エピローグ──ブライド

 夏が終わる。

 暦の上ではまだ八月。夏の真っ盛りだ。

 しかし、残りの日数を後ろから数えた方が早くなった今、既に夏は終わりに向かっている。九月になり、カレンダーをめくれば、学校は新学期が始まり、新しい季節になる。

 初めて彼がこの村にやって来たのも同じ頃だっただろうか。

 ──あれからもう十二年も経ったのだ。

 そんな思いがふと浮かび上がるのは、色々と考える事が多いのと忙しいのとが重なって、少し感傷的になっているのかも知れない。

 診療所の窓から外を眺め、モード・コリンズはそんな事を考えていた。

 村で診療所を営む医師ロバート・ブレイクは今年で齢八十を数え、まだまだ矍鑠かくしゃくとしてはいるが、かねてから後を誰かに引き継いで隠居したいとぼやいていた。

 大学の医学部を卒業後、エディンバラで臨床研修を終え、医師免許を取得したモードが帰郷すると、老医師に代わってモードが診療所を引き継ぐ運びとなった。

 まだ、現場の経験が不足している事実は否めないので、当面はロバートと一緒に働くが、いずれはモード一人で診療所を切り盛りする事になる。

 コンコンとドアをノックする音で、モードの思考は中断された。「どうぞ」と声を掛けると、姿を見せたのはジョイス・ブレイク──ロバート医師の細君で、長年、一緒に診療所で働いている熟練の看護師だ。一見、穏やかで品のいい老婦人だが、暴れる患者を押さえ込むくらいはお手の物の肝っ玉と腕っ節の持ち主だ。

「ねえ、モード。あなた、後でデヒティンの所に寄るかしら?」

「ええ。何か?」

「寄ったらね、どうせ、ロバートがいるでしょうから、すぐ帰って来るように言ってちょうだい。それから、帰りにカーライルさんのお店に寄って、バターと牛乳と卵を買って来るように、って」

「いいですよ」

 と、答えて、モードはくすりと笑った。

 十五才も年下のジョイスにすっかり尻に敷かれているロバートだが、きっとパブでビールを片手に皆が聞き飽きた女房自慢でもしているのだろう。彼の愛妻家ぶりを知らない者は村中を探しても見つかるまい。

「買い物の量はメモしておきます?」

「いいわよ。どうせ、あの人じゃ渡したメモを見たって間違えるんだから。カーライルの奥さんの方でいつもの量をわかってるわ。本当にあの人ったら、薬の量はいっぺんだって間違った事がないのに、買い物の量はいっぺんだって合ってた事がないんだから」

 肩をすくめたジョイスが微笑む。

 仲睦まじく、悪態すらも愛おしげに聞こえるのだから、おしどり夫婦ぶりには見ている方が参ってしまう。

「後片付けはいいわ。今日は急ぐのでしょ?」

「ええ、ありがとう、ジョイス」

 ジョイスの言葉に甘え、モードは早々に診療所を後にした。


§


 村で唯一のパブ『フラットストーン』は村人達の憩いの場だ。

 仕事を終えた人々や、仕事を抜け出した人々が集まって酒杯を酌み交わす。村で誰かを探すなら、まず最初にパブへ顔を出せばいい。大抵はそこで見つかるか、そこにいる誰かが知っている。

 パブの主人のマラキ・スチュワートは最近では店をほとんど息子のイアンに任せている。まだ引退するほどの年ではないが、学校を卒業して十七才(*1)からずっと店を手伝っている息子を信頼して、経験を積ませておこうという腹のようだ。(*1 スコットランドの中等教育は十七才まで)

 パブを目の前にしたモードがその入り口へ向かうより先に、ぱたぱたと軽い足音が駆け寄って来た。

「モード!」

 叫んでモードに飛びついて来たのは栗色の髪の少年。

「あら、ウィリー、元気?」

「うん!」

 頬を赤くして目をキラキラ輝かせる少年はウィリアム・スチュワート。今年で七才になる、父親似でハンサムでやんちゃなイアンの長男だ。

「ウィリーったら、待って。はあい、モード」

「デヒティン」

 ウィリアムの後に続いてやって来たのは、モードの親友デヒティン・ワトソン・スチュワート。幼馴染で相思相愛のイアンとは十七才で結婚し、ウィリアムと、両手にそれぞれ一人ずつ手をつないだ四才の双子ジンジャーとローズマリーの三人の母親であり、更に四人目が大きくふくらんだお腹の中で成長中だ。

