ピテカントロプスになる日
駆け抜けた二人の逃避行は、とある地下ガレージに到着することでひとまずの終わりを迎えた。
タバサの知り合いであるという研究者らしい男の隠れ家であったそのガレージは、巧みな偽装により場所をしっていなくては発見できないであろう座標にあった。砂漠化している砂地の中にぽっかり空いた入口にタバサが腕の痛みを堪えながらも入っていくと、カガミはそれに続いた。
「一体何があったんだッ」
ガレージの奥から二人を迎えた男は慌てた様子で救急キットを持ってきた。
「フェニレクは、やはりユグドラシルを使って人類の粛清を目標にしている……早くこの事実を報せなくては……」
タバサが血にまみれた右腕の痛みに表情を苦悶に歪めながら、フェニレク……いやユグドラシルの危険性を伝えようと男に訴えた。
しかし、カガミがタバサの容態を気遣い、その場に横にさせると、LDを脱がして治療を開始する。
「ここなら、容易く見つからない、焦ることはない」
「う……く……」
LDを脱がしてタバサの損傷具合を見て、もう彼女の右腕は再起不能だと判断できた。救急キットでどうにかできるようなキズではなく、切除してしまうほうがいい状態だったのだ。
「モーデカイ、私の事はいい……。君の調べたデータを世界に生きる人々に発信してくれ……。ユグドラシルは危険すぎる……人を人でなくならせるんだ……」
苦痛に耐えながら、タバサはモーデカイという研究者らしき男に頼んだ。
モーデカイはカガミに、タバサの事を任せると、彼女の願いにこたえるために、以前タバサが盗み出したフェニレクの重要機密をデータとしてまとめているメモリーを用意した。
「これは、ユグドラシルとヒトの人格変貌の詳細を詰め込んだメモリデータだ。ネットでデータを配信するのは危険すぎる。フェニレクの地球保護プログラムがAIであれば真っ先にこちらを捕らえるからだ。アナログな方法だが、直接このデータを信用できる企業に渡すしかない」
モーデカイが小さな掌に収まるようなチップを見せて、カガミに告げる。
「分かった。オレがそれを然るべき企業に提供しよう」
「頼む」
パンッ……。
「えッ」
乾いた破裂音にモーデカイは何が起こったのか分からなかった。タバサも目の前で何が行われたのか理解できなかった。
その場で、状況を理解できていたのは、隠し持っていた拳銃の引き金を引いたカガミだけだった。
メモリーを受け取ったカガミは、モーデカイの頭部に鉛玉を見事にヒットさせていた。モーデカイは即死して間抜けとも言える「え」という疑問の声がそのまま断末魔となった。
「……な、なに……? カ、カガミッ」
体を横たえたまま、すぐ傍で繰り広げられた銃殺シーンに、タバサは困惑しながら銃を握っている男の名を呼んだ。
カガミはそのままモーデカイの死体を確認してから、ガレージ内の研究端末を弄り内部データを調べまわり始めた。一体カガミが何をしているのか、今、何が行われたのかが理解できないタバサは瞳を揺らして、死んでいるモーデカイと、あたりを物色しているカガミを見比べるばかりだった。
「何をしているんだッ、カガミィッ――!!」
混乱した思考の中、回答と救いを求めたタバサの悲痛な声が響いた。
その声に、カガミは物色中だった手を止めて、タバサに向き直った。その手に握られている銃と共に。
「特務だ」
「……と、特務? なんの……、どこのだ……まさか……」
「お前と、宇宙に出る前日の事だ。オレは社長に特務を命じられた」
チェルに呼び出され、社長から特務を与えられたその日の事をゆっくりと語り始めたカガミは、普段通りの彼の顔で、何の変哲もないこれまで見てきたカガミという男の物で間違いない。
「と、特務は……ユリカゴの調査任務の話だろう……?」
「それは任務の一部だ。オレが受けた特務は、タバサ、お前の監視役だ」
「な、なに……?」
半身がマヒして碌に動けないタバサは、苦痛の表情に、別の嫌な汗を浮かべた。信用していた唯一の男が、敵の懐刀であったのだから。
「オレはすでにあの時、ユグドラシルの正体と、目的を社長から聞かされていたのさ。地球環境改善のための条件を」
