第四章 眩惑 Stregare. (2) 憧憬
しばらくして、コルラードがやや深いカップを二つ、それから軽い茶受けを持って戻ってきた。カップからは湯気が立ち上り、香草の匂いが鼻をくすぐる。アルベルトの知らない香りだった。だから彼は鼻をクンとひくつかせた後、おそるおそる尋ねてきた。
「これはなんのお茶ですか」
「えーと、そこの小さい家庭菜園から採れたやつ。名前はよく分からない」
「それ、飲んで大丈夫なんですか?」
「レオが暇つぶしに育てたやつだ。多分大丈夫」
そういえば、貴族であるにも関わらず、レオは栽培や動物の調教などに関して類稀なる才能を発揮するのだった。それを思い出し、アルベルトは不思議と納得してしまった。それならば心配はない。
アルベルトはその茶を口に含める。さっぱりとした風味が鼻を抜けていった。なんとなくだが、この調合の癖は確かにレオのものだな、とアルベルトは思った。長年こういった趣味に付き合わされてきたアルベルトは、彼の味の好みは嫌というほど熟知している。
それにしても、だ。
「まさか、上司の旦那様と茶を飲む羽目になるとは思っていませんでした」
「俺も。まさか嫁の部下と茶を飲むなんて考えてなかった」
それならどうして呼んだんだ、とアルベルトが尋ねると、コルラードは自分も喉を潤した後、ぽつりと呟いた。
「君なら知っていると思ってね。あれを苦しめる理由は何か」
それはこちらが聞きたい。
さすがにそれを言葉にするのは忍びなかったので、アルベルトは僅かに思考を巡らせた。そしてやや慎重に話の順序を整理し、ようやく口を開く。
「そもそも、私とあの方は所謂幼馴染なのです」
「ほお」
「というより、スラムで野垂れ死にしかけたところを、当時プレダトーレになりたてのあの方に拾われた、が正解ですね。あの頃には既にベルナルド様の影を追い求め、がむしゃらに突っ走っていました。だから私にも詳細は分かり兼ねます」
「しかし、当時から頻繁にうなされてはいたんだろう」
アルベルトは肯いた。
それは紛れもない事実だった。毎日、というほどではないが、彼はまるでなにかの発作のように何日か連続でうなされることを繰り返していた。寝ずの番をしに行ったときはそうでもないのだが、プレダトーレとして狩りに出かけた日にはほぼ確実にうなされていた。初めはノスフェラトゥが怖くてうなされているのかと思ったが、後々本人から事情を聞かされることとなり、ようやくそれは違うのだと分かった。
「コルネリオ様――ああ、レオ様の長兄にあたる人物です。彼が申すには、どうやらあの方はベルナルド様に強い憧憬の念を抱いていたようなのです。まぁ、当然でしょう。昔からあのナリが原因で攫われたりしていましたから、より強い者に憧れるのは自然なことです」
彼はそこで一旦話を区切った。そして出された茶を一気に煽る。
「長居しすぎました。本日はこれで」
そして、曖昧に微笑むコルラードにカップを返却した。「あの方のこと……よろしく頼みます」
「善処する」
コルラードの返答に、アルベルトはすらりと身を正し、心臓を拳で叩く形の敬礼をした。そして、彼は一人森の深淵へ足を踏み入れていったのだった。
コルラードはその背中をしばらく眺めた後、まるで独り言のように「ねぇ」と声を洩らす。
刹那、周辺の木々が数秒に渡りざわめき、夜闇と同色の上着を纏った男がコルラードの背後に現れた。まるで溶け込んだ夜闇からぬらりと浮かび上がってきたかのようだ。灰色の髪はオールバックにし、赤みを帯びた瞳がぎらりと輝いている。隠しもしていない牙が、コルラードと同じ異形であることを暗に示していた。
「『あれ』がちゃんと森から出られるように、手を貸してやってくれる?」
コルラードが言うと、その男は短く息をついた。
「随分ご執心だな。あれは只人だろう」
「俺は嫁に好かれるためならなんでもやるさ。もしも『あれ』が他のノスフェラトゥに殺されるようなことでもあったりしたら、君のことは処分しちゃおうかな」
そしてコルラードはさらりと不穏なことを言ってのけるのだ。この男は密かに「恐ろしい奴だ」と毒づいている。例えそれが冗談だと分かっていても、だ。
「お前の冗談は本気に聞こえるから困る」
そう言い残し、男は再び暗闇に溶けていった。
コルラードは決して振り返らなかったが、彼が姿を消したことは気配で察していた。
彼はエゼクラートに移住する前からの数少ない友人であると同時に忠実な部下でもある。それはレオとアルベルトの関係とよく似ている。
だからこそ、敢えてアルベルトを手放したレオの心境は理解しているつもりだ。
「レオさえよければ、アルベルト君のことは例外にしてやってもいいんだけどねぇ」
徐々に明るみを増す東の空。そろそろ自分も床についてしまわなくては。
自分のカップの中身を飲み干すと、欠伸を噛みしめながらコルラードは屋敷へと戻って行った。
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