10話 右腕は描くために 左腕は刺すために


裸。裸。裸。


黒髪ツインテールの少女、サキの前には裸の女達がいた。

一糸まとわぬ姿でベッドに横たわり、サキを見つめる女。

その隣では、後姿を見せてサキを振り返る女。豊満な尻が艶めかしい。

さらにその隣ではかめに入れた水を自身にかけ、水浴びする女。

伏し目がちな表情からは、彼女の心を窺い知ることはできなかった。

サキはまともに見ることができなかった。


額縁の中の彼女達を。


◆◆◆


「もう、こんなことなら来るんじゃなかった……」

王立美術館ミュージアムを出て、サキはうんざりした表情で独りごちた。

彼女の格好は上は生成りの綿のワイシャツ、下は薄いブラウンの

キュロットスカート。少しサイズが余るのか、ズボンはサスペンダーで吊っている。そしてワイシャツには肘あてを縫い付けていた。

先日、サキは彼女の雇い主であるガムから展覧会のチケットを貰った。

ガムというのは傭兵事務所の所長であり、外観は黒髪ツンツン頭の

大柄な筋肉質の男性だ。

ガムは依頼主から依頼料のおまけとしてそのチケットを貰ったが、

別件で展覧会に行けないということでサキが譲り受けた。

彼女は一日休みを貰い、初めて美術館を訪れたが感想は先ほどのようなものだった。

展覧会の主役はロータス・ブラントという中堅の画家だった。

風景、静物、肖像画などの絵画だったが、とりわけ裸婦画が多かった。

美術において裸婦画はごく当たり前に取り扱うテーマではあるが、

そのどれもが艶っぽかった。

サキはまだ十三歳の少女である。

初めての展覧会で裸婦画の大群に出会うのは、刺激が強かろうというものである。

「でも、チケットをくれた依頼主はガムの性格よく分かってるわ」

ガムは色事が好きだ。飲み屋に行けばウエイトレスをナンパするし、仕事での知り合いも仕事にかこつけてナンパする。朝帰りすることもたまにある。

彼とサキは他人であるとはいえ、一緒に暮らしているサキからすれば、彼の素行には多少の不安を覚える。いや、この場合不安というより心配である。

もし彼が帰宅の途中に暴漢に襲われたらと思うと、

サキはいても立ってもいられなくなる。

「でも、わたしが負けるくらいだから滅多なことではやられたりしないよね」

不安を拭うようにサキが呟く。

中央区から商店や工場や住宅が入り乱れている南地区へ移るにつれて、

人通りが多くなってきた。

ふと、通りの先に目を遣るサキ。そこには少年が四人いた。

白を基調とした金縁の刺繍を施された上下の制服という身なりから

小学生の下校かしらん、とサキは思った。

だが、よく見てみると、三人の少年が一人の少年を取り囲み、小突いていた。

金髪の少年が、取り囲まれている黒髪パーマの少年に言う。

「お前、生意気なんだよ。貧乏人の癖して、

 おれらと一緒の学校に通ってんじゃねーよ」

続けて茶髪で天然パーマの肥満体系の少年が言う。

「そうだそうだ。がりがりのやせっぽっちめ。ぶん殴るぞ?」

そして、黒髪オールバックだが、一束だけおでこに垂らしている少年が言う。

「ラーロ君、よくそんなボロきれを着て歩けますね? 登校するなら、

 僕みたいにシャルレ・ミストを上下で揃えてからにしてくれますか?」

自身が着用しているブランド服を誇示するかのように両手で襟を張って見せる。

彼の制服は他の三人とは異なり、縁取りの刺繍がより細密な植物模様だった。

ラーロと呼ばれた黒髪パーマの少年は、三人の罵倒に押し黙ったままだ。

彼らとは視線を合わせず、じっとしている。

しかしラーロが無反応なのが気に食わなかったのか、金髪の少年は

ラーロの襟を掴んで締め上げた。

よく見ると、ラーロは手提げ鞄を持っている。

その形を見るに、四角い板状のものが入っているようだ。

「無視してんじゃねえぞ。貧乏人なら貧乏人らしく物乞いしろよ。

 金持ちのトーマ・ド・オーフェ様、わたくしめにお恵みを、ってな。

 俺に物乞いした後はビキとイーミャにも物乞いしろ」

トーマはラーロの背後の二人の少年に目配せする。

茶髪天然パーマで肥満体系の少年がビキ、黒髪オールバックでブランド服の少年がイーミャというらしい。ビキとイーミャは締め上げられているラーロを見てにやにやしていた。

「ぐ……」

襟が首を締付け、苦しそうなラーロ。それを見て肥満体系の少年が「そうだそうだ。物乞いしろよ、貧乏人」と煽り、黒髪オールバックの少年はにやにやと眺めていた。

しばらくその状態が続く。ラーロは彼らの言う通りしないと返してもらえないと

観念したのか「金持ちのトーマ様……」と口にした。

直後。

ラーロは襟を絞められたままトーマにより地面に引き倒された。

「ゴミがしゃべってんじゃねえ。いいか、お前は俺らのおもちゃなんだ。

 お前がぼろぼろになるまで遊んでやるから、俺らをうんと楽しませてくれよな」

ラーロを見下ろしながらトーマが言う。

ラーロは顔を上げ、トーマを睨みつけた。

「なんだそのナマイキな目は!」

トーマがラーロの顔面を勢いよく踏みつける。

直前。

トーマの首筋にサバイバルナイフの刃がぴたりと張り付いた。

彼の背後にサキが密着している。そして底冷えするような声で

「血塗れ遺体での帰宅がお望みかしら」

と彼の耳元で呟いた。

トーマは怖気を感じ、足を踏み出した勢いでラーロの体を飛び越した。

そのままサキを振り向き

「……何だお前は?」

と言った。

「通りすがりの傭兵の助手よ。あなたたちこそ何してるの?」

「見てわかんねえのか? 遊んでやってるんだよ」

「大人数で一人をいたぶるのが遊びだっていうの?」

「じゃれてるだけだよ」

言って、足元に倒れているラーロの手を取るトーマ。

「ほら、ちょっと強く引っ張っただけで倒れるなよラーロ。男だろ?」

ラーロが無言で立ち上がる。

「ラーロ、また明日な」

「…………」

返事のないラーロ。

トーマは

「おい、お前ら帰るぞ」

と言って、ビキとイーミャを呼び寄せる。

「おいトーマ、あんだけでいいのかよ」

「そうですよ。ラーロの物乞いをまだ見てませんよ」

不満の声を上げる二人。

「いいんだよ。今日は邪魔が入ったからな」

ラーロとサキに背を向ける。

「そうだ、おねーさん」

トーマがサキに振り向く。

「おれを脅すなんていい度胸してるじゃん。

 でも今度あんなことしたら、パパに言いつけてやるからな。

 それと、俺みたいな金持ちと喋れたことを光栄に思いな。貧乏人」

トーマが強調するように、自身の肘の部分を指さした。

それは、サキの服の肘あて部分を指しての言葉だった。

言い終えると不敵な笑みを浮かべ、トーマ達はその場を後にした。

ラーロが服に付いたほこりを手で払う。

そしておずおずとサキを見やると、びくりと震えた。

サキの口元が高速でぼそぼそと何かを呟いている。

「……なんなのよあのガキ人のこと見るなり貧乏人って確かにウチは裕福ではないけどそれなりに働いてそれなりに稼いでそれなりの生活送ってるわよあからさまに人のこと見下しやがって一度痛い目見せてやろうかしらまず足の腱をを切って鎖骨を砕いてから角膜をうっすら切り裂いてやろうかしらそんで命乞いしたところで顔面を踏み潰してやる……」