「人類絶滅計画(ユグドラシルプラン)を知っていて……、お前は賛同したのか……!」
「そうだ。フェニレクのカウンセリングテストと、オレの過去の事件を調べ上げたチェルは、オレが最もユグドラシルプランに貢献してくれるだろう人間だと評価した」
カガミの過去――。
以前、ダナインで主任をしていた時に彼を襲った悲劇。唯一の家族であるミラを実験の材料にされた事件の話だろう。
なぜ、それがユグドラシルに対しての信頼につながるのかタバサは意味が分からなかった。
「タバサ。ユグドラシルプランを邪魔する事は、許さない」
「く……カガミ……。お前も『人間性』を喰われていた寄生体だったのか!?」
「そう言うお前は毒素が体に蔓延しきった悪性腫瘍に見える」
体を動かそうとして、苦痛だけが走り回り、まるで全身が言う事を聞かない。タバサは最悪の状況に活路を捜すが、もはや行く先は闇が広がるばかりにしか見えなかった。
「タバサ、道は二つある。その身体にユグドラシルを植え込んで地球環境回復のために働くか、今死ぬかだ」
カガミはその声に、威圧感も何も与えず、普段通りの口調でそう言った。それが意味するところは、タバサがどちらを選ぼうとカガミは特別何も感じない、どっちでもいい、という感覚なのだ。
「地球を回復させる事には賛同する……、だが人間の人格を書き換えてしまうようなやり方を認めるわけにはいかないッ……」
「なぜ、そうも頑固なんだ。我儘ばかりを言っている幼子にしか見えないぞ。地球という親からいつまでたっても巣立つことが出来ない。それどころか親に負担を強いて引きこもり、恩返しも考えない。お前のようなものをニートと呼ぶんだ」
「な、なんだと……」
「人類がいつまでもそうだから、地球が疲れ切っている。人の、人間性を矯正しなくちゃならないと、必死の思いで生んだのがユグドラシルなんだ」
「それをヴァコ・ダナやフェニレクがやろうというのなら、間違っていると言っている! あいつらだって、人間だろうに!」
「ユグドラシルが生まれたのは、ヴァコ・ダナの実験のためでも、フェニレクのダンの思惑でもない。汚された地球が、それでも健気に生み出した命の種が、ユグドラシルなんだ」
「寄生された人間が言ったところでッ」
「オレは寄生されていない」
「ならば、なぜだ! 人類をなぜ否定する? お前も人間だろう! お前だって、家族を作って、子を育てた親だろう!!」
タバサはいつしか涙を零して訴えていた。もう、力で解決するような状況ではない。人の良心に、道徳に訴えるしかないのだ。
カガミは娘のミラを愛していた。だから、人を愛する気持ちをきちんと持っている『人間らしさ』があると思っていたからこそ、タバサは彼を信用できていたのに。
「その家族を殺したのが人間だからだ」
「子を殺された恨みからなのか、人間に絶望したというのか……」
「オレは、生まれながらにヒトに対して絶望してる。一度だって人間を愛した事はない」
「な、なんだと……。なら、ミラちゃんは……、お前の娘は何だと言うんだッ?」
カガミは、この人生において、ただの一度だって人間に愛情を持ったことはない。その事をカウンセリングで判別したダンは、カガミこそが特務を与えるべき人材だと評価したのだから。
「ミラは、オレの娘ではない。家族ではあったが、『ヒト』ではない」
「な、に……」
「ミラは、犬だ」
――タバサは絶句した。
まさかそんな話があるだろうか。だが、思い返せば、カガミはミラを愛していたし、何よりも大事にしていた家族と言ったが、娘とも、ましてや『ヒト』だとも言っていなかった。
そうだ、カガミは最初からヒトを愛していない人間なのだ。相手のLDの躯をミュータントのエサにすることに、なんの抵抗感もなかったし、デザイナー・ベビーに対してもこれと言って思うところはなかった。
あったのは、愛する家族であり、パートナーだった愛犬のミラを実験材料にして出来上がったヴァコ・ダナの『新人類プロジェクト』への怒りのみ。
ヒトを憎み、嫌う彼のそれは自分自身すらも否定していることになり、彼は矛盾を抱えて生きていた。
