第5話 劇場ことば3 「かすがい」

「はい、もしもし」

 大道具の百万遍のため息まじりの声が由梨の耳に入って来た。

 都座の上手のロビー。通称、川端ロビー(西側)

 ここのロビーからは窓越しに鴨川が見渡せた。

 反対側の東側ロビー一階は、窓がないためにこのロビーの解放感が際立っていた。

「今、通し稽古。簡単に頼むで」

 由梨は、百万遍の声に誘われてロビーに近づく。

 百万遍が、窓越しに鴨川を眺めながら、携帯電話しているのが目に入った。

「しやから、朝から何回も云うてるやろう。小野小町の散歩は、今日はわしは稽古で遅くなるから、散歩させといてやと」

 由梨は百万遍の若干苛立つ声を確認した。

 携帯電話を切り、振り返った百万遍は、すぐ後ろに由梨が立っていたので、少しのけ反った。

「仕事中何回も嫁はん、しょうもない事まで電話してきよる」

「仲睦まじくて、羨ましいです」

「そんなええもんと違う」

 少し棘のある言葉遣いだった。

「すみません」

 由梨は無隣庵での美香の言葉を思い出して謝った。

「いやあ、あんたが謝る必要はない」慌てて百万遍は、そう言葉をつないだ。

「嵐山さんは、独身か」

「はい、独身です」

「ええなあ、羨ましいなあ」

「私からしたら、結婚してはる百万遍さんが羨ましいです」

「何をたわけた事を。云うといたるわあ。結婚したら想定外の連続やぞ」

 急に声をひそめる百万遍だった。

「何が想定外なんですか」

「まあ色々。結婚したらわかる。それも結婚生活長く続ければ続けるほどな」

 にこっと微笑んで百万遍は、再び舞台に戻って行った。


 通し稽古の時、案内係は通常都座の二階客席で芝居を見る。

 この時に花道の出入り、暗転転換等を、各自メモする。

 ただ、本番中役者のロビー通過(1話参照)がある時は、数人の案内係は、ロビーで待機している。

 いつ、どのタイミングで舞台から役者が出て来て、ロビーを走るのかを実際に見るためである。

 今回美香、由梨、和美はそのロビー通過を実地検分していた。

 明日から七月公演(四条エリの京都うたヒットパラダイス!)が始まる。

 四条エリは、京都出身の演歌歌手。三十年前から、ド演歌ではなくてポップス演歌、ニュー演歌と称して爆発的人気を誇っていた。

 演歌不毛の昨今、一人、気をはいていた。

 京都出身の四条にとって、都座での公演は、故郷京都への凱旋公演でもあった。

「葵祭」「祇園祭の恋」「大文字の誓い」「永遠の恋・時代祭」と一連の京都を舞台にした歌は、CDの総売り上げ、一千万部と爆発的ヒットを記録していた。

 主題歌を元にした映画、テレビドラマ、ネット配信ドラマも大入りを連発していた。

 今回、初めてお芝居と歌の二本立てで、都座に出演する。

 ロビー通過の時、四条エリは、顔をほころばせながら、

「案内さん、ご苦労さまです」

 と深々とお辞儀しながら通り過ぎる。

 そして美香と目が合う。

「ええっ!まだいてたの!」

 エリが美香の顔をまじまじと見ながら言葉を発した。

「全然、年とらへんねえ。昔のままやあ。もう美香ちゃんは生きる化石、都座のシーラカンスやねえ」

 と周りの由梨らに云った。

 しかし、シーラカンスの意味がわからなくて、由梨は無表情だった。

「あかん。時代遅れやねえ」

 美香だけ受けて笑っていた。

 二回目のロビー通過に備えて、上手側のロビーで待機していた。

 ロビーと舞台を仕切るドアを開けて出て来たのは、エリではなくて百万遍だった。

 さっきと同じく携帯電話を耳に当てながら出て来た。

「はい、もしもし、どないした」

 数秒の間を挟む。

「小野小町散歩させてたら、迷子になったてか。心配せんでもええ。小野小町の首を見てみい。帰る住所書いてるから、誰かに聞いてみいや」

 さらに会話が続くようだった。

「百万遍さん、もう少ししたら四条エリさん、ここを走りますから」

「えっ何やて、もっと大きな声で喋れや」

 と百万遍が云ったところで、背後からエリが走って来た。

「通ります!通ります!」

 付き人が叫ぶ。

 携帯電話しながら百万遍が振り返る。四条エリと目が合った。

「百万遍さん?」

「エリ、久し振り!」

(えっ、二人は知り合いだったのか)