かすれるような小さな声だったため、ラーロにはサキの言葉の内容は

聞こえなかったが、関わってはいけない類の人間だということは直感でわかった。

それでもラーロは

「…………なんでぼくを助けたの?」

とサキに問うた。

「……靴の裏に付いた鼻血を舐め取らせてその口に足を突っ込んでつま先を上あごに擦り付けてずたずたにしてご飯を食べるたびに痛がってわたしのこと思い出させて夢に出てくるようになるまで恐怖を心に刻んでやる……」

「……なんでぼくを助けたの、おねーさん!」

「……あ?」

ぎろりとラーロを睨むサキ。ラーロが一歩退く。

年下の少年に向けるような目ではない。

ラーロは半泣きになりながらも、サキを見つめ続けた。

しばらくしてサキが我に返る。

「やだ、わたしったら。ついぼーっとしちゃって」

「……ぼーっ、ていうよりーっ、としてたよね」

呆れたようにラーロ。彼のまなざしに咳払いで返すサキ。

「ごめん、何か言った?」

「……どうして助けたのかって」

「あなたがいじめられてたからよ」

「…………。……いじめられてなんか、ない」

「あら、そうなの? 同級生に囲まれて小突かれてたから、

 いじめかと思ったんだけど」

「…………」

「図星なんでしょ? 別にいいじゃない、珍しいことでもないし」

組織があればいじめは起きる。サキは以前病院に勤めた時、そこで看護士をしていたミリィにその一端を見た。しかし彼女は自身の目的のためにいじめに屈することはなかったが。

「……ぼくは、…………ぼくは…………」

ラーロがうなだれる。

「……ちょっと散歩しようか」

サキがラーロの手を取り、歩き始めた。


◆◆◆


「抵抗しないからよ」


サキとラーロ。二人は手をつないで一言もないまましばらく歩いていた。

通りすがりに家屋の建設が途中で止まっている空き地があったので、

二人は手ごろな石材に腰を掛けた。

数分無言だったが、ラーロがぽつりと

「なんでぼくなんだろう。他の子だっているのに」

とこぼしたところに、先の彼女の回答だった。

それに対してラーロは

「……抵抗?」

と問い返した。

「さっきいじめられてた時、あなた抵抗しなかったでしょ。

 だからガキども…………もといトーマ達、は調子に乗るのよ。

 『こいつは殴ろうが蹴ろうがやり返してこない。いいサンドバッグだ』って」

「……最初は抵抗したよ。いやだ、とも言った。

 でも抵抗したらあいつら、もっと殴ってくるんだ。

 だから、あいつらが飽きるまでやり過ごすしかないって思って……」

「甘いのよ」

「え?」

「抵抗って何したの? 髪を引きちぎった? 爪をはがした? 指を折った?

 鼻を潰した? 歯を折った? のどを潰した? 目を潰した?」

サキの発言にぎょっとするラーロ。

「……あいつらの体を押しのけた」

「甘いわね。物理的に相手を動けない状態に追い込まないと。

 思い知らせないといけないの。『こいつに手を出したらやばい』って」

「でも、さすがにそこまでしたら、相手がかわいそうっていうか」

「じゃあ、あなたはそのままでいいの?

 早いうちに手を打たないとあいつらますます調子に乗るわよ?」

「…………それは」

口ごもるラーロ。だが、サキは気付いていた。彼はただ優しいだけなのだ。

だから、いじめられてもされるがままになっている。

いじめをやめさせるために抵抗することを考えても、相手の体を気遣ってしまう。

結果、身動きが取れなくなる。

「あなたのお父さんとお母さんはいじめのことは知ってるの?」

「…………知ってる」

「……え?」

我が耳を疑うサキ。

「ぼくの両親は知ってる。けど、あいつらの家の方が格が上だから、

 もめごとは起こすなって」

「……何よそれ」

立ち上がるサキ。

「あなたがいじめられてるのは同級生も、あなたの親も知ってるのに

 誰も助けてくれないっていうの?」

無言でうなずくラーロ。

「そんな……そんなことって……」

絶句するサキだが、ガムが言っていたことを思い出す。

彼は『貴族にも階級がある。格下の貴族は格上の貴族に逆らえない』と言っていた。

格上の貴族が国王に格下の貴族の悪い噂を流そうものなら、格下の貴族の家は取り潰しになりかねない。

それを避けるために、ラーロは彼の両親の人生の犠牲になっているのだ。

「しょうがないよね。親の言うことは聞かないといけないから」

教会もそう教えてるしね、と付け足すラーロ。

彼の襟首をサキが掴んだ。

「しょうがなくなんかない」

「…………?」

サキはそのまま彼を締め上げ、立ち上がらせた。

「あなたの親が我慢しろって言ってるから何? 

