Ⅶ「I Wish You Are Happy」

 やっと落ち着いた汐音しおね水破すいはに手を引かれるようにして帰宅した後、まだ鼻をぐずぐず鳴らしながら洗面所へ顔を洗いに向かった。

 蛇口をから勢いよく流れ出す水に掌を差し入れて、すくった水を顔にかける。突っ張ってヒリヒリする肌に冷たい水の感触が心地好い。

 何度も何度も手にすくった水で顔を冷やし、前髪までずぶ濡れになってから、ようやく頭を上げた。

 鏡に映る顔をじっと見つめて、ぺちんと自分の頬を叩いた。

「……しっかりしなきゃ!」

 落ち込んでなんかいられるものか。

 泣いてなんかいられるものか。

 鳴神ブリジット汐音は、何よりも元気が取り柄なのだ。

「あたしがやるんだ! あたしが、あたしがやんなきゃいけないんだ!」

 汐音は小さな体の奥底に沈んだ元気の欠片をかき集め、懸命に気持ちを奮い立たせようと、洩れかけた溜め息を気合いの声に変えて吐き出した。

 

§

 

 汐音が洗面所に籠もっている間に、水破は自室に引き上げて携帯電話の電話帳から目当ての番号を呼び出して通話ボタンを押した。

 数回の呼び出し音の後、聞き慣れた声が水破の耳朶を打つ。

「──よお、水破」

兵破ひょうは──」

 電話の相手は斎樹兵破。水破の双子の弟だ。

「送っといてやった資料は見たな?」

「ああ」

 高圧的で嫌味な印象を与える声に、水破は短く答えた。

 斎樹いつき兵破は情報を扱う事に関しては腕利きである。得体の知れない様々な伝手から情報をかき集め、玉石混淆の混沌の坩堝から鋭敏な嗅覚で真偽を嗅ぎ分け、黄金を錬成するように真実をすくい上げる錬金術師だ。

「まったく、この平坂土萌って女はまるで不幸の見本市だな。哀れすぎて笑っちまうね」

 電話口の向こうで兵破がほくそ笑む姿が目に浮かぶようだ。弟の悪趣味で歪んだ性格は誰よりも身近に知っているだけに辟易する。

 しかし、兵破の言葉は誇張ではない。水破の元へメールで送られてきた大量の資料に記された平坂ひらさか土萌ともえの人生はあまりにも過酷だった。

 父親からの性的虐待。両親の離婚。母親の暴力。学校でのいじめ。自殺未遂。重傷による後遺症。束の間の幸せ。夫との死別。娘との死別──。

「それだけじゃない。七代ばかり前に混じってる。相当に薄まってたんで、親の代までは何の気配もなかったようだが、こいつの代で濃くなったらしい。きっかけがあれば目覚めちまうくらいにな」

 嗜虐的な兵破の声音に、水破の胸に苛立ちがまとわりつく。

「兵破、どうして汐音にあんな真似をさせた?」

「汐音に平坂土萌を探らせた事か? そりゃ、お前、都合がいいから以外に理由があるかよ。容疑者と顔馴染みなんてのを利用しない手があるか」

 この三ヶ月の間に、二件の児童失踪事件があり、兵破はそれらに目を付けて周辺を探っていた。一件は小学五年生の男子児童が、もう一件は小学四年生の女子児童が行方不明になった事件だ。

 二人はこの近隣の学校に通う児童だったが、互いに接点はなく、ただ共通している事項は、どちらの場合も家族全員が殺害され、問題の児童だけが行方不明になっている点だ。

 事件後、男子児童は学校で悪質ないじめに苦しんでおり、女子児童は家庭内で両親から虐待を加えられていた事が発覚した。いずれの事件も行方不明になった児童は見つかっておらず、また、それぞれの一家を殺害した犯人も捕まっていない。

 そして、第三の事件、狭山理子の失踪と家族の殺害の後、兵破は情報の海の中からこれらの事件に関わる容疑者の最有力候補として一つの名前を釣り上げた。

 ──平坂土萌だ。

「そのせいで汐音がどれだけ傷ついたと思ってるんだ!」

 珍しく声を荒げる水破の耳に、電話口の向こうで鼻で笑う声が聞こえた。

「確かに『やれ』と言ったのは俺だが、『やる』と決めたのはあいつ自身だぜ」

 兵破は汐音に土萌が怪しいと告げて、鎌を掛けるようにそそのかした。初めは兵破の言う事になど耳を貸さなかった汐音だが、弁が立つ兵破の言葉に不安を煽られ、疑念を植えつけられ、冷静さを奪われて、イエスという返事を引き出されるまでには大した時間は掛からなかった。

 そして、兵破が寄越した盗聴器をポケットに忍ばせて土萌の元を訪れ、鎌を掛けた。

 狭山さやま理子りこの父親がどんな殺され方をしたか、そんな情報は一般には漏れていない。警察等一部関係者しか知らない情報だ。

 しかし、兵破が盗み出して手に入れた情報を土萌は知っていた。非力な女の子では不可能な殺害方法、誰も知らないはずの死体の惨状を話しても、土萌は驚きもせず、既に知っている事のように受け答えをした。土萌は殺害現場を知っているのだ。

「汐音は土萌先生の事を慕ってた。その汐音にあんな真似をさせるなんて、お前は残酷だとは思わないのか?」

「……水破、お前、勘違いしてねーか?」

 兵破の声には侮蔑の響きがあった。

「お前が鳴神ん家にいんのは何のためだ? 十三のガキとおままごとするためじゃねーんだぞ。お前の役目は、鳴神汐音をまともに殺し合いができるように鍛え上げる事だ」

「………………っ!」

 冷たく言い放たれ、水破は言葉に詰まった。

「鳴神なんて『力』の涸れかけた分家に珍しく見込みのありそうなのが生まれたからってんで、わざわざ斎樹からお目付役を出してんだぞ。おまけに『小雷公しょうらいこう』まで貸してやって。汐音にゃ一人前の『妖狩り』になってもらわなきゃ元が取れねーだろうが」

 苛立たしげに吐き捨てる兵破。

 確かに兵破の言う通り。水破の役目は汐音を甘やかす事ではなく、汐音を鍛える事だ。

「でも、汐音はまだたった十三才の女の子なんだ。汐音には酷だよ」

「本家の連中は同じ歳で化け物どもと血みどろになって斬り合いをしてたはずだぜ」

 水破の弱い反論を兵破は容赦なく叩き潰す。

「……それでも、汐音を悲しませるような事はしたくない」

 水破は苦く言葉を絞り出す。

「甘ちゃんだな、お前は相変わらず。命取りになるぜ、そういうのは」

「それでも、僕は違うと思う。僕がすべき事は、汐音を苦しめて鍛える事じゃない。汐音が苦しい時に支えて守ってやる事だ。僕はそう思ってる」

「だから、それが甘いってんだよ。まあ、いいや、面倒臭ぇ。お膳立てはしてやる。汐音に始末をつけさせろよ」

 それだけ言い捨てると、兵破は一方的に電話を切った。水破は切れた電話を手の中に握り締めて唇を噛んだ。

「それでも、僕は汐音に幸せでいて欲しい。汐音には泣き顔じゃなくて笑顔でいて欲しいんだ」

 それが水破の心からの願い。

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