 その場に居合わせた美香、由梨、和美の共通認識だった。

 一瞬立ち止まり、

「今は稽古中だから、あとで」

 エリは鳥屋口に消えた。

「百万遍さん、知り合いなんですか」

「ああ、昔からのな。あいつが売れる前からの古い古い話や。知ってるか、エリは昔都座で案内係やってたんやで。いわば、あんたらの大先輩や」

「ええ、まあ」

 美香はうつむいて曖昧に答えた。

「チーフは知ってるよなあ」

「ええまあ」

「四条エリが都座で、案内さんやってたて知ってるて、あんたも古いなあ。幾つになった」

 百万遍は禁句の年の事を、ずばっと聞いたので由梨は驚いた。

「さあ、幾つでしょうか」

 百万遍の直撃弾受けても、美香はいつものようにさらりとかわした。

「四十か、五十か。いや五十まではいかんか」

「百万遍さん、これ以上聞くと、セクハラですよ」

「それもそうやなあ」

「そんな事より、奥さん大丈夫なんですか」

「察しがついたか」

「ええ何となく」

「うちの嫁はん認知症なんや。まだ初期のな」

 百万遍の携帯電話に電話して来るのは、確かに初期の症状と云える。

「大丈夫なんですか」

「大丈夫。正確には今は大丈夫かなあ。話し込んでたら急に現実に戻されたなあ」

 百万遍は舞台に戻った。


 今日は通し稽古が夕方には終わった。

 都座の隣りの満月堂で美香に頼まれて、買い物をしていると、奥の茶室の戸が開いて、

「嵐山さん」

 と声をかける人がいた。

「あっ蛸蔵さん!お久しぶりです」

「丁度よかった。今から都座に寄ろうと思ってたところです」

「何故今、京都にいるんですか」

「若旦那が時代劇の撮影で、帷子ノ辻(かたびらのつじ)の竹松京都撮影所通いなんです。今、その宣伝のための雑誌の打ち合わせなんです」

 まもなく終わると云う。丁度由梨も仕事が終わりだった。ここで二人はラインを取り交わした。

「でもいいんですか私で。白川和美さんに見つかっても知りませんよ」

「あの人とは、そんなんじゃないです」

 茶室の戸を開けて鯛蔵が出て来た。

「何だ蛸ちゃん、こんなとこで逢引かあ」

 鯛蔵は忍び寄り、蛸蔵の尻めがけて、両手を合わせて指浣腸した。

「痛いっ!」

 蛸蔵は身をのけ反って顔をしかめた。

 鯛蔵の声に咄嗟に由梨は、スマホをポケットにしまい込んだ。

「いえ、そんなんじゃないです」

「こいつには気を付けた方がいいですよ。各港に女がいる、じゃなくて各劇場に女がいるってねえ」

「若旦那、冗談やめて下さいよ」

「俺はいつも本気だよ。蛸と付き合うのやめて、鯛と付き合ってみるかい」

 にやりと鯛蔵は、由梨の顔に自分の顔を近づけた。

 上品な、エレガントな香水の匂いがした。

 由梨の鼻孔をくすぐるかのようだ。

「鯛は高いから、安い蛸にしときます」

 むせかえる香りに抵抗しながらの由梨の答えだった。

「俺、久し振りに振られたよ」

 けらけら大きく笑いながら鯛蔵が答えた。

「おい行くぞ」

 二人は再び茶室に戻って行く。それを見送る由梨。

「みいつけたあ」

 背後から和美の笑みを含んだ声が耳に入って来た。

「どうしたの」

「それはこっちの台詞でしょう。帰りが遅いからチーフが見て来いと」

「何でもありません」

「何でもあるでしょう。鯛蔵さんと蛸蔵さん。Wデートやないですか」

「そんなええもんやないの。ここで立ち話してただけ」

(デートは、これから)の言葉を思わず吐きそうになりながら、ぐっと唾とともにその言葉をも呑み込んだ。

 蛸蔵がラインで待ち合わせに指定して来たのは、四条木屋町の老舗の喫茶店「フランソア」だった。表の木の扉の写真が添付されていた。

 阪急電車四条河原町の木屋町出口から高瀬川沿いに、少し下がった所にある。

 木彫りのドアを押して由梨は奥へ進む。左に曲がると禁煙エリア席である。

 蛸蔵はそこまで細かく指定していた。

 由梨が行くとすでに蛸蔵はコーヒーを飲んでいた。

「早いんですねえ」

「若旦那が気を使って、もういいからって。自分も祇園で遊ぶみたいです。

 あの人世間では、やんちゃで通ってますけど、結構こころは繊細です」

「浣腸されても、尊敬しているんですね」

「今でもヒリヒリ痛いです」

 蛸蔵は少し腰を浮かして、大げさに顔をしかめた。

 由梨はその仕草を見て笑った。

 ウエイトレスが注文を取りに来た。

「コーヒーを」

「生クリームをお入れしてもいいですか」

「はい、お願いします」

 フランソアのコーヒーは生クリームたっぷり、乗っている。

 ウエイトレスが去ったのを見届けてから、

