9.ブラウニー

 裏口の戸の外の脇。

 そこに椀一杯のミルクと蜂蜜を塗った堅パンバノックを一切れ置いておく。堅パンではなく、スコーンやビスケットやパンだったりする事もある。

 夜中にひっそり家仕事を手伝ってくれる小人の妖精──ブラウニーへのご褒美など、今時、笑い飛ばされるような事かも知れない。朝になれば空になっている椀と皿は、野良犬か何かが食べてしまったのだろう、とも言うだろう。

 しかし、デヒティン・ワトソンはその習慣を毎日欠かした事がなかった。小さな頃、夜中に目を覚まして、暖炉の周りを掃除する茶色い小人を見た時からずっとそうしてきたのだ。

 昨夜のうちに出しておいたミルクとルバーブのパイも綺麗になくなっていた。ルバーブパイは故あってあまり出来映えの良いものではなかったのだが、それでも文句は出なかったようだ。デヒティンは空いた椀と皿を引き上げて、キッチンで綺麗に洗って片付けた。

 日曜の朝。冷え冷えした空気が心地好い。

 前日はブランデー入りのケーキを食べ過ぎて酔っ払ってしまう失態もあったが、一夜明けてすっかり調子も取り戻していた。

 じりりん、と居間から古風な電話のベルが鳴り、母が受け答えをしている声が聞こえた。

「──デヒティン、あなたによ。モードから」

「はぁい」

 呼ばれて電話を受け取りに行くと、受話器を渡す母が微かに首を傾げた。

「モード、どうかしたの? 声に元気がないみたいだったわ」

「さあ、どうかなぁ」

 心当たりを笑って誤魔化し、その場を離れていく母の姿を見送ってから、デヒティンは受話器に耳をつけた。

「もしもし、モード?」

「あ、うん、デヒティン、あの……」

 電話越しの友人の声が硬くうわずっていた。これでは不審がられるのも無理はない。

「ちょっと、話を……、相談て言うか、後で行っていい?」

「うん、いいよ。待ってるから。えっと──」

 と、ちらりと壁の時計に目を向ける。針は九時半を示していた。

「──何時くらいになる?」

「十時くらいでいい?」

「うん、いいよ~」

 快諾して電話を切ったデヒティンは、お茶請けは何にしようかなぁ、と考えながら再びキッチンへ向かった。


 そして、三十分ほど後。

 デヒティンの部屋に招かれたモードの姿があった。

 迎えるデヒティンは、さすがに作りたての菓子を用意する時間はなかったので、お茶請けは買い置きのクッキーだが、紅茶は濃い目に淹れたブレックファストブレンド。濃厚で渋みの強い紅茶にたっぷりミルクを注いで、それだけで腹がふくれそうな代物だ。

 しかし、デヒティンのベッドに腰を掛けたモードは両手で包んだカップを口に運ぶのも覚束ず、気もそぞろといった様子だった。

 いつも通り、堅苦しくさえある糊のぱりっとしたブラウスにロングスカート。綺麗に整えられた猫っ毛のブルネット。メタルフレームの眼鏡の奥には理知的な薄紫の瞳。ただ、いつもの怖いくらいに凛とした雰囲気がなりを潜めて、憂い顔で溜め息を洩らす姿は、実に絵になる「悩める美少女」ぶりだった。

 細面でいかにも花のある見目姿のモードに比べると、デヒティンは体つきもふっくらしていて、決して美人ではない。けれど、素朴な愛嬌が魅力的な少女だ。

 二つに括った薄茶色の髪は柔らかで、太めで下がり気味の眉と少し眠たげな瞳は、穏やかで優しそうな雰囲気を感じさせる。服装もゆったりした楽な物を好んでいて、色使いも柔らかい中間色が多い。

