第三章 紊乱 Disordinarsi. (5) 吸血鬼の花嫁

 彼はレオを引き連れ、廊下の一番奥へと突き進む。極端に横幅の狭い廊下には、暗く湿った空気が立ち込めていた。


「どうも換気が行き届かなくて困る」

 彼は苦笑しながら言う。「俺はともかく、君は嫌だろう?」


 レオは無言だった。その代わりに、コルラードに握られた右手をそっと握り返す。拒絶していないことを、言葉以外の方法で伝えようとしたのだ。

 その意図を感じ取ってか、コルラードは何も言わず、ただ前へと突き進むことに集中した。


 しばらく歩いて、彼らの前に一つの扉が現れた。他のどの扉よりも古びており、ドアノブには無骨な印象の太い鎖が巻きついている。鎖の先は四つに分かれ、それぞれが楔と南京錠によって壁に固定されていた。


 コルラードはポケットを探り、アンティーク調の鍵を取り出した。それを南京錠に差し込み、ひとつひとつ解錠しながらぽつりと呟く。


「俺も、一度は振り返らなくちゃいけないから」


 それがどういう意味なのかは、さっぱり分からなかった。


 考えているうちに、コルラードは絡み合う鎖を全て解き、その古びた重い扉をゆっくりと押し開けていた。同時にむわりと埃っぽい空気が流れ込んでくる。直に吸い込んでしまったレオは、思わず噎せた。


「ごめん。もう一世紀近く開けていないみたいなんだ」


 さらりと飛び出した爆弾発言にぎょっと目を丸くしたレオだったが、……五〇〇年以上生きていれば時間の感覚も曖昧になるのだろう。そういうことにした。


 おいで、とコルラードに手を引かれ、レオは恐る恐る暗がりに足を踏み入れる。


 中は漆黒の闇に満ちていた。夜目は利く方だが、これは慣れるのに時間がかかりそうだ。しばらく壁伝いに歩くと、コルラードは一旦レオから離れた。燭台に火を灯しに行ったのだ。


 数分の後、燭台に明かりが灯る。ひとつずつ、ゆっくりと。次第に明るくなってゆくにつれ、レオはその部屋の全貌を目の当たりにする。

 そこはどうやら肖像画の間らしい。長大な三枚の肖像画は、どれも古びた真鍮の枠に収められ、蝋燭の炎を反射しちらちらと瞬いている。


「見えるかい?」


 コルラードが問いかけると、レオは呆けたまま短く頷く。


 炎に照らされる三枚の肖像画には、どれも美しい女性が描かれていた。


 一番左の肖像画には、可憐な女性。腰まで伸びる美しい金髪、その身に纏う衣装はシンプルなデザインの婚礼衣装だ。

 中央の女性は、そんな彼女とは対照的に、快活そうな印象を与える女性だった。肩までの茶髪に、きりりと引き締まった口元。婚礼衣装も、華やかさこそあるがどこか男性的な雰囲気がある。

 そして、右側の女性だ。レオはそれを見て、何となく祖母の肖像画に似ているな、と思った。気の強そうな眼差しに、真っすぐに伸びる茶色混じりの金髪。その身に纏う婚礼衣装はどの女性よりも可愛らしい印象があった。


 三人の女性は、どれも同じように、稲穂色の瞳を持ち合わせていた。


「これが、今までに降嫁したカルナーレだ」


 コルラードがそう告げた。


 レオは三枚の肖像画をじっと、その目に焼き付けるように見つめた。どの肖像画も幸せそうな微笑みを浮かべている。彼女らはまるで、彼との日々をかみしめているかのように思えた。それを見ただけで、レオは心のどこかで救われたような気がした。


 しかし、当事者であるはずのコルラードは困惑した表情を浮かべたまま固まっている。彼女らとの再会を、これっぽっちも理解できていないような反応だ。


 一体どうしたのだろう。その疑問の答えを、コルラードは躊躇いがちに言い放った。


「全部で四回。彼女らによって、俺は記憶を消された。覚えていないんだ」

「覚えていない……?」


 レオの問いに、コルラードは短く肯いた。


 蝋燭の明かりに照らされたコルラードの表情は、まるで上質になめされた金属のようにつるつるとして見えた。語り口調の穏やかさからは想像もつかないほど、彼の表情は悲しげだ。


「――あの年は本当にひどかった。人間達の間で、脱水症状を引き起こす伝染病が流行してね。そこら中がまるで地獄のようだった」


 道を歩けば、皺だらけの人間たちがばたばた倒れている。民家からは嗚咽が常に響いている。常に腐臭が街中に立ちこめていて、とても歩けたものではなかったのだと彼は言った。


 彼の口調から察するに、五〇〇年前の話だろうか? エゼクラート領の歴史に、ノスフェラトゥとカルナーレの名が深く刻まれた激動の時代。彼は今となっては貴重な、唯一の当事者だった。


「カルナーレは毎日走り回り自らの血を分け与えたけれど、間に合わなかった」

「カルナーレが?」


 ああ、とコルラードは頷いた。


「本来的なカルナーレの立ち位置は、『知識ある者』だ。つまりは医者みたいなもの。長年培った『血液』という妙薬を以て、クレメンティ一族は未知の病気と闘った」


 だが、無情にも伝染病は猛威を奮い続けた。そういったものとは無縁の存在であるノスフェラトゥでさえ、この異変には心底驚かされるばかりだった。


「ところで、君は『魔女裁判』を知っているかな」


 その一言に、レオの頭の中で唐突になにかが一致した。同時に、さっと血の気が引く感覚を覚える。がばりと身を翻した彼の表情を見て、コルラードは残念そうに頷いた。


「勿論、カルナーレがそんなことをするはずはない。しかし、特殊な血液を持つカルナーレは、彼らにとっては異端でしかなかった。脱水症状で全身皺だらけになる死体は、ノスフェラトゥがその血液をありったけ吸い尽くしたようにも見えたし」


 だから、とコルラードははっきりと言った。「『カルナーレがノスフェラトゥを先導した』として、民衆は教皇庁・検邪聖省けんじゃせいしょうに摘発した」


 奇しくも、エゼクラート領は墓守の土地故にノスフェラトゥ信仰がひと際盛んだった。


 民衆はカルナーレの特徴である稲穂色の瞳を持つ者を片端から捕まえた。女子供も関係ない。カルナーレであれば例外なく捕えられ、惨い拷問を受けた後、大広場の中央に磔にされた。そして民衆が見守る中、火は放たれた。


「見ていられなかった。それだけ民衆の心はぎりぎりまで荒んでいたんだ。やり場のない怒りを『カルナーレ』にぶつけることで、彼らは虚しさを消化しようとしたんだろう」


 人間とはそういう生き物だ、とコルラードは言った。「……バルトロメイ・クレメンティも例外ではなかった。彼もまた、最後の最後まで民衆に血を分け与えていたにも関わらず、信じていた人間にあっさりと売られたんだ」


 コルラードの瞳は、どこか別の次元を見つめているようだった。今も彼の時間の中では、昨日のことのように感じられているのかもしれない。


「だから俺は、」

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