第5話 優しい眼差しは

今日の梛紗は機嫌がよくないのかもしれない。ずっと無言だった。いつもなら通行の邪魔になろうが気にしないで、いい場所に陣取ってワイワイ騒ぐのが梛紗のスタイルだ。端の方でプログラムの進行を煩わしそうに眺めている。僕は少し離れた場所に座って、プログラムの合間にその様子を横目に見ていた。

突然、声を上げて進行を妨害してもおかしくないのが梛紗だ。(さすがにしないとは思うけれど)


SST(社会技能訓練)のロールプレイ。

参加者がそれぞれ「不安を感じたり、対応の難しい状況」を持ち寄って行われる、模擬訓練。……といっても、実際は何かの余興でやる素人の劇に近くて、脱線するとカットが入ったり、観客から応援や突っ込みが入ったりするので、和やかで楽しげだ。


状況を提供した本人には対応が難しい状況であっても、その役割を別の参加者が対応できそうなら演じてみる。それぞれ配役が与えられて、普段の自分とは違う役割をやってみるのもなかなかできない経験だと思う。また、観客として状況を一歩引いて安全な場所から眺めてみて見えてくるものもあったり。

今までになかった見え方や感じ方。気づきやアイデア。共有して、検討して、妥当な対応策を見つけていく。


素人の演劇かもしれないけれど、それが実際の状況で行動の選択肢を増やしたり……。

ひとりで向き合って、ときには逃げ出してきた状況に、違う対応ができることは参加者にとってもとても心強いことだと感じる。


梛紗は喜んで悪役を買って出て、やり過ぎだと職員から釘を刺されることもあった。

とりあえず僕は何も言っていない。もしかしたら、本当に眠いだけなのかもしれないし、体調が良くないのかもしれない。けれど、梛紗の表情は不機嫌なときのそれだった。


午前中のプログラムが終わった。確認すると梛紗は近くのスタッフと話をしている。何度か頷く女性のスタッフ。強張っていた表情を緩めて梛紗は笑顔になる。何かを尋ねられたようだったけれど、手を振って断っている。

梛紗はハンドリムに手をかけるとするすると移動して反対側の出入り口の前で止まった。後ろに付いていたスタッフが部屋の扉を開けた。

瞬間、目が合った気がしたけれど、梛紗はそのまま部屋を出て行った。


「遊木くん、友達なんだろ?」


梛紗の姿を目で追っていたものだから、突然反対側から声がして驚いた。

特別、声をかけた人が気配を殺して僕に近付いたわけではないことは分かった。


正対して確認する。杉平すぎひらさん。長身に少し長めの髪の男性。日焼けで黒くなった肌にがっしりとした体格。風貌からは若々しさを感じるが、僕より十も年上だそうだ。


「ナギですか? ……あ、はい!」


杉平さんの視線が梛紗の消えた出入り口の方を向いていることを確認して、僕は頷いた。


「おもしろい子だな」

「……そ、そうですか?」


たしかに見ているだけなら面白いのかもしれない。状況をシンプルにしようとして、かえって混乱させてしまう達人だ。


「でも、付き合ってるとかじゃないんだよな」

「え、僕ですか? あ、はい、古い友達です。……ただ、しばらく会ってはいなかったんですけど」


杉平さんは少し考えたような仕草を見せてから、ひとつ頷いた。


「だろうな……一緒にいたら気付くだろうし」


どういうことだろう。杉平さんには梛紗の何かが分かるようだ。しかし、杉平さんだって梛紗と知り合って間もないはずだった。


「他人だから分かるんだよ。……っていうか、俺にはそう見えるってだけなんだけどな。……まあ、なっちゃんはあんまり『将来を見てる感じの目』じゃないなぁ」

「……?」


なっちゃん。梛紗のことだ。「将来をみていない」? 社会復帰の支援プログラムに参加していてそんなことがあるのだろうか。すぐにでも仕事が欲しいと本人は言っている。それは嘘なのか。