 時折、体型の事をからかわれてむくれる事もあるが、実際の所は言うほどには気にしていないのか、短めの裾から太めの足首を惜しげもなくさらしている。

 話があると訪ねて来ておいて、黙り込んだままのモードを前にして、デヒティンは紅茶で喉を潤してから、自分から口を開いた。

「昨日の事?」

 その一言に、モードはびくりと震え、カップを受け皿にぶつけてガチャンと音を鳴らした。途端にかあっと頬が赤く染まり、答えを聞くまでもないのは明らかだった。

「その……、昨日は……」

 モードはもごもごと言葉を濁した。

 前日の午後にデヒティンの家で開いた茶会には、なかなか胸の内に秘めた気持ちを素直に出せないモードに、想い人のハル・コネリーとの仲を何とか進展させようという目論見があった。

 ハルだけを呼ぶのを恥ずかしがるモードのために、デヒティンの幼馴染みで恋人のイアン・スチュワートも呼んで、ハルに振る舞うためにモードの手作りケーキも用意したまでは良いのだが、当日は大きな問題が二つ起こってしまった。

 一つはモードにとっては最大の恋のライバルであるシーダー・キーンまでやって来てしまった事。積極的かつ強気でハルに迫るシーダーの存在は、モードの薄い胸を穏やかにさせてくれない。

 もう一つはお茶請けのチョコレートケーキにブランデーシロップを入れすぎた事。

 ケーキのブランデーで酔っ払ったモードは、同じく酔っ払ったシーダーと激しく罵り合いを演じた上に、無理矢理ハルにキスをした挙げ句、潰れて寝てしまったのだ。

「もう、どうしよう……」

 モードは自己嫌悪で頭を抱えて重い息を吐いた。

 昨日の出来事は何もかもしっかり覚えている。酔いが醒めた後、全身の血の気が引いた。

「私、大人になっても絶対にお酒は飲まないわ……」

 しょげかえるモードに、デヒティンは元々下がり気味の眉を困ったように更に下げた。

「でも、考えようによってはチャンスかも知れないよ」

 デヒティンの言葉に顔を上げたモードが怪訝そうに首を傾げた。

「だって、もうこうなったら開き直っちゃうしかないんじゃないかな~。ハルだって、モードの気持ちがわかっちゃったんだから、遠慮しないでどんどん攻めてっちゃおうよ!」

「む、無理よっ!」

 モードは真っ赤になって悲鳴を上げた。

「昨日、あんな恥ずかしい事しちゃったのに、ハルにあわせる顔もないわよ……」

 声を震わせるモードが、またうつむいて小さく縮こまった。

「でも、ここで踏ん張らないと、昨日みたいな事があったんだから、シーダーだって今までみたいに余裕っぽくしてられないかも。ただでさえハルはシーダーに押されると流され気味っぽいから、これ以上、シーダーが強気に出て来ると、一気に押し切られちゃうかも」

「そんなの駄目っ!」

 がばっと勢い良く顔を上げたモードが声を荒げ、驚いたデヒティンが思わず「ひゃっ」と小さな声を上げた。

「あ、ご、ごめん」

 恥じ入ったモードは浮かせかけた腰を下ろし、そのまま下を向いて再び口をつぐんだ。

 今までは余裕たっぷりといった様子だったシーダーも、昨日は随分と慌てさせられたようだった。少なくとも、モードなど眼中にもないと言わんばかりだった態度は改めざるを得なかったに違いない。

「ねえ、モード」

 デヒティンはふっくらした頬に優しい笑みを浮かべて言った。

「シーダーはきっとすっごく手強いよ。そのシーダーに火をつけちゃったんだから、モードも頑張って戦わないと、こてんぱんにされちゃう。でもね、モードが本気を出したら、きっと負けないって、私はそう思うな」

「う、うん……」

 デヒティンの励ましに押されるようにして、モードは小さく頷いた。

「そう、よね……。私、頑張ってみる」

「うん! 応援するね!」

 モードが覚悟を決めて絞り出した言葉に、デヒティンはぱあっと明るい笑顔をほころばせた。


§


 所は変わって、キーン家のキッチン。

 オーブンから取り出した天板をを見下ろして、シーダーは唸り声を洩らした。

 鮮やかな人参色の赤毛に、少し吊り上がり気味の大きな緑色の瞳ときめの細かな白い肌。生え際のラインが綺麗に整った広めの額が魅力的な少女は、エプロン姿で不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。

