カフェモカ味の恋

犬飼鯛音

▼・ω・▼

 この喫茶店に訪れるたび、心が満たされていくのを感じます。窓から溢れる明かりはいつもと変わらず温かな紅茶色で、それだけで私は嬉しくなるのです。冷たく乾いた冬の風も、一瞬にして珈琲の香りで彩ってしまうこのお店の周辺だけは、四季に関係なく特別な季節に守られているようでした。

 私は大きく深呼吸をして、大人の香りを胸いっぱいに味わいました。


「カランコローン」


 扉が開くと鳴る鈴の音に思いを馳せながら、私は口の中で舌を弾ませます。いつか鈴の音を奏でてみたいと夢見ながら、今日も扉には手をかけません。私は扉を開きお店の中に入ったことが、まだ一度もありませんでした。

 私はいつも、お店の外にあるオープンテラスに座ります。誰もが寒さに身を縮めてお店の中に逃げ込んで行くこの季節、ここは私だけの特等席でした。


「いらっしゃーい」


 私が席に着くと、店長さんがお店の中から出てきてくれました。店長さんの奏でる鈴の音はどんなときも力強くて、誰が鳴らすよりもずっと大きな音がします。大きくても乱暴じゃない、きれいに響く音でした。


「今日も寒いのにありがとうね。いつものでいいかな?」

「はい、お願いします」


 そういって頭を下げると、足元でお座りをしていた犬と目が合いました。店長さんが戻って行く鈴の音を聞きながら、私たちは再会を喜びあうように熱い視線で見つめ合います。

 店の看板犬で名前はココアというのだと、初めてこのお店を訪れたときに教えてもらいました。名前はココアだけど、珈琲にそっくりな黒い毛並みをしています。それなのに足元だけは靴下を履いたみたいに四本とも真っ白で、愛らしいメリハリボディに一目惚れをした私は、すぐにこのお店の虜になりました。


 ココアはとってもえらい看板犬です。雪が降り出してもおかしくないこんな寒い日にも、きちんとお座りをしてお客様をお迎えしているのです。すぐ後ろにある自分のハウスを時折振り返りながらも、中で暖をとることはせず、背筋を凛と伸ばしてお客様を待ち続けます。

 私の特等席は、ココアのハウスの隣にありました。ココアと一緒にこのテラス席に座るのが、私のささやかな楽しみでした。


「こんにちはココア。会いたかったよぅ」


 お互いの鼻がぶつかり合うほど顔を近づけてから、ココアの前足を両手でつかまえました。手のひらに触れる肉球は、指先が震えている私でもその冷たさが分かるほど、芯まで凍えています。こうして私たちはいつも、お互いの少ない体温を持ち寄ってにぎにぎと手を繋ぎ合うのです。

 前足をつかまれたココアは、柔らかなお腹を丸出しにして背筋を伸ばします。その姿がとっても可愛くて、私はついつい、繋いだ手を上下に動かしてココアを踊らせてしまうのでした。


 そうしているうちに肉球も手のひらもすっかり温まり、ココアがお座りの姿勢に戻る頃には、店長さんがケーキとスープのセットを運んできてくれます。甘いケーキと塩気の効いたスープは案外相性がいいのです。何よりこのスープの中には、ココアが喜ぶ宝物が眠っていました。


 宝探しをする前に、私はふわふわのシフォンケーキの上でくつろぐ苺を頬張りました。かじかんだ頬に温かみが戻ってくる甘酸っぱさを堪能していると、ココアが私の太ももを足先で叩きました。遠慮がちにチョイチョイと二度触れるだけの慎ましいお手を終えると、ココアはそれ以上ねだらずに大人しく私を見上げます。真っ黒い顔に映える濁りのない白目がとてもきれいで、そんな極上の上目遣いで見つめられると、私はすぐに負けてしまうのでした。


「待っててね、今ココアにもあげるからね」


 スープに沈む鶏肉を拾い上げ、慎重に汁気を切り、ふぅふぅと息を吹きかけてから、そっとココアの鼻先に差し出します。ココアはぺろりと丸飲みすると、私の指先も丁寧に舐め上げてくれました。


「おいしい? よく噛んで食べなきゃだめだよ」


 美味しそうに食べている瞬間をちょっとでも長く見ていたい私は、ココアの頭を撫でながら一生懸命にいい聞かせます。ひとしきり頭を撫で終えると、私はまたお肉を探しました。


「もう、よく噛んでっていったでしょ?」


 また一思いに飲み込まれてしまったお肉を見て笑っていると、お店へ近づいてくる男性の姿が目に飛び込んできました。私は慌てて視線をそらします。そらしたはいいけれど、今度はどこを見たらいいのか迷う瞳は、次々にぐるぐる色々なものを映して回ります。

