ただひとつの正しさ

大淀たわら

ただひとつの正しさ

(1)

 世の中は何もかも間違っている。それに気が付いたのはいつのことだろう。


(2)

 玄関の鍵を開け、部屋の中に入る。

「ただいまー」

 言ってから、間違えたと口元を押さえた。吐いた言葉は元に戻らない。

 こんな未練たらしい失態は二度と犯すまい。そう誓ったのは先週のことだ。また同じ間違いを繰り返している。でも仕方がない。私が悪いわけではない。きっと一緒の時間を長く過ごし過ぎてしまったせいだ。

 バッグを床に放り投げ、二人掛けのソファに身を埋めた。疲労に支配された頭で室内を眺め回す。まだいくぶんか部屋が広いように感じた。

 書棚には美術関連の書籍が敷き詰められている。だが、その半分以上は私のものではない。

「……自分のもんくらい持ってけっつーの」

 きっかけはいつだってあったはずだ。


 私が間違いの一つに気付いたのはテレビを眺める彼がこうつぶやいたときだ。

「こういう田舎に住むのもいいよな」

 私は「何?」と曖昧な笑みを浮かべた。

「住みたいの?」

 彼は、少しだけはにかんで見せた。本音を隠しながら、それに気付くことを相手に期待するような、そういう類の笑みだった。

「うん、そういう選択肢もありかなって、最近は思ってる」

 画家仲間の紹介で知り合った彼とは数年間を一つ屋根の下で過ごした。基本的に穏やかだった彼は、共同生活を営むうえでの譲歩というものを弁えていたし、バイトのシフトが急に変わっても目くじらを立てるようなことはしなかった。美術家としてのジャンルも違うので互いの作品のことで喧嘩をしたことだって一度もない。

 結婚を意識したこともあったのかも知れない。けれど、彼との生活の大半は、芸術家として大成するという目標だけを共有してきたつもりだった。

 だから、彼がどこか田舎に引っ込んで土いじりをしたいと言い始めるまでは、そんな数年間が間違いであることに気付けなかった。


(3)

 ある夜、バイト先の支配人がこんなことを言ってきた。

「水戸部さんってさ、休みの日とかに絵を描いてるんだよね?」

 清掃の手を止めたくはなかったが無視もできない。私はモップを片手に「ええ」と頷いた。

「じゃあさ、こんなの興味ない? この間バーで見つけたんだけど」

 かざしたビラは隣の区で開催される公募展のチラシだった。私はチラシと支配人を見比べる。

 32歳のこのおとこは未だ独身で浮いた話が一つもない。真面目で無害で優しいことが自分の長所と思い込んでいる薄っぺらな中年だ。大方、私が彼と別れたという話を聞いてあわよくばとでも考えているのだろう。何よりタチが悪いのは、このおとこがそんな自分の下心にまるで無自覚ということだ。「自分は世界の誰よりも優しいおとこで傷付いた同僚に気晴らしの機会を与えてあげている」 そんな妄想を心の底から信じ込んでいるのだ。おめでたい心根の裏には「だからこそ自分はこの女性に好意を持たれるべきだ」という卑しい性欲が張り付いている。見返りを求めずに見返りを求める態度ほど癪に障るものはない。

 まったく、こんな低レベルな公募展に私が出展すると本気で考えているのだろうか?

 私は、支配人に礼を言って微笑んだが、笑顔が引き攣っていなかった自信はない。

 私がこんな職場で働いているのも社会が犯した間違いの一つだ。


(4)

 日曜日は亜美と真由美の三人で街をぶらついた。三人揃うのは久しぶりだった。独身の亜美はともかく、一児の母である真由美とはスケジュールが滅多に合わない。その日の日曜は久々に私が休みだったので無理をして日程を合わせてくれたのだ。私たちは市内で雑貨店を巡り、ショップで冬ものを見て回り、喫茶店で互いに愚痴を投げつけ合った。

