅子に座る小男が何やら意味のわからない言葉を発してくすくすと笑っている。理解できない単語の羅列はサッスオーロを不快にした。

「ウーセン、アカー、祈りはあっち……」、酒場で軍隊用のヘルメットを被り、ラグラン袖のコートを着ている。

「あ、あ、アニー、子熊の人形が遊びに、アジベーシャン、デ、デオ……」


 サッスオーロは黄燐マッチに火をつけると、口に煙草を咥えて軽く舌打ちをする。

「おい、バーテン。あいつを黙らせろ」

 顎で示すが、酒場の主人はただ首を振るだけであった。小男はときどきしゃべらなくなったかと思うと、首を縦にがくがくと振り、そのあと涎を垂れながら笑んだ。

「な、なあそこの兄ちゃん。敬礼を知っとるか。腕を上げて、手を額の前に持ってく、くるんだ……」


 しかし小男に絡まれたサッスオーロが小男に言葉を返すことはなかった。

 ビールとフィッシュ&チップスを頼み、腹を満たしていると酒場の外で二頭立てのバルーシュが路地裏を走る音が聞こえた。ちょうど酒場の入り口で止まると、さきほどまで不気味に笑んでいた小男が、軍人用ヘルメットを被った頭を両手で覆って金切り声を上げた。


「あ、ああああ、あいつだっ。あいつ、が来る、に、逃げろおおお」

 狭い酒場に響き渡る叫びを上げて、小男は椅子から転げ落ちて這いずりながら裏口から出て行った。


 裏口の戸が小男の出て行った反動で何度も開閉を繰り返している。

 ようやく静まりかえった酒場の扉を叩く音が響いた。酒場の空気が重たくなったのか、獣脂蝋燭の炎が小刻みに揺れる。きい、と蝶番の錆びた音とともに扉が開き、姿を現したのは妙齢の女性であった。

「あらごきげんよう」

「遅かったじゃないか。テリドマーヌ」

「そっちが早いのよ。それにね、色男を待たせてこそ淑女というもの。そうではなかったかしら?」

「それがマフィアのボスの言うことか。聞いて呆れるよ」


 ギブソンタックの赤髪に鍔広帽を浅く、斜めに被り、ブラウスにテイラードスーツの上着とモザイク柄のペッグトップスカートを着ている。

 所謂、妙齢の女性が好む流行のファッションではない。

 ウェストをコルセットで絞り、ヒップを詰め物で強調する、というスタイルを彼女は好まなかった。マフィアとして生きていくために動きやすい ファッションを追及し、膝下のスカートとブラウスに男性とさほど変わらないスーツを身に着けている。そこに鍔広の顔を隠すかのような帽子、という彼女のスタイルがロマーヌファッションとして流行するのはこれより10年後のことである。


 シルク製の手袋に首から天然ジェットの飾りを下げて、テリドマーヌと呼ばれた女性は豊かな胸と腰をS字にしならせてサッスオーロの隣に座った。

「久しぶりだわ、サッスオーロ。少し疲れてるみたい」

 女性はサッスオーロの肩に手を置き、指先でその頬に触れる。

「やめろ。触るな」

「いやだわ、いつ会ってもつれない人ね。いいじゃない、少しくらい」

「お前に乗せられると碌なことにならないからな。もう充分懲りた」

「あらやだ。ちょっと酷使しすぎちゃったかしら」


 手を振り払われたのにも関わらず、微笑んだまま顔をサッスオーロに近づけて「でもそうの様子だと、小鳥グレースを逃がすのは大変だったみたいね」と呟いた。サッスオーロは中折れ帽の鍔でテリドマーヌの鼻を押して顔を遠ざける。

「俺はそんなことを話にきたわけじゃない」


 テリドマーヌ。

 機知に富むサッスオーロが危険を肌身で感じる人間の一人だ。女という強みを理解し、男を弄ぶ会話はすべてテリドマーヌの常套句である。言葉と態度を間違えば、いつの間にか彼女に化かされるのだ。