「どうしてちゃんとふくらまないのーっ!?」

 天板に並ぶのはふくらみ方の足りないスコーンの出来損ないだった。ふくれた生地が側面から裂けて「狼が口を開けたよう」と言われる理想的なスコーンの形ではなく、平べったいままの不格好な塊を憎々しげに睨みつけて、シーダーは手からミトンを外すとポケットから自分の名前と同じ杉材シーダーの杖を引っ張り出した。

「ズルは駄目よ」

 背後からの声に、杖を振り上げかけた手が止まった。

「う……。ママ……」

 振り向いた視線の先にある母親の姿に、シーダーはばつが悪そうに言葉を濁した。

 先祖代々、キーン家の女がそうであるように、やはり鮮やかな赤毛の持ち主であるウィロウ・キーンは、三人目の娘が十二才になる今となっては決して若くはないが、年相応の美しさと、溌剌とした才気を感じさせる雰囲気があって、魅力的に見える事は間違いない。

「美味しい料理は魔法の杖で作るものじゃないわ。そんなものはまやかしよ」

「だって……」

 シーダーはむくれて唇を尖らせた。

 料理は苦手という訳ではないが、得意というほどでもない。ショートブレッドのような簡単な菓子くらいなら手作りする事もあるが、それも素人にしては上出来という程度のレベルで、デヒティンのような名人には及ぶべくもないし、昨日のお茶会で出されたモードのチョコレートケーキにも到底敵わない。

「それが好きな男の子に食べさせたい、なんて言うんだったら、尚更ね」

 ぐっ、とシーダーは息を詰まらせた。

「うふふ。一年生の時はクリスマスくらいしか帰って来なかったくせに、今は毎週毎週足繁く帰って来るんだもの。よっぽど、ハルの事が好きなのねえ」

「ちょ、ママっ!」

「パパと会った頃を思い出すわ。あの人も奥手で鈍感だったから、随分とやきもきしたのよねえ」

「もうっ! ママのノロケ話なんて別に聞きたくないわよ!」

「あら、そう? 残念」

 シーダーが真っ赤になって憤慨すると、ウィロウはとぼけた様子で肩をすくめて見せた。

「それにしても、かわいいとこあるじゃない。ライバルのアピールに焦って料理の練習だなんて」

「ママっ!」

「相手はモード・コリンズか。美人で頭も良くて、その上、料理上手で、なかなか手強そうじゃないの」

「もうっ! ママってば、やめてよ!」

 シーダーの抗議など意に介さず、ウィロウはにんまりと生温かい笑みを浮かべた。

「生地のこね方がなってないのよ。スコーンはね、もたもたやってちゃ駄目。素早くざっくりこねるのがコツなの。大事なのはパワーとスピードよ。さ、材料を用意して。あら、バターが出しっぱなしじゃない。バターは使うギリギリまで冷蔵庫から出しちゃ駄目よ」