 見ているだけで気持ちが悪くなるようなパンケーキを前に「おいしそ~」とバカみたいな歓声を上げたあと、亜美が何気ない口調で私の近況に探りを入れてきた。

「最近どう? 画業のほうは。前に大きな仕事がきそうって言ってたけど」

 大学で同期だった二人は私と違って芸術の分野には関わりがない。私という媒体がなければ画業などという単語は一生口にする機会がなかっただろう。

「あー、あれね。色々あってぽしゃっちゃってね。でもあんまりいい仕事でもなかったみたい。よく調べたらクライアントの評判も良くなかったし」

「えー、だったら助かったじゃん。相変わらず玲子は強運だねー」

「そうだよねー。変なの相手しなくて良かったよー。まあ、玲ちゃんならいつかもっと大きな仕事が来るしさ。気にしないでよね」

 当たり前だ。何を言ってるんだろうこいつらは。二人の頓珍漢な慰めに私は、あははと笑いで応じた。

「でも、すごいよねえ。大学のときもびっくりするくらい絵が上手かったけど、それを職業にしちゃうなんてねえ」

「うん、ほんとすごいよ。いつか玲ちゃんの絵が何十億って値が付くのかな? ゴッホみたいに」

 それはさすがに言い過ぎだ。まあ、そのうちバイトをしなくても食べるのに困らない程度に稼げているだろうとは見込んでいる。

「画家って言えばさ、最近テレビとか雑誌で見かけるよね。ほら」

「小春のどか! ほんっときれいだよねー」

 眉間がぴくりと蠢くのを自覚した。

「品があるし、とても同年代とは思えないよー。旦那なんか、あの人がテレビに映ったらチャンネル変えないんだよ? いかにも芸術に興味ありますって顔しながら、ずっと小春のどかのこと目で追っかけてるの」

「……そりゃ見るでしょ。あの顔だもん。男は見るって」

「確か玲子ってあれでしょ。小春のどかと」

 ああ、きたか。そんな話の振り方をしなくても、前にも教えてやったろうに。

 無駄な手続きにうんざりしつつ、気付かれない程度に嘆息する。

「うん、同級生だよ」

 二人には、あの女がメディアに注目され始めた頃、少しだけ話をしてやったことがある。

 小春のどか。今や知らぬ者はいないと言っても過言ではないほど著名な女性作家だ。本職は画家だが美術関連の番組でコメンテーターやナビゲーター役として出演することも珍しくはない。その気味が悪いほどに整った容姿と柔らかな物腰が数年程前にマスコミの注目を浴び、天才美人画家として一般層にも広く知れ渡っている。

 私はこの女と、高校一年の、わずか半年間ではあるが同じ美術部として活動したことがあった。

「小春のどかと同級生なんて玲子も鼻が高いよねえ。前にあのひとの絵を見たことあるけどさ、メチャメチャ上手かったよ」

「うん、上手いよねえ。私も旦那と一緒に個展に行った。ほんっとタッチが細かくてさー。見てるだけで鳥肌立っちゃった」

 亜美がねえねえと小蝿みたいな声を出した。

「プロから見てどうなの? 小春のどかって。やっぱり上手いの?」

 私は、うーんと唸ってみせた。自分でも少しわざとらしい反応であるように感じた。自嘲と苦笑を交えて答える。

「上手いよ? 上手いけど、天才って言われるとどうだろうね」

「お、さすがは本職。評価が違うね」

「じゃあ、ずば抜けて上手いってほどでもないの?」

「まあ、別に? 普通って感じ?」

 そう、普通だ。

 私は小春のどかの絵を上手いと思ったことは一度もない。だから美術部で部長や副部長の評価がやたらと高かったのも腑に落ちなかったし、私が高校を卒業する頃、既に美術界隈で名前が売れ始めていたのも不思議でならなかった。

 以前、貸画廊で個展を開いたときのことだ。画商を名乗る男から「絵を買ってあげるから代わりに」と見返りを求められたことがあった。平たく言えば身体を求められた。そんな話もあると聞いたことはあったが、まさか自分が噂の当事者になるとは想像もしていなかった。当たり前だが断った。会期の途中ではあったが、その日で個展は中断し、二度とその貸画廊には近づかなかった。汚されたような気分になったので展示した絵も全部捨てた。

 真由美がパンケーキを口に運びながらふうんと感心する。真由美は以前からフォークの持ち方を間違っている。

「天才美人画家も、同業者から見ればそんなもんなんだねえ」

「まあ、絵を描くのに容姿は関係ないからね」

 だから、きっと、あの女はそういう間違いを犯したのだろうと、私は確信している。


(5)

 バイトを終えてスマホを見ると実家の母から着信が入っていた。

 かけ直すのも面倒だったので放置していたが、夕飯を食べ終わった頃にまたかかってきた。用件が想像できたので無視をしようかと考えたが、用件が想像できたので無視もできなかった。私が不機嫌な声で応答すると母は弱々しく言った。