「その後どうですか」

 蛸蔵が聞いた。

 非常に曖昧な質問だったので、由梨は頭の中を思い巡らせた。

 ええ、ぶつかったお客様からは、その後何の連絡もないので、大丈夫かと思います」

 由梨の返事を聞いて小さく笑った後、

「そうじゃなくてあなたの事ですよ」

 と蛸蔵は云った。

「ええっと、大丈夫です」

 何が大丈夫なのか自分でもわからず、こころも身体もてんぱってる由梨だった。

 コーヒーが運ばれて由梨は一口飲む。ここの生クリームはそんなに甘くない。

 コーヒーの香りを邪魔しない控えめの味である。

 その二つのハーモニーが美味である。二人の間に沈黙が覆う。

 店内をクラシックの重厚でいながら、静寂さをも兼ね備える、心地よい響きが漂う。

「嵐山さんは、ずっと京都ですか」

「はいずっと京都です」

「京都は、どちらにお住まいですか」

「京都御所の西側です」

「羨ましいなあ」

「蛸蔵さんは」

「僕は東京です。下町です。浅草です」

「寅さんの世界ですね」

「嵐山さんから、寅さんの言葉が出るとは思ってもいませんでした」

「何で歌舞伎役者になろうとしたんですか」

「話せば色々あるんです」

 と云って蛸蔵は伝票を持って立ち上がった。

「どうしたんですか」

「次行きましょう」

 由梨の返事を聞く前に、蛸蔵は出口に向かった。

 次に蛸蔵が案内してくれたのは、高瀬川沿いの小さな小料理屋で、一階はカウンターのみで、二階が四畳半の小さな小部屋が三つある。

 障子戸を蛸蔵が開ける。せめぎあうかの様に、高瀬川が目に入る。

「ここの障子戸可愛い」

 由梨は窓辺にある障子戸を見て云った。普通は長方形だが、ここは丸かった。

 二人は向かい合った。

「明日から公演始まるんでしょう」

「ええ、演歌歌手の四条エリ公演です」

「都座の案内さんは大変だなあ。毎月出し物が代わって」

「でもそれが楽しいです」

「そうだろうなあ。毎月歌舞伎なら、大変だしな」

「蛸蔵さんは、どうして歌舞伎役者になったんですか」

 蛸蔵は運ばれて来た夏の割烹料理を食べながら話してくれた。

 先代の蹴田屋の芝居を見て、歌舞伎ファンになったのが小学六年生だった。

 今は亡き母親のつてで、蹴田屋に入門出来たと云う。

「嵐山さんは、どうして都座でお仕事されているんですか」

 返事に窮した。

 家の近所の同志社大学を卒業して、ネットで何となく都座の求人を見て応募した。それが真実だった。

「やはり、小さい時から慣れ親しんだ芝居小屋やったんです」

「そうですかあ。羨ましいなあ」

「何がですか」

「生まれてからずっと、京都で生活してるって事ですよ」

「それは、おおきに」

「嵐山さんには、わからないと思うけど、僕らは一年中全国の色々な劇場で芝居してるけど京都が一番、都座が一番だよ」

「けど、東京には新しくなった歌舞伎座があるやおへんの」

「あれは大きい過ぎるんだ。若旦那が云ってたけど、芝居をやるのには都座が一番だって」

「大きさですか」

「そう。それと芝居の神様がいるから、居心地がいいと若旦那が云ってました」

「芝居の神さん!鯛蔵さん見たんですか!」

 由梨は上半身をぐっと蛸蔵の方へ向け、目を大きく見開いた。

「若旦那は、しょっちゅう見ると云ってました」

「蛸蔵さんは」

「残念ながらまだ一度も」

「私もです。一度見てみたいです。で、その芝居の神様ってどんな格好しているんですか」

「若旦那の話によると、何でも女性だとか」

「容姿格好は」

「さあ、そこまで云ってなかったなあ」

 一呼吸置いて、蛸蔵が、

「切れ長の女性と思うけどなあ」

 と呟いた。

「見たのですか」

「いや見てない」

「そしたら何でわかったんですか」

「だって昔からよく云うだろう、(かみ ひとえ)って」

「もう、蛸蔵さんったら」

 笑いながら由梨は、身を乗り出してばしばし叩いた。

 ほんの少ししか飲んでないのに、身体が、こころが、いつもよりもはじけているのがわかった。

 楽しいひと時は、あっと云う間に終わる。

「じゃあ七月公演頑張って下さい」

「蛸蔵さんもねえ」

 にっこりと微笑んだ。

 あっさりと蛸蔵は街角に消えて行く。

 その後ろ姿を追いかけて行けば、また違った展開が待っていたかもしれない。

 しかし、それを行う勇気を由梨は持ち合わせていなかった。

 家路に着き、風呂に入り一息つく。

 スマホのトップ画面にラインメールの表示が出ていた。

(お疲れ様。七月は前半はお仕事ですが、後半は空いています。また連絡します。

 今夜は楽しかったです)