その魂魄を体現したのがLD『デュビアス・ソウル』。不明瞭な、魂――。
「い、犬のために……、ダナインの研究員を皆殺しにしたのか……」
「それだ。今のお前のその反応。ダナインの連中もそんな顔をしていた。たかが犬が死んだくらいで、大騒ぎするなどサイコパスだとオレを嗤い、嘲る目だ」
新人類開発の実験のため、健康な汚染度の低い生命体を実験に使う必要があるとされ、人体実験にまで及ぶ段階になかったダナインの研究者ラドラは、モルモットに、犬を選んだのだ。
ダナインのコロニーで飼われている犬を回収したラドラは、その実験で人類のための未来を繋げるプロジェクトが前進する手ごたえを感じ、喜んでいた。
ヒトが生きるために、犠牲になった犬に対する命の価値を、軽く見積もった研究員は、カガミ――いや、ダナイン社の主任、シュピーゲルに殺害されることになるのだった。
「人類はごくつぶしでしかない。星を疲弊させ続けるばかりの人類が、増え続けていくことが我慢ならなかった。生まれてきて、ずっと、これまでヒトに生れ落ちた事を苦しんでいた」
「か、カガミ……」
「そんな時、オレはフェニレクのミツバチ隊に入った。その理念に賛同したんだ。地球のために活動する社会貢献。これこそが生きがいだと思えた。人類の毒素を浄化するマイナスイオンの存在も、なんてご都合主義の素敵な物語だと、オレは心底喜んだんだ」
ユグドラシルプランの目標はあくまでも地球環境復興、維持であり、そのために人口をゼロにしなくてはならないと結論を出したAIのダンの言葉にも、カガミはその通りだと賛同した。チェルも、人間は絶滅したほうがいいと願っていたから、地球環境の再生のために、自らが死滅することを喜んだのだ。
だが地球というあまりにも慈悲深い星は、何も死滅させなくてもいいではないかと、人類に救いの道まで用意したのだ。
それがユグドラシルのマイナスイオンで、ヒトという毒物の中にある『人間性』という毒素だけを抜き出してあげようとする計画だった。
そこにガロッシュは、深い愛情を注ぎ込み、カガミもまた、同調した。レツのような若い世代は、二日に一度は、教育を受けて、歪み切った人間性と道徳を矯正する。地球に生きるひとつの命であるという大切な事を教えていったのだ。
だが、ヒトの『人間性』に拘り、欲と業を積み重ね続ける人間はまだまだ多かった。
責任感という言葉を都合よく使い、社会に寄生する人間という蛆の多さはまだまだ世を浄化するのに日にちがかかる事を覚悟しなくてはならない。
健康診断の結果、カガミは寿命を残り十五年と判断された。
その十五年を、地球のために使おうと、彼は『誇り』を持って働き始めたのだ。
自分自身に絶望していたカガミに『誇り』を与えてくれた存在は、『ミラ』の他にはいなかった。ユグドラシルを除いて――。
「人間性を捧げろ」
銃口が、タバサの脳天に照準を向ける。
「なぜなんだ……ヒトはそこまで醜いものなのか……」
「自分を醜い生き物だと、気が付けた時、初めて自分の生き方が分かるものだ。いい加減、大人になれよ。人類」
タバサは、ただ、人の愛情の美しさを見たかった。恋い焦がれていた。
かつて文明世界が豊かだったころの映像作品、ジャングルで育った野生児が文明に触れて、愛を知り、人間が繋がっていく美しさに憧れたのだ。
カガミがその映画で、自然の緑だけを見ていたのに対して、タバサは人間だけを見ていた。
両者はまるで噛み合っていなかったのだ。
「わたしは……恋をして……愛を育みたかっただけなのに……」
「その愛情を自分たちだけに向ける時代は、もう終わったんだよ。いつまでもこびり付いた感性に美を求めては、老害と言われても文句は言えない」
タバサは、もう分からない。
何が正しいのか。
今は、荒廃世界なのだ。考え方を変えなくては、人類は星を汚すだけだというのは、分かるようにも思えた。
それをしてくれるのがユグドラシルなのだ。
人類抹殺とは言ったが、本当に命を奪うような植物ではない。人間の中の悪意を吸い上げてくれる浄化作用しかないのだ。