 スープを覗き込むふりをして顔を伏せたそのとき、長い足が私のすぐ隣を横切りました。


――ちりん。


 小さく響く鈴の音。私の心臓がうるさいせいじゃなく、あの人はいつ来ても控えめな音しか奏でないのです。その美しい音を合図に緊張が解けた私の目は、お店の中を進む後ろ姿を追いかけていました。あんなに必死で顔をそらしていたのに、今度はあの人から目が離せません。

 見つめれば見つめるほど、限度を知らずに胸が高鳴ります。寒い寒いと震えていたのが嘘みたいに、頬が熱くてたまりませんでした。

 じっと見上げてくる足元からの視線に気づき、私は慌てて乗り出していた姿勢を正します。そしてココアの大きな耳に唇を近づけて、誰にもいえない秘密をこっそり打ち明けました。


「私ね、あの人に憧れてるの」


 口に出した途端とんでもなく恥ずかしくなって、火照る頬をこすりつけ、むぎゅっとココアを抱きしめました。



 冬の気配に溶け込むように、秋が終わった頃から頻繁に現れるようになったあの人。今日はいらっしゃるのかしら、と内心期待しているのに、本当にあの人がやってくると私は必ず顔を背けてしまいます。あの人に会いたいのか会いたくないのか、自分でもよく分からなくなっていました。

 あの人も私と同じで、毎回決まった席に座ります。私の特等席からよく見えてしまう窓際の席です。あの人の元にはいつも、小さくて優雅なコーヒーカップが届きます。中に入っている飲み物を想像して、私はあの人のことを心の中だけで、エスプレッソさんと呼んでいました。

 エスプレッソさんはいつも、小さな一杯を飲み干すとあっという間に帰ってしまいます。その短く慕わしい時間を遠くから見守るだけで、苦しいほど胸がいっぱいになるのでした。


 重たそうなジャケットを脱ぐと、今日もエスプレッソさんは清潔な白いシャツを着ていました。なんて白が似合うのかしら。何度見ても惚れ惚れしてしまいます。そして理由もなく、口からため息がこぼれるのです。

 席に着くと、長居もしないのに文庫本を取り出すエスプレッソさん。文字を追う熱心な眼差しも素敵だけれど、何かを思い出したように顔を上げ、遠くを見つめる憂いを帯びた表情が、私はとくに好きでした。

 エスプレッソさんは、おいくつくらいなのかしら。何気なくそう考えてしまった私は、自分を咎めるために唇を噛みました。歳がいくつであろうと、私には何の関係もないことです。

 急に寒さが戻ってきた私は、スープが冷めてしまわないうちに宝探しを再開しました。




「ココアはもうごちそうさまだよ」


 お肉のないスープをすする私を見上げ、ココアは諦めずに尻尾を振っています。ココアにもっとおすそ分けができるメニューはないものかと考えあぐねていると、突然あの響きが耳に飛び込んできました。心臓が跳ね上がる、繊細な鈴の音です。


――ちりん。


 私は岩のように固まって、長い足が通り過ぎるのを待ちました。スプーンを握りしめたままの右手に、痛いくらい力がこもってしまいます。私は息を吸うことさえ忘れ、遠ざかる足音にひたすら耳を傾けました。コツコツと地面を蹴る乾いた音。その音が聞こえなくなったら、顔を上げようと思っていたのに――。


「ウワァン! ワァンワン!」


 隣でおりこうにお座りをしていたはずのココアが、突然ものすごい勢いで吠え始めたのです。岩になっていた私は飛び上がるほど驚きました。心配になって顔を覗き込むと、ココアは何事もなかったかのように大人しくなりました。


「どうしたのココア、突然吠えたりして」

「俺が挨拶もせずに帰ろうとしたから、怒っちゃったのかな?」


 ふたりの会話に乱入してきたその人物に、私は再び岩になりました。「よいしょ」と大げさな声を上げココアの前にしゃがみこんだのは、他でもないあの人、エスプレッソさんでした。


「よしよし。お前、いつも可愛がってもらって幸せだな」


 密かに想像していたよりもずっと低くて大人っぽい声が、鼓膜を通り体中に響き渡ります。スプーンを握ったままの手のひらに、じんわりと汗が滲みました。

 ココアの首筋をくすぐる筋張った指。気持ちよさげに閉じていくココアの瞼。大きな革靴。揺れる尻尾。髪の分け目が見える後頭部。くるくると動き続ける私の目は、ココアの口元で止まりました。

 そういえば、ココアの吠える声を聞いたのは、今日が初めてかもしれない。けれどその考えは、痺れるような低音に遮られてしまいました。


「寒いのにいつも外にいるね、君」


 ココアに話しかけたのですか? それとも私におっしゃられたのですか? 駆け巡る疑問で頭の中をいっぱいにしながら、私はついにエスプレッソさんの顔を真っ直ぐに見つめてしまいました。