「もーどー、こんちやー」

「こんちやー、どくたー」

「こんにちは、ジンジャー、ローズマリー」

 モードはしゃがんで二人の頭を撫でた。母親や兄よりも赤っぽい色の髪だが、ふわりとした髪質は母親によく似ている。

「デヒティン、具合はどう?」

「順調よ。問題ないわ」

 にっこりと微笑むデヒティンの顔は、すっかり母親の顔だ。モードにはまだわからないもの。そう思うと、友が少し遠くなった気がして一抹の寂しさを感じるが、また感傷的になっているな、と自戒した。

「ねえ、お店の方にドクター・ロバート来てる?」

「ドクター? 来てるわよ。またいつもの奥さん自慢が止まらなくなってるわ、ドクター・ロバートね。……ふふ」

「何?」

 デヒティンが意味ありげに笑うので、モードは小首を傾げた。

「だって、前は『ドクター』だけで通じたのに、今はドクター・ロバート・ブレイクだけじゃなくて、ドクター・モード・コリンズもいるものね、って思って」

「……もう! からかわないでよ」

 照れるモードの様子に、デヒティンはくすくすと笑った。

「ドクター・ロバートに何か? 診療所の方で何かあったの?」

「ううん。例の自慢の奥さんが、早く帰って来なさい、ですって」

「あらー。じゃあ、それは私が伝えとくね。子供達をママの所に預けたら、お店に顔を出してから行くわ」

「いいの?」

「うん。その代わり、学校に寄ってハルを連れて来て。どうせぐずぐずしてるから、誰か呼びに行かないと遅れて来るに決まってるもの」

「わかった。……ウィリー、どうしたの?」

 モードはずっと傍にくっついてもじもじしているウィリアムに目を向けるが、ウィリアムは何でもないと頭を振った。

「しってうよー」

「ねー」

 ジンジャーとローズマリーの双子が顔を見合わせて笑った。

「なあに?」

「えっとねー」

「うぃりーはねー」

「もーどがすきなのー」

「ねー」

 真っ赤になったウィリアムが飛びかかると同時に、母親の手から離れた双子がきゃあきゃあ笑って逃げ出した。

「こらあ!待ちなさい!」

 走る子供達にデヒティンが叫ぶが、それで止まるようなものではない。

「あ、だ、大丈夫?」

「大丈夫よ。いつもの事だもの」

 走り回る子供達の喧噪に慌てるモードとは対照的に、デヒティンの方は落ち着き払っていた。

「それじゃあ、また後でね」

「え、ええ。あ、そうだ。ドクター・ロバートに、カーライルさんのお店に寄ってバターと牛乳と卵を買って帰るように、って」

 モードはジョイスからの伝言を思い出し、慌てて付け加えた。

「うん。量はいつものお任せでいいんでしょ?」

「ええ、そう言ってた」

 どうやら、デヒティンの方でもブレイク夫妻のこうしたやり取りには慣れっこのようだった。

「わかったわ。ほら、ウィリー! ジンジャー! ローズマリー! ママの所に来なさい! 十数えるまでに来ない子は、ケーキ抜きよ!いーち、にー、さーん、よーん」

 大慌てで母親の元へ駆け戻る子供達の姿に、モードは小さく笑いを噴き出した。


§


 かつての学舎を訪れば、やはり、懐かしい思いがよみがえる。

 しかし、そこが仕事場ともなればそんな思いを感じる事もないのだろうか。

 この校舎で共に学んだクラスメイトの一人は、今はその教壇に立っている。

 ハル・コネリーは教師を勤めていた叔母フィオナの退職に伴い、後任として就任した。ハルはフィオナが自分のために職を譲ったのではないかと気にしていたが、実際の所はフィオナは結婚してからずっと引退したがっていたので、ハルが大学を卒業して戻って来るのを心待ちにしていたらしい。