人間性を失えば、人は『らしさ』を亡くしてしまうと思っていた。
だが、カガミのこの諦観とした様はタバサの求めた異性への慕情に繋がりそうだった。
「わたしは――」
カガミは掌に握っていたメモリーを握りしめ破壊した。そして銃を下ろして、苦しそうな顔の彼女の涙をぬぐってやる。
「巣立つときは、怖いものだ。だが、自然は自立したものを厳しくも優しく抱いてくれる。理不尽な人工物に汚された事を恥じて、生きて行こう」
カガミがそっとタバサを抱いた。
憐れに思ったのだ。リンクした時につながった彼女との感触は、ヒトとしてではなく、動物として、男と女ではなく、オスとメスとして、二人は惹かれたのだ。それはなにより自然なものだ。尊いものなのだ。
人類は変わらなくてはならない。
あまりにも豊か過ぎた社会は、地球がそれを提供してくれることを当然のように考えすぎて、我儘に育ってしまった。
――荒廃世界。こんな時代を迎えたのが、過去の人間が発射したたった一発のミサイルによるものだとしても。今の世界に生きる人間が罪を償わなくてはならないのだから。
地球よ、休んでくれ。我々は自立してみせるから――。
ミツバチ隊は、もう一度、働き蜂として労働を始めた。
――数か月が経ったある日。
ミツバチ隊はチェルに呼ばれてブリーフィングルームに集まった。
「汚染を広げる悪徳企業、ヴァコ・ダナとの決戦がついに来た。ミツバチ隊は、今回最前線で戦う事になる。覚悟はいいか」
「ハッ」
気合の入った返事をした五名は、かつてと変わらない面々だ。
隊長はカガミになったが、副隊長に右手を義手にしたタバサ、オフェンスにガロッシュ、デフェンスサポートにレツという、歴戦の勇士だ。
フェニレクの計画が進み始めると、ヴァコ・ダナが警戒を露にして、いよいよ企業戦争の決戦が始まることになった。
大企業であったヴァコ・ダナだが、ユグドラシルのマイナスイオンがゆっくりと広まりだしたことで、人々の思想が地球環境のために生きるという目標で一致し動き出すと、ヴァコ・ダナは地球汚染を広げる悪徳企業として世間から非難され始めた。
戦いは熾烈を極めたが、今回の作戦でヴァコ・ダナを抑え込むことが出来れば、いよいよ人類同士の戦いは終わりを迎えるだろう。
地球に広がり始めたグリーンは、着実に星を息づかせている。
圧倒的な戦力さのある戦いだったが、ミュータントらが、ヴァコ・ダナを攻撃し戦局は五分五分となった。ミュータントらも、ユグドラシルを、星を守るべくして戦っているのだ。
そして、ミツバチ隊は、ヴァコ・ダナに引導を渡すため、最新のLDで出撃する。
ガロッシュのLD『ヨツンヘイム』。全長5メートルを超える火力と装甲を充実させた次世代LD。敵の制圧を行わせると、右に出る者はいない。
レツのLD『ヘルヘイム』は、全長4メートル。新型プラスミド技術を活かした超能力戦機として、電子機器を遠隔で自在に操ることが出来たり、ミュータントとの対話までこなす事ができる。
タバサのLD『ミッドガルズ』は単独で長時間飛行を熟す事もできる、初の空中戦を可能にしたリビングドールとなっており、大きさも4メートルあり、小型LDを運搬するくらいの事なら可能な高機動型になっている。
そして、カガミのLD『アースガルズ』はまるで予知能力でも持っているかのような計算高さを見せつけ、相手の動きを完全に見切り、これまで一度も被弾したことすらないと言われたほどであった。
旧型のLDでは到底が刃が立たないミツバチ隊の四機は、鬼神の如き戦闘力で瞬く間に除染を行っていく。
それから、荒廃世界ではミツバチ隊の話題は広まり、地球環境を復興させる使者として、英雄的に語り継がれることになる。
この世界から、『人間』という汚物が浄化されるまで、彼らは命を賭して戦い続ける。
数十年後、可憐な花畑の中で眠るカガミとミラがどれほど安らいでいたのかは、地球だけが知っている――。
荒廃世界のリビング・ドールズ 花井有人 @ALTO
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