回顧17-02 無能な神様(下)




 ぐでぐでと目玉の融け落ちた伽藍堂がらんどうの眼窩には、黄土色をした蟲の卵がびっしりと詰まっていた。今こうしている間にも、口の中で孵化した新しい幼虫が、広い世界を求めて這い出てくる。彼女の頭上では無数の羽虫が、祝福の天使さながらに蘇りを歓喜して飛び回っていた。


 ──蘇り? これが蘇りだって?


 何処かへ落として来たのか、両腕はすでに無い。そして生前は美しかったであろうその両脚も、今では融け爛れて人魚の尾鰭のように一緒くたに纏まっている。腐った皮膚のあちらこちらから覗く乳白色の骨だけが、彼女が軟体動物では無い事を示す唯一の証明のようだった。

 雨粒に濡れたざんばら髪は、絡み付くようにして全身に張り付いている。しかし彼女の這ってきた跡に、その黒髪が散り散りと抜け落ちている事から、膿み爛れた頭皮が毛髪を支えきれていない事が窺えた。


「み、みみみ、こ、とおおおおおお──!!」


 ぼこぼことあぶくの溢れるような音と共に、奇声が放たれる。

 それは、化け物の叫び声であるのと同時に、紛うことなき母親の声だった。そう確信させるには充分過ぎるほどの悲痛な感情を、その叫び声は十全に宿していた。


「しかし醜いなぁ。『播州皿屋敷』に出てくるオキクムシのようだぜ。愛する自分の妻をそんな化け物にたとえたら、それこそバチがあたっちまうか? あー、しかし弱ったな、蘇りが所詮この程度だとは──大幅に予定が狂っちまった」


 そんな悪態を吐きながら、内灘さんは頭を掻き毟る。


 ──予定が狂っちまった?


