第五章 遊戯 Trastullo. (6) あなたを愛している
「本当に、いいの?」
コルラードの問いに、レオは短く肯定の意を示した。
今の彼は扉の向こうで、なにやらごそごそと準備している。屋敷に着いてからすぐに汚れた身体を綺麗に洗い、新品のシャツに袖を通したところまでは確認した。だが、それ以降自室にこもったまま一向に出てくる気配がない。コルラードですらその真意はまだ把握できていなかった。
それよりも、先程レオが口にした「我儘」の方が気にかかる。それは本人曰くずっと考えていてことらしいのだが、そうすることでなにかと不都合が生じるのはレオ本人ではないのか。そう指摘したところで、この頑固な嫁は納得しないだろうが。
前触れもなく扉が開いた。
「あっ……それ、」
コルラードが目を丸くしたのは無理もない。
そこに立っていたレオは、見覚えのある白い礼服に身を包んでいた。これは確か、一年前に贈りつけた婚礼衣装だ。彼はそれに対して実に丁寧な文句をしたためてきたので、てっきり処分してしまったのだと思い込んでいた。
大きさもちょうどよく、丁寧に作られたその衣装は品性に溢れている。胸元に光る赤い宝石も、レオの茶金の髪と非常によく似合っていた。
「……あんまり見るな。恥ずかしい」
ふいと目を逸らしたレオの頬が、心なしか赤く染まっている。
それが可愛らしくて、怒られると分かっていながらもコルラードはレオの手を引いた。そして、力一杯に抱きしめた。
「よく、似合っている」
嬉しさのあまりに、コルラードの声が微かに震えている。それに気づき、レオは思わず笑ってしまった。なにをこの男は、今更喜んでいるのだ。これから彼は欲していたものをすべて手に入れるというのに。
レオはそっと顔を上げ、それから意を決したように強い口調で言った。
「おれは、エゼクラートだけに嫁いだんじゃない」
次の一言で、全てが変わる。それでもいいとレオは思った。決めたことを今更覆したくない。少なくとも、コルラードと交わした勝負はこちらの負けで決まりなのだ。
「おれは、あんたに――」
そのとき、コルラードの人差し指がレオの唇に触れた。それ以上はなにも言ってくれるなと言わんばかりの仕草である。驚いてレオが目を見開いていると、
「それは俺に言わせて」
と言ってきた。「――どうか、俺と結婚して下さい。レオ・クレメンティ」
互いに、あの日と同じ言葉で同じように問いかける。答えは決まっていた。
レオは小馬鹿にしたように笑い、ぺちんと彼の頬を叩いてやった。
「ばーか。いいに決まってる」
世界一優しい貶し文句を唱えた刹那、レオの身体がふわりと軽くなった。コルラードにより抱き上げられているのだと気が付くのに、そう時間はかからない。慌てて降ろすように言ったが、「なんのこと?」とコルラードは知らん顔だ。
そのまま隣室の寝台に運ばれ、優しく真綿の上に降ろされた。動揺しているレオの目の前で、コルラードは今まで身に纏っていた黒の上着を脱ぐ。
「約束しただろ。おれの我儘の方が先だ」
「うん、だから俺にも準備させて」
首に巻いていたタイもしゅるりと音を立てて外し、サイドボードの上にかけておいた。その様をじっと眺めながら、レオは己の懐を探る。
「何度も聞くけれど、本当に後悔しない?」
コルラードの問いかけに、レオは静かに目を伏せた。そして、しばらく逡巡したのちにようやく口を開く。
「……どうしてだろうな。お前のことを指標にして、ずっと独占したくなった。一〇〇年じゃ足りねぇんだよ。もっともっと、長い時間が欲しい」
そして、レオは懐から何かを取り出した。左手に握られているのは、普段狩りに使用している短剣だ。それを握ったまま、レオは己の右袖をまくり上げる。
「なぁ、コルラード。おれの我儘……聞いてくれるだろ?」
そしてその短剣を、露になった右腕に勢いよく突き立てた。