 教会が親の言うことを聞けって言ってるから何?」 

「……く、苦しいよ。おねーさん」

呻くラーロ。しかしサキが腕の力を緩めることはなかった。

「親にご機嫌取って、教会にご機嫌取って、トーマ達に無抵抗でいて、

 あなたの人生と命は誰が守ってくれるって言うの?」

「……く、ぐうぅ…………」

サキを引きはがそうと手提げ鞄を手放し、ラーロは彼女の腕を両手で掴む。

その爪がサキの手に食い込んだ。

しかし彼女は気にした風もなく、ラーロを睨みつけた。

「神様なんていない。自分の命は自分で守るしかないの」

「……放してよっ!」

サキの太ももを蹴りつけるラーロ。そうしてようやくサキはラーロから手を離した。

サキは数歩後ずさり、ラーロはその場で咳き込んだ。

「……なんだ、けっこう力あるんじゃない」

ふとサキが地面に落ちた彼の手提げ鞄に目を落とす。

「……これは?」

サキが拾うと、その中には一枚の板と一本の筆が入っていた。

正確には木の板に帆布を張った、いわゆる絵画用のキャンバスというやつだ。

サキはキャンバスを手に取るとその絵を眺めた。

夕刻の街の様子を描いたものだ。夕焼け空、立ち並ぶ家や商店、

ぼんやりと光るガス灯など写実的に描かれている。

サキはそれを見て違和感を覚えた。

人が一人もいないのである。

普通夕方になれば仕事終わりの人々や、夕餉の支度をする女性などで町は賑わうはずである。しかしこの絵にはそうした『活気』のようなものが抜け落ちているのだ。

一方筆の方は相当使いこまれているのか、柄も毛先もぼろぼろになっていた。

「……返してよ」

ラーロがサキの手からキャンバスと筆を奪い返し、鞄にしまった。

「それはあなたが描いたの?」

無言で頷くラーロ。

「絵のことはよくわからないけど、うまいと思うわ」

「…………ただの暇つぶしだよ。何の役にも立たない」

「嘘」

「…………」

「ただの暇つぶしで筆がそんなぼろぼろになるわけない」

「…………」

「ほら、これ見て」

サキは腰のホルスターからサバイバルナイフを取り出し、柄を彼に向けて見せた。

「わたしのナイフ。柄がわたしの指の形にすり減ってるの。

 何百万回も振るってきたから」

「おねーさんはほんとに何してる人なの…………?」

「おねーさん、じゃなくてわたしの名前はサキよ」

ラーロはきょとんとした。サキは質問に答えず、ナイフをホルスターに戻した。

「大好きなんでしょ。絵を描くのが。たくさんの時間を費やしてきたんでしょ?」

「…………うん」

「じゃあ、暇つぶしなんて言っちゃだめ」

「……うん。でも、父さんと母さんは無駄なことだって。

 将来何の役にも立たないからやめろって」

絵描きで食べてくには有名な画家の工房に弟子入りするのが早道だが、

彼の話を聞いていると両親が許しそうになかった。

「でも好きなんだ。これまで取り上げられたら、ぼくはもうどうやって

 生きていけばいいかわからないよ……!」

「わたしがあなたを鍛えてあげる」

「…………え?」

ラーロが目をぱちくりさせる。

「だから、わたしがあなたを鍛えてあげるって言ってるの」

「え、なんで、そんな話に」

「あなた、見た目がひ弱なのよ。家柄のこともあるかもしれないけど、

 体格が貧弱だからいじめられてるんじゃない?」

「そ、そんなこと」

「あなたの学級で、貴族でも格下の家ってあなたの家だけなの?」

「いや、他にもいるけど」

「じゃあ、その子はあなたより小柄? 痩せてる?」

ラーロは思い出してみるが、その中で自分より小柄で痩せてる同級生はいなかった。

「……いない」

「ほらね。不運だと思うけど、あなたが標的にされるのはなるべくしてなったのよ」

弱そうなものが真っ先に目を付けられる。

それは自然でも、暗殺業界でも同じだった。

「そんな、じゃあ、ぼくはどうすれば」

がっくりとうなだれるラーロ。

「だから鍛えたげるって言ってるんじゃない。

 いい? 身長はすぐには伸ばせないけど、体力と筋力は訓練で

 増やすことができるわ」

「それといじめに何の関係が?」

「あなたは見くびられてるのよ。だから強者の標的にされる。

 あなたにも牙があることを 相手にわからせなきゃならないの。

 体力と筋力が増えれば背の低さを補えるわ。

 そしたら人より戦闘……もといけんかで優位に立てる。

 プロの戦士が相手ならともかく、子供三人くらいなら

 戦い方次第で余裕で勝てるようになるわ」

「……本当?」

「ええ、ほんとよ」

「でも、戦うなんてぼくには……」

「ぐだぐだ言ってんじゃないの。これがどうなってもいいの?」

言ってサキはラーロの絵を取り上げ、サバイバルナイフを突きつけていた。

「あ! ぼくの絵、いつのまに」

「まずはランニングからよ。その後は腹筋と背筋と腕立て伏せ五十回ずつよ。

 そして毎日学校終わりにこの空き地に来なさい。

 もちろん走って。わかったら始め!」

有無を言わせないサキの圧力に、ラーロは泣く泣くランニングを始めた。


◆◆◆


翌日、取り決めた通りラーロは空き地にやって来て、

サキの指導の下ランニングをおこなっていた。

サキがラーロの後ろに付き、街中を走っている。

ラーロは昨日の腹筋のせいで筋肉痛を起こしたのか、前かがみ気味に走っていた。

始めてから五百メートル程しか走っていないが、既に息が上がり始めている。

「……サキ、ちょっと……きゅうけい……させて………」

対してサキは普段と変わらない表情で走っている。

「何言ってんの。まだ始めたばかりじゃない」

「そんなこと……言ったって、……、お腹も痛いし……」

「真剣さが足りないのよ。後ろから包丁を持った殺人犯が追ってきても

 おんなじこというのかしら?」

現在、彼を追っているのは元暗殺者だが。

ぜえはあと息を乱しながら走り続けるラーロ。

「……なんなの、その無茶な、設定……?」

「あなた絵描きなんでしょ。なら想像しなさい。

 自分は殺害現場を目撃してしまった。

 犯人に顔を見られた。口封じのためにあなたを殺そうと追いかけてきた。

 さあ、どうする?」

「……殺されて、たまるかっ……!」

走るペースが上がるラーロ。サキも遅れずについて行く。

「その調子よ」

その後も彼女は彼を叱咤しつつ、三十分ほど走り続けた。


◆◆◆


ランニングを終え、元の空き地に戻った二人。

ラーロは空き地の真ん中に大の字に寝ころんでいる。

サキは少々息が上がっているものの余裕の表情だった。

「まだ休むには早いわよ」