 のメールと共に、蛸蔵の自画像撮りが添付されていた。すぐに返信した。

(お疲れ様です。私も楽しかったです。またお会いできるのを楽しみにしております)これほど、気持ちを開放できたのは、久し振りだった。


 翌日、四条エリ公演が始まる。

 都座の東側ロビーにCDレコード即売所が開設された。

 毎回、都座で歌手公演が始まると、四条河原町に店を構える「千本音楽堂」が出張店をやる。初日から、都座の案内係が手伝う事になった。

「千本さんのアルバイトの方が急に来れなくなりました。次のバイトが決まるまで、うちの案内係が応援でお店のお手伝いをする事になりました」

 醍醐が事情説明した。

「今日から三日間は嵐山さんお手伝いして下さい」

「はい、わかりました」

 と返事したものの、四条エリの事を全然知らない自分が不安で仕方なかった。

 開場すると、客がどっと売り場に押し寄せた。不安がる余裕もなかった。

 制服で応対していたので、客は由梨が案内係だとすぐに気づく。

「頑張ってや、姉ちゃん。エリも昔はここの案内係やったんやで」

「そうらしいですねえ」

「姉ちゃん、わしと一緒にこれからカラオケ行こか」

「今日は忙しいので、また次回誘って下さい。お待ちしてます」

 客のあしらいも板について来た由梨だった。

 開演すると客は客席に戻るので、売り場は暇になる。

 それで由梨は、正面一階にある、案内所に戻る。

 開演すると場内は、携帯電話抑止装置が働き、例え電源をオンにしていても、作動しないようになっている。

 緊急を要する場合は、客は携帯を案内所に預けていて、電話が鳴ればそれを客に云いに行く。

 始まってすぐに舞台と客席を仕切るドアから、百万遍が出て来た。

 例によって、携帯電話をしていた。

「もしもし、どないした」

 半場あきれ返った口調である。

「家の鍵なくしたてか。なくしてない。玄関横の鉢植え、ひっくり返してみい。わしが朝に置いて来た。よし切るぞ」

「毎日大変ですね」

 由梨が声をかけた。

「これも日課や。しょうがない。まだ忘れんと電話して来るだけましや。それも出来ひんようになったら、しまいやな」

「あまり先々まで考えるんはやめましょう。気が重くなるだけですから」

「そうやなあ」

 今度は、案内所で保管している携帯電話が鳴った。

「八列一五番のお客様の電話やねえ。嵐山さんお願い、云うて来て下さい」

 チーフの美香が云った。

「八列一五番ですね」

 すぐに由梨は場内に入る。

 客はあらかじめ察知したのか、由梨の姿に気づいて案内所に行った。

「おおきに。えらい発明品のおかげでおちおち、ゆっくりと観劇も出来へんなあ」

 中年の客は苦笑いした。

 昔なら幕間まで、場内放送が出来ないから、少なくとも一幕はゆっくりと観劇出来たはずだ。

 客は少し離れたところで電話した。

「どうした」

 しばらくの間。

「そんな事でいちいち電話してくるな。死んだかと勘違いするやろう」

 客は携帯電話片手に、ロビーを行ったり来たりせわしく往来していた。

「そんな事、警察に頼めばいいやろう」

 そこで客は一方的に電話を切った。

「大丈夫ですか」

「大丈夫・・・でもないな」

「また携帯電話お預かりしますよ」

 客はポケットに入れたまま客席の中に入ろうとしたので、由梨は声掛けした。

 客は立ち止まり、一瞬どうしようかと戸惑ったが、

「それもそうやな」

 と云って再び、由梨に携帯電話を預けた。

「すまないねえ、お世話かけます」

「いえとんでもない。ごゆっくりと」

 由梨と美香は、満面の笑みで返事した。

「本席やと出入りで他のお客さんに迷惑かかるから、どこか後ろで席がないですか」

「じゃあ後ろの案内係の椅子なら空いてますが」

「そこお願いします」

「でもパイプ椅子の簡便なものですけど」

「何でもいいです」

 由梨がお客様を案内して、再び案内所に戻った。するとまた百万遍が出て来た。

「もしもし、どうしたんや」

 間。

 由梨も美香も出来るだけ個人のプライバシーなので、電話の内容は聞かないよう心掛けた。しかし、どうしても開演中のロビーは人影もなくひっそりと静まりかえっているので、聞かずともはっきりと聞こえて来る。

「ないて、何がないんや」

 ワンクッション置いて、

「植木鉢がないてか。そんなはずないて。よう探してみいや。絶対あるはずやから。そないどんどん叩いてもドアはあかんで」

 また案内所の客が預けた電話が鳴る。

 再び由梨は、云いに行った。今度は後ろに座っていたのですぐに出て来た。

 即携帯電話を渡す。

「はい。知らん人がドアを叩いているて。警察へ電話しろ。えっ、したてか」

 客はさらに、

「今から帰る。待っとけ。警察来るまで開けたらあかんぞ」

 客は電話を切る。

「あかん。今から帰りますわあ。勿体ないけどしょうがない」

 慌てて帰ったために、客は鞄の忘れ物をした。

 そのために客の身元が判明した。

(北大路猛。住所は京都市左京区・・・)