 懐かしい校舎に足を踏み入れ、職員室へ向かう途中、モードは恩師の一人に行き合った。

「フォスター先生、こんにちは」

「やあ、モード」

 数学教師のラバン・フォスターは一見した印象を言えば熊のような男だが、髭に覆われた厳めしい風貌に反して穏和で優しい人物だ。最初の妻と離婚後、父親にまったく似なかったおかげで美少女に育った娘のおせっかいがきっかけで職場の同僚──フィオナ・コネリーと再婚。妻は教職を退いたが、ラバンは今も変わらず教鞭を振るい続けている。

「仕事は慣れてきたかい?」

「はい。まだまだ勉強する事がたくさんありますけれど」

 なら良かった、とラバンは頷いた。

「──しかし、もったいないね。折角、エディンバラ大まで出たのだし、君なら都会の大きな病院で活躍できるだろうにね」

「いいんです。私はここが好きですから」

 確かにそういう道もあった。臨床研修の最中に誘いもあった。しかし、モードは故郷──生まれ育ったこの村での暮らしを選んだ。

「それに、フォスター先生に言われる事ではないですよね?」

 田舎暮らしにこだわったせいで都会暮らしを望む前妻と離婚したラバンに言えた事ではない。そう含めて少し意地悪く言うと、ラバンは「違いない」と苦笑した。

「ハルはまだ残ってますか?」

 モードの問いにラバンが「ああ」と頷くと、案の定と小さく溜め息を洩らした。

「フォスター先生、わかってます?」

「何がだね?」

 ラバンのまるでわかっていない様子に、モードはもう一つ溜め息を吐いた。

「ロンドンのルーシーからドレスが届いていたんじゃありませんか?」

 そう言われて、ラバンはようやく得心したように「ああ」と呟いた。

「そう言えば、フィオナがはしゃいでいたっけなあ……」

 ラバンの娘ルーシーは小さな頃から衣装作りに非凡な才能を発揮していたが、今はロンドンで本格的に服飾デザインの勉強をしている。その才能をつぶさに目にしてきた身としては、遠くない未来にルーシー・フォスターの名前がファッション業界に知られるようになる事を期待せざるを得ない。

「男の人ってどうして……」

 モードの呆れ顔に、ラバンは気まずそうに頭を掻いた。

「ハル、連れて行っていいですよね?」

「ああ、構わないよ」

 ラバンの返事を待つ事もせず、モードは早足でその場を離れ、目的地である職員室のドアをノックした。

 中から「はい」と声がした時には既にドアを開けていた。

「あ、モード……」

「ハル、何をぐずぐずしているの?」

 デスクで書類の束をめくっていた困り顔の青年に、モードは噛みつくように言った。

「言ってあったわよね。今日は授業が終わったらすぐにフォスター家に来なさい、って。ルーシーからドレスが届いてるから、って」

「ああ、うん、そうなんだけど、ちょっと片付けがあって……」

 肩を竦めて縮こまるハルに呆れて、モードはきつく睨みつけた。

 十二年前に村へやって来た少年は、背も伸びてそれなりに凛々しくもなったけれど、こういう煮え切らない態度はちっとも変わらない。

「あのねえ、もう少し、自分が当事者だって自覚を持った方がいいわ。いいえ、持ちなさい。わかってる? ハル、あなたが新郎なの! 自分の結婚式の準備なんだから、もっとしかりしなさい!」

 モードに叱りつけられて、ハルはすっかり縮み上がった。

 自分の結婚式のために周りの人々が駆け回ってくれているというのに、当の本人と来たら、大舞台を前にすっかり気圧されてビビってしまっているのだ。

「本当にプレッシャーに弱いんだから!」

「あ、うん……」

 こんな事でこれから大丈夫だろうか、と不安に思いながらも、そんなハルの態度をかわいらしく思ってしまう。このシャイな気質ばかりはどうにもならないだろうし、それも優しいハルらしい所だ。だからこそ、少し強引に引っ張ってくれるような相手が似合いなのだろう。