痛みに顔を引きつらせるも、歯を食いしばり懸命に堪え、より短剣に力を込める。裂けた腕からは、肉がすっかり見えていた。流れ落ちる血液は、ぽたりと指先にまで流れ落ち、床に数滴染みを作る。せっかくの純白の衣装も、カルナーレの血にものの見事に染まってしまった。
しかし、レオはそんなことお構いなしといった様子だ。
「ほら」
彼はそのまま血に濡れた右手を差し出した。
血の滴る腕を目の前に、コルラードの目の色が変わった。しかし遠慮しているのか、まるで壊れものに触れるかのように、そっとその手を取ったまま呆けている。
「早くしろ、傷が塞がる」
促され、コルラードはようやく頷いた。まじまじと見つめたのち、
「……いい香りだ」
血にまみれたレオの中指にそっと口付け、舌を這わせた。転がすようにねぶり、ちゅ、とわざとらしくリップ音を立てる。垂れていた血液を丁寧に舐め上げると、生々しい舌の感触に反応し、レオの身体がぴくんと跳ねあがる。
指先から、手の甲に。こくんと、喉が動いた。
「んっ……」
舐め上げる舌が、傷の核へと侵入する。既に塞がりかけていた傷に、艶めく唾液が絡まり合う。肉に触れた刹那、痛みに負けてレオが細い悲鳴を上げた。
「いっ、」
しかし責め立てる舌の動きはとどまることを知らない。唾液が、傷が完全に塞がるその時まで徹底的に蹂躙する。血を吸われる感覚にすっかり絆され、レオの瞳は熱っぽく潤んだ。そのままとろんと気だるそうにコルラードを見下ろし、彼はその熟れた眼差しのまま短く言い放った。
「っ、して」
荒い息を飲み込み、もう一度。「……おれを、ノスフェラトゥに、して」
生きて、もっと長く生きて、この男を永遠に追い続けたい。この男だけを狩り続けたい。そのために、どうしても同じ時間軸の中にいたかった。
それが、彼の選択だった。
どのカルナーレも願わなかった『永遠』を、彼は傲慢にも望んでしまった。しかし、彼はそれが一番正しいと信じている。稲穂色の瞳に、迷いはなかった。初めて出会ったときのような、強さを孕んだ面持ち。それは目の前の男が一目見て惚れた表情だった。
「――君はそうやって、誘うんだ?」
カルナーレの血に溺れた一人のノスフェラトゥが、楽しげに嗤う。
彼の長い指が、レオの首に巻かれた白いリボンを解いた。はらりと滑り落ち、血だまりが広がるシーツに美しい弧を描く。
丁寧に外されてゆくシャツのボタンに、徐々に露わになる滑らかな双肩。先程『血狂い』から受けた傷はもう見当たらない。まるで精巧な美術品か何かのように、その肩は気高く見えた。
「手放せなくなるようにしてあげる」
「どっちが」
ふ、と笑うと、コルラードの口唇がレオの首筋を吸い上げた。生温かい感触に、レオの身体はその意に反してびくびくと震えあがる。
「あ……っ」
細く洩れた声も、生ける死者を煽るための材料にしかならない。上手に隠していた牙をそっと丁寧に舐め上げた首筋に当てようとした、その時。
コルラードの左胸に、何か固いものが押し当てられた。
ぎゅっとレオは自分の身体ごとその「何か」――短銃を押しつけながら、そっと安全装置を外す。その行為に、コルラードは瞠目すらしなかった。全ては予想通り、とでも言いたげに、愛しい彼の瞳を見下ろしている。
「君の愛は、相変わらず痛い」
「痛いほうが気持ちいいだろ?」
レオは喘鳴混じりに笑った。
熱のこもった瞳が、微かにコルラードの横顔を見遣り、一層鋭さを増す。
ああ、この表情が好きなのだ。コルラードは心から思う。そんな彼を骨の髄まで自分に夢中にさせたい。長すぎる一生をかけて、この花嫁を虜にしてやりたい。
彼のそんな心情を、レオはすぐに察したのだろう。ばか、と短く言うと、微かに目を細めた。
このノスフェラトゥを、徹底的に独占してやりたい。自分以外のものが全く見えなくなるくらいに、盲目にしてやりたい。今から得る恐ろしく長すぎる時間は、すべてそのために使うのだ。
飽くことなく互いに、狩って、狩られて――
君は。
お前は。
「俺だけを愛せ」
了
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