「そおだ。あの蝋燭が消えるまで、私の話に付き合ってくれてもいいじゃない。明るいうちはたくさん言葉を交わすものよ。そうでしょう」と艶やかな笑みを浮かべる。

 一見風変わりなテリドマーヌという名は、ごく近しい人間が彼女を呼ぶときのあだ名であった。本名はロマーヌ・マクガヴァン。ウェインスタの裏路地を取り仕切るマフィア一家の親であり、『羊歯狂い(テリドマニア)のロマーヌ』と呼ばれていた。


「それで、用件だが……」

「ちょっと待って。お腹がすいているの。サラミサンドを頼んでもいいかしら」

「……勝手にしろ」


 テリドマーヌはバーテンダ―に微笑みかけた。カウンター内の手狭なキッチンは薄暗い。バーテンダーの細い指だけが見え、器用にサラミサンドを造り始めた。

「あなたの分も頼んであげましょうか」

「いや、いい。サラミは苦手なんだ」

「あら、だめよ男の子が好き嫌い言っちゃ」

 サッスオーロは帽子を目深に被り直して舌打ちをした。

「……減量中じゃなかったのか」

「あら、気にしてくれてるのね。うれしいわ。でも、こんなにおいしそうなサンドがあるんだもの。我慢できる?」

「ああそうかい」

「それに知ってるかしら。ここの近くにできた新しいパン屋がとてもおいしいの。きっと新鮮な小麦を使っているのでしょうね。ここの酒場もそこのパンを使ってるのよ」

「アイザック爺さんのパン屋だろ。名前は……サブール通りベイカリーだったかな」

「あら、知り合いなの」

「まあな。この辺には詳しいんだよ。いろいろと、な。ついでだ、減量できそうな話をしてやろう」

「へえ、それは興味あるわね。どんなお話しかしら」


 サッスオーロが初めてテリドマーヌの横顔を見やったときに、ちょうど彼女の目の前にサラミサンドを乗せた皿が置かれた。

 テリドマーヌには、決して貴族的な上品さが備わっているわけではない。サラミサンドも両手で掴み、口を開けてかぶりつく。サラミの赤身がはみ出した部分を、楽しそうに前歯でかじっている。パンに挟まった茶褐色のソースが酸味の効いた匂いを漂わせている。パリッという小気味のいい音を立てて、テリドマーヌはパンの焦げを味わっている。


 彼女の持つ上品さとは、その挙動のどこを取っても酔いが回ったときのような熱っぽさがあるのだ。貴族的な均整のとれた品の良さからは遠いが、植物が朝露に濡れているかのような自然な美しさがあった。


 人差し指で口元を拭うテリドマーヌにサッスオーロはこう呟いた。

「近頃、墓地の遺体が忽然と消える事件が発生しているらしい」

「まあ、それってブロー・ノイズ氏のことかしら。でも残念。死体は見慣れてるのよ。そんなことで食欲が失せるようなウブじゃないの」

「いいから最後まで聞け」

 サラミサンドを咀嚼しながらテリドマーヌは小さく笑った。ブロー・ノイズ氏の話は彼女もよく聞き知っている。巷間を騒がす殺人鬼のことは、ウェインスタの暗黒街を取り仕切るテリドマーヌも追っていた。

