第三章 紊乱 Disordinarsi. (3) 分からないわけじゃない

 猛烈に頭を冷やしたくなった。別室で着替え、彼はそのまま屋敷の外へ出る。玄関先に落ちていた新聞を引っ掴むと、そのまま深い森の中へと足を踏み入れていく。


 もうじき冬がやってくる。抜けるような青空はとても爽快だが、空気は肌がピリピリするほどに冷えていた。ふ、と息を吐き出すと、微かに白い息が立ち昇る。


 一面の針葉樹林には特に変わったものなどなく、似たような景色が広がるだけだった。しかし、散歩するのも悪くはない。家の中に籠りっきりになるのは精神衛生上非常に芳しくないし、一日あの男に監視されているのも正直疲れる。


 数十分ほど歩いたところで、レオの頭の中はすっきりと冴えた。そしてしばらくかのノスフェラトゥについて思案した結果、「別に、悪気はないのだろう」という考えに至った。


 長らく人間と関わりがあったせいか、あの男はその行動がやたら人間くさいのである。スキンシップが多すぎるのは困りものだが、話術は巧みだし意外と知識人でもある。伊達に伯爵という爵位を持っている訳ではないな、と思うほどだ。考え方そのものは嫌いじゃないので――毎回へこむけれど――先程のような辛辣な言葉を吐かれてもある程度は認容できる。


 だからこそ不思議に思う。どうしてそれだけの男が、こんな自分に好意を寄せてくるのか。


 初めて出会ってから一年。そして、実際に降嫁してから一カ月。たったこれだけの期間ではあるけれど、レオは彼の人となりはそれなりに把握してきたつもりだ。自分自身はまだまだ未熟者で、浅はかで、虚勢を張るしか能のない若造だということは嫌でも分かる。彼と共に過ごすことで、それを嫌でも思い知らされた。


 先程のやりとりだって、本当はもっと別のことを言うつもりだったのだ。


 レオは気付いていた。


 毎晩のようにうなされているとき、必ず誰かに抱きとめられている感覚がある。微かに感じる血の臭いと、少しだけ冷たい体温が不思議と優しかった。その度に目を覚まし、ぼんやりする頭でその正体を確認しては、気付かれぬよう寝たふりをする。


 あの男は必ず、己を嫌な記憶から引っ張り上げてくれるのだ。


 例えば「ありがとう」。例えば「申し訳ない」。そんな言葉をかけてやりたいと思うのに、それを口にしてしまえば途端に今の均衡を失ってしまう。レオはそれが怖かった。


 己の目的を果たすまでは優しい言葉なんかかけてやらない。愛想を尽かされても構わなかった。どうせ、元々愛されたくなどないのだ。


 そこまで考えて、レオはぴたりと足を止めた。


「違う」


 そもそも、あの男は別に己を好いている訳ではないのだ。あの男が欲しているのはあくまで『カルナーレ』だ。『レオ・クレメンティ』じゃない。

 ふっと息を吐き、レオは空を見上げた。遠くの方で、鷹が旋回しているのが見える。


 もしも、あの男に『カルナーレ』ではなく『自分』を欲していると言われたら?


 頭の隅によぎった疑問を、レオは瞬時に愚問だと割り切った。


 そんなこと、あり得るはずがないのだ。そもそも、同族を殺されて平気な奴なんているはずがない。あの男は報復しているのだ。どうせカルナーレの血液が欲しいだけの男。だから心なんか開いてやらない。好きになってもやらない。その方が楽だ。


 考えることも疲れてしまった。長く息を吐き出すと、ふとレオは思い立ち、目についた切り株に腰かけた。そして、先程玄関から持ってきた新聞を広げてみる。


 さほど変わりないエゼクラート領の日常がそこには記されていた。この領地は普段から閉鎖的で、そのため大きな事件など起こった試しがない。せいぜい、ひと月前の自分の降嫁だけは笑ってしまう程に大きく取り上げられていたが、二日もすれば平和な紙面へと戻っていた。


 しばらくぺらぺらとめくっていると、レオはふととある記事に目が留まった。エゼクラートの西のほうに位置する小さな農村で、家畜が一晩のうちに全滅したらしい。血は全て抜き取られ、干からびた抜けがらだけが家畜小屋に残されていたのだそうだ。


 レオはしばらくその記事を眺め、それからのろのろと顔を上げた。


 一晩のうちに大量の血液を求める、その様はまるで狂ったようだと。このやり方には覚えがあった。


 間違いない。例の『血狂い』である。


 やはりあの獲物は未だ誰にも捕えられていないのだ。ここしばらく足取りが途絶えていたと思っていたが、ようやく動き出したか。


 レオは無意識に、上着の下に眠る己の短銃に触れた。己の体温が移り、生きているのかと錯覚するほどに温んだ銀は、変わらずにレオの背を押しているようだった。

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