プロローグ

<プロローグ>



「夕飯は七時ぐらいにはできてるんだから、それまでには帰ってきなさいよ」

 私の言葉に、弟は目をらしたらやっとわかるぐらいかすかにうなずいて出て行った。

 元気にうんと返事してくれた一年前がなつかしい。

 中学に入ったら急にはんこうになってしまった。

 弟とふたである妹は、部活で夕飯の時間を過ぎることもある。

 私は料理が好きなわけではないけれど、腹ペコで帰ってくるだろう二人のために何ができるのかを考えるのは楽しい。

 今日はカレーだ。カレーのルーは具材といつしよに買ってきている。ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、海外産の牛肉。

 両親はいつも通り仕事で海外を飛び回っていてしばらく帰ってこない。二人はちゃんとご飯を食べているだろうか。

 すいはんのスイッチを入れて、おなべを火にかけ野菜をいためる。水を加えふつとうしたらルーをかして、後はいいにおいのし始めたお鍋を弱火でめばいいとなったら、急にすいが押し寄せてきた。妹とはちがい、高校では帰宅部で省エネに努めているのに、なんでこんなにつかれているんだろう。

「……少しだけよう」

 アラームを設定して、リビングのを引いて座る。机にしていると、窓からななめに差し込んでくる西日が背中に当たって、温かかった。




 アラームの音じゃなくて、シャワーの音で目が覚めた。いつの間にか妹が帰ってきていたらしい。私のかたには上着がかかっていて、机の上にはクマのキャラクターがかれたメモが一枚置かれていた。妹の字で「カレー大好き」って。

「ふふ……それはよかった」

 こうしてメッセージをくれる妹が可愛かわいい。たまに弟が妹に字を似せて書いてくることもあって、それも可愛い。こんなに可愛いていまいがいる私は幸せ者だ。

 メモ紙のそばには赤いあめが置いてあった。なぜかビニールに入ってないむき出しの状態だったけれど、妹がくれたものならなんでもうれしい。

 宝石のようにつややかな赤色の飴が、夕日の残光を浴びてれたようにかがやいている。れいだなあと思いながら口の中にほうり込んで、ん? と首をかしげた。

「味がしない……?」

 けれど、まずいわけでもない。

 不思議と温かいその飴が、舌の上でとろける感覚におどろいてまばたいたしゆんかん、空気が変わった。

 ──世界が、変わった。

「んんんん!?」

 私を包む空気が水に変わったかのような感覚に、思わず飴を飲み込んだ。のどに引っかかることもなく飴はするりと流れていった。けれどまだここは、水の中だ。私はもがいて顔を出した。

 バシャン、という水音がした。

「森。……それに、光る水たまり?」

 夢か、と思ったけれど、水が冷たい。

 ぐっしょりと濡れた制服をしぼりながら、座り込んでいた水たまりからそろりと立ち上がった。見れば足首のあたりまで深さのある水たまりは、金色に光り輝いていた。

 水たまりから足を抜いた瞬間、ふわっとった金色に光る綿毛が私のほおうでにぴたぴたっとくっついて消えた。

「ひゃっ!?」

 綿毛の温かくも冷たくもない不思議なかんしよくはスッと消えて、後に残るのは夢にしては風で冷える自分の濡れた身体からだだけ。

 私がいるのは深さ一・五メートルぐらいの穴の中で、その周りは針葉樹の森になっているみたいだった。い上がろうとしたら、穴のしやめんがつるつるとすべり、足がかけられず登れない。

 空は夕焼け色だった。どうして私はもうすぐ夜になりそうな森にいるんだろう?

 ふと、早くもかげが落ちつつある森の中でゆいいつの明かりである足元を見下ろして、息が止まりそうなほど驚いた。その水面には、私の家のリビングが映っていた。

「えっ、どうして……なんでっ!?」

 水たまりに手を突っ込んだら、さざなみって映像が消えてしまった。

 どくどくと鳴る心臓を押さえ、立ち位置に注意して、もう一度水面がぐのを待った。すると凪いだ水面には、確かにリビングが映っていた。

 視点としては、テレビと向き合っているソファの背もたれの上ぐらいから、カウンターキッチンを見ているような感じだ。机の上には妹からのメモが置いてある。

 私は息をんで水面に見入っていた。妹がおから出てきてくれれば、私がいないことに気づいてくれるかもしれない。

 けれど、数分ころ、私はもう一つのことに気がついた。

「あっ……時計の針、動いてない……!」

 カウンターの上のかべにとりつけられた時計の秒針が、二十五秒で止まったままだ。

 時計がいきなりこわれたんだろうか?