「……え、今日はこれで終わりじゃないの?」

「なに甘っちょろいこと言ってんの。ランニングは準備運動よ。

 やっと体が温まったんじゃない。これから筋トレするわよ」

「え……、むり……。休ませて……」

ぜえぜえと全身で呼吸するラーロを見かねてサキがため息を吐く。

「しょうがないわね。三分だけよ」

「たったの三分!?」

「今すぐ始める?」

「ごめんなさい三分でいいです……」

ラーロに背を向けるサキ。時間がもったいないとばかりに格闘術の型を取り始めた。

正拳突きから上段蹴り、掌底、肘打ち、足払いと流れるような動きで攻撃を繰り出す。

それはまるで舞踏のようにも見えた。

横目で見ていたラーロはそれを美しいと感じた。

自身が疲労していることも忘れて見入ってしまう。

「はい、そろそろ休憩終わり」

「えっ、もう?」

ラーロが気付いた時には既に三分が経っていたようだ。

のそのそと体を起こして立ち上がる。

「腹筋、背筋、腕立て十回ずつね」

「……それだけでいいの?」

「それを五セット」

「げっ」

「間の休憩は三十秒ね」

「え……たった……?」

「十秒で良かったかしら」

「ごめんなさい三十秒でお願いします」

「素直でよろしい。はい、始め」

「うぅぅ………」

いじめの方が幾分かましなのではなかろうか、とラーロは心の中で呟いた。

空き地には、サキのカウントアップの声とラーロの呻き声が響き始めた。


◆◆◆


サキのトレーニングが終わるころには夕方になっていた。ラーロは疲れ切ったのか、

再び大の字で寝転がっていた。その顔は汗と土でどろどろになっていた。

「これしきのトレーニングで、情けないわね」

しばらくラーロを休ませた後、サキは彼の手を取り、彼の体を引き起こした。

「一人で帰れる?」

「……うん、なんとか」

体は悲鳴を上げていたが、彼はなんとか強がった。

「いい? トレーニングには食事も大切よ。

 鶏肉や卵のたんぱく質を中心に摂るの。筋肉の元になるから。

 でも野菜やパンや牛乳もバランス良く摂ってね。

 それで寝る三時間前までに食事は終わらせること。間食は極力控えること。

 わかった?」

「……はい」

「声が小さい! わかった!?」

「はい!」

「よろしい。明日も同じ時間に来るように」

サキは満足げに頷き、空き地を後にした。

一人取り残されたラーロ。

筋肉痛で全身が痛いし疲労で体は重い。

こんなにしんどい思いをして何になるのだろうか、と彼は思った。

「でも、なんだろう」

普段より心は軽かった。

そして、このトレーニングは一か月ほど続いた。


◆◆◆


ある休日。ラーロは一人で王立美術館ミュージアムにいた。

館内は白を基調にした床、壁、天井の空間が広がっている。

天井は高く、歩くと靴音が響く。周囲には様々な彫像が設置されている。

ラーロは画板や木炭などのデッサン道具を携え、ある彫像の元へ向かった。

それは運命の三姉妹の一人であるスクルドの彫像であった。

スクルド像はゆったりとしたローブを羽織り、肩口までのボブカットに

幼い顔立ちという姿で造形されている。

ラーロは像の前に腰を下ろし、画板に紙をピン留めした。

しばらく像を観察した後、彼は二十センチほどに割った細い木炭を手に

デッサンを始めた。

大まかに形を取り、陰を置く。陰からさらに暗い陰を。木炭を塗り込みすぎたところは食パンの切れ端で拭いとる。

それを繰り返すこと三時間。ラーロは手と顔を木炭で汚しながら、

スクルド像のデッサンを完了した。

その様子を彼の後ろで観察していた一人の中年男性がいた。

茶髪オールバックで中肉中背。鼠色のツナギに茶のベストを羽織っている。

鼻が高く、顔の彫が深い。そのまなざしはラーロを、もといラーロの

デッサン画に向けられていた。

中年男性はラーロの元に歩み寄り、一枚のメモを渡した。

そして彼はすぐさまラーロの元を去った。

ラーロはデッサン後の疲労からかしばらく何事かとぼけっとしていたが、

メモの内容を読み、ひどく狼狽した。


◆◆◆


その日の夜。クロノス西部の高級住宅街の一角にトーマが住む屋敷がある。

広大な敷地を持つ屋敷の一階、大広間で舞踏会が催されていた。

壁には絵画が掛けられ、ウッドカービングの装飾が施されている。

広間の中央では男女ペアでダンスを踊っているのが十数組。

部屋の奥ではピアノやバイオリンで音楽を奏でる奏者が数人。

来客に食事や酒の給仕を行う召し使いが十数人。

ダンスに興じる者達を囲むように、数十人の男女がワイングラスを片手にそれぞれ談笑していた。

来客の男性はブランド物のスーツ、女性はきらびやかなドレスを纏っていた。

皆、和やかな雰囲気で舞踏会を楽しんでいる。

小学校の制服を着たトーマが大広間に入ってきた。

手には一枚の筒上に丸めた紙を持っている。

彼は入り口付近できょろきょろと広間を見渡す。そして目標の人物を見つけると、

小走りで駆け寄った。金髪オールバック、背の高いスーツ姿の中年男性。

それはトーマの父親、ジョルジュ・ド・オーフェだった。ジョルジュは恰幅のいい、中年の商人らしき男と話をしていた。

「お父様」

トーマは呼びかける。ジョルジュが怪訝そうに振り向き

「どうした?」

と言った。

トーマは手にした紙をジョルジュの前で広げ、顔を輝かせた。

「こないだの算数のテスト。百点だったんだよ。

 満点はクラスでおれだけだったんだ。すごいでしょ?」

ジョルジュはテストを一瞥すると

「なんだ、くだらん」

と嘆息した。

「え……?」

「今、ケイボウさんと大事な話をしているんだ。あっちへ行ってろ」

トーマを手で追い払うジョルジュ。

「すみませんケイボウさん。うちの愚息が話を遮ってしまって」

ジョルジュの言葉にケイボウと呼ばれた目の前の男は鷹揚な態度で応じた。

そしてケイボウとの話を再開した。

トーマはジョルジュに背を向け、とぼとぼと大広間を後にした。

廊下を歩き、自室のある二階へ向かおうとする。

その途中、廊下脇の控室の中から二人の男性が話す声が漏れ聞こえてきた。

聞き耳を立てるトーマ。

「……知ってるか。どうやらオーフェ家は取り潰しになるらしいぞ……」

「……ああ、相当な借金を背負ってるって話ですね……」

「……こんな晩餐会を開いてる余裕があるのかね……」

「……夫人のわがままですよ。あの方も貴族の出身ですからね。

 嫁ぐ前も相当贅沢な暮らしをしていたらしいですよ……」