 苦戦する娘に手本を見せてやろうと、ウィロウは袖をまくり上げた。

「料理経験の浅いあなたにもできるように、楽なやり方を教えてあげるわ。とりあえず、卵と牛乳を混ぜておきなさい」

 そうシーダーに指示を飛ばしながら、ウィロウは戸棚からフードプロセッサーを取り出して、どんと調理台に据えた。

 きょとんとするシーダーを尻目に、ウィロウは正確に計量した粉をフードプロセッサーに入れて、スイッチをオンにした。

「五秒ってとこね」

 きっかり五つ数えてスイッチを切ったウィロウは、冷蔵庫から取り出した冷たいバターの塊をフードプロセッサーに追加した。

「今度は十秒。──はい、OK」

 ウィロウは混ざった粉とバターをボウルにあけた。

「これでいい具合に混ざるわ。便利よねえ。楽ができていいわ。じゃあ、卵と牛乳の混ぜたの入れて」

 と、屈託なく笑いながら、ウィロウは合わせた材料をざっくりと混ぜ合わせる。

「混ぜすぎちゃ駄目よ。ざあっと混ぜるだけ。ここが大事よ」

 手早くかき混ぜたくらいの生地をまとめて、次は台の上にあけた。

「で、次が一番大事な勝負ポイント。手早く一気に行くから、ちょっと指の力が要るわよ」

 ウィロウは強調して言った。

 料理が得意なデヒティンをしても「指が痺れて痛くなる」と言わしめていた作業だが、華奢なシーダーには十分な腕力がない。

「力が要る、って言ったって、ママだって力はないじゃない」

 細身のウィロウは、筋力に関しては人並みを遙かに下回る。料理の鍋を運んだり、瓶詰めの蓋を開けるのにも、うんうん唸った挙げ句に夫や娘に代わってもらうのだ。腕相撲をしたらシーダーでも確実に勝てる。

「ふふーん」

 ウィロウはにっと笑うと、名前と同じ柳でできた杖を取り出した。木の名前を付けられた魔女が自分の名前と同じ木の杖を使う、キーン家の伝統だ。

「I have Hercules strength!」

「それはズルじゃないの!?」

 魔法で筋力を強化した母に、シーダーは反射的に突っ込んだ。

「全然。料理はちゃあんと自分の手で作るんだもの。よく見てなさい。こうやって、指でつまみ上げるみたいにして、力強く、素早く、ざっくりとやるのよ。もたもたするのも、こねすぎも絶対に駄目。さあ、シーダーもやってみなさい」

 まくし立てるウィロウの迫力に押されて、シーダーは文句を言う口を噤んだ。

「はい。You have Hercules strength!」

 ウィロウの杖がシーダーの腕をちょこんとつつくと、筋繊維にかあっと熱くなるような力がみなぎっていった。

「さあ、急いで、急いで! もたもたしてると、ベトナムに行く前に戦争が終わっちゃうわよ!」

「どうして『フルメタル・ジャケット』なのよ!」

 映画のフレーズで茶化しながら急かすウィロウに追い立てられて、シーダーは母の手際を思い出しながら生地に挑みかかった。

「口答えしないで手を動かす! PT! PT!」

「もうっ! いい大人が変にはしゃいじゃって。ママ、今年でいくつ?」

「二十B才」

「十六進数で数えないのっ! しかも、一つサバ読んでるし!」

「いいじゃないの。うん、そんなものね。なめらかになるまでこねちゃ駄目なのよ」

「いいの? まだ表面に粉が浮いてるわよ」

「いいのよ、スコーンの場合は。じゃあ、それを冷蔵庫で十五分くらい寝かせて馴染ませたら、切り分けて焼くの。さあ、その間に教えたやり方で、最初からやってみなさい。おさらいよ」

 娘の微笑ましい姿を見るのが楽しいのか、やけにテンションの高いウィロウの指導とちょっかいを受けながら作業を進めていき、やがて、二度目のチャレンジの成果を示すオーブンの扉が開いた。

