[4] 没落

 第3ウクライナ正面軍と第4ウクライナ正面軍は春雨が降り続く中、東部戦線におけるドイツ軍の没落を決定づける「強打」となる進撃を続けていた。

 3月6日、第3ウクライナ正面軍は「ベレズネーコヴァチア=スニギレフカ」作戦を発動した。第4親衛騎兵軍団と第4機械化軍団を統合したプリエフ機動集団を先頭に、黒海沿岸での攻勢に乗り出した。

 3月22日、プリエフ機動集団はブク河の南岸に達し、ルーマニア国境のドナウ河へ突進した。第6軍はウクライナ南部を横切って西に撤退した。第3ウクライナ正面軍は「オデッサ」作戦を発動してオデッサの攻略に乗り出しつつ、4月初めにルーマニア国境のドニエストル河に沿って、第2ウクライナ正面軍の脇の位置にまで迫った。

 第4ウクライナ正面軍は東部戦線の南端部で、「クリミア」作戦を開始していた。クリミア半島には、第17軍(イエネッケ上級大将)の指揮下に6個師団とルーマニア軍7個師団が展開していた。

 東部戦線南翼の戦況が退潮期に入った43年9月、前南方軍集団司令官マンシュタイン元帥はヒトラーに対し、カフカス西部を流れるクバン河の橋頭保から第17軍を撤退させるよう進言した。ヒトラーが渋々ながら撤退を承諾し、ドイツ軍はカフカスにおける最後の足場を失った。資源戦争の夢はついに潰えたのである。第17軍の撤退は43年9月7日に開始され、10月初めに最後の兵士がクバン河からクリミア半島へ脱出した。

 第17軍はセヴァストポリ港から輸送船を用いて、ルーマニアの港湾へと部隊を撤退させる計画を研究していた。ユーラシア大陸との回廊である狭いペレコプ地峡を突破された場合、ドイツ軍が退却する道は黒海の洋上だけとなるからである。

 4月8日、第19戦車軍団の支援を受けた第2親衛軍(ザハロフ中将)と第51軍(クレイゼル中将)がペレコプ地峡から進撃を開始した。

 4月10日、第17軍司令部は海上撤退計画―「アドラー」作戦の発動を命じ、ドイツ軍とルーマニア軍は段階的に船で黒海へ脱出することになった。しかし、この計画案を聞かされたヒトラーは同月12日にクリミアからの撤退を厳禁する総統指令を命じた。クリミアの放棄は、トルコに対する政治的影響が大きすぎるという理由だった。

 4月11日、独立沿海軍(エレメンコ上級大将)がケルチ半島から西に向かって、第17軍の防衛線を突破した。同月16日には黒海沿岸の保養地ヤルタを奪回しつつ、第4ウクライナ正面軍とともに第17軍をセヴァストポリに追い詰めた。

 第17軍司令官イエネッケ上級大将は南ウクライナ軍集団(3月31日、A軍集団より改称)司令官シェルナー上級大将を通じて繰り返しヒトラーに直訴し、撤退の許可を求めた。ルーマニアの国家元首アントネスク元帥もまた、ベルリンに飛んでヒトラーにクリミアからルーマニア軍を避難させることを訴えた。しかし、ヒトラーは度重なる要請にもクリミアからの撤退を禁ずる総統指令を撤回せず、イエネッケの更迭を命じた。

 5月1日、第17軍司令官に第5軍団長アルメンディンガー大将が後任となったが、司令官の首をすげ替えてみたところでクリミアの戦況は全く変わらなかった。

 5月8日の深夜、戦況報告を受けたヒトラーはようやく、クリミア半島の保持を諦めて死守命令を撤回した。この時にはすでに、第17軍は約5万人の兵員を失っていた。

 5月12日、クリミア半島に残る最後のドイツ軍部隊が降伏した。クリミア半島は2年ぶりにソ連軍の手中へと取り戻された。ソ連軍は実質上、プリピャチ沼沢地より以南における自国の領土を全て解放したのである。

 ヒトラーと陸軍総司令部の戦略上の関心は、南部戦域に釘づけになった。この戦域にソ連軍が6個戦車軍全てを投入している事実から、ドイツ軍はソ連軍の春季攻勢が引き続きこの戦域で実施されるであろうと結論づけた。しかし、ソ連軍が春季攻勢に選んだ戦域は全く異なるものだったのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る