「なあに、そんなにもったいぶらないでよ。ブローノイズ氏の話なら興味津々よ」

「さあどうだかな。ただ俺が知っているのは、墓場の遺体が消える事件が立て続けに起きてから、アイザック爺さんのパン屋は大繁盛するようになったということだ」

「へえ、それはミステリーね。まるで小説の中の話みたい。待ってね、当てて見せるわ」


 サラミサンドを咀嚼しながら、テリドマーヌは顎に手を添える。

「わかったわ。犯人は複数人いて、毎朝そこのパンを買っていた」

「違うな。大繁盛してるんだ。かなり儲かっているらしいから数人客が増えたどころじゃない」

「そう? じゃあ……社会不安じゃないかしら。一種の集団心理というやつね。不可解な事件を不気味に思った近隣住人が、もしものためにパンを買い込んでいるの」

「それも違う。大体、これはお前が減量できそうな話でもあるんだ。例えそれが正しかったとしても、その目の前にあるサラミサンドを食べたくなくなるはずないだろう?」

「それもそうだけど……じゃあ、一体何なのよ」

 サッスオーロは目深に被っていた帽子の鍔を少しだけ上げた。

「ことの顛末はそんな大層なもんじゃない。アイザック爺さんは、墓から掘り出した人間の骨粉でパンの小麦粉を水増ししてたのさ」


 テリドマーヌは顔をしかめて、サラミサンドを皿の上に戻した。

「ついでにそのサラミだが……」

「ああ、もういいわ……これで減量できそう。さっき食べた分まで吐きたいくらいよ」

 テリドマーヌはため息を吐いた。

 代わりにグラビエンタ産の煙草をパイプ詰めて火をつける。独特の細身で長尺パイプであるローチェスター型がテリドマーヌのなめらかな指に合っていた。羊歯狂いと呼ばれる彼女である、ボウルには羊歯の模様があしらわれており、実は外から見えない火皿にまで細工が施してあった。


「じゃあそろそろ、本題に入ってくれるか」

「そうね……今日は私の負けだわ。はいこれ、頼まれていたものよ」

 テリドマーヌは和紙袋を取り出してカウンターに置いた。

「助かるよ。しかし相変わらずの中華趣味シノワズリだな」

 サッスオーロは和紙袋の手触りに顔をしかめた。

「いいじゃない、好きなんだもの。それとどうしても教えてもらいたいことがあるの」

 パイプを持った腕をカウンターに乗せて、テリドマーヌはサッスオーロに向き直った。

「お前が下手に出るのは気味が悪いな。最初からこいつの礼はするつもりだった」

「王女グレースの居場所のことなんだけど」


 訊いたとたん、サッスオーロの表情があからさまに曇った。煙草の煙が立ち上っていても、獣脂蝋燭の鈍い明かりの下であってもその感情の変化は見て取ることができる。


「いやね。あなた、グレース王女のことになるとすぐ怒りなさるのね」

「世間知らずのガキだからな。世話が焼けるのさ」

「あらそうかしら。あなたを見てると、そんな風には見えないけれど」

「じゃあどう見えるって言うんだ」

「どう見えるって、ねえ」とテリドマーヌはバーテンダーと顔を合わせて肩を竦ませた。

「大戦の英雄が、こんな片田舎の王女様のお守りをしてるんだもの。いったい何を考えているのかしら」

「15年か……アスヴァルが独立を果たしてから」


 アスヴァルとはシン藩王国の北に国境を接する宗教国家である。二人ともその大戦に参加していた生き残りであり、特にサッスオーロはアスヴァルの独立に際し、陰でシン藩王国との和平協定に尽力した。

 本来、アスヴァルの国政を担う立場の人間であるにも関わらず、大戦が終結したその日に出奔、現在は敵方であったはずのシン藩王の食客となっている。


「あの頃から何も変わっていないつもりだけど……歳をとるわけだわ」

「ウィンザー卿も困ったものだよ」

「あのお方、素晴らしい御仁だわ。ただ運がないみたい。まさか、あなたがシン藩王のお傍についてるなんて思いもしていないでしょうから」

「それはこっちのセリフだ。まさか、革命家がこんな片田舎でマフィアをしているとは思っていないさ」

「グレース王女の亡命は私がやるわ。まだシン藩王国に潰れてもらっては困るのよ。本国ホームが黙っていないでしょうからね」

「そうだな。残念だが、ウィンザー卿には退場してもらう。グレースは屋敷から逃がした。しかしその先は知らん。ま、あのお嬢様ぶりだ、それほど行き場も知らないのもたしかだがな。おそらく、聖メアリ広場か、その先のデ・ウーヴ教区か、どちらかだろう。それから……」