 それとも、あちらの時間が動いていない……?

「おい、そこにいるのはだれだ!」

 混乱して眩暈めまいを覚えていたその時、声がした。男の人の声だ。

「た、助けてください!」

 そういえば、穴の中から出ることができなかったんだった。

 声のした方へり返って手を振れば、すぐに声の主が近づいてきた。

 赤みがかったくろかみ? たぶんあんかつしよくの髪をした、西洋風とも東洋風ともつかない顔立ちで異国風の服装の青年だった。

 そのひとみは赤い宝石に似ていて、濡れたように輝いている。

 そういえば、似た色の飴を飲み込んだことを思い出して、思わず喉に手を当てた。

「人間、か?」

 私がようかいにでも見えているのかな。確かに、今はおうが時と言われる時間帯かもしれない。昼が終わって夜が始まろうとしている。こんな時間帯に森の中で人に出会ってしまったら、疑いたくなる気持ちもわかるかも。

 私を見下ろす青年の顔立ちが綺麗すぎて、もうこれが夢だと確信した。

 彼が首を傾げると、とうのような白いはだにサラサラと暗褐色の髪の毛が落ちた。赤い目の奥でちらちらとほのおのような光がひらめいて見える。長いまつにはつまようが何本もりそうだ。そういえば、百均で爪楊枝入れを買おうと思っていたんだ。

「早く目を覚ませばカレーができる前に買いに行ける……!」

「何を言っている? ──おまえ、俺の瞳に似た色の石を見なかったか?」

「石?」

「この辺りに、落ちたはずだ。知らないならば……おまえに用はないんだが」

 彼は低い声で言うと、顔をゆがませて赤い瞳で周囲の森をにらみつけた。暗くなりかけた森の中で探し物とは大変だ。ここで見つけたものじゃないけれど、私は彼の瞳とよく似た色の飴を先ほど見たばかりだったから、教えてあげることにした。

「これぐらいの赤い飴のことなら──」

 私が言いさした時、男の人がばやい動作で私のいる穴の中に飛び込んで水しぶきを立てた。

 彼は黒いかわぶくろをした手で、私の口をふさいだ。

「シッ! 静かにしろ」

 青年が素早く命じた次の瞬間、私たちの頭上の開けた空の上を、きよだい生物が飛んで行った。

「んんっ!?」

「俺をさがしに来たようだ」

 青年はかいそうに舌打ちした。彼を捜しているという巨大生物は、私のちがいでなければりゆうだった。夢にしてはすごくリアルな竜だった! 緑色のうろこが西日でキラキラと輝く姿は、げんそう的といっていいくらい綺麗だった。


『ルイス様ぁー! どちらにいらっしゃるのですかぁー!』

 不思議にひびく声が聞こえた。その声が遠くなると、彼は私の口をおおう手を外してくれた。

「ルイス様ぁー、って竜がしゃべった!」

「竜形態の者の言葉がわかるということは、おまえは〝りゆうしずめ〟か」

「りゅうしずめ?」

 耳慣れない言葉をり返したけれど、青年はとりあわず続けた。

「……それより、先ほど赤い飴と口にしていたか」

「うん。さっき、飲み込んじゃって」

「はあ!?」

「あれ、妹がくれた飴じゃなかったのかな……?」

 でも手紙にえてあったし。だけど確かにむき出しで……でも、そもそもうちの中にあったものだよ? 夢だからみやくらくがないのかな。

「飲んだ!? き出せ!!」

「たぶんもうけちゃったんじゃないかな?」

「溶ける!? ああそうか……〝竜鎮め〟の人間め! 俺の力を取り込んでどうするつもりだ!?」

 青年は青ざめた顔でさけんだ。彼は先ほどから何度も私のことを人間と呼ぶ。確かに彼は艶々とした暗褐色の髪と宝石のような赤い瞳も相まって、人間とは思えないほどこうごうしい。私より一個上くらいか。高校三年生ぐらいだろうか。こんなせんぱいがいたら学校生活はバラ色だろう。ファンクラブとか、絶対にある。

