Ⅵ「Cutoff Line」

 これは十数年も前の事。死に損なった彼女の話。

 

 灯りも点けず、カーテンも閉め切った暗い部屋。淀んだ空気は重く湿っぽく息苦しい。

 彼女は部屋の隅で独りうずくまる。背中を丸め、頭を垂れて、暗い瞳は虚ろに曇り、こけた頬は生気をなくして青白く。

 その部屋は、幼い頃から彼女が過ごしてきた部屋ではない。

 飛んで、そして、落ちた彼女は辛うじて命を取り留めた。

 そして、屋上から飛び降りた事で、彼女を取り巻く色々な問題が明るみに出た。

 虐待を加える母の元を離れ、彼女は遠く離れた町に住む祖母に引き取られた。

 もう、やたらに殴られたり、食事を抜かれたり、シャワーで熱湯を浴びせられたり、裸同然で寒空に放り出される事もない。寄ってたかって彼女を罵り責め立てる敵しかいない教室へ通う事もない。

 祖母は娘の罪を償おうとするかのように、彼女に優しく接してくれる。凝り固まった彼女の心を無理に解きほぐそうとはせず、静かにゆっくりと見守ってくれた。

 田舎の町にはカウンセラーなどという気の利いた職業の人物はいなかったが、転校先の中学校の養護教諭は、なかなか学校へ出てこようとしない彼女を気遣って足繁く訪れてくれた。

 それでも、一度砕けた手足はもう元には戻らない。元のようには曲がらず、元のようには伸びず、動かせば苦痛に苛まれる。

 しかし、体の痛みよりも辛いのは、──心の痛み。この空虚な思いに呑み込まれると、肉体の感覚が麻痺してしまう。まるで、心と体の接続が切られてしまうかのように。

 空っぽになった体の中に真っ黒な空気だけが詰まっているような感覚。空っぽのくせに重い体。それとも、重く感じるのは動かす気力が萎え尽きているせいなのか。

 彼女の心はズタズタになりすぎて、まるでむき出しの傷口のよう。ふれるすべてが痛みに変わり、何を見ても、何を聞いても、傷口に爪を立ててガリガリとかきむしられるような思いに捕われて吐き気がした。

 彼女に向けられる優しい思いでさえも、ひどく傷に染みるようで耐えられず、彼女はすべてを拒んで独りうずくまる。

「……ひっ、う……、くっ……、ふ……」

 嗚咽を洩らしながら、彼女は右手に握った赤いボールペンで左の手首に赤い線を引く。

 繰り返し、繰り返し、一本の線を何度もなぞって、赤いインクを塗り重ねる。薄い皮膚の下の腱と血管の感触がペン先を通して伝わってくる。

 何度も何度も繰り返し。

 何十回も繰り返し。擦れた皮膚がヒリヒリ痛む。

 何百回も繰り返し。皮膚が破れて血がにじみ、赤いインクと血が混じる。

 ぽたり、と落ちる透明の雫。

 手首に零れた涙が染みる。

 インクと血と涙が混じり合う。

 止めどなくあふれる涙と押し殺した嗚咽。震える指からボールペンが滑り落ちた。

「……いっ、ひ……、うぅ、あ……」

 すすり泣きながら左手首の赤い線を右手できつく握り締め、彼女は暗がりの中で震え続けた。

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