「あ……」

「ほうら、できた」

 天板の上で甘い香りを立ち上らせるスコーンは、ふっくらとふくらんで、側面に狼があんぐりと口を開けている。

「あち」

 ウィロウは焼き立てを一つ拾い上げて真っ二つに裂くと、火傷しそうな片方を噛じりついてみた。

「ばっちり」

 片目をつぶって見せながら、もう片方を娘の掌に落とす。シーダーは火傷しないように注意しながら、恐る恐る小さく噛みついた。

「……うん、美味しい」

 ほっとしたように頬がゆるんだ。

 デヒティンの物ほどではないが、どこに出しても恥ずかしくない出来映えだった。

「上出来よ。これから色んなレパートリーも教えてあげるけど、今日の所はこんなものね。さあ、早く支度してらっしゃい」

「え?」

「え、じゃないでしょ。折角作ったんだから、出来立ての熱々を届けてらっしゃい! ぐずぐずしてると、スコーンが冷める間にハルがモードと結婚しちゃうわよ!」

「ちょっ……! もう、ママっ!」

 シーダーは真っ赤になって母を怒鳴りつけながらも、エプロンをはぎ取って、着替えるためにキッチンから飛び出して行った。


§


 部屋に籠もって、ハル・コネリーは深々と溜め息を洩らした。

 頭を悩ませる原因となっているのは二人の少女、シーダー・キーンとモード・コリンズだ。昨日の出来事の後で、何をどうしていいのか少しも考えがまとまらないでいた。

 ハル自身はひどく鈍感で無自覚なのだが、周囲の女の子達からの人気は高い。

 日本人の母親の血を引いた黒髪に黒い目のエキゾチックな風貌は、小柄な体格と童顔のせいで、まだかわいらしい印象の方が目立ってしまうとは言え、女の子のように整った優しい顔立ちをしている。物腰も穏やかで柔らかいだけでなく、都会のグラスゴー育ちのせいか、田舎のやんちゃな子供とは違う洗練された雰囲気も持ち合わせていた。大人しくて母性本能をくすぐるようなタイプかと思いきや、芯にはしっかりした所もあって、いざという時は頼もしさも感じさせてくれる事もある。

 そんなハルに猛烈なアプローチを仕掛けて振り回すのが一つ年下のシーダーだったが、そこへクラスメイトのモードまで絡んで、モードの気持ちに思いも寄らなかったハルは事態の急変に途惑うばかりだった。

 モードの事は魅力的な女の子だと思っている。同じ年頃の子達と比べると、ぐっと大人っぽい美人で、知的なしっかり者だ。モードに比べると、ハルは自分など子供っぽいなあと劣等感さえ感じてしまう。モードが何かと親切に世話を焼いてくれるのも、引っ越して来たばかりで環境に不慣れな頼りない子を放っておけないのだろうか、などとも考えていた。

 だから、モードの取り乱した姿も、その本当の気持ちも、あまりに意外で衝撃的だった。

 そして、モードの事だけではない。シーダーの事もある。

 シーダーに積極的な好意に見せつけられて、彼女を意識していないかと言えば嘘になる。生意気で、おてんばで、いつもハルをからかったり振り回したりしては困らせるけれど、そこには正直な好意がはっきりと込められているものだから、決して不快だったり迷惑だったりするものではない。そんな溌剌とした所がシーダーの魅力でもあり、かわいらしいとも思っている。

 しかし、それがシーダーの事を「好き」と思う気持ちなのかどうか、そこまではハルにもはっきりわからないままだった。

 今のハルはまだ幼すぎて、誰かを「恋しい」と想う気持ちが花開かない。ただ、シーダーやモードの気持ちに温められて、柔らかな双葉が広がりつつあった。

 コツコツと響くノックの音が、物思いに沈むハルを現実に引き戻した。

「ハル、いい?」

 ドア越しに叔母のフィオナの声。

「あなたにお客さん。シーダーが会いに来てるわよ」

 その名前を聞いて、胸がどくんと鳴った。

「う、うん。すぐ行く」

 ハルは声をうわずらせながら立ち上がった。


§


 玄関先にたたずむシーダーは、籐のバスケットを提げ、いつものようにつんと顔を反らして、生意気そうに構えていたが、心なしか、ほんの少しだけ照れ臭そうにしているようにも見えた。