「それから?」

「予定どおりバクーヤに人をやってくれ。できれば多い方がいい」

 サッスオーロはコインを二枚カウンターに転がすと中折れ帽を頭にのせて立ち上がった。


「ねえ―――その赤いカフリンクス」

 前を向いたまま、紫煙を立ち上らせてテリドマーヌが呟く。彼女が目を留めたのは、サッスオーロの袖に輝く藩王家の紋章が刻印されたカフリンクスだ。

「あなたは路地裏を知らなさすぎるわ。そんな目立つものを袖につけて歩くなんて、この街じゃあ1シリングを額につけて歩いているようなものよ」

 サッスオーロはテリドマーヌの忠告に言いよどみ、無言のまま酒場をあとにした。


 藩王の亡命計画に抜かりはなく、しかもグレース王女の逃亡すら同時刻帯にこなすサッスオーロであったが、彼は生まれがあまりに清浄であった。商売女や摺りが男の袖に近づくことが如何にたやすいか。知っていても、そこへ意識が及ばないのだ。


 それはサッスオーロの落ち度であった。赤いカフリンクスを奪われる可能性を考慮していない。それが今後、グレース王女をどのような危険にさらすのだろうか。

 仮に盗まれたとしても、赤いカフリンクスが質屋に並んでくれれば、グレースが見ず知らずの盗人を仲間と誤解することもない。

 今となっては、そう自身を納得させるしかなかった。




 サッスオーロがサウステン大通りへ出る近道に、さらに路地裏を曲がると、かすかに血の匂いが漂っていた。それは野良猫の喧嘩程度のわずかな違和感でしかなかったが、真っ昼間の路地裏で、煤闇の奥深くに沼地のような赤い血だまりが広がっていた。


「ウーセン、アカー、祈りは向こう、ドコがある……」

 不思議と耳に響くのは、叫びのような小男の無意味な単語の羅列である。

―――その血だまりの真ん中に巨躯の男いた。赤い眼球が、煤が舞う路地裏に爛々と輝いてみえる。サッスオーロは拳銃を構えた。

「お前がやったのか」


 いや、この形跡―――まさかブローノイズか。

 血だまりの真ん中にいる男の足元には、肉塊となってもはや呼吸すらしない人間の遺骸。血を吹きだす容器に成り下がってしまった肉塊をよく見れば、職工着の獣革が見て取れる。おそらくレース参加者か、整備士なのだろう。


 血が排水溝へ流れないのは、バラバラにされた肉の塊で詰まっているせいか。これだけの人間を殺すのは、かなりの労力のはずである。

 しかし男はまったく呼吸を乱していなかった。

 血が飛沫を上げ、朱の混じる闇から聞こえてきたのは、巨躯の男が発したひどくしゃがれた声だった。


「オレじゃナイ……キたときニハ、シんでイタ」

 妙な訛りのある言葉使いだった。この言葉をサッスオーロは聞いたことがあった。異境の民の訛りだ。

 わずかに煤が晴れて、昼間の太陽が差し込む。血だまりに立つ男の姿は、異様であった。


 褐色の肌に、キャラコ布の彩色豊かな上着を羽織り、革製のズボンを身に着けている。化外の民、つまりアバル地方の山岳地帯に住む異境の民族だ。元来、彼らが山を降りてウェインスタへやってくることはない。郊外の農村ですら彼らを観ることは稀なのだ。


「ワタシのナは、ウドゥドとイう。コのマチで、モットも……キカイをシるモノはダレだ」

 ウドゥドと名乗った巨躯の男は、黒光りし隆々と盛り上がる筋肉をしていた。

 火夫や炭鉱夫を探せばそれほどの肉体に近い者はいるだろう。しかし男の肉体は別種の何か―――ウドゥドはさらに一回り大きかった。

「機械を知る者だと? それを聞いてどうする」

「ワタシは、ハンオウをコロすタメにキた。ダカラ……ホカのニンゲンはコロさナイ。おマエも、コロさない」


 サッスオーロは拳銃の引き金をひいた。銃口が赤く光ると同時に、ウドゥドは肩を捩った。首元まで伸びた縮毛の髪を掠り、弾丸は闇に呑まれ、薬莢の地面を叩く音が路地裏に響いた。