「……しかも見栄っ張りなんだよな。うちの妻が一度、乗馬を一緒にしたんだが、

 土産に夫人からブローチを貰ってきてな。

 まあ、二流品なんですぐに捨ててしまったが……」

「……もったないないですね。せめてお子様に差し上げれば良かったのでは?……」

「……馬鹿言うなよ。周りに娘が二流だと思われては、それこそ損失だろう……」

「……ははっ、違いないですね……」

「……それは置いといて。今日の会には大商人が何人か来ているようだ……」

「……ああ、さっき会いしましたよ……」

「……今頃必死に融資のお願いをしているだろうよ。ジョルジュの奴に、

 私からも一言添えるようにって頼まれたよ……」

「……ああ、僕もですよ。それで、応じたんですか?……」

「……返事だけな。この家は旧態依然だ。先の革命を見向きもせず家名に胡坐を

 かいてる能無しだ。それに与して俺まで能無しだって思われるのは勘弁だ……」

「……沈む船には乗れない、ですね……」

「……ああ……」

「……でも、ここのお抱えの料理人の腕は絶品ですよ。

 もう食べられなくなると思うと残念ですね……」

「……まあ、それも運命だろう。今日、しっかり食べて行こうじゃないか……」

「……そうですね……」


扉の向こうで談笑の声。

トーマはテスト用紙をぐしゃぐしゃに潰し、廊下に捨ててその場を後にした。


◆◆◆


同時刻、ラーロは家で家族と食事をとっていた。

トーマの屋敷と比べれば、だいぶ小さな屋敷の食堂にラーロと両親、

そして中年女性のメイドがいる。

ラーロの父親は茶髪の天然パーマで、頭頂部は後退し、

長さは肩口にかかるくらいだ。

また、母親は茶髪のストレートヘアーだ。長さは肩甲骨のあたりまで伸ばしていた。

メイドは入り口の近くに佇み、ラーロの家族の食事を見守っている。

八人ほどが座れるテーブルの上座に父。

その一つ下座の両脇にそれぞれ母とラーロが座っている。

食事中、家族の間に会話はない。フォークとナイフが皿を

かちゃかちゃと擦る音が空疎に響くだけだ。

メインの鶏肉料理を口に運びながら、ラーロの父親が

「ラーロ、最近勉強はどうなんだ」

と言った。

「……ん、まあまあだよ」

ラーロが素っ気なく答える。

「お前、最近服を汚して帰ってきてるが、何か悪さしてないだろうな?」

ラーロに顔を向けず、父が問う。

「してないよ。別に」

教官は素性がしれない上に鬼のように厳しいが、トレーニングするのは

悪いことではないだろう、とラーロは思った。

「それより、父さん」

「なんだ」

「今日、王立美術館ミュージアムに行ってきたんだ」

「なんだと? あそこには出入りするなといつも言っているだろうが」

「ごめんなさい。でも、これ」

ラーロがズボンのポケットから、一枚の紙きれを取り出し、父親に渡す。

それは昼間、美術館であの中年男性から渡されたものだった。

そこには、その中年の名前と住所が書かれていた。

そこに書かれている名前は「ロータス・ブラント」であった。

「今日、ロータスさんに声を掛けられたんだ。

 『良ければ、うちの工房を手伝ってくれないか』って」

いわゆるスカウトである。将来有望な少年を工房に連れてきて、

絵画の訓練をさせる。

そしてゆくゆくは商業用の絵を描き、工房主の名で絵を売ることになる。

この場合はロータスの作品ということだ。

ロータスにとっては作業が楽になるし、ラーロは絵画技法を習得できる。

技術の水準が一定を超えていれば、どちらにも利益があると言える。

そして現役の画家にスカウトされるということは、既にある程度の実力はあると認められたようなものだ。

工房で経験を積めば独立も夢ではない。

美術館でラーロが中年男に話しかけられた時、それがロータスだとは思わなかった。

帰宅する時も気分がふわふわして現実感がなかった。しかし、帰ってからロータスのメモを見ていると、昼間の出来事は本当だったと実感がわいてきた。

もしかしたら絵で食べていけるかもしれない、と。

ラーロが父をちらりと見ると、メモを持った彼の手は震えていた。

もしかしたら、才能が認められたことを喜んでくれているのだろうか、

とラーロは思った。

「なんということだ……!」

「あの、父さん。ぼく、ロータスさんのところに」


「絵を描き続けたいからと言って、嘘をつくなど!」


「えっ」

父の言葉に戸惑うラーロ。ラーロの父が立ち上がる。

その拍子に椅子が後ろに倒れた。

「お前が絵を描くのが好きなことは知っている。

 だが、お前には何度も言ったな? そんなものは将来何の役にも立たんと。

 お前が我がピクトサム家を継ぎ、盛り立てていくにはまず学校で優秀な、

 いや、トップの成績を修めねばならん。

 それ以外にはお前には何の価値もないのだ。

 勉強の息抜きにと、絵を描かせてきたが間違いだったようだ。

 お前がこんなに意地汚いとは思わなかったぞ」

吐き捨てるラーロの父。

「ち、違う。ぼくは嘘なんて」

慌てて説明しようとするラーロ。しかし、今度はラーロの正面で母が泣き崩れた。

「私は情けないわ……! どうしてお前はお父様に嘘をつくの?

 私たちはあなたを厳しく育ててきたかもしれない。

 でも、それは全てあなたのためなのよ? 

 あなたは将来この家を継がなければならないの。

 そのためには他の人間を押しのけてトップを取らないといけない。

 だから、私たちはあえてあなたにつらく当たってきた。

 それが愛情だって、なんで分からないの……!」

「お、お母さん……」

愕然としてラーロが呟くと、ラーロの母はテーブルからくずおれた。

慌ててメイドが駆け寄り、ラーロの母に肩を貸して立たせた。

「大丈夫ですか、奥方様」

「ごめんなさい……大丈夫よ」

「お部屋で休まれてはどうでしょう」

「ええ、そうするわ」

メイドに担がれ、ラーロの母は食堂から出て行った。

その様子を見ていたラーロ。父の方に向き直るが、

いまだに厳しい顔は解かれていなかった。

「ラーロ、覚えているな?」

「…………?」

「お前に絵を描くことを許すのは、今年までだと言ったな?」

「そ、それは聞いたけど」

「今月までだ」

「えっ」

「お前は嘘をついた。罰だ。

 今月中に絵描きの道具は捨てろ」

「ぼくは、嘘なんて」

「捨てろ」

弁解しようと口をぱくぱくさせるラーロ。

絵が描けなくなる。大好きな絵が。

そうなったらぼくは何を生きがいにすればいいんだ。

言わなきゃ。昼間あったことは本当だったんだって。でも、どうやって証明する?