「ハル」

 と、シーダーは手にしたバスケットをぐいっと突き出して見せた。

「お菓子を持って来たわ。お茶にしましょう!」

 そう言って、満面の笑みを浮かべた。


「ねえ、ハル」

 ハルがキッチンからティーポットを乗せたトレイを運んで行こうとする所を、叔母のフィオナが呼び止めた。

「私はハルがそんな子じゃないって信じているわ。でも、ちょっと……、変な噂を聞いたものだから……」

 フィオナは言いづらそうにもごもごと口籠もり、大きく溜め息を一つ吐いてから続けた。

「シーダー・キーンとモード・コリンズに二股をかけてるって本当なの?」

「違うよっ!」

 反射的に悲鳴のような叫び声を上げて、うっかりトレイを落としかけた。


 カップに注がれたユンナンの甘味を感じさせる柔らかい香りが立ち上る。テーブルに広げられたシーダー手製のスコーンも食欲をそそる香りを漂わせていた。

「私だって、お菓子くらい作れるわ。デヒティンほどじゃないけれど」

「うん。前にもショートブレッドを持って来てくれたよね。あれは美味しかったよ。

 ──このスコーンも美味しいね」

 スコーンを囓ってそう言うハルの様子に、シーダーはやけに気恥ずかしさが込み上げて来た。

「何だか、ハルは何を出されても美味しいって言ってる気がするわ」

「そんな事ないよ。本当にそう思うから」

「じゃあ、デヒティンのと比べたらどう?」

「それは……」

 シーダーが意地悪く問い詰めると、ハルは言葉を濁した。そこそこ上手にできた程度では、デヒティンのレベルには到底叶わないのは誰でもわかっている。

「まあ、わかり切ったお世辞を言わないのはいい事よね。それじゃあ、モードとならどう?」

 答えづらい質問に、ハルは頬をひきつらせた。

「ええと──」

 眉間に皺を寄せたシーダーの視線から逃れるように目を泳がせながら、ぼそぼそと言葉を絞り出した。

「……その、違うお菓子だから、あんまり比べられない、かな」

「そんな風に言うと思ってた」

 はあ、とシーダーは深く溜め息を吐き出した。

「わかってるわよ。モードの方が上手だわ」

 つんと横を向くシーダーに、ハルは肩をすくめて縮こまった。

「でも──」

 シーダーは横を向いたまま、盗み見るようにハルに視線を向けた。

「気を遣ってくれるのは、ちょっと嬉しい」

 そう言って、また逸らした目を落ち着かなそうに瞬かせるシーダーの頬に赤みが増した。

 そんなシーダーの様子につられて、ハルも気恥ずかしさに押し黙ってしまった。

 沈黙も気まずいが、それを破るのもまた気まずく、音を立てるのもためらわれて手に取れないカップの中で紅茶が冷めていった。

 息苦しい緊張感が張り詰めて、そのくせ、不思議とそれが不快ではなく、むしろ、微かに陶酔のような感覚さえ覚えていた。

「──駄目よ」

 長い沈黙を破って、シーダーがぽつりと呟いた。

「モードに浮気なんかしちゃ、駄目よ」

 真っ赤になったシーダーがちらりと向けた視線と目が合って、ハルの胸はどきりと大きく跳ねた。

「ハルは……、私のものなんだから、他の女に余所見したりしちゃ、駄目なのよ。だいたい、ハルが早くはっきりしないからいけないんだわ。ハルは、私の事、好き、なんでしょ……。早くはっきりそう言うのを聞かせて……」

 同じような事を、いつものシーダーならば、もっと自信たっぷりで高圧的に言ってのけるはずだ。実際、何度もそんな事を言われてきた。しかし、今日のシーダーはどこか自信なさげに言い淀んでしまっている。

 今まで歯牙にもかけずに甘く見ていたモードの変貌に、シーダーの自信は揺らいでいた。

「その、僕は……」

 ハルもまた答えを言い淀む。

 シーダーに対する気持ちがどういうものなのか、はっきりと言葉にできない。しかし、もしもそれがそういうものなのだとしたら、そう口に出してみれば、はっきりと形になってわかるのかも知れない。