 これは夢なのかしら、と本気で疑いました。ずっと思い焦がれていた瞳に、自分が映っていることがとても信じられませんでした。首をひねり確認してみても、後ろには誰もいません。やっぱり、私に声を掛けてくれたのです。そう確信しても、あの眩いお顔が目の前にあるのだと思うと、なかなか首を元には戻せませんでした。

 こけしめいた古めかしい髪型をした自分が、男の子みたいな太い黒縁の眼鏡を掛けた自分が、こんな素敵なあなたに憧れてしまっていた自分が、急にどうしようもなく恥ずかしい存在に思えてきたのです。


「嫌だなぁお嬢さん、あなたのことですよ」

「はっ、はい!」


 私が後ろを向いたまま返事をすると、笑い声が聞こえてきました。その声を聞いた瞬間、自分でも情けないほどの勢いで振り返ってしまいました。見たかったのです。エスプレッソさんの笑っている顔が、見てみたかったのです。

 垂れた目尻に浮かぶ、深いしわ。細くなった目の奥で光る、透き通った瞳。今度は目をそらすことができなくなってしまいました。


「犬、好きなんだ?」


 突然の問いかけに「はい」という二文字さえ出てこなくて、私は口をぱかぱかと開閉することしかできません。それなのにエスプレッソさんは、返事もしない無礼な私をとびきりの笑顔で照らし続けてくれました。


「風邪ひかないようにね」


 エスプレッソさんは私の頭にぽんぽんと触れ、もう一方の手でココアの頭を同じように二度撫でました。さらに自分の首からマフラーを抜き取ると、硬直する私にそっと掛けてくれます。ふんわりとした手つきでマフラーを巻きつけてくれるエスプレッソさんの指先が、不意に頬をかすめました。火がついたみたいにその部分だけが強烈に熱を帯び、お礼さえもいうことができなくなってしまった私は、代わりに何度も頭を下げました。


「よいしょっと」


 エスプレッソさんはまた大げさな声を出して立ち上がると、私とココアに向かって爽やかに手を振りました。それがさよならの合図だと朦朧とする頭が理解をする前に、背を向けて歩き出してしまいます。


「あ、あのっ!」


 呼び止める言葉が、ひとりでに口から飛び出しました。すぐに振り返ってくれたエスプレッソさんは、「なぁに?」という顔をして耳に手を当てています。

 お座りをしていたココアが立ち上がり私の足元に寄り添いました。細長い尻尾が、応援してくれているみたいに力強く揺れています。私は椅子から離れ、一歩前へ踏み出しました。


「大好きです!」


 スプーンを握ったままの右手にぎゅっと力をこめて、ありったけの声で叫びました。聞き返すように小首を傾げるエスプレッソさんの表情を見て、私は自分の口から出た言葉の意味に息を飲みました。心臓が、爆発してしまいそうです。


「あっ、そ、その、犬……。犬、好きです!」


 動揺をもみ消すために足元のココアを指差すと、エスプレッソさんは大きく頷いてくれました。そして、手を振りながら優しい声でいいました。


「俺も好きだよ」


 その言葉が、たちまち私の胸を埋め尽くしました。ココアは尻尾を回転させながら、立ち尽くす私と手を振るエスプレッソさんを交互に見つめています。振り返そうと掲げた右手にはまだスプーンが握られていて、私は慌てて左手を振り返しました。

 路地を曲がっていく後ろ姿が見えなくなった途端、私は崩れ落ちるように地面の上にへたり込みました。ずっとスプーンをつかんでいた手のひらを広げると、柄の模様がくっきりと刻まれていました。私は真っ赤な手のひらでココアの背中を撫でながら、自分の心臓の音を聞き続けます。

 あの言葉が自分に向けられたものじゃないと分かっているのに、心が騒いで仕方ありません。エスプレッソさんと過ごしたわずかな時間を噛みしめるように、首に巻かれたマフラーを握りしめました。


「俺も好きだよ、だって。ねぇココア聞いた? 俺も好きだよって」


 心臓の鼓動に邪魔をされ、かすれた声しか出ませんでした。それでもココアは耳をピンと立てて私の言葉を理解しようとしてくれています。心なしかココアも嬉しそうな表情をしているように見えて、私は純真無垢な真っ黒い顔をまじまじと見つめました。いつもは決して吠えないのに、エスプレッソさんを見た瞬間に激しく吠え始めたココアの姿が蘇ります。


『私ね、あの人に憧れてるの』


 ココアに耳打ちをした言葉を思い出します。信じられない気持ちで、私は確かめるようにココアと手を繋ぎました。ココアはきょとんとした顔で舌を出しているけれど、私にはどうしてもただの偶然とは思えませんでした。


「ありがとね、ココア」


 私は大事にとって置いた最後の苺を差し出しました。小粒の苺を、ココアはよく噛んで美味しそうに食べてくれました。



(おしまい)

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