「あの、あなたのあめだったの? ごめんなさい、妹がくれた飴だとばかり思って。つい」

「……おまえの口を塞いだ時、いやな予感がしたんだ。俺の力がおまえから流れ込んでくるような、みような感覚があった。完全に、取り込んだな」

 睨むような目つきで見られ、思わずいまごろ飴があるだろうおなかを押さえると、彼はろんげな目をして私のお腹に視線をスライドさせた。

「腹をさばけば出てくるか。しかし殺したら俺の力が消える可能性がある……その上、俺の命までもなくなる危険性が……」

 ぶつそうな独り言を言っている彼のちようこくのように整った横顔をながめながら、私は森をき抜けるすずしい風にふるえた。もうそろそろ夏だというのに、はだざむい日がたまにあるから着る服に困る。かたに引っかかっていたカーディガンをしっかり着込んでから、彼にたずねた。

「そろそろ夕飯のたくをしたいんだけど、どうしたら目が覚めると思う?」

「これが夢ならば、俺だとて目を覚ましたい」

 せまくて小さい穴の中、彼にじろりと睨まれた。

 綺麗な顔がすごく近くにあることを今やっと実感して、ぎょっとした。しかも、そのぼうの持ち主はすごくげんで、おこっているのだ。不安で心臓がドキドキしてきた。

 だいだいいろの光がじわじわとしずんでいき、森の中にくらやみが満ちていく。

 急速にせまってくる夜をの当たりにし、だんの夢では感じられない時の経過を強く感じた。

 背筋に、ひやりとしたものが走った気がした。




 竜にルイスと呼ばれていた青年に穴の中から引っ張り出され、うでを引かれ、私は小走りで後をついていっていた。森の中は足場が悪い。でもこけそうになると、彼は強い力で私の腕を引っ張りあげてくれた。どこに連れていかれるのかわからなかったけれど、一人で穴の中にいるよりはいい。

 森の奥なのか手前なのか、土をみ固めただけの道があり、そこには馬車? がまっていた。

 人が乗れそうな箱を背負うのは馬というか、地面から少しく巨大タツノオトシゴだ。

「さっさと乗れ。人間といるところなど誰にも見られたくはない」

 押し込むように箱の中に乗らされた私は、ほおをつねってみた。

「ほっぺ痛い……夢じゃない?」

 夢じゃないとしたら、ここはどこだろうか。

 日本語は通じているけれど、日本ではないと思う。何しろ日本には竜なんて存在しない。そもそも、世界のどこを探しても、存在しない気がする……。

 ルイスがとなりに乗り込み、窓からタツノオトシゴ(仮)に「行け」と一声かけると車はすべるように動き出した。森の中なのにれない。タツノオトシゴ(仮)は浮いているし、箱の部分は背中に載っているからだろう。こんな生物も見たことがない。

「おまえはどこの村の者だ?」

「へ、村?」

「おまえが洗礼を受けた町の名前を言え」

「せんれい」

 意味がわからず言われた言葉を繰り返す私に、ルイスはイライラした様子でけんしわを寄せた。せっかく整った顔をしているのに。カルシウムを取らせてあげたい。

やさしく言ってやっているうちに、洗いざらい話せ。俺は力を取りもどすためにおまえを生かしておいている。だが、俺から力をうばいたいと思っているやつは多い。そういうやつらは喜んでおまえの命をねらうだろう」

「あの、私はこれを夢だと思っていたんだけれど……もし夢じゃないのなら、ここは私にとって異世界ということになるのかな」

 異世界トリップしてなんたらかんたら……弟がそんな小説をたくさん持っていた気がする。

 どうして借りておかなかったんだろう。こんなことになるなら絶対に読んでおいた方がよかったにちがいない。

「……どういうことだ?」

 ルイスの問いかけに私はここに来るまでにあったことを順番に話した。

 夕飯の準備をしていて、うたたねして、妹がシャワーを浴びる音で起きて……手紙と、置いてあった赤い飴に見えた、石のこと。この世界と私の世界の違いを説明しきれたとは思えないけれど、空を飛ぶしゃべる竜がいないのは確かだ。ルイスは意外にも私の言葉をあっさり信じた。

「俺からこぼれ落ちた力が竜脈に落ち、そして異世界へわたったのか……」

「信じてくれるの?」

「元より、竜脈は異界に通じると言われている」

 彼の言う竜脈というのは、気づいたら私がかっていた光る水がく場所のことらしい。

「竜のたましいは死んだら竜脈の果てに行くと言われているが、まさかその先におまえのような人間の生きる場所があるとはおどろきだ。しかし確かに、おまえからは竜族の気配がしない。つうは育った土地の竜族の気配から里が知れるものなのだが……」

