回顧18-02 腐愛を穿つ(下)




 その言葉が合図であったかのように、繰絡さんがミコトくんを抱きしめた。ミコトくんの視界を丸ごと覆い隠すようにして、真正面から強固に抱きしめた。

 アラタの左腕を掴む私の手に、思わず力が篭もる。アラタは痛がる様子も見せず、そのまま私の頭を抱えるようにして引き寄せた。

 視界の片隅で、ツクヨミ様はただ笑っている。口元の紅を寝転ばせて、「うふふ」と楽しそうに。狂ったように。


「──嗚呼あ゛あ゛あぁぁぁぁっっ!!」


 野太い雄叫びを上げて、内灘さんは手にした石を振り下ろした。

 殴るようにして──殴り殺すようにして。

 何度も、何度も、何度も、何度も、執拗に振り下ろした。

 ミコトくんのお母さんへと向けて。

 愛したはずの奥さんへと向けて。


 ──今も愛しているはずの、大切な人へと向けて。


 ぶちゅっ、という音が脳漿と共に放たれ。

 ごぽっという音が口元から無数の卵と共に。

 べきっという音が折り曲がった躰のどこかから。

 ぴちゃりという音が、ぴちゃりぴちゃりと跳ね続ける。


 羽ばたく鳥のように、

 無数の羽虫たちが大空へと飛び立ち。

 その幾つかを、大粒の雨が地面へと打ち付けた。

 羽虫の打ち付けられた先では、よく肥えたムガデやら何やらが。

 泥濘んだ地面を這い回りながら、まだ知らぬ世界へと旅立っていく。


 ──幕を引いていく。


 私とアラタは、吐き気を堪らえながら──。

 それでも決して、決して目を逸らす事はなく──。

 それがせめてもの、『責任』の果たし方であるかのように。

 腐り爛れた肉塊が、徐々に土へと還っていく姿を眺めていた。


「嗚呼あ゛あ゛あ゛ああああああああぁぁぁァァっ!」


 返り血に染まった内灘さんが、

 臓器の破片に塗れた内灘さんが、

 愛する人の命と混ざり合った内灘さんが、

 血走った目で、空を仰いで吠える。


 吠え続ける──。


「ああああああああああああああああ!」

「ああああああああああああああああああああああ!」

「あああああああああああああああああああああああああ!」


 内灘さんの狂気の行く末を、この目に焼き付ける。

 内灘広葉という男の、責任の果たし方を焼き付ける。

 『向かい合うべき現実』に、今こうして向かい合ったその姿を。

 『見たくも聞きたくもない現実』を、今こうして捻じ伏せたその姿を。


 不思議と、尊敬の念さえも覚えながら──。


 ボディースーツの鮮やかな赤色は、今やドス黒い真紅に染まっていた。

 暗く、昏く、くら赭色しゃしょくこそが、ミコトくんのお母さんが確かにそこに存在していた証であり、すべてが終わった証でもある。


「──はは、俺もう焼き肉は無理だわ」


 アラタは不謹慎極まりない言葉を吐きながらも、震える私の身体を力強く支えてくれた。その支えが無ければ、猟奇映画も真っ青な光景を前に、またしても腰を抜かしてしまっていただろう。


 内灘さんは、呆けたままで虚空を眺めている。今の内灘さんに掛ける言葉など、到底私は持たなかった。今はそれよりも──それよりも。


 私の位置からは、ミコトくんの様子が窺えない。小さく丸まった繰絡さんの背中へと、私は問いかけた。


「繰絡さんっ! ミコトくんは?」


 繰絡さんが声を発するまでには、ほんの少しの間があった。ややあって控え目に振り向いた繰絡さんの、血の気の引いた顔色から──真っ青に変容したその顔色から、わずかな逡巡が、決して意図して挿入されたものではない事を知る。


「──えへへ、梨沙ちゃん。少々困った事になりました」


 繰絡さんはそう言って咳き込みながら、ばたりと地面に伏せる。彼女の纏った迷彩柄に紛れて、光沢のある鮮血がその全身を覆っていた。所々が破れた迷彩服から、だらしなく裂けた肉片が覗いている。痛々しい無数の裂傷が、その全身に刻まれていた。




「──おや、まさかの神格化か。これは面白いね」


 ツクヨミ様が独りごちる。面白いなどという言葉とは裏腹に、その口調には強い感嘆と警戒心が滲み出ていた。視線の先を辿れば、そこにはあおぐろい翼を広げたミコトくんの姿が──。


 状況を察した内灘さんが、繰絡さんに駆け寄ってミコトくんから引き離す。どす黒い返り血に染まった内灘さんと、自らの鮮やかな血に染まった繰絡さんの姿が対照的で──類似的だった。


「ふはは、父ちゃんはもうへとへとなんだけどな」

「えへへ、罪には罰が付き物ですね」


 緊張感を欠いた面持ちで、それでも自らを嘲るように二人が言う。その罰に巻き込まれてしまった、罪の無い少年を前にしてこうべを垂れる。


 私はといえば、不思議なくらい冷静に、まるで他人事のようにその光景を眺めていた──あるいはさめざめと、この状況を分析さえもしていた。ツクヨミ様は驚いてみせたけれど、内灘さんは慌ててみせたけれど、よくよく考えれば簡単な話だ。少なくとも私にとっては、至極簡単な話なのだ──ミコトくんの読心術の精度を、その感受性の強さを知っている私にしてみれば。


 人々の想いが、この世のことわりを塗り替えるのなら──。

 ミコトくんは今まさに、それをやってのけた。ただそれだけの話で──。


 自らの父親と、繰絡さんの絶望を感じ取って。

 私たちの覚悟と、母親の愛情を感じ取って。

 もしかすれば、その場に居合わせた神様の心情さえも感じ取って。


 そのすべてを、綯い交ぜにして。


 想いを織り上げたミコトくんは、この世の理を塗り替えた。

 内灘さんが果たせなかった悲願を、いとも容易たやすく形にしてみせた。

 違う、容易くなんかない。容易いわけがない。

 ミコトくんの絶望こそが、誰よりも何よりも、暗く昏い感情であるはずなのだ。


 その黒い翼が、私たちに何をもたらすのか。

 そんなの決まっている。解かりきっている。それにたった今、繰絡さんも言ったばかりだ。


 散々自分を振り回し続けた大人たちへ、罰は放たれるのだ。

 私がこの烏丸町を疎んだように、ミコトくんが世界を憎むのならば。



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