誰か見てたわけじゃない。メモだって自分が筆跡を変えて書いたって言われればそれまでだ。どうしよう、どうしよう。ぼくは、まだ、絵が。

だが説明しようとすればするほど頭がぎしぎしと軋み、喉がひりひりと痛むようだった。

ラーロは結局

「……わかった」

としか言えなかった。

「気分が悪い。私も部屋に戻る」

言って、ラーロの父はメモを放り捨て、食堂を後にした。

一人残されたラーロは、ぎゅうと手を握りしめた。

爪が皮膚を食い破り、血が滴った。


◆◆◆


翌日。

トーマはビキとイーミャと三人で学校から南の方にある商店街を歩いていた。

通りには菓子、野菜、果物、煙草、日用雑貨など扱う店がそれぞれ軒を連ねている。

トーマは不満そうな顔をして、舌打ちしながら周囲をきょろきょろとしていた。

「ちっ、何か面白いことねーのかよ。しけた街だぜ、ここは」

それに同調するビキとイーミャ。

「また花火でも買って人の家に投げ込んで遊ぼうぜ」

トーマの提案に、ビキとイーミャも賛同する。

花火を購入するべく、雑貨屋へと足を向ける三人。

そこで、トーマの視線の先に二人の人物がいた。

先頭に黒髪ツインテールの少女、後ろには黒髪パーマの少年。

サキとラーロである。二人は交差点を、トーマ達の前を横切るように走っていた。

すました表情のサキに対して、ラーロは息を上げ、苦しそうについて行っている。

どうやら向こうはトーマ達に気付いていないようだ。

「あの貧乏人。最近放課後すぐいなくなると思ったら、何やってんだ?」

疑問を浮かべるトーマ。

「トーマ、あの女はこないだオレらを邪魔したやつだぞ」

「ええ、間違いありません。あの身長、体形、顔の形は見覚えがあります」

ビキとイーミャがサキを指して言う。

「イーミャは時々気持ち悪いな」

トーマの感想に

「失敬な。出会った婦女子のことは覚えておくのが紳士の嗜みです」

と反論するイーミャ。

「俺らを差し置いて、女と乳くり合ってるなんていい身分じゃねえか」

不満を漏らすトーマ。その表情が陰惨に歪む。

「お前ら、ちょっと聞け」

ビキとイーミャに耳打ちするトーマ。それを聞いた二人は

「いいな、やろう」

とにやりと笑った。


◆◆◆


トーマ達三人とサキ達二人がすれ違ってから一時間後。

サキとラーロはいつもの空き地に戻ってきていた。

ラーロはぜえぜえと息を切らして、両ひざを両手で掴んで中腰の体勢だった。

「だいぶついてこれるようになったわね」

トレーニングを始めて一か月。ランニング直後に大の字で倒れていたことを思えば

ラーロは成長していた。ちなみにトレーニング中に吐く回数も減っている。

「……そりゃ、一か月も……毎日、走ってりゃね」

弱弱しく笑うラーロ。

「……なんで、サキは……十キロも走って、平気なの……?」

「わたしは毎日二十キロ走ってるもの。あ、さっきのは別だからね」

と、いうことはこの一か月は毎日三十キロ走っていることになる。

「サキは……、本当に、傭兵の助手、なの?」

「本当にただの助手よ」

最も、その前は暗殺者をやっていたが。

暗殺者なんて裏向きには聞こえがいいが、物を言うのは体力である。

標的を仕留めるためには事前の調査、侵入、潜伏、待機など色々準備がいる。

行動開始から数時間で目的が完了することもあれば、何か月もかかることもある。

常に標的を監視下に置くには忍耐が必要だ。そしてそれを継続するための体力は

言うまでもない。

だから、任務の成功のための体力作りをサキは欠かさなかった。

「持久戦にもつれ込んだ時は、体力が尽きた方が負けるわ。

 逆に体力が残っていれば敵を観察する余裕も生まれて勝機を

 つかみやすくなる。これはわたしの経験だけどね」

「じゃあ……、サキは、負け知らずなんだね」

「いつも負けてる」

「えっ?」

サキは彼女の師匠に勝ったことがない。

手の内を全て読まれているのか、攻撃がかすりもしない。

そしてガムにも勝ったことがない。いくら彼女がスピードで翻弄しようと、

圧倒的な腕力で攻撃が全て無力化される。

ガムには暗殺者としての自信をぼろぼろにされてしまった。

ガムに初めて負けた日の夜は就寝中にしこたま歯ぎしりをしていたのか、

翌日は歯が痛かったのを彼女は覚えている。

「……ったく、元暗殺者のわたしが言うのもなんだけど、反則だわ……」

「えっ?」

「何でもない。……それより、いつまで休んでるのよ。筋トレに移りなさい」

「ちょっと待って」

「ん? 何」

「この、トレーニングの事なんだけど……。はっきり言って不公平だと思うんだ」

ラーロが思いつめたように言う。

「どういうこと?」

「サキは、ぼくのこと鍛えてあげるって言ったけど、ぼくが頼んだわけじゃない。

 ぼくが一方的にやらされてるだけだ。これは、とてもおかしいと思うんだ。

 ぼくは、格下とはいえ、貴族だ。

 平民が貴族に逆らうとどうなるか、わかるよね?」

「……何が言いたいの」

サキは貴族を嫌っている。見るだけで吐き気を催すほどに。それは貴族と自身の境遇にあまりにも差があるためだ。

同じ人間のはずなのに、こちらは人間以下の生活をしてきた。

サキが道端の草を食べ泥水をすすっているときに、貴族の連中は肉を食らい葡萄酒を飲んでいた。彼女はそれを思うと、言いようのない怒りがこみ上げてくる。

成り行きとはいえ、彼女は良かれと思ってラーロを鍛えようと思った。

しかし突然のラーロの言葉に彼女は不信感を覚えた。

「ぼくは、サキのトレーニングに付き合ってあげるかわりに、条件を出したい」

「だから、何」

イラつくサキ。彼女の表情がみるみるうちに冷めていく。

今にもラーロの顔面に蹴りを入れそうな雰囲気だ。

その殺気を感じ取ったのか、ラーロの顔がこわばる。彼はしばらく押し黙ったのち、意を決して口を開いた。


「サキに、ぼくのモデルになってほしいんだ!」


その言葉に、サキは目を丸くした。ラーロが何を言ったのかわからない風だ。

「ダメかな……?」

自信なさげにラーロが呟く。

しばらくして、サキは彼の言葉の意味を理解し、顔を赤くした。

「も、モデルって、どのモデル?」

サキはラーロの発言に動揺してるが、ラーロは彼女の態度が意外だと思った。

トレーニングを指導する彼女とは全く別人だったからだ。

「絵のモデルのことだよ。僕が絵を描くときにポーズを取って欲しいんだ」

「そ、それくらい知ってるわよ。でも、なんでわたし?」

「それは……」

彼女の体が美しかったからだ。正確には彼女の体の動きが、だが。

トレーニング初日に見せた演武のような連続攻撃の型。

それをラーロは毎日見ていた。

サキの引き締まった体。流れるような動き。動きに合わせてなびく髪。

見えぬ敵を見据えるまっすぐな瞳。

トレーニングを指導する彼女は鬼の様だったが、演武をする姿は

女神のように見えた。

しかしラーロはその気持ちを正直に吐露することはできず

「……かっこいいから」

と答えた。

「かっこいい? わたしが……? ふ、ふん。それなら、別にモデルに

 なってあげてもいいけど」

彼女はまんざらでもないようだった。

「本当? やったあ」

喜ぶラーロ。

「でも、わたしを脅してきたのは許せないわね……」

氷点下のまなざしでラーロを射抜くサキ。先ほどの和やかな雰囲気はどこへやら。

ラーロは蛇に睨まれたカエルのようにすくみ上った。ごくりと生唾を飲むラーロ。

「罰として、今日は筋トレ三十セットしなさい」

「さ、さんじゅう……!?」

「百の方が」

「三十セットやらせてもらいます!」

すぐさま筋トレに取りかかるラーロ。

サキは困り顔で、しかしどこか楽し気にため息をついた。

この一か月の付き合いで分かったことだが、絵のことを語るラーロは

楽しそうである。

しばしば絵を描いているようで、先日は最近彼の描いた絵の一部を見せてもらった。

どれも風景画だったが、最初に彼女が見た風景画のような違和感は薄かった。

風景の中に徐々に人が入るようになっていた。

最初に見せてもらった絵に人物がいなかったのは

ラーロの人間不信によるものだったが、幼いサキにはわからなかった。

だが、絵の雰囲気が柔らかくなったと彼女は感じていた。

サキが「描いたらまた見せてね」との言葉に、彼は「うん」とはにかんだ。

以来、サキは次のラーロの作品を見るのを楽しみにしていた。


◆◆◆


時刻は六時。あたりに夕闇が広がる。

ラーロが筋トレをしている間、サキはいつものように演武をしていた。

だが、さすがに疲れてきたのか額に玉の汗を浮かべている。