「藩王を殺すと言うのなら、すれ違うだけというわけにはいかない。いちおう、シン藩王の用心棒なもんでね」


 サッスオーロはしかし、はっきりと理解していた。

 拳銃の許を辿れば骨董品として並べられていた劣悪な中古品。放たれた弾丸がまっすぐ飛ぶのならば銃口と引き金をひく拍子でかわせようが、弾丸が右に滑ることを知っているのは持ち主であるサッスオーロのみである。


 つまり、ウドゥドは間違いなく弾丸を目で追い、見極めてみせたのだ。

 どのような過程を経て弾筋を読み避けたのか。並みの人間が一生涯を費やしても到達できない領分にいる男なのだろう。そして放たれた銃弾を受けて、彼は明確な敵対行動を読み取り、その身体にまとったのは獣の殺意であった。この偉丈夫を相手にしてはいけない、死地を潜り抜けてきたサッスオーロの身体がそう叫んだ。


 サッスオーロはリーファーコートの胸ポケットから煙草を取り出した。路地裏の暗がりに、黄燐マッチの青い炎が緩く燃え、煙草の紫煙を立ち上らせる。

「ハンオウよりも、キカイをシるモノはイない。ハンオウをシらぬなら、キカイをモットもシるモノをオシえろ。ソイツはキッとハンオウだ」

「機械王と呼ばれた藩王だ。たしかにお前の言うことは間違ってはいない。しかしなぜ藩王を追う。なぜ殺そうとする」

「ソレが、ハンオウのネガいだからダ」

「願い?」

「アア。ハンオウとシタ、ダイジなヤクソク。オトコとオトコのヤクソク」


 煙草の吸い口を苦くかみしめ、サッスオーロは拳銃のシリンダから薬莢をすべて抜いた。そして一つだけ弾丸を手に持つと、火のついた煙草の明かりにさらした。


 サッスオーロにとって、藩王を追うものはみな敵であり、殺すべき対象である。しかしこの怪物とまともに闘うことは死を招きよせる。現実主義者である彼は、神に祈ることも奇跡も信じない。この死地から逃れる方法を、煙草の煙がもたらす直観ただ一つと考えていた。

 そしてその紫煙から浮かび上がるのは、薄汚れた過去である。


「わかった。じゃあ一つ、ゲームでもしよう。もし、お前が勝てば藩王の居場所を教える。負けは―――死だ。わかるな?」

 彼は反吐が出るかのような戦地で行われた賭けを思い出した。

 その賭けを持ち出したのは、サッスオーロに勝てる見込みなどないからだ。ウドゥドと会話を重ねる間、唯一、生の可能性を感じたのは戦地で捕虜を相手に嗜んだ遊戯である。弾丸を避ける怪物と対等に闘える場を作るには、それ以外に方法がなかった。

「げーむ……ソレがオマエの、ノゾみカ」

「ああ」

「ソレが、ハンオウのイバショをシルためならバ」

「……ルールは簡単だ。俺は拳銃に弾丸を一つだけ込める。お前が使えるのは拳だけだ。互いに手が届く距離まで近づいて、ワンツースリ―の合図で俺は引き金をひき、お前は俺を殴る」


 本来ならば、それは圧倒的にサッスオーロが有利な条件である。

 許は捕虜の私刑に飽きた軍兵らが考え出した遊びだ。心臓に拳銃を向けられ、死の恐怖に浸りながら拳を繰り出せる者などいない。このゲームで拳銃を持つ側は圧倒的な支配者であり、強者である。事実、サッスオーロがこのゲームを目の当たりにしたときに拳で殴られた者は一人もおらず、捕虜の死体だけが残った。


 いくら異民族の男とは言え、そんなバカげたゲームを受けるとは思っていない。怒らせて少しでも隙を作ることができればよかった。

「イイだろう。ただし、ワタシがカてば、ハンオウのイバショをオシえてホしい」

「……ふざけやがって」

 しかしその瞬間、サッスオーロは勝ちを確信した。


 彼にしてみれば、目的は怒らせることで銃弾を避けられない距離まで詰め寄ることにあった。ゲームを受けるならば、許から銃口は異民族の男を捕らえている。これほど簡単な決闘はない。勝負などついたようなものである。 