「さあ、行くわよ!」

 モードはハルの腕をつかんで椅子から引っ張り起こした。

「いや、でも、まだ残りが……」

「そんなの明日にしなさい!」

 慌てて自分の鞄をつかむハルを、モードは引きずるようにして連れ出して行った。


§


 フォスター家には既に人の気配があった。

「ようこそいらっしゃいませ。中へどうぞ」

 玄関扉を開いて迎え入れてくれたのは、おしゃまな様子でぺこりとお辞儀をして見せる少女。ラバン・フォスターと後妻のフィオナの間に生まれた九才のサリーだ。異母姉のルーシーほどの華やかさはないが、フィオナに似て穏やかな愛らしさがある。そして、ルーシーの妹として育っただけあって、ませた気取り屋なのはご愛敬だ。

「いらっしゃい。もう、みんな来てるわよ」

 娘の後に続いて顔を見せたフィオナは、今年で三十九になるはずなのだが、おっとりとして優しく和やかな雰囲気は若い頃から変わっていない。

「ごめんなさい。ハルがグズグズしているから、すっかり遅くなっちゃったわ」

「いや、僕は……」

 何か言いかけたハルをモードが一睨みで黙らせた。

「ハルお兄ちゃんはウブで奥手で女心がわからないダメダメな男だもんね」

 幼い従妹の辛辣な物言いにハルが絶句すると、フィオナとモードは思わず噴き出して笑った。

「──さあ、もうすっかり準備が出来てしまってるわ。ハルも早く見てみなさい」

 フィオナに連れられて奥の一室へ向かい、その扉を開いた瞬間の光景に、モードもハルも息を呑んだ。

 真っ白なドレス。

 結婚の話を聞いて村へ飛んできたルーシーが大急ぎで採寸し、ロンドンへとんぼ返りしてから、あっと言う間に仕上げて送ってきた手製のウェディングドレスだ。

 奇をてらわずオーソドックスに、しかし、華やかさを忘れずに。細やかな部分まで手を抜かず丁寧に仕上げられ、とても短期間で縫い上げたとは思えない。

 ──綺麗ね。

 と、出かかった言葉をモードは飲み込んだ。

 そんなつもりではなかったのに。

 とっくに気持ちの整理はしたつもりだったのに。

 実際にこんな物を目にしてしまったら、ちくりと胸が痛んだ。

 今になって詮のない思いがよぎる。

 ──ああ、このドレスを着られたらなあ、と。

「……どう、似合う?」

 ドレスを着た赤毛の花嫁が照れ臭そうに頬を染めて微笑んだ。

「……うん」

 ハルは花嫁──シーダー・キーンの姿に見とれて、ようやく小さく呟いた。

「素敵でしょ? さすがルーシーはすごいよねえ」

 先に来てシーダーの試着を手伝っていたデヒティンがそう言ったが、ハルはシーダーに見とれるばかり、シーダーもいつものおてんばが形を潜めてしおらしくなってしまい、まるで話が続かなかった。