「あっ!」

 百万遍が小さく叫んだ。

「お前なあ、間違えたやろう。よし、そこ動くな。待っとけ」

 百万遍は踵を返した。

「大丈夫ですか」

「ちょっと大丈夫じゃないかも」

 くるっと振り返り、百万遍は小さく微笑んだ。

 案内所前で由梨は、美香、和美と話していた。

「さっきのお客様、ほとんど見ずに帰ってしまいましたね」

「可哀想に。せっかく四条エリの歌を聞きに来たのに」

「営業さんに頼んで、席を検索して貰ったら、四条さんの後援会の席やったそうよ」

 と美香が云った。

 自宅の電話番号が書いてある書類が出て来たので、自宅へ電話するが今は誰も出ない。

「何かあったんかなあ」

 和美は呟いた。

「おそらく電話でのやり取りから推測すると」

「いやや、嵐山さん、盗み聞きしてたんですか」

 和美が突っ込む。

「盗み聞きて、人聞きの悪い。自然に聞こえて来たんです。ねえチーフ」

「開演中のロビーは静かなのよ」

 美香が説明した。

 昼の部の終演間際、やっと連絡が取れた。

「えらいお手数かけてすんまへん、近日お伺いします」

 と丁寧な言葉だったと美香から聞かされた。

 四条エリは女性にも人気のある演歌歌手だった。

 毎回プレゼントコーナーなるものが、歌と歌の間に必ずある。

 大きな花束を持って来た客は、プレゼントコーナーまでその花束を案内所に預けていた。

 そのため歌が始まるまで、案内所は幾種類もの花束に覆われていた。その中に美香がいた。

「チーフ、きれいな花束に埋もれて素敵です」

 と和美は云った。

「チーフ自体きれいな花なんや」

 と醍醐はにやけながら云った。

「つまりお花対決ですね」

 由梨が混ぜ返した。

「もういややわあ」

 ぽうっと頬を染めた美香だった。

 数日後忘れ物を取りに北大路がやって来た。

「北大路さん、先日はほとんどお芝居見てないじゃないですか」

「ええ残念です」

「もし空いている日で、もう一度見てもいいですよ」

「いやあそれは嬉しいですけど、厚かましいです」

「本当にいいんです」

 これは醍醐が今出川、衣笠らと話し合って決めたのだ。まして後援会の客だ。

 エリにも、この話はいっていた。

「あら、北大路さんいらっしゃっていたの。ぜひそうさせて下さい」

 とエリも快く承諾した。一度は断った北大路だったが、

「じゃあそうします。但し来るのは私じゃなくて、妻にして下さい」

「北大路さんはどうするのですか」

「終わり頃迎えに来ます」

「じゃあ後ろの案内さんの席で見たらどうですか」

 と由梨が提案した。

「いやあ一人分の料金で、二人も見るのは厚かましい」

 と一旦断った北大路だったがさらに勧めると快諾した。

「私もその方が安心です」

 北大路の話によると、この頃悪質な悪戯で妻は軽いノイローゼ、被害妄想に陥っているらしい。

「うちの嫁はん、昔から四条エリのファンなんや」

「そうだったんですか」

 何事もお客様の云う事、話す事を真剣に耳を傾ける。これもサービス業の一つだ。

 一人暮らしのお年寄りは、話す相手も、その話を聞いてくれる人もいないらしい。

 だから真剣に向き合う。由梨は研修の時に習った事だ。


 案内係の休憩は、交代で行う。

 普通のオフィスで働くОLなら、お昼休憩があるが、劇場は常に稼働している。

 昼の部の終演後お客様が退場すると、客席内の掃除、夜の部の準備と開場、開演と続く。芝居が開演すると、交代で短い休憩を取る。

 幕間。つまりお客様の休憩の時には、再び場内に立ち、色々な質問に答えないといけない。最大三十分の幕間が一回は必ずある。

 ここでお客様は、客席内でお弁当を食べたり、劇場内のお店へ行ったりする。

 十五分経過で、二人一組で案内係は、大きな透明のゴミ袋を携えて客席の一番前から順番に後ろに向かう。

 もし後ろからだと、ゴミ回収に気づかないお客様がいるから、絶対に前からだ。

「ゴミ捨てていいですね」

 弁当がらを受け取りながら、由梨は念押しした。

 この間のような、弁当がらと一緒に大事な写真盾を捨ててしまった一件(第3話参照)があったからだ。

 あの一件以来、昼夜別はもちろん、一階二階三階とゴミ袋に表示する事になった。

 案内係の役得は、やはり一流のお芝居が見られる事だ。

 よくお客様から、

「ただでお芝居が見れて、おまけにお金まで貰えていいわねえ」

 と良く云われる。

 お客様にしてみれば、ただ後ろに座ってじっと芝居を観てるだけの気楽な仕事と思われているのだろう。しかし雑務がある。

「今月番附(パンフレット)の売り上げがよくないので、中売りして下さい」

 とチーフの美香が朝礼の時云った。

 全体朝礼は毎月公演初日にやっているが、案内係の朝礼は、毎日行っていた。

 中売りとは、番附は案内所、売店で販売しているが幕間にゴミ回収のあと、番附を手に持って、高々と上げながら、

「今月の番附どうですか」

 と云いながらゆっくりと通路の左右の客席を見渡しながら進む事である。

 この時、ゆっくりと進むのがコツと由梨は美香から教わった。

 由梨がやった時、一冊も売れなかった。

「ちょっと歩くのが早いかなあ。貸してみて」

 と美香が同じ通路を、満面の笑みを浮かべて進む。すると五冊も売れた。

「何が違うのですか」

「お客様のこころの中を覗くのよねえ」

 意味深な美香の助言だった。

 今頃になってその真意がぼんやりと輪郭を出して来たかのように、由梨のこころの中にうっすらと投影して来た感じだ。

 お客様の中には、買うか買うまいか迷っている人もいる。

 美香はほほ笑みながら、その迷いを買う方へ誘導していたのだ。

 よく見ると確かに番附を少しだけ迷われているお客様に向けて差し出している。

 最初の頃、よく、

「姉ちゃん」

 と呼び止められたので、喜んで振り向くと、

「これ捨てといて」

 とゴミを手渡された。同じ事を美香もされた。しかし、美香は、

「はい有難うございます」

 とにっこりほほ笑んでゴミを受け取る。さらにその時、お客様にちらっと番附の中身を無言で見せる。

「番附どうですか」

 等と無粋な勧誘はしないのだ。

 この時、由梨は、美香の天性の客のあしらいを垣間見た気がした。

 中売りが終わると由梨は、再び所定の位置に立った。

 昼の部の幕間の時、百万遍が小さな袋を持ってやって来た。

「ほんまは、幕間に裏方がウロウロしてたら、今出川支配人に怒られるんやけどもな」

 と切り出した。

「これ、案内の皆さんで食べてや」

 と云って小さな袋を撮り出した。

「いいんですか」

「ええよ。ほれ、この前ロビーで開演中携帯電話で話してたやろう。えらい迷惑かけたなあ。その罪滅ぼしや」

 と云った。

 百万遍の腰に吊り下げたガチ袋(工具入れ袋)から鉄で出来たコの字型の何かの部品が落ちた。

 由梨は慌てて拾って、後ろ姿を追いかけて、それを渡そうとした時に、

「お手洗いどこですか」

 とお客様から聞かれた。

 場所を説明して云うと、すでに百万遍の姿は、舞台を仕切るドアの向こうに消えていた。


「ひゃああ、幻のみたらし団子やないの」

 控室で素っとん狂な大きな叫び声を上げたのが和美だった。

「縄手団子やねえ」

「チーフ食べた事あるんですか」

「ええ何度か」

「さすが年の功」

「年は、どうでもよろし」

 美香は、和美の言葉の攻撃をぽんとはねのけた。

「皆でたべましょか」

 今日は昼一回公演で、終演後まとまって休憩が取れた。

 この後、車椅子講習と、AED講習が待ち受けていた。

 昨今劇場やホテルなどで、AEDの設置が義務付けられた。

 AEDとは、心臓が止まった患者に対して、電気信号のショックで蘇生させる装置である。パッドを患者の胸の二か所に当てて装置を作動させる。

「縄手団子って、ほんまに営業してるんですねえ」

 和美が食べながら云った。

「あのお店はほとんど、道楽でやっているみたいやしねえ」

「営業時間もあってないようなもんでしょう」

 由梨も小さい時から、その存在は知っていた。

 都座のある四条通りの向かい側に店はある。店と云っても間口は二メートル、奥行きは一メートルもない小さな空間で、毎日ほとんど閉まっている。

 一週間に何日か、神出鬼没の如く朝の二時間とか、昼間の一時間とか、夜の一時間とか営業日、営業時間はバラバラで、さらにどんなに客が並んでいても突然、

「はい終わり」

 と店主は宣言する。

「何で終わりなんや。材料が切れたんか」

「材料はある」

「そしたら何で終わりなんや」

「わしがしんどいから」

 と平気で店主は云う。

「お前、客なめとんのか」

「そんな汚たない顔、ようなめんわい」

「何をもういっぺん云うてみい」

「ああ何べんでも云うたる。汚たない汚たない汚たない汚たない客の顔!!」

 店主と客の取っ組み合いの喧嘩が始まる。

 材料が切れる前に、客の堪忍袋が切れた。

「よう百万遍さん、縄手団子ゲット出来ましたね」

 と由梨は云う。

「確かに」

 縄手団子は、炭火で焼く。

 その炭も七輪も仰ぐ団扇にいたるまで、全て自前であると云う噂だ。とことんこだわりの団子だ。

 観光ガイドブックには、一切載せない主義だが、昨今個人のブログ、ツイッター、フェイスブックにはアップされて来たので、その神秘性はやや薄らいだ感は、確かにある。しかし、味は昔から変わらない。