 シリンダに弾丸を一つ込める。もちろん、サッスオーロはシリンダを回したとしてもどの拍子に銃弾が放たれるか知り尽くしている。

 その回転数を頭で数えて装てん位置で止め、ウドゥドに近寄る。血だまりを踏む、二人の間には二つ重なり合った男の遺骸が横たわっている。巨大なウドゥドの太ももがサッスオーロの腹部あたりに来る、二人はぴたりと立ち止まった、そうして呼吸を合わせる、ウドゥドの拳はサッスオーロのベルト付近に押し当てられている、サッスオーロが握る拳銃の先は拳大ほど距離を空けてウドゥドの心臓を指している。


「いいか、ワンツースリ―の合図だ」

 大きく頷いたウドゥド、それを見て、サッスオーロは咥えていた煙草を吐き捨てた。ウェインスタの路地裏であっても機械の蒸気を吐き出す音が止むことはない。しかしごくまれに風の音が聞こえるほどの静寂があり、その瞬間はとたんに訪れた。二人の呼吸は風の音に押され、雨どいの滴が血だまりに落ちたときにぴたりと合った。


「「ワン……ツー、スリーっ!」」

 拳銃は最後の合図を待たずして閃光を放った。薬莢が高温の煙を吐き出しながらシリンダから噴出される。

 ウドゥドが心臓から血を吹きだし、後ろへと倒れる―――。

 それは許より勝利を確信していたサッスオーロが、銃口の先から立ち上る煙に観た幻像であった。


 彼は引き金をひいたとたんに腹部に圧迫されるような感覚をおぼえた直後、激しい痛みに襲われた。眼前の男、ウドゥドから目を離すことはなかったが、吹き飛ばされた身体はねじ曲がり、気づいたときには口から血を吐き血だまりに倒れているのが自分だと知った。


 それは拳銃の閃光だけが知っている。

 ウドゥドの心臓が弾丸に射抜かれることはなかった。わずか拳大の距離から放たれた弾丸であったが、ウドゥドは身体を後方に旋回しながら倒れこみ、またもや躱したのである。


 弾丸はウドゥドの脇腹を掠めはしたが、致命傷には程遠かった。

 揺れる視界に見えるのは、立ちはだかる怪物ウドゥドである。サッスオーロは血だまりに落ちた中折れ帽を被り直すと口元を袖で拭い、笑んだ。

「ヤクソク。ハンオウのイバショをオシエロ」

「どうしたって追うんだな」

「アア。ハンオウとのヤクソク」

「いいのか。俺はお前を追いかけて殺すぞ」

「イイ。タノしかった、マタやろう」

 血だまりの中で、サッスオーロは身体を起こした。

「ふざけやがって……藩王は、レースに参加する。殺したかったら追いかけるんだな」

「ワかった。オいかける」


 ウドゥドはサッスオーロを一瞥したのち振り返り、路地裏をあとにする。

「くそ……追いかけて殺してやる……」

 口に溜まる血を吐き出して立ち上がったサッスオーロは腹部の傷の具合を確かめた。痛むが歩ける程度で骨にわずかに異常があるくらいであった。


 壁に肩を預けながら、路地裏からサウステン大通りへと抜ける。産業博覧会のレース直前であるせいか、聖メアリ広場までの道は混雑していた。リーファーコートやズボンの裾についた血は、人込みの中ならばごまかせそうだが、幾分目がかすみともすれば方角を間違えてしまう。サッスオーロは近くの貸本屋の軒に寄りかかり、視界が晴れるのを待つ。


 藩王を狙う標的がレースのコース上にいるとわかれば、追いかけるのは容易である。ウドゥドが藩王に近づく前に始末するだけだ。


「グレース……」

 そのとき脳裏を掠めたのは、世間知らずの王女の姿である。

 一瞬、意識を失いそうになったときに肩に何かがぶつかった。そして南部焼けをした銀髪の少女が喚き立てて走り去ったのだ。しかし今の彼には、足早に逃げる少女を追う力は残っていなかった。


 右袖のカフリンクスが失われてしまった。それに気がついたときには、銀髪の少女―――ポーラは職人橋の彼方へと逃げてしまっていた。



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