不可視の猫はかく嗤う。


 不気味な箱猫は嗤った。と思う。

 

 まあ、猫というが、猫というか箱だ。

 誰が作ったのか四角四面の厳重に密封された、猫かどうかという話以前に箱で、そもそも箱そのものの材質すらよくわからん箱なのだが、とりあえず僕は其れを猫と呼ぶ。

なぜなら、この偏屈な箱の片隅に"Schrodinger.exp"と書かれていたからだ。

 箱猫はくけけと嗤う。


□「井の中の蛙、大海を知らず、というねぇ。

  さて、大海を知っている蛙と、知らない蛙。

  果たして、広い世界で生きているのは、どちらかね?」


        

 これは僕と、この偏屈な箱猫との対話だ。

 

   

□「アンタは知ってしまうことが、どれ程可能性というものを限定するか知っているかい? 

 知識は世界を広げるってぇが、その知識って奴で、どうしてこの嘘が誰も見抜けないのかあっしにゃ不思議で仕方がねえな。

 いいか? 

 あんたのその崇拝する科学とかいう名のパラダイムで、世界の全てを表記分類陳列させて見渡せたとして、だ。

 その先に何が残る?

 謎の一片も残っていない世界ってのは、全ては正か誤か、可能か不可能に分けられて、可能性すら残されていない閉じた世界だぜ? 

 サンタクロースはいないと知って、喜ぶ子供がいるのかい?

 神の存在の有無が判明したとして、余計なお世話じゃねぇのかい?

 死後の世界が無いと証明したところで、では供養になんの意味が無いとでも?

 気になるグラビアのあの娘のあの胸が、実はアドビによるフォトレタッ乳だったと知る悲劇の連鎖を、それでもアンタは望むのか?

 ああ、誰だって、必ずしも真実を望んでいるわけじゃない。

 …いや、違うな?

 誰しもが、都合の悪い真実を、望んでいるわけじゃないのさ。

 「夢や希望や救い」を求めて真実を知ろうとするのは勝手だが、真実と夢と希望と救いは残念ながら全く別なモノだ。必ずしも符号するわけじゃねぇさ。

 可能性ってのをそれら希望と言い換えるのならば。

 アンタが知識欲に身を任せ必死に中身を見ようとこじ開けているその箱に、名前をつけるとしたらあっしはこう呼ぶね。 

 パンドラの筺ってな。

 折角残された希望すら、アンタのその賢さで手放そうってんだ。いやいや愚かだねえ」

 

 嗤う箱猫は続ける。 


□「知識で世界が広がるなんて、しゃらくせえこった。

 知れば知るほど、世界は狭く固く閉じていくのが道理ってもんだ。

 世界がまだ地球なんて呼ばれて無かった頃は、世の中には不老長寿が叶う霧の島だって、空に浮かぶ城だってあったんだぜ?

 今のアンタらは日本と云われて即座に弓形の形を思い浮かべるだろうが、伊能の旦那がこの国の海岸を歩き終えるまで、誰一人この国の正しい形を知らなかったワケだ。

 アンタは、あの形以外の、日本の形、地球の形ってのを想像してみたことがあるかい? 無いだろう?

 科学の名の下に、鼻で嗤って捨てるのもいいだろうが。

 アンタが開くことなく早々に捨ててしまった可能性ってのは、そういうもんだぜ?

 ま、云うならば、あんたの脳の中の世界の話、だ」

 

 僕は云った。


「そりゃ確かに世界を想像するなんてことはした覚えがないけど、現実としてやはり日本はこういう形なんだから、可能性もなにもないだろう?

 虚構や妄想と、可能性は違うと思うよ」


 云うまでもなく箱猫が嗤う。


□「違わねぇのさ。わかっちゃねぇな?