「僕は、シーダーが……、シーダーを……」

 なかなか続かないハルの言葉を待って、シーダーも固唾を飲んで固まる。無駄な力の入りすぎた筋肉で全身が締め付けられて息苦しいほどだった。

「もしかしたら、いや、きっと、僕は、シーダーが……」

 一番聞きたい魔法の言葉。

 それを待つシーダーの胸は緊張で破裂しそうだった。

「シーダー、僕は──」

「──ハル、あなたにまたお客さんなのだけど」

 ちょうどのタイミングで響いたドア越しのフィオナの声が、ハルの言葉の続きを止めた。

「いいかしら?」

「えっ! う、うん」

 慌てて答えるハルの返事を聞いてドアが開く。

「どうぞ、入って」

 フィオナの声に続いて、二人の少女が姿を見せた。

「はぁい。シーダーも来てたんだね~」

「こ、こんにちは。お邪魔します……」

 そこには、朗らかなデヒティンと緊張した様子のモードの姿があった。

「それじゃあ、二人の分のお茶を持って来るわね」

 フィオナがすぐに踵を返すと、その場に残ったデヒティンが、モードを促すように脇を小さく肘で突ついた。

「あ、ハル、その、昨日はごめんなさい。きちんと謝っておこうと思って。急に押し掛けたりして、迷惑じゃなかった……?」

「え、いや、そんな事はないよ……」

 恥ずかしそうにうつむくモードの上目遣いに、ハルはどきりとさせられた。

 その間に、シーダーの表情が見る間に不機嫌になっていくのを、そちらに目が向いていないハルもモードも気付かず、ただ、デヒティンだけが平然として変わらない様子で構えていた。


 一方、キッチンに向かったフィオナは大きな溜め息を吐いた。

「シーダーとモードだけじゃなくて、デヒティンも? でも、デヒティンにはイアンが……。大変、どうしましょう」

 飛躍した思い込みが暴走していた。


§


 緯度の高いスコットランドの冬は昼が短く、シーダー達がコネリー家を出た頃には、辺りはすっかり夜の風景になっていた。

 シーダーとモードの間に漂うピリピリした空気など気にもせず、相変わらずのほほんとしているデヒティンは、なかなか肝っ玉が太いのかも知れない。

「それじゃあ、私はここで」

「うん。それじゃあね~」

 分かれ道でモードが別の方角へ離れ、手を振るデヒティンと不機嫌そうにむすっとするシーダーが残った。

「デヒティンて、結構、お節介なのね」

「うん? だって、モードはだいぶリードされちゃってるから、ちょっとくらい背中を押してあげないと追いつかないんだもの」

 恨みがましく呟くシーダーに、デヒティンは悪びれない笑顔で答えた。

「でも、これでやっといい勝負になりそうかも、って感じになってきたよね~。って言うより、モードの方がチャンスは多くなるかも」

 ぐっ、とシーダーは呻き声を洩らした。

 週末しか帰って来られないシーダーよりも、毎日でもハルに会えるモードの方がチャンスは多いに決まっている。ただ、今まではモードがうじうじして手をこまねいていたせいで、シーダーが圧倒的に先行していたというだけの事だ。

「私はモードの味方だもん。シーダーもうかうかしてられないよ」

「……負けっこないわよ。ハルは私が好きなんだもの」

 頬を膨らませるシーダーの虚勢を見透かしたように、デヒティンが相変わらずにこにこしているのがやけに癪に障った。

「えへへ。確かに今はまだシーダーの方が分があるよね。でも、これからはわかんないよ~。モードだって本気になっちゃったもの」

 確かにデヒティンの言う通り、モードの追い上げが怖いのは事実で、シーダーも焦りを感じていた。

「でもね~、だからって、ズルはなしだよ」

 デヒティンの一言に、思わずぎくりとした。

「……ズルって何よ?」

「ん~、そうだな~」

 探るように呟くシーダーに、デヒティンは笑顔を崩さないままで言った。

「ハルに魔法をかけて虜にしちゃったりとか?」

 さらりと告げるデヒティンの言葉がシーダーをどきりとさせる。

「キーン家の女は魔女だものね。ついでに邪魔なライバルは蛙にでもしちゃおうかな」

 冗談に付き合ってやっている、とでも言うような体で笑って見せるシーダーに、デヒティンは丸い肩を小さくすくめた。

「私のひいひいおばあちゃんの名前はね──」

 デヒティンはおっとりした調子だが、はっきりと聞こえる声で言った。

「リンデン・キーン、て言うの」

「──っ!」

 西洋菩提樹リンデンという木の名前とキーンの姓。

 シーダーは思わず息を飲んだ。

「リンデンが生んだのは男の子。女の子にしか受け継がれない伝統の力も赤毛も持たない男の子は生まれ育った村を出て行ったけれど、その子孫は先祖の故郷へ帰って来たの。名字はワトソンに変わっていたけれど」