 どこまでも濃密でいて、それでいながらしつこくない甘さ。

 団子の餅も炭火のせいか、ほどよく火が通り、口当たりもよく適当に柔らかい。

 ここの団子のうまさの真骨頂は、冷え時間が経ってからだ。

 冷えても味が全く変わらないのだ。

 だから色んな意味を込めて、京の人は、

(奇跡の団子)と呼ぶ。

 さらに大量買いを断っていた。一人五人前まで。同じ人が何回も並ぶのを拒否していた。どこまでも商売っ気はなかった。

 なのに、百万遍は、十人前の縄手団子を買って持って来た。どうして調達したのだろうか。もしかしたら、百万遍が都座の大道具だったからかもしれない。

 と云うのも、店主は、都座に対しては柔らかい対応していた。

 毎月のポスターを狭い店先に貼っていた。

「そのポスターも毎月の末に店主自ら都座に取りに来るのよ」

 美香がとっておきの情報をさらりと流す。

「それとこんな事があったんよ」

 さらに美香の話は続く。

 ある日、美香が都座の案内制服で並んでいたら、一人前しか頼んでいないのに、二人前の縄手団子が入っていた。

「おまけやで」

 と他の客には無愛想な店主が、美香にだけ笑みを見せた。居合わせた他の客は、

「奇跡の笑みや」と騒いだ。

「それって、単にチーフが美人だからでしょう」

 由梨は云いながら一口食べて立ち上がった。

「どこ行くの」

「ちょっと百万遍さんに用事があるんで」

 ポケットに忍ばせた、最前ロビーで落とした鉄のものを指先で擦りながら由梨は答えた。

 都座の大道具の部屋は、事務所と同じく半地下の一角にある。

 由梨が訪ねると、大道具部屋には鞍馬だけいた。

「あっどうも」

 鞍馬が軽く会釈した。きえもの事件(3話参照)の主犯格だ。

「その後どうなん」由梨はにやけながら聞いた。

「どうって。適当にやってますよ」

「彼女を泣かせたらあかんよ」

「泣かせてはいませんよ。で、用は何ですか」

「百万遍さんは、いますか」

「百万遍さんのいる場所はここではないです」

 と云って案内してくれた。

 百万遍がいたのは、舞台の奈落、つまり地下だった。

 昨今劇場の奈落は深くなる一方だが、都座の奈落は、僅か三メートルにも満たない。東京の歌舞伎座なら、十数メートルもある。

「百万遍さん、彼女が面会です」

 大工仕事している背後から鞍馬が声をかけた。

「彼女?」

 むっくりと振り返った。

「ああ、嵐山さん」

「じゃあごゆっくりと、しっぽりと」

 口元を半開きにして笑う鞍馬だった。

「アホぬかせ。お前と一緒にするな」

 と云いながら、ナグリ(金槌)で叩く真似をした。鞍馬は、

「ひえええー、お許しを!」

 半場、冗談っぽく振舞いながら出て行った。

「幻の団子、縄手団子有難うございます」

「どうやうまかったやろう」

「はい、美味しかったです」

「わざわざ、礼云いに来てくれたんか、こんな汚たないところへ」

 まるで自分の家のように振舞った百万遍さんがおかしくて、由梨は小さく笑った。

「はいそれもありますが、百万遍さんの落とし物を届けに来ました」

 と由梨は云ってポケットから鉄のコの字型の物を取り出した。

「どこで落としたんやろなあ」

 由梨の手のひらから、百万遍は拾い上げた。

 由梨はこれを拾った経緯を説明した。

「そうかあ、そうやったんか。それに気づかないわしも、あかんなあ。これ踏んで怪我はせえへなんだか」

 百万遍はどこまでも低姿勢だった。

「大丈夫でした」

「そりゃあよかった、すまんなあ」

「この工具何て云うんですか」

「これはかすがいと云うんや」

「かすがい」

 由梨は反芻した。

「そうや。元々は材木と材木を繋ぐ工具うやけども、昔から劇場でも使われて来たんや。舞台装置が倒れないように舞台の床面と舞台装置を繋ぐ重要な金具なんや」

 噛んで物を含めるように百万遍は、由梨に説明してくれた。

「子はかすがいって云うやろう」

「はい」

「夫婦が離婚しようかと、危機に陥っても二人でこさえた子供の幸せを願って、離婚を思いとどまる、重要なものと云う意味なんやで」

「そうだったんですか。夫婦で思い出しました。奥さんはどうなんですか」

「あかん。ここだけの話、うちの嫁はん実は認知症なんや」

「そうやったんですか」

 前から何となく気づいていたが、それは口に出さなかった。

「今は軽い程度やけども、日々悪くなるて。今の医学では決して完治出来んと云う話や。悲しいなあ」

 そう云う事だったのか。

 それで何かわからなくなると、すぐに百万遍に電話して来たのか。

「いづれ、わしの携帯番号も認識できんようになる。いや、わしの事を、長い間一緒に連れ添った婿はんと認識出来んようになるて、医者が云うてた」

 古雑巾の水を絞るかのように、百万遍の口から重い言葉が吐き出された。

「でも、子はかすがい。夫婦の危機は、子供さんが救ってくれます」

 由梨は力強く云いのけた。

「実はなあ、わしの一人息子は先月なあ過労死で、あの世に旅立ってしもうた」

 百万遍は、震える声を振り絞って云った。

「ごめんなさい」

 慌てて由梨は、頭を下げた。

「いやあ、何も謝る事はないで。しやからわしら夫婦は、かすがいはないのよ。この都座の奈落の道具箱には、たんとあるのになあ」

 百万遍は、そう云いながら由梨から貰ったかすがいを、たくさん収納されている(かすがい)箱に移しいれてかき混ぜた。

 きまづい雰囲気が漂う。

 それをいち早く察知した百万遍は、