 そういうことを想像する、という事が重要なんだよ。

 想像しなければ可能性は生まれない。

 想像すれば、それだけで、世界は広がるんだ。

 もし、世界中の地図、航空写真がある理由によって故意に間違って公表されていた、と報道されたらどうする? 

 「アポロは、人類は月に行っていない」なんてデマでも信じてた奴はいたぜ?

ほうら、可能性の復活だぜ? 

 虚構か妄想か真実か、世間がどう云おうが、それを証明出来ないのならば、どちらでも有り得るんじゃないのか? 

 つまり、それを科学なりで、暴きさえしなければ。

 それはありえる可能性の一つになるんじゃないのか?

 あの偏屈推理男風に云えばこうだ。

『全ての不可能な事柄をうやむやしていくと、どのように有り得そうになくとも、残されたものも真実の可能性がある』、てなもんだ。

 

 例えばだ。アンタはどう思っている?

 この俺は今、生きているのか、死んでいるのか…?」

 

 箱が一際低く黒く、くけけけと嗤った。


 だが、僕は呆れていた。


「なんてぇ詭弁だ。

 しかし箱さ、君は現にこうして僕と会話してるだろう?」

 

 箱猫は嗤う。


□「甘いぜ旦那。アッシがあんたの妄想でないと断言できるのかい? なにせこちとら不確定さが売りモンだ。アンタは今、ただの箱の向かってぶつぶついっているだけの人かもしれんし、或いは今こうしてアッシの台詞をひねくりだそうと頭の中で考えを巡らせている最中かもしれん。次の台詞が思い浮かばない」

 

 僕は黙って箱猫をひっくり返した。

 引きこもりの猫には云われたくない。

 

 箱の上に空気穴でもあったのだろうか。くぐもった音で微かにに、うわやめろラジウムがアルファアルファ粒子が体質的にアルファ粒子だけは駄目なんだこの季節特に非道いとか聞こえる。


 無感動の白い瞳で僕は一人語った。

「………妄想かなあ……」


□「へっくちんへっくちん」


 くしゃみだけで済むのか。 

「箱さ。君の云う事に一部共感を覚えないでもないけども、現代社会に生きる僕らにゃそいつは無理な話ってもんだ。全てをうやむやにして進める程、最早世界は牧歌的な時代ではないし、常識を疑って生きていくことは出来るかもしれないが、常識を知らないで生きていくのは、限りなくバットな選択だ。この時代、道を歩いていて獣に襲われることはないけどね。ネットの上ではSNSではデマや煽りが大手を振って歩いておいでだ。僕らは社会的な動物で、身を守る術は必要なんだよ。

 それにだ。君は一つ思い違いをしている」

 

□「……なんでえ?」


「科学というのは、体系の一部を表記可能とするけど、全てをそれで説明できるというワケではないのさ。 

 例えば、哲学の命題を科学で解けたりもするが、出てきた答えは科学の答えでしかなくて、それは哲学としての答えではない。

 全ての謎が解けることなんざ、心配しなくても十分だ。

 世界が狭くなったと感じるのなら、そんだけまだまだ君はモノを知らないんだよ。それこそ井の中の蛙だ。引きこもりの箱の猫だ。

 

 それにだ。

 科学というのは人間にそれほど万能な力を持つわけじゃない。

 科学で否定したところで、望んだ魔法や奇跡が起こるわけではないし。

 そして、サンタクロースだっていなくならないさ。

 たとえ真実がどうであれ、僕らはそれに順応してしまう」


 僕は心の部分を指さし云った。 

 


「いいかい。

 これだけは覚えておいてくれ。

 

 僕らには、グラビアの偽乳の虚実に惑わされることすら悲劇ではありえなく、ただ哀しき本望なんだという事を…。僕らにあるのは彼女とその誰か仕事に対する感謝だ。そして今日もそれを乗り越えて生きていく。科学の発展は人のこの部分を豊かにするんだ」



 

 (了)

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君の歯が浮いている。 機能美p @Quino_vi

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