「どうしたら帰れると思う?」

 ここは異世界で、なぜか私はここにいる。

 なら帰らなくちゃいけない。けれど来た方法もわからないのに、帰る方法なんてわかるものだろうか? 不安に思い見つめていると、彼はあごに指を当てて目を細めた。

「水面に、奇妙な像が映っていたな。あれがおまえの世界ならばおそらく、おまえの身体からだや魂は元の世界にかれているのだろう。だがおまえが取り込んだ俺の力は、この世界に惹かれ、おまえをここへいざなった。ならば、俺の力を取り除けば竜脈から帰ることが可能なはずだ。すべてのものはあるべき場所へ帰っていくものだ」

 帰れると聞いて、心の底からホッとした。

「それにしても、どうしてそんな大事な力? を落としたりしちゃったの?」

 先ほど彼は、私が死んだらいつしよに死んでしまうかもしれないとさえ言っていた。

 そんな大事なものはしまっておくに限るのに。

 ルイスは嫌そうな顔をして言った。

「……何者かに薬を盛られたらしい。俺の身体から強制的に竜族の力をいたというわけだ」

「竜族の力……」

おのれの身体を自在にあやつり支配する力。竜になる力だと思っておけばいい」

「竜になる力!?」

「そうだ。俺は竜になる力を持つゆいいつの種族、竜族だ」

 赤い目の人間ばなれしたようぼうの青年が堂々と胸を張る。

 やっぱりこれは夢なんじゃないだろうか? 私がぽかんとしている内に、彼は話を続けた。

りゆうとなって空を飛んでいた最中、うろこがれるように、俺の身体から力のかたまりが零れ落ちた。かろうじて身体に残った力を使い竜化を保ったが、森に降りるとほぼ同時に竜化も解けた。ここ数日落とした力をさがして彷徨さまよっていたが、落下予想地点の穴の中におまえがいたというわけだ」

 犯人はわからないという。

 心当たりがないというわけじゃなくて、ありすぎるということらしい。

「他人から強制的に力を奪う薬など禁制品だ」

 じっとすがるように見つめる私の様子をうかがいながら、彼は続けた。

「だが、おまえの身体から力を抜くにはその薬を手に入れるしかない。大々的に薬を探すこともできない。なぜならそれは、俺の弱体化をほかにも大勢いる敵に知らせることになるからだ」

「それじゃ、どうしたらいいの……?」

「確実に薬を持っている、あるいは薬の入手筋を知る者が一人いる。だれだかわかるか?」

「あ。……犯人、かな」

「ああ、そうだ」

 ルイスは険しい顔つきでうなずいた。

「俺の弱体化を誰にも知られぬよう立ち回り、犯人を見つけ、薬を手に入れおまえの身体から力を抜き、取り戻す。それが俺とおまえに残された唯一の道だ」

「唯一の……?」

 頭がぐるぐるしてきた。推理は全然得意じゃないのだ。ミステリードラマで犯人の予想が合っていたためしがない。妹は演出の仕方を見ただけで犯人がわかるらしいけれど。

 私が飲んだ飴はルイスの力? で、私の身体の中から力を取り出すには入手が困難な薬が必要で、犯人がそれを持ってそうだから、つかまえようよってことらしい。

「すぐに帰りたいけど、無理ってことだよね……」

 窓の外はどんどん暗くなっている。カレーのおなべを火にかけっぱなしなのだ。弱火だからだいじようだと思うけれど、妹が気づいて消してくれていることを期待する。

 希望は、水面に映る家のリビングの時計の秒針が止まっていたこと。

 あちらの進む時間が止まっているなら、二人を心配させずに元の世界に戻れるかもしれない。

「早く、犯人を捜さなくちゃ!!」

「利害はいつしたようだな」

 もちろん、私は犯人を捜すために全力で当たる!

「私はほしエミ! よろしくね!」

 隣に座るルイスにバッとあくしゆを求めて手を出したら、いやそうな顔をされた挙げ句顔をそむけられた。この世界には手を出す仕草にじよく的な意味でもあるのかな?

 なら仕方ないなと思って前を向いて座ること数分、そっぽを向いた隣の人から声が聞こえた。

「……俺の名はルイス・シュテルーン」

 うなるような声で、自己しようかい

 その態度ははんこうの弟によく似ていて、人とあいさつする時は目を合わせないとでしょうとさとしたくなったけれど、この世界では何か意味があるのかもしれない。

 お姉ちゃんしたくなるよつきゆうをぐぐっとこらえて、私は小さい声でもう一度「よろしくね」と言ってみた。

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