 ふう、と呆れたように溜め息をついたデヒティンは、二人の脇をすり抜けてモードの手を取った。

「モード、行こう。ちょっと休憩。お菓子、焼いてきたのがあるよ」

「え、ええ」

 モードはデヒティンに促されるまま、新郎新婦を二人だけで残してその場を離れた。


§


 デヒティンの手焼きのクッキーは相変わらず、否、前にも増して美味しい。昔から色々な種類の菓子を作っては、学校に持ってきたり、お茶会を開いたりしていたのを思い出す。

 紅茶はウィッタードのキーマン。フィオナのお気に入りだ。フォスター家の茶葉も、フィオナが嫁入りしたおかげで随分とバリエーションが増えて充実していた。

 モードとデヒティンと入れ替わりでフィオナとサリーが新郎新婦にちょっかいを出しに行ったので、今は二人だけで一息といった所だ。

「どうかしたの?」

 支度部屋から連れ出されたモードはデヒティンがお茶の支度を整えるのをじっと待っていたが、一息ついた所で切り出した。

「どうかしたも何も」

 と、デヒティンは少し困ったように言った。

「そんな顔してたらあそこに置いとけないよ」

「……え?」

 すっとデヒティンが差し出すハンカチを反射的に受け取った手元に雫が落ちた。

「……あれ、何?」

 ぽたり、ぽたり、と雫が落ち、視界がぼやけた。

「やだ……、わたし、何で……?」

 かすれる声が震えていた。

「何で……、泣いてるの……」

 涙が勝手にあふれて止まらない。

 モードは眼鏡を外す事も、デヒティンが渡してくれたハンカチを使う事も忘れて肩を震わせていた。

「いいよ」

 固まったままのモードの代わりにデヒティンが眼鏡を外してやって、きつく握った手の中のハンカチを抜き取って目元へあてがった。

「泣いちゃっていいよ」

「うん……」

 デヒティンにされるがままで、モードは弱々しくうなだれた。

「デヒティン……、お願い、外へ……。ここじゃ……、泣いてるの……、見られたり、聞かれたり、したくないから……」

「うん。行こっか」

 デヒティンは啜り泣きを押し殺すモードを支えるようにして立たせ、家の外へと連れて行った。


「何で……。私、もう、そんなんじゃ……」

 裏庭でしゃがみ込んだモードは真っ赤になった目をハンカチで押さえるが、一向に涙が止まる気配がない。

「泣いたって、いいよ」

 震えるモードをデヒティンが背中からそっと抱き締めた。

「そんなに簡単に吹っ切れっこないもん」

 その通りだ。

 デヒティンの言葉が虚勢を砕く。強がって平気なふりをしていたが、平気なはずがない。

 十三才で初めて会った時から、ずっと好きだったのだ。そして、今でもまだ想いは消えてなどいない。

 ──きっと、自分は選ばれない。

 そんな予感は最初からあった。彼が選ぶのは私ではなく、あの娘の方だ、と。

 なぜ、と問われても答えられない。ただ、直感でそう思ったのだ。きっと、あの二人にはとても強いつながりがある。きっと、結ばれる。そして、それはつまり、自分の想いは実らないという事。

 だから、予想通りの結果だった。覚悟していた事だった。すっぱりと諦めるつもり──諦められるつもりだった。

 しかし、そんな簡単に割り切れるものではなかった。

 ただ、見栄を張って、意地を張って、割り切って諦めたふりをしていただけ。

「そうよ……。そんなに簡単なはずないじゃない……。ずっと、好きだったんだもの……」

 ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、呻くように恨み言を洩らす。

「でも……、ハルやシーダーに、格好悪いとこ、見せたくないもの……」

 泣いてすがれば違っただろうか。

 プライドなどかなぐり捨てて、シーダーよりも私を選んで、と泣きついていたら。ハルにだってモードを憎からず思う気持ちはあって、シーダーとモードの間で揺れる所もあったはずだ。ならば、形振り構わず泣きついていれば、その気持ちを自分の側に引き倒してしまう事もできただろうか。

 それは言っても詮なき事。モードはそうはしなかったし、そうはできなかった。今となっては、叶わなかった恋を悔やんで泣く事しかできないのだ。

「モード、もっと思い切り泣いて。やっと泣けたんだもの。泣けるだけ泣かなきゃ」

 モードは恋に破れても今日まで泣かなかった。

 ずっと意地を張って、何でもないように振る舞う事で自分を誤魔化していたが、それはただ辛い事から目を背けて、現実に向き合う事から逃げていただけ。しかし、もうどこにも逃げ場はない。シーダーのウェディングドレスが否応もなく現実を突きつける。

「……デヒティン、私……。私……、悔しい……、ハルに選んでもらえなくて……、ハルをシーダーに取られて……、悔しい……!」

 モードはデヒティンにしがみついてわんわん泣きわめき、デヒティンはそんなモードをは何も言わずに少し強めに抱き締めた。

 デヒティンの腕は優しく力強く包み込んでくれて、モードはその温かさに甘えて、頭を空っぽにしてひたすら泣いた。泣き疲れて果てるまで、そうする他に何もできはしなかった。