「えらい湿っぽい話して御免なあ」

 と云った。

「いえ、百万遍さんの本当の姿見れてよかったです」

 由梨は付け加えた。

 数日後。

 開場して正面のロビーに立つ由梨。

 そこへ薔薇の大きな花束を抱えた北大路が、連れ合いとおぼしき女性を連れて現れた。

「北大路さん」

 由梨は一歩踏み出して云った。

「嵐山さん、先日は有難うございました。これっ」

 北大路が由梨の目の前に差し出した。

「ああ、お預かりしときます。第二部の歌が始まる時に、案内所に取りに来て下さい」

 由梨は、二つが一組になった親子札を取り出した。

 実は四条エリ公演の時、お客様が案内所に行かずに、その場で案内係に花束などのプレゼントを預かって欲しいと取り出す事がある。

 その場で対応するために、同じ番号の二組の札を用意していた。

 一つはお預かりの品物に挟み、片方の同じ番号札はお客様に手渡すシステムだった。

「嵐山さん、そうじゃありません。この薔薇の花束は、僕からのプレゼントです」

「私にですか」

「はい」

 傍らの女性もにこやかに微笑んでいた。

「奥様有難うございます」

 と由梨が云うと、

「あらここの案内さん、気が利くわねえ」

 と笑顔で反応した。

 続いて百万遍が女性を連れて現れた。

「どうしたんですか、百万遍さん!」

「そう叫ぶなや。わしかて芝居見るがな」

「どうもすみません」

 由梨は率直に謝った。

「実はなあ、今日は嫁はん孝行。嫁はん昔からの四条エリのファンなんや」

「ごゆっくりと」

 由梨は笑顔で答えた。

 今宵も芝居に引き続き、第二部の歌謡ショーが開幕した。

 そして恒例のプレゼントコーナーが始まる。

 北大路の連れ合いも、百万遍の嫁も通路にぎっしり並ぶ、プレゼント軍団の中にいた。

 ファンの贈り物の大半は、楽屋仲間や劇場関係者へと回される。

 そりゃあそうだろう、ホテル住まいの四条エリに毎日大量のプレゼントを収納するスペースを持っていない。

 プレゼントは多岐にわたる。

 花束、お菓子、祝儀に始まり、手製の人形、ハンカチ、下着、手ぬぐい、食べ物、日用雑貨、枕、布団、座布団、かんざし、指輪、ペンダント、過去のファンクラブのイベントを写した写真、社寺のお守り、宝くじ、スーツのお仕立券、扇子、帯などの私装具、など種々様々な品物を毎回持ち込んでいた。

 このプレゼントの山が、毎回、毎日、千秋楽まで続くのだ。

 そのエネルギーはジャニーズファンに負けないものだった。

 さらにこちらのファンは金を持っていた。

 おそらくジャニーズファンの数倍の購買力は持っていた。

 後方で由梨はじっと見守る。

 四条エリは一つ一つ丁寧にプレゼントの内容を聞いた。

 ある一人の客が手ぶらで現れた。

「おっちゃん、プレゼントはないの」

 エリが声掛けした。少し怪しい客だ。すぐに由梨は通路を身を屈めて走り、前へ行く。

「プレゼントは、この紙や」

 おじさんはそう云ってポケットからティッシュを取り出した。

「おや私は紙は紙でも、こんな形のものが欲しい」

 エリは云いながら、両手で長方形でお札の形を示した。

 場内は爆笑の渦と化した。

「このハゲ山もつけとく」

 おじさんはどこまでも、すっとぼけた。

「おっちゃん、そのしょうもないハゲ、いや間違うた。ボケはやめて下さい」

 またしてもぴしゃりと反応したエリだった。

 次の瞬間、笑いの大津波が、幾度となく場内、客席を覆いつくした。

 半分酔った客は、由梨の誘導で、客席後方へ連れて行かれた。

 後方では醍醐が待ち構えていた。そして客席の外へ連れ出された。

「ああ連れ出された。おっちゃん、もう戻ってこんでもええよ」

 再び場内は沸いた。

 次に北大路の連れ合いと、百万遍の妻が菓子を渡しながら近づく。

 四条エリと固い握手を三人が始めた。

 異変に気付いたのは由梨、美香だった。

 ぐいぐいと力強く二人は握りしめていた。

「ああ、ちぎれるて」

 エリが舞台から前のめりになり、客席に落ちそうになる。

 舞台袖から舞台監督が、客席後方から百万遍と北大路が同時に駆けつけた。

「私は、あんたのファン第一号や」

 と百万遍の妻が絶叫する。

「もうやめとけ」

 背後から百万遍が云って、握手している手をはがそうとした。

「いえ、私がファン第一号や」

 北大路の連れ合いも負けじと叫んだ。

 続いて由梨、醍醐も走って来た。

 穏やかなプレゼントコーナーが一転して、修羅場化した。

 百万遍は、暴れる妻を無理やり連れ出そうとした。

「ちょっと待ちよし」

 エリが止めた。

「なあ二人とも知ってますよ。まだ売れる前から応援してくれたもんなあ百万遍さん、椥辻(なぎつじ)さん」

 エリは二人の顔をじっと見ながら云った。

「椥辻・・・」

 どこかで見た気がする。顔じゃなくて椥辻の文字だ。しかし、どこなのか思い出せない。由梨はそう思った。

「北大路さんの妻じゃないんですね」

「すんまへん」苦笑いで北大路は、由梨らに応対した。すぐに四人は所定の客席に戻った。

「じゃあプレゼントコーナーは終了」

 後半は、観客お待ちかねの京都シリーズを歌う。

 地元で京都の歌を披露した。

「葵祭」「祇園祭」「時代祭」「大文字」の人気曲を立て続けに歌い出す。

 客席は、漆黒の闇の中で無数のペンライトが点滅した。入場の際、観客に手渡したペンライトである。ワイヤレス調光で、色や点滅などを、都座照明調光室で変幻自在に変えられた。