 口を噤んで目を見張るシーダーに向かって、デヒティンは続けた。

「赤毛も木の名前も魔法を使う力も持っていないけど、幽霊や妖精を視(み)るくらいはできるわ。私、ほんのちょっとだけ、キーン家の血筋が入ってるのよ」

 そう言って、デヒティンはくすりと控えめに笑った。

「……それじゃ、私とデヒティンって……?」

「ずうっとさかのぼるとご先祖様は一緒みたいだよ。まあ、だからって、特に何かってほどの事でもないかな~、とも思うけど、一応は遠い親戚になるみたいだし、よろしくね。って、あらためて言うのも変かな~」

 途惑うシーダーに対し、デヒティンの方はあっさりとした様子だった。

「……本当?」

「さあ? ずうっと昔の事は本当かどうかわかんないけど、少なくとも、視(み)えるのは本当だよ~。

 だからね、もしも、シーダーがズルなんてしたら、私はちゃんと見破れると思うな。それに、やっぱりそういうのはなしの方がいいと思うし」

「別に……、言われなくったって、そんな真似しないわよ。する必要だってないし!」

 シーダーは息を荒くして言った。

「うん。良かった」

 にこりと笑うデヒティンに、シーダーは毒気を抜かれて溜め息を吐いた。

「デヒティンって、のんびりしてるようで、結構、したたかよね」

「そうかな~?」

 いらいらと歯噛みするシーダーに、デヒティンはやはりにこりと笑って答えるのだった。


§


 その日の深夜。

 目を覚まし、渇いた喉を潤しにキッチンへ向かったデヒティンは、明かりの点いていない物陰で、せっせと床を磨く茶色い小人の気配を感じたが、気付かない振りをして通り過ぎた。

 妖精はあまり人に姿を見られるのが好きではない。ブラウニーのように、こっそり人目に付かない所で働くような妖精なら尚更の事。

 この家で、妖精をるような事ができるのはデヒティンだけだ。たまたま先祖の力が少しだけ出たのか、キーン家の血筋である父方はずっと男児続きで、デヒティンが初めての女児だったからなのか、詳しい事はわからないが、どのみち、大して強い力はない。シーダーに説明した通り、普通の人とは違うものが少しばかり視えるだけだ。

 人と違う事に大して優越感を感じるでもなければ、厄介事と悲観するでもない。ただ、それを吹聴しないだけの分別を備えて、当たり前に暮らすだけ。十三才でそんな達観した域に達してしまっているデヒティンは、のんびりした中にしっかりした芯を持つ少女だ。

 そんな性格だからか、やんちゃなボーイフレンドや奥手な親友のような、手の掛かる相手の世話を焼くのが楽しいのだ。

「どうなるのかなぁ?」

 と、独り呟きを洩らす。

 デヒティンがどれだけお節介をした所で、結局、モードを選ぶかシーダーを選ぶかは、ハルの気持ち次第なのだし、デヒティンの目には、キーン本家の魔女のように未来までは視えない。

 できるのは、なかなか踏み出せないモードの背中を後押しする事くらいのものだ。シーダーの魔法を見破れる、と言ったのははったりだが、牽制にはなるだろうし、元より、プライドの高いシーダーが魔法で作った紛い物の好意などで満足するはずがないとも思っている。

「みんながうまくいく、って訳にはいかないもんね」

 デヒティンとしては、親友のモードを応援しているが、決してシーダーが嫌いな訳ではない。しかし、どちらかが勝者になれば、もう一方は泣く事になるのだ。

 難しいなぁ、とデヒティンは胸の内で嘆息した。

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