彼女はそろそろ切り上げようかと動きを止めた。

そして背後のラーロを振り返り、声を掛ける。

「今日はそろそろ終わりにするわよ……、って何やってんの」

ラーロは地べたに座り、スケッチブックに向かって鉛筆を走らせていた。

「筋トレは終わったの?」

サキが問うと、ラーロは無言で頷いた。

「何描いてるの?」

ラーロに近寄り、スケッチブックを取り上げる。

それを見てサキの表情は夕陽のように赤くなった。

スケッチブックには、演武をするサキが数十ページに渡って描かれていた。

どれも対象を的確に捉え、生き生きとした線だった。

「わたしってこんなふうなんだ……、へぇー」

感心したようにサキ。ラーロは少し恥ずかしそうに俯いている。

「すごいじゃない」

「そうかな……?」

「単なるひ弱なやつだと思ってたけど、こんな才能があったのね」

「ひ弱って……、まあ、間違ってないけど。でも、ありがとう」

「やあね、お礼なんていいわよ」

「サキが、初めてだ」

「え?」

「絵のこと褒めてくれたの、サキが初めてだ。

 お父さんとお母さんは絵を描くことなんて将来何の役にも立たないから

 やめろって言う。

 学校の先生は絵なんかにうつつを抜かしてないで、勉強しろって言う。

 同級生はぼくのことなんて見ようともしない」

それは子供らしくない諦観の混じった顔だった。

希望を摘み取られ、決められた道だけを歩まなければならない。

まるでその道だけが正しいと決まってるかのような。

他に選べる道があったはずだと、将来の後悔を確信しているかのような。

「ぼくは、とても、嬉しい」

その声は涙に濡れていた。ラーロはサキに抱きついた。

はずみでスケッチブックを取り落とすサキ。彼は声を出して泣いていた。

今まで、誰にも甘えられなかったのだろう。

彼の周りは親も、学校も敵しかいなかった。

安心して休める場所などどこにもなかった。

神経の削られる日々。物心ついてから彼はそんな生活を数年耐えてきた。

サキはラーロを優しく受け止め、彼の頭を撫でてやる。

堰を切った思いは涙となって溢れ、サキの胸を濡らした。

しばらくそうした後、ラーロが

「……サキって、胸あんまりないよね」

と呟いた。

「……どうやら赤の絵の具が足りないようね」

サキがサバイバルナイフをラーロの首元に突きつけると、

ラーロの涙声が悲鳴に変わった。


◆◆◆


翌日、昼休みにラーロは小学校の裏庭でイーゼルを立てて油彩画を描いていた。

裏庭には焼却炉があり、学校で出たごみを燃やしている最中だ。

煙突からごみを燃やした黒い煙が立ち上っていた。

ラーロはそれをメインに風景画を描いていた。

焼却炉の周りには等間隔でプラタナスの木が並んでいる。

その並木のそばには学校の内と外を隔てる白い壁が立っていた。

裏庭は人気が少なく、集中して絵を描くことができる。

彼の心が休まる数少ない場所である。

毎日こつこつと、二週間ほど通っている。その絵も今日で完成しそうだった。

おそらく、これが最後の絵になるであろうと彼は思っていた。

ラーロが絵の続きを描いていると、背後から足音が聞こえてきた。

三人分の。

彼が振り返ると、そこにはトーマ、ビキ、イーミャの姿があった。

三人ともにやにやと笑っている。

「よう、のろま。最近つれないじゃないか」

トーマがズボンのポケットに手を突っ込んでラーロに言う。

「トーマ……」

怯えたようにラーロが呟く。

「金持ちのトーマ様、だろ」

トーマがラーロの髪を掴むと、ラーロが小さく呻いた。

「お前最近おれらのこと無視してるよな」

「無視なんて、別に、そんなつもりじゃない」

「なんだ? そんなにあの女とつるむのが楽しいのか?」

「女……? サキのこと……?」

「サキっていうのかあの貧乏人は。もうキスくらいはしたのか?」

「彼女とは、そんな関係じゃない」

「なんだよ。お前だって一応貴族なんだ。あんな平民の女くらい、

 お前なんかでも好きにできるんだぞ?」

「ぼくは、そんなことするつもりはない」

「ふん。紳士気どりかよ。

 ところで、あの女と一緒に走ってたのは何だったんだ?」

「……どこで、見てた?」

「勝手に質問してんじゃねえっ!」

トーマがより強くラーロの髪を掴む。さらに呻くラーロ。

「もう一度聞く。あの女と一緒に走ってたのは何だったんだ?」

「あれは、サキがぼくを鍛えてくれるって……」

「なに?」

トーマはラーロの髪を放し、大仰に笑った。

「貴族が平民の言うこと聞いてんのか? ダセえ。そんなの聞いたことねえよ。

 逆だろ、普通。なあ、お前ら?」

トーマの問いにビキは「そんなことしても腹の足しにならない」と言い、

イーミャは「貴族の秩序を乱すなんて、何を考えているんですか」と呆れていた。

トーマは再びラーロに詰め寄り、襟首を締め上げた。

「お前のせいで平民の貧乏人が思い上がったらどうすんだ。

 俺がそのサキって女に思い知らせてやるよ。貴族の邪魔をする奴がどうなるかを」

その言葉にラーロの心臓が跳ね上がる。

この国では正義は身分の高い方にある。

事実がどうであろうが、貴族が黒と言えば黒なのだ。

貴族に逆らった平民は重罪を免れない。

ラーロには容易に想像できた。トーマの告げ口によって処刑されるサキの姿が。

直後、ラーロがトーマの襟首を掴み返す。

「サキに手を出すな……!」

「ラーロの癖に生意気な。……ぐっ?」

ラーロがトーマをねじ上げ、その体が徐々に上昇する。

そしてトーマの足が完全に地面から離れた。

「こ、このっ……、どこに、そんな力が……!」

足をじたばたさせながら苦し気に呻くトーマ。

毎日十キロのランニングと筋トレを続けてきたラーロ。

確実にその体力、筋力は上がってきていた。

ラーロが

「サキには手を出さないって……」

約束しろ、と言いかけて、突如ラーロの体が後方に吹っ飛ばされた。

そのまま背後のイーゼルに突っ込み、共に地面に倒れた。

締め上げられるトーマを助けるために、ビキとイーミャが

ラーロを突き飛ばしたのだった。

ラーロから解放され激しく咳き込むトーマ。

イーミャがトーマに「大丈夫ですか?」と手を差し伸べるが、

トーマは「うるせぇ!」と振り払った。

トーマは立ち上がり、倒れたラーロへつかつかと歩み寄る。

そして彼の腹に十発、二十発と蹴りを入れた。

たまらず胃の内容物を吐き出すラーロ。

「おれの靴が汚れるだろうが」と、とどめとばかりにもう一発顔面に蹴りを入れる。

口が切れ、血しぶきがラーロのそばに倒れたキャンバスを汚す。

キャンバスに目を遣るトーマ。

「お前、まだこんなもの描いてたのかよ」

無造作にキャンバスを拾い上げるトーマ。

「おい、イーミャ。ナイフ持ってたろ?」

「は、はい」

トーマがキャンバスをイーミャに渡す。

「切り刻め」

「えっ……。さすがにそれは……」

「昨日みんなでやろうって言ったじゃねえか。お前は嘘ついたのか?」

凄みを利かせるトーマ。イーミャに選択の余地はなかった。

彼はポケットから革袋を取り出し、中のナイフを手にした。

そしてしばらくためらった後、キャンバスにナイフを突き立てた。

「やめろっ!」

起き上がり、イーミャに飛びかかるラーロ。

しかしトーマの拳が彼の腹に突き刺さり、その場にうずくまった。

「邪魔ぁしてんじゃねえよ、うっとうしい。ビキ、そのゴミ押さえとけ」

「う、うん」

ビキはラーロを羽交い絞めにした。

イーミャは、恐る恐るキャンバスにナイフを走らせていた。

それを見てトーマが

「もっと激しくやるんだよ、のろまが!」

と叱咤した。イーミャはたまらず

「う、うわああああああああああ!」

と叫び、キャンバスをめちゃくちゃに切り刻んだ。

ラーロは泣き叫びながら、その様子を見せつけられていた。

一段落して、イーミャからキャンバスを奪ったトーマは

「いい出来じゃねえか、イーミャ。お前もしかしたら芸術の才能あるかもな」

と満足げに頷いた。対してイーミャは地面に膝をつき、脂汗を浮かべていた。

手にしていたナイフは持っていられなくなり、地面に転がっていた。

そしてトーマの目線の先には煙突からもくもくと煙を上げる焼却炉があった。

にやりと口の端を吊り上げ、焼却炉へと歩を進める。

「やめろ……やめてくれ……!」

涙で懇願するラーロ。

「ビキ、絶対離すんじゃねえぞ」

「う、うん……」

ラーロを押さえる力が更に強まる。

トーマは半分開いた焼却炉の口に、キャンバスを放り込んだ。

「ゴミはちゃあんと燃やさないとな。ぎゃはっ」