 それが光の洪水となり、流れ星のように変化した。


 終演後、百万遍夫妻、北大路、椥辻、由梨、美香がエリの楽屋を訪問した。

 どうしても、改めてエリに謝罪したいと百万遍と北大路が申し出たのだ。

 それで由梨、美香も一緒に行く事になった。由梨は、

「ちょっといいですか」

 と云って席をはずしてすぐに戻って来た。

 終演後の楽屋は、ごった返していた。

 エリには、ご贔屓筋からの訪問が相次いだ。それらの客の往来が済むまで待った。

 ようやくマネージャーが呼んでくれた。

 暖簾をかき分けてエリの楽屋の中に入る。

 化粧鏡の両側には大きなランの鉢植えがあり、さらに楽屋の出た廊下にもぎっしりと並んでいた。さらに増えるランは、都座のロビーにも飾られていた。

「私は、ほんまはラン好きやないんよ」

 由梨がじっと見つめていたので、エリが説明した。

「今日は、ほんまにすみませんでした」

 百万遍がまず先に頭を下げた。

「別にあれぐらいよくある事。私は別に気にしてないからね」

「ほんまにすんませんでした」

 次に北大路が謝り、椥辻も続いた。

「私は、にわかファンやけども、こいつがほんまのファンて知りませんでした」

「椥辻さん、もういい加減北大路さんを放してあげて。あんたも亭主の元へ戻りなさい」

 エリが二人の顔を交互に見ながら云った。

「亭主!お前亭主いてたんか」

「北大路さん、あんた椥辻さんとどれくらいの付き合いかうちは、知らんけど、何も知らんねんなあ。この人には、立派な亭主がいてます」

「はい。今まで黙っててごめんなさい」

 椥辻がぺこりと頭を下げた。

「こいつは、私が呪いをかけたから、私の妻がうつ病になり、もうすぐ死ぬと云うとりました」

 由梨は、(呪い)でぴくっとした。

「思い出した!」

 と突然由梨が叫んだので、一同が由梨を見た。

「すんません」

「嵐山さん、どうしたの」

 隣りに座っている美香が云った。

「チーフ、まだわからないんですか。ほれっ、安井金毘羅さんへ行った時、ほれっ絵馬見つけたでしょう」

「あっ、北大路に椥辻!」

「お二方見つけられたんですね」

「縁切りで有名なとこやね」

 エリが云った。

「私、絵馬に書いたんです。北大路さんの妻が早く死にますようにと」

「そうかあ。けどあいつこの頃益々、元気やで」

「効き目がなかったんかなあ」

「アホやなあ、お二人とも。あそこは悪い縁を断ち切って、良い縁が結ばれるんよ」

 呆れたようにエリが云う。

「つまり、それぞれの伴侶に戻るから効き目があった云う事ですか」

「そういうこと」

「縁と云うたら、この前うちの奴が自分の家に戻らんと、他人さんの家の玄関ガチャガチャしてて、その家が」

「私の家でした」

 と北大路が云う。

「家内から電話で知らされて、てっきり椥辻がついに家まで乗り込んで来たかと、すっ飛んで帰ったら、こちらの奥さんいてたわけです」

「話してたら、四条エリのファンで意気投合して、わしも参加して見に来たわけやけど、縁て不思議なもんやなあ」

 百万遍が喉を掘った様に感心した。

「で、奥さん症状はどうですか」

「はい。もう四条エリさんの歌を聞いて、すっかり元気になりました」

「あらそう。じゃあ毎日来てよ」

「アホぬかせ。金がもたんわ」

「ケチ。それぐらい亭主だったら出してあげなさい」

 エリが援護射撃した。

「百万遍さん、夫婦のかすがいは、子供だけじゃないんですね」

 由梨は云いながら、ポケットからかすがいを取り出して皆に見せた。

「由梨、また落ちてたんか」

「いえ、さっき大道具の鞍馬さんに云って、拝借して来ました」

「さっき席を外したんは、それやったんやね」

 と美香が一人納得した。

「それ何ですか」

 北大路が聞いた。

「(かすがい)俺らは略して、(がい)と呼んでるけどな」

「それがかすがいですか」

 北大路は、由梨から貰ってじっと見た。

「元々大工仕事で、材木同士繋ぐ金具や。今は舞台を傷つけるから、滅多に使わんけどな」

「子は、かすがいは、ここから来てるのか」

「北大路さんとこは、お子さんは」

 由梨は聞いた。

「今はそばにいません」

「どこか遠くへ、留学でもしてるんですか」

「はあ、まあ遠くへ行きました。交通事故で亡くなりました」

「うちらと一緒やな」

 ぽつんと百万遍が呟いた。

「あんたらは、よろしい。それぞれ連れ合いがいてて。私は一人よ」

 エリが笑いながら云った。

「四条エリさんにとってかすがいは何ですか」

 と由梨は質問した。

 少し間を置いて、エリが云った。

「私と私の歌を聞きに来てくれる、ファンの皆様。それを繋ぐのはやはり(歌)。そう私の歌がかすがいなんやわあ」

 楽屋にいた一同は、思わず拍手した。

「いやあ、もうやめて。恥ずかしいから」

 しかし、その拍手はさらに大きくなった。

 由梨は振り返った。マネージャー、付き人までが、暖簾口で拍手していたからだ。

「もうやめよし」

 それに逆らうかのように、拍手は続く。

 由梨も、いやここにいた一同は、目頭が熱くなるのを、各自感じていた。





































































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