 一体どの口がそのような事を言うのだ。心にも無い猿芝居を、この場に及んでも続けるつもりなのか。悲惨をも通り越した凄惨な光景に、私のはらわたは煮えくり返っている。

 逆巻く怒りをどうにかしてやり込めながら、私はこの状況を顧みる。

 顧みるまでも無い単純明快な真実を、やるせない想いと共に振り返る。


 あの時、内灘さんは言った。ウルトラCだなんてうそぶきながら、意味深長に語ってみせた。

 「『現滅化』の力を、『現存化』の力で打ち消す」──と。


 そんなの全部嘘っぱちだ。口から出まかせもいいところだ。

 今こうして思えば、その言葉自体がすでに虚言だったのだ。

 その狙い自体が、まやかしに過ぎなかったのだ。

 だって内灘さんは初めから──言っていたじゃないか。

 『月詠み葬の儀』が、『九相図』に倣った遅効性の呪いだと、勿体ぶらずに言っていたじゃないか。


 私なんて、ツクヨミ様を顕現させるための手段に過ぎなかった。

 私なんて、ツクヨミ様に赦されるための過程に過ぎなかった。


 内灘さんは、最初から困っていたのだ──つまりは困り果てていたのだ。

 この男は、『九相図』が完成してしまう事を恐れていた。

 屈強で偏屈で、傲慢で嘘吐きで救えないこの男は、『九相図』の完成だけを恐れていた。


 だってそれは──『月詠み葬の儀』の終着点だから。

 だってその瞬間こそが──ミコトくんが死んでしまう瞬間なのだから。

 『九相図』に倣った遅効性の呪いは、『九相図』の再現によって完成するのだ。

 だから内灘さんの狙いは──最初からこの『蘇り』だったのだ。


「ミコトくん、ちょっと見せて」


 私は──ある意味では希望的観測といえる自分の確信に従って、ミコトくんの輪袈裟を捲り上げる。彼の同意を待たずして、その腹部を皆に晒した。


 ──やっぱり。


 そこには、白くて柔弱な柔肌があるだけだった。ミコトくんの身体を覆っていた、おびただしい数のの文字の羅列は──ただの一字たりとも、その身体に刻印されていなかった。


「何だよ……呪いがリセットされてるってのか」


 声を震わせながら、アラタが恐る恐るミコトくんのお腹を擦った。状況の飲み込めていないミコトくんも、絶望と不安の入り混じった表情で自分の腹部を見やる。


「……お母さんが、治してくれたの?」


 問いかけるミコトくんに強くかぶりを振り、「それは違うよ」と断言してから続ける。


「あんなものが、お母さんなわけないじゃない。あんなのただの化け物でしょ。神様が遣わした妖怪か何かよ」


 そう言いながら、私はミコトくんを背にして立ちはだかる。オキクムシに喩えられた、腐乱した化け物と──ミコトくんのお母さんと。




「あれあれ梨沙ちゃん? せっかくのハッピーエンドを祝ってくれないのかい? 何だかお顔が怖いぜ」


 そう問いかけたのは、満面の笑みを浮かべた内灘さんだ。子供をあやすようなその口調が、ひどく癇に障った。


「ハッピーエンドを語るには、残された問題が多すぎると思いますよ」


 倫理的な問題は後回しにするとしても、残された化け物と、ツクヨミ様をどうにかしなくては。おそらく内灘さんは、この後の解決策においても何らかの策略を巡らせているのだと思う。しかしそれを問うたところで、はぐらかされてしまうのは目に見えていた。だから私は矛先を変えて、繰絡さんへと問いかける。


「繰絡さんも、これで良いんですか? このやり方の何処が『ウルトラC』なのか、私には理解出来ません──そして少しも、理解したくありません。それでも繰絡さんにとって、これは『めでたしめでたし』なんですか?」


 私に気圧される事もなく、繰絡さんは「えへへ」と微笑んでみせた。悲しいくらいにあっけらかんと、儚いくらいに無邪気な笑顔で、「えへへ」と微笑んでから続けてみせた。


「梨沙ちゃん、背に腹は代えられませんからね? 私たちは、何処まで行っても人間なのですよ。だから『命』の扱いについては──この場合は『みこと』の扱いについては、一括して神様にお任せする他にありません」


 私たちのそのやり取りを、とうの神様は冷淡な眼差しで見守っている。果たしてツクヨミ様の胸中に、どんな想いが渦巻いているのかは想像の余地も無かった。


「勘違いされては困りますのでこれだけは断っておきますけれど──ミコトさんのお母様は自ら命を絶たれたのですよ? 『月詠み葬の儀』を完成させるため、彼女は自ら死を選びました。そこに先生の罪はありません。私はその部分において、先生に非があるとは思っていません」

「……だったら、どの部分においてなら非があると思うんですか?」


 揚げ足を取るような自分の言い回しに嫌気が差す。それでも、ミコトくんの前で平然と真実を語ってのける繰絡さんに感じる嫌気に比べたら、私の自己嫌悪など本当に些末なものだった。


「えへへ、簡単なお話で──」「糸織っ」


 恫喝的な口調で、内灘さんが続きを遮った。しかし繰絡さんはその声に怯む事もなく──お口にチャックをする事もなく、滔々と連々と語り続けるのだった。


「簡単なお話ですよ。『月詠み葬の儀』を完成させたくないのであれば、ご遺体をすぐに燃やしてしまえば良かったのです。日本古来より、死体を処理する最善の方法は『火葬』と相場が決まっております。しかし先生は、それを躊躇われた。ミコトさんの呪いが進行し手遅れになってしまうくらいに──奥さんとお別れする事を保留してしまった。私はその部分においては、先生に非があると思います。先生を責める資格は決してありませんが、それでも──、ミコトさんが必要以上に苦しむ必要は無かったのです。そして梨沙ちゃんも新太さんも、私たちの物語になど一つも関わる事なく、安穏とした日々を変わらずに送れたはずなのです」


 言い表しようの無い複雑な感情が、私の中で交錯していた。怒りも、悲しみも、虚しさも、諦めも、すべての感情がごちゃごちゃと混線していた。

 茫然自失──そんな言葉が何よりも相応しい私へと向けて、繰絡さんが言う。それは今にも泣き出してしまいそうな──壊れてしまいそうな弱々しい声色だった。


「梨沙ちゃん……真実に拘るあなたに、先生の本音を一つだけ教えてあげます。これだけ騙し抜いて利用し続けて、今更何を──とお怒りはごもっともですが、いつも無駄口ばかりで役に立たないこの助手の戯れ言を、最後に一つだけ信じては頂けませんか」


 感情の伴わない目で私がゆっくりと頷くと、繰絡さんは「えへへ」と消えてしまいそうな笑顔で言った。


「先ほどの先生のお言葉──『蘇りが所詮この程度だとは──大幅に予定が狂っちまった』というお言葉は、嘘偽りない先生の本音です。この私が、繰絡糸織がそう保証します。えへへ。叶うならば私も、本当のハッピーエンドに立ち会いたかったですね。父、母、息子の三人が揃って新たにやり直される内灘家の姿を──心の底からお祝いして差し上げたかった」


 大粒の涙が、繰絡さんの頬を伝った。

 雨粒に紛れていても、決して見紛う事の無いうつくしい水滴。


 そして私には、もう何も分からなかった。

 何が正しいのかも──誰が間違っているのかも、何もかもすべて。


 もう何も分からなかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る