「玲ちゃん、お疲れさま。お仕事はもう終わったの?」

「うん、今食べ終わったとこ。何? 忙しんだけど」

「ごめんね。玲ちゃん、今日お誕生日だったよね?」

「……うん」

 確認しなくても知っているだろう。私はあんたの腹から出てきたんだから。

「いくつになったんだっけ」

 私はがりがりと頭を掻いた。

 目の前には丸いイチゴのケーキがある。帰り道に行きつけの洋菓子店で買ってきたものだ。二人で食べるには物足りないが、一人で食べるなら十分に余る。クリームの上にはロウソクが三本突き刺さっていた。

「娘の齢も忘れたの」

「ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。ただ、おめでとうを言いたくて……」

 わかっている。ただの母と娘の世間話だ。特段腹を立てるようなことでもない。私も、もうそんなことに腹を立てる齢ではなくなったはずだ。では、電話の向こうにいる女は一体いくつになったのだろう? 思い出そうとしたが、思い出せなかった。

「ありがと。用件は? それだけ?」

「えと、その…………次は、いつ帰ってくるの?」

「わからない。たぶん、正月は、帰れないかも」

「……そうなの。彼氏さんは? 一緒に帰ってきてこっちでゆっくりしたらどうかしら。お父さんも顔が見たいって」

「……別れたわよ、とっくに」

 予期せぬ答えだったのか、母の沈黙は長かった。そんなに驚くほどのことだろうか。

「そう……。そうなの。だったら、玲ちゃん。玲ちゃんは、うちに帰れないの?」

「なんで私が帰らなきゃいけないの?」

「彼氏さんと別れたんでしょう? だったら、もうこっちに帰ってきて落ち着いたら……。お見合いをするならお父さんもお母さんも力になってあげられるから」

「……やめてよ、母さん」

「そうそう、役場が婚活パーティーを主催してるらしいの。観光協会のひとが言ってたわ。参加者の人数が足りてないって。玲ちゃん、ちょっと考えてみたらどうかしら。それがいいわ。きっといいひとが見つかるから」

「やめてってば」

「ね、そうしましょ? いい考えよ。玲ちゃんも、もう三十なんだから? 画家なんて夢みたいなこと」

「やめてって言ってるでしょ!」

 限界だった。

 隣の部屋にも聞こえただろうが、関係ない。

 間違っている。間違っている。間違っているのだから、正さなければならない。

「どうしてそんなこと言うの!? 婚活? 冗談じゃないわよ! 何でわたしがそんなことしなきゃいけないの!? 馬鹿にするのもいい加減にしてよ!」

「ごめんね、そんなつもりじゃないの。お母さんは、玲ちゃんが心配で」

「心配!? 心配ってなに? 母さんが心配してるのは自分の老後のことだけでしょ? 適当な男と結婚して、家に帰って、自分の介護をしろって言うんでしょ!? いやよ、絶対に嫌! 私は画家なの! 生きた証をこの世に残すの! あんたの世話なんて死んでも嫌よ!」

「ごめんね、玲ちゃん、ごめんね。ごめんね。そんなつもりで言ったんじゃないの。ごめんね……」

 母は電話の向こうで、狂ったみたいに謝罪を繰り返していた。こっちまで気が狂いそうだったので電話を切った。消え入りそうな声はボタン一つでもう聴こえなくなった。静寂が耳に痛かった。

 部屋の片隅を見た。ビニールテープで括った書籍のうえに一枚のチラシがあった。支配人が寄越してきた公募展のチラシだ。私はそれを引っ掴み、怒りに任せて引き裂いた。

 娘の夢を応援するのが母親だ。あの女は私を応援してくれない。だからあの女は母親じゃない。

 引き裂いた紙片をゴミ箱に投げつけた。床に紙くずが散らばっただけだった。


 ローテーブルの前に座り、ケーキに刺さった炎を眺めた。

 ロウソク一本につき十年。いくらなんでもまとめ過ぎだ。たった三本で私の人生が小さなケーキに収まってしまった。私は、可笑しくなってくすくすと笑う。

 私があいつと別れたのはあいつに芸術の道を進み続ける勇気がなかったからだ。だから間違っている。

 私がくだらないバイトを続けなければならないのは画商に見る目がないからだ。だから間違っている。

 私があの淫売のように愛されないのはみんなの頭が悪過ぎるからだ。だから、間違っている。

 親も、友人も、恋人も、何もかも全部間違っている。間違いだらけだ。私がいる世界は吐きたくなるほど間違いで満ち満ちている。

 もう一つ何か大きな間違いがあるような気がしたが、揺らぐ炎を眺め続けているうちにそれも忘れた。きっと、大したことではないだろう。

 私は、ロウソクに息をふきかけた。

 炎はそれだけであっさりと消えた。


                         (了)

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