§


 モードがスンスン鼻を鳴らしながら真っ赤に泣き腫らした目を拭って眼鏡を掛け直すと、背後からコホンとわざとらしい咳払いが聞こえた。

 振り返るまでもなく、その咳払いが誰のものかはわかったが、反射的に顔を上げれば、やはり予想に違わぬ相手の姿が目に映る。花嫁衣装から着替えて普段着に戻ったシーダーが、いつからか二人の背後に佇んでいた。

「シーダー……」

「デヒティン、ちょっとモードと二人で話したいんだけど、いい?」

 シーダーの言葉に、デヒティンは気遣うようにモードを見るが、モードは「大丈夫」と告げるように頷いた。

「うん、わかった」

 頷き返したデヒティンが家の中へ戻ると、それまでデヒティンが座っていた場所にシーダーが腰を下ろしてモードの隣に並んだ。

 モードは気まずそうに顔を逸らして押し黙るが、シーダーの方にそんな態度を気にする様子はなかった。

「何よ、メソメソしちゃって」

「な……!」

 シーダーの物言いに、モードは思わずかっとなって顔を上げた。

「……いいじゃない、別に……」

 むくれたモードは再び顔を逸らした。

「いいわよ、別に。そんな風にいじけてるモードなら、もうちっとも怖くないから」

 そっぽを向いたままで耳をそばだてるモードの様子を確かめるように一息吐いて、シーダーは続けた。

「私、ずっと怖かったわ。モードにハルを取られちゃうんじゃないかって、いつも不安だった」

「……何よ、嫌味? 勝者の余裕ってわけ?」

 すねたモードが顔を背けたままで呟いた。

「そうよ。勝ったから言えるの。もしかしたら、ここでこうして泣いてるのは私の方かも知れなかったんだもの」

 同じ相手に恋をして、想いの強さはどちらも譲らず、互いに自分にはない恋敵の魅力を羨み恐れていた。

「ああ、やっと勝ったわ! ハルがちっともはっきりしないから、いつまでもずうっとヒヤヒヤしっぱなしで、それがようやく私の勝ちに決まったんだもの。ここで勝ち誇らなくてどうするのよ」

 そう言って、シーダーは堂々と胸を張った。

 想い人の心を射止めたのはシーダーだ。しかし、薄氷を踏むような危うさの中で得たようやくの勝利だったのだ。なればこそ、戦いを繰り広げた相手であるモードへの共感も並々ならない。

 勝ち誇らなければならない。手にした勝利に胸を張って誇る事こそが、好敵手への賞賛だ。

「それとも同情して欲しい?」

「誰が!」

 あからさまな挑発に乗せられるまま、モードは噛みつくように叫んだが、顔を上げた瞬間にシーダーと目が合うと、ふっと力が抜けた。

 ああ、負けたんだ、悔しいな──。

 頭に浮かぶそんな言葉とともに押し寄せる諦念はひどく穏やかで、さっきまで泣きじゃくっていた荒波が過ぎ去って、凪いだ水面のように静かだった。

 モードはゆらりと揺らめくようにシーダーへもたれ掛かり、そのまま、額を肩に預けて抱きついた。

「……おめでとう、シーダー」

 シーダーの肩に押し当てた顔を上げないまま、モードはささやくように言った。

「……うん。ありがとう。モードにそう言って欲しかった。モードがそう言ってくれなかったら、私、何かね、駄目だって思ってたんだ」

 シーダーはそう言って、モードの背中に両腕を回して包み込んだ。

「……でも、気を抜かないでね。結婚したからって油断してたら、ハルの事、寝取ってやるから」

「わかってる。絶対、そんな隙は見せないわよ。やっと捕まえたんだから、もう、絶対に逃がさないわ」

「せいぜい用心しなさいよね」

「その気があるなら、いつでもかかってきたらいいわ。チャンピオンは挑戦者を拒否しないものよ」

 互いに挑発する言葉を交わし合いながら、いつしか二人の唇からはくすくす笑う声が洩れ始めていた。

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おてんば魔女と僕 瀬戸安人 @deichtine

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