いや、梛紗はそんな回りくどいことをする人間ではないように思うし、そんなことをする理由もメリットもない。


「まあ、あんまり知識や教養で生きてる感じはしないけどさ、利口な感じの子だから自分では気付いてんじゃないかって思うよ」


笑う杉平さん。その言葉は貶しているのか、褒めているのかよく分からないけれど、どこか寂しそうな笑顔に見える。

僕には見えないものが、みんなには見えているのだろうか。杉平さんの言葉を借りれば、「他人」には。




部屋に戻ってこない梛紗は、正面玄関にいた。

探し回ったわけではないけれど、少しだけ探した。少しだけ探してみたらそこにいた。


「今日は、帰るよ」

「あ……うん」


やはりどこか不機嫌そうな梛紗。視線を合わそうとしない。僕には理由が全く分からなかった。本当に体調が悪いのか。


「あ、……あの、なんか僕、ナギの気に障ることしてたかな?」


思わず言ってしまったその言葉。

梛紗はいつも僕がそんなことを口にすると怒った。

「そういうことを言われると余計に腹が立つから!」やめてくれと。

けれど、梛紗はひとつため息をついただけ。


「……なんで? ミナトは別に悪くないんじゃん。……あ、頭とか要領は悪いのか」


さらりと失礼なことを言う梛紗。付け加えている言葉は本当に必要なのかいつも疑問に思う。僕は反論を考えようとしたけれど、梛紗は続けた。


「……まあでも、そんなことばっか言ってるからダメなんだよ。シャキッとしなって」


こちらを見上げる梛紗の表情は、疲れているようにみえるものの、笑顔だった。

杉平さんの言葉を思い出して、たしかに少し不思議な感じはした。

梛紗の目は優しい。これが将来を見ていない目なのだろうか。


思い返してみる。

梛紗の目は、そういえば、こんなふうではなかったかもしれない。もっともっとギラギラしていて、争いになることをまるで待ち望んでいるかのような。やってくる「将来」をどんなふうに料理してやろうかと、期待と野心に満ちた双眸。今の梛紗は……。


梛紗を迎える車が入り口からゆっくりと病院の敷地に入ってきた。玄関前のロータリーに入る手前でさらに速度を落とす。


「ミナト、もう時間だよ。部屋に戻って」


いつも通りだけれど、冷たく突き放すような声。梛紗はもうこちらを見ない。

……僕は何かを言葉にしようとしたけれど、やめた。


「……うん。ナギ、じゃあまた」


梛紗は小さく頷いた。




自宅近くの飲食店で待ち合わせて、一時間と少しほどの間、話をした。それは友人との約束でも、付き合っている彼女とデートでもなく、休職中の会社の人事担当者との面談。主治医の意見書も添えて、いくつかの書類を提出した。


まずは短時間からの復帰。僕のような事例の対応は決して珍しくないのかも知れない。担当者も言い淀むこともなく淡々と手続きは進んだ。僕としても変に気遣ってもらう方が申し訳ない気もしていたので、良かったと思う。


最終的に復職が決まった。異動になって勤務場所は変わるそうなので、現段階での一番の心配事はクリアされた気はしている。けれど、休職前の水準の業務がこなせるかどうかは分からないし、以前の事業所には近付くこともできない状態なのは変わらない。


問題が先送りされた形だったけれど、解消された問題も多くて、ずいぶんと負担は軽くなったと思う。あとはできることをやるだけ。

仕事もそうだけれど、休職になってしまった原因には僕の物事のとらえ方や人とのつきあい方にもまずさがあったのだと思う。少しずつ変わっている実感もあったし、なによりゆっくりと休みが取れたのが大きい。


たぶん、大丈夫。もう一度だけ自分を信じてみよう。

人事担当者には、あまり無理はしないようにと釘を刺されてしまったけれど。


夕暮れの歩道。面談の前には緊張して足が震えたけれど、終わった今では驚くくらい足が軽い。肩の荷が下りたようで、後ろめたさが軽くなったようで、駐車上に車を停めたまま近くを足の赴くまま歩いていた。

これでまた前が向ける気がした。


ふと足が止まる。自分のことで頭がいっぱいになっていたけれど、まったく忘れていたわけではない。梛紗にはあれ以来会っていない。2週間は過ぎている。連絡もなかったし心配ではあった。しかし、梛紗がひとりでいるわけではないことは知っていたので、僕から連絡することはなかった。


僕はポケットから携帯電話を取り出す。

梛紗の連絡先は聞いている。履歴から番号を拾い上げて画面をタップした。

しばらくの間があって、繋がる。


応答したのは梛紗ではなかった。

「電源が入っていないか、圏外にいるために繋がらない」という音声ガイダンス。


僕は少し嫌な感じがした。

晴れた空がまた違う雲に覆われていくいくような感覚。もう一度かけ直すけれど、同じ。

こういった場合着信の履歴は通知されるのだったか。たぶんされたように記憶していたけれど、自信がない。あまり何度も電話をするのも迷惑かもしれないし、電話に出られない状況が変わらなければ繋がるわけもない。


――ひさしぶり。元気にしてる? 最近、顔を見ていないので気になりました。また連絡をもらえると嬉しいです。


僕はメッセージを送信した。


夕暮れの影を背負った雲。

暗雲が立ちこめる様子はなかったけれど、上空ではかなりの風が吹いているようだ。雲の流れが速い。もちろん自然が僕の心情を代弁してくれるとは考えられないし、偶然だと思うけれど妙に重なって、だんだん気になってくる。


電話が繋がらない状態からすぐに返事が来るわけがない。

僕は30秒ほど待って電話が鳴らないことを確認して、家路についた。


結局その日、梛紗からの返事はなかった。

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