第10夜

 金曜日の夜。

 仕事を終えて帰路に就いた私は、一週間の疲れをとるためにマッサージをしようと考え、繁華街の少し外れで店を探していた。

 繁華街のど真ん中では、どの店もいっぱいだった。

 そのうえ、私が嫌いな酔っ払いたちもあちらこちらに見かけたため、少し外れの方に足が向いたのは自然なことと言えた。

 喧騒から少し遠のいた感じがする裏通りに、60分2480円、という看板があった。

 驚きの安さだ! と私はダメもとで店のドアを開いた。


 中は薄暗く、落ち着いた感じだった。

「いらっしゃいませ」

 発音から、その女性店員が日本人では無いのがすぐに分かった。

「あの、表の看板にあった…」

「60分ですね? 2480円、前払いです」

 言われなれてるのだろう。すぐさま金額を要求されたので、とりあえず3000円を渡した。

 女性は私に、待合室の椅子に座って待っているように促してから、廊下の奥へと消えた。

「※※※※。※※」

 奥に誰かが居るのか、何事か話をしていた。間違いなく、日本語ではなかったが、何を言ってるのかはさっぱり分からない。何語かも分からなった。

「どうぞ」

 しばらくして女性が奥から戻ってきて、私を部屋に案内した。

 中はえらく暗かったが、全く見えないほどではなかった。値段も安いのだから、文句は言えない。

 それに、部屋には花の香りがしており、アロマを焚いているのがすぐに分かった。この値段でこれだけ気を配ってるのだから、それだけで充分だろう。

 顔の部分に穴が開いているマッサージ台が置いてある。私はすぐさま台の上に乗ろうとしたが、止められた。

 服を脱いで、紙パンツ1枚になれという。

 まさか、店を間違えたか? いや、風俗ならこんなに安い訳がない。そう思っているのが顔に出ていたのか、女性は少し間を開けてからオイルがあるから、と言った。

 それにしたって安いのだが、やってくれるというのならそれを断ることもないと思い、私はそれに従った。


 女性の腕は、確かなものだった。

 私の身体を柔らかくする為、女性らしからぬ力強さで全身をもんでくれた。

 途中、チクリとした軽い痛みを感じたが、女性が「爪、ゴメンね」と言ったので、私は気を付けてくれとだけ言った。

 そしてとうとう、オイルマッサージが始まった。


 ん? この香り…どこかで…


 私は香りを大きく吸い、記憶を探る。

 ほどなくして、香りの正体を探り当てた。


 オリーブオイルと…バジル…いや、セージか…


 それは、イタリアンの店で何度も吸い込んだ香りだった。

 香草を漬けておいたオリーブオイルを、女性は丹念に、丹念に、私の身体に塗り込んでいく。


 肉を柔らかくする為に丁寧にもんで、香りづけと臭みを取るためにオイルを塗りこむ。

 小学生の頃に読んだ、宮沢賢治の『注文の多い料理店』が、一気にフラッシュバックした。

 私は怖くなり、上半身を起こした。


 起こしたはずだった。


 だがそれは、叶わなかった。


 腕に力が入らない。

 いや、違う。

 全身に力が入らない…。

 動くのは、自分の目だけ。

 顔がすっぽりと埋まっている状態の穴の中は、暗くて何も見えない。

 私は声すら出せず、女性の手の動きと恐怖だけを感じて、もがいた。


 部屋のカーテンを開ける音がして、廊下の灯りが差し込んだ。


 マッサージ台の下が照らされる。


「※※※、※※?」

「※※※※※、※※※」


 女性ともう一人の声が聞こえた。

 そして、笑っていた。

 私は、泣いた。

 マッサージ台の下からは、オイル漬けにされた誰かの頭部が、濁った瞳で私を見上げていた…。

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