そしてラーロを振り向き

「いい暇つぶしだったぜ。また頼むわ。行くぞ、お前ら」

と言い、イーミャとビキを引き連れて裏庭を後にした。

ラーロはすぐさま焼却炉に駆け寄った。


◆◆◆


放課後、いつもの空き地。サキが着くと、そこには既にラーロの姿があった。

しかし、すぐに彼の様子がおかしいことにサキは気付いた。

彼は口に傷を負っていた。服の腹の部分は茶色く汚れている。特に目を引いたのは、真っ赤に腫れあがった両手だった。

見てみると、ところどころに水膨れができている。

サキの到着に気付いたラーロが虚ろな目で彼女に問うた。

「サキ……きょうのトレーニングは、やすんでもいいかな……」

「なに言ってるの! トレーニングどころじゃないわ。早く手当しないと!」

サキはすぐさま彼の応急手当てにかかった。


◆◆◆


口の消毒及び両手の包帯での保護など、サキが一通りラーロの手当てを終えると、

改めてラーロの様子を観察した。

彼女は彼の手提げ鞄に目を遣ると嫌な予感を覚えた。

サキが手提げ鞄に手を伸ばすと、ラーロは「触らないで」と言った。

サキは無視して鞄を奪い、中のキャンバスを取り出した。

嫌な予感は的中した。

キャンバスが半分黒焦げになっていた。しかもめちゃくちゃに切り刻まれている。

焦げと、切られた部分の布がめくれあがり、もともと何が描かれていたのか

わからない。

「これ、誰がやったの」

「……トーマと、ビキと、イーミャが。

 ぼくが、裏庭で絵を描いてるときに。無理やり、奪って。ナイフで……」

ラーロは事の顛末を弱弱しい口調で説明した。

両手の火傷は、絵を取り出すために焼却炉に手を突っ込んだときに

できたものだった。

サキは傭兵の助手。ラーロは絵描き。

一方は依頼人の手助けをする。

一方は作品を作る。

どちらもやることはバラバラだ。

しかし、仕事の成果を貶められることが屈辱なのは共通している。

サキはラーロの魂が踏みにじられたことを直感で理解した。

「あいつら……■■してやる……」

サキの中の黒い炎が燃え上がる。

「……だめだよ」

制止するラーロ。

「なんでよ!? こんなひどいことされて黙ってるつもりなの!?」

激昂するサキ。ラーロは首を横に振る。一瞬口ごもり

「……平民が貴族に手を出しちゃだめだ。いくらサキに仕返しする理由があっても、

 ぜったいあいつらが正義になる。下手すれば処刑される」

と言った。

「わたしがやるんじゃないわよ」

「え?」

「やるのはあなたよ」

「え?」

サキの言葉に戸惑うラーロ。

「平民が貴族に逆らえないことくらい知ってるわよ。腹立つけど。

 だったら、あなたがやるしかないじゃない」

平然と言ってのけるサキ。

「で、でもぼくはケガしちゃったし。仕返しなんてとても……」

悄然とするラーロ。

「悔しくないの?」

「…………」

「あいつらに好き放題されて、大事な手も火傷して」

そして、作品も。ズタズタになったキャンバスを指さすサキ。

「……悔しいよ……」

ラーロがぽつりと呟く。

「悔しいよ!!」

今度は、大声で叫んだ。その音量にサキがたじろいだ。

「ぼくは静かに絵を描きたいだけなのに、どいつもこいつもぼくのジャマをする!

 父さんも母さんも先生もトーマもビキもイーミャも、人がやってることに

 文句言えるほど偉いのかよ! お前らはそんなにヒマなのかよ!

 みんな、みんな大っ嫌いだ!」

放言し、肩で息をするラーロ。口に貼った絆創膏にじわりと血が滲んだ。

「よかった。なよなよしてても男らしいとこあるじゃない」

サキが感心したように言う。

「じゃあ、トレーニングを始めるわよ」

「へ?」

間の抜けた声を出すラーロ。

「今日は休みなんじゃ……」

「仕返しするんでしょ?」

「うん」

「どうしたい?」

「……一発ぶんなぐってやりたい」

ラーロは恐る恐る答える。

「一発でいいの? 百発いっとかなくていい?」

「サキの気持ちは分かったけど、さすがに相手が死んじゃうよ」

サキの発言に引きながらも、ラーロはどこか嬉しそうだ。

あなたを殺人犯にするわけにはいかないもんね、とサキ。

「でも、どうしよう。ぼくの手はこんなだし、殴るのは難しそうなんだけど」

ラーロの疑問にサキは口の端を歪め

「わたしに任せなさい。あいつらの家はあいつらの代で終わらせてやるわ」

と言った。


◆◆◆


翌日。ラーロが通う小学校。校舎は城のような造りで、横に長く広がっている。

ラーロは鉄製の大きな門をくぐり、校舎内に入る。

三階の教室に入り、自分の席に着く。

すると、トーマとビキ、イーミャがラーロの席を取り囲んだ。

ビキとイーミャはどこか居心地が悪そうな表情をしている。

「……何か用?」

ラーロがトーマに問う。

「おいおい、ご挨拶だな。お前がケガしたって言うからわざわざ

 見舞いに来てやったんじゃねえか」

どの口がそれを言うのか。ラーロはため息で態度を現した。

「……それだけ? わざわざありがとう」

ラーロはトーマからふいと顔を逸らす。

「おれが来てやってんのになんだよその態度は? もっと愛想よくしろよ」

「君がいつも引き連れてるビキとイーミャみたいに、かい?」

「あ?」

「きみがうらやましいよ。いつでもご機嫌取りしてくれるトモダチがいるんだから」

思わぬ皮肉に、トーマのこめかみに青筋が浮く。トーマはラーロの襟首を掴んで

「ってめえ、調子に乗ってんじゃ」

ラーロの頭突きがトーマの眉間に決まっていた。トーマは最後までセリフを言わせてもらえなかった。

たまらずのけぞり、ラーロから手を離すトーマ。その鼻から鼻血が噴き出た。

鼻を押さえ、半泣きになる。

突然の出来事に他の生徒がざわつき出す。ビキとイーミャはおろおろと

トーマとラーロを交互に見ている。

トーマは自身の手に付いた真っ赤な血を見て、激高した。

「てんめえええええええ!」

ラーロに掴みかかろうと再びラーロの襟首に手を伸ばすトーマ。

「ワンパターンだなあ」

ラーロが呟き、トーマがラーロの襟首を掴む。

直後、鈍い音と共にトーマが崩れ落ちた。

今度はラーロの金的がトーマに決まっていた。

ぐしゃり、という感覚がラーロの膝に伝わる。

痛みに耐えかねトーマは失神し、うつ伏せに床に倒れた。

「おまえ、トーマになんてことを!」

横で見ていたビキが両腕を上げてラーロに飛びかかる。

が、その動きはラーロには遅すぎた。

ラーロはビキの両腕をかいくぐり、ビキの股間を膝で打った。

再びラーロの膝にぐしゃり、という感覚が伝わった。

「お、おふぅ…………」

ビキも床に沈んだ。

「う、うわあああああ!」

その様子を見ていたイーミャが恐慌状態に陥り、ラーロに鞄を投げつけた。

思わず腕で鞄を防ぎ、痛みに顔をしかめるラーロ。

手に持つ物がなくなると、イーミャは後退しながら教室の椅子を投げ始めた。

しかし、ラーロはそれを最低限の動きだけでかわした。

イーミャが椅子を持つ腕の角度、振る速度、手を離す位置などを観察すれば、

どういう軌道で椅子が飛んでくるか読めた。

次々に椅子が飛んでくるが、ラーロはそれらをくぐったり飛んだりして

ことごとく避けた。

そしてイーミャを追い詰めていく。

昨日サキはラーロに言った。

『あなたの最大の武器は観察眼よ。あなたが見せてくれた絵は

 どれも本物のようだったわ。

 それだけ見えてれば、相手の動きを読むのは難しくないわ』

そしてサキはラーロに教室での戦闘を徹底的にシミュレーションさせた。

教室の広さ。武器になりそうなもの。相手が何人で来るか。

体を動かしたと言えば、ひたすら頭突きと膝蹴りの練習をしただけである。

普段大人しいラーロがトーマに対して先ほどのような挑発をしたのは

このためである。

サキは『トーマがまた襟首を掴んできたらすかさず頭突きを叩き込んでやりなさい』とラーロにアドバイスしたが、果たしてその通りになった。

ビキに対しては特に問題にならないので、これと言ったアドバイスはなかった。

代わりに『戦闘経験のないデブはただのデブよ』と言った。

体重を武器にする意識が働かないということを言いたかったのだろうが、

ラーロは苦笑するしかなかった。

教室前方の黒板まで追い詰められたイーミャ。ずんずんとラーロは距離を詰める。

イーミャは制止するように両方の手のひらをラーロにかざし、無理やり笑顔を

作った。

「ご、ごめんよラーロ。僕はあんなことするつもりじゃなかったんだ。

 トーマに言われたから仕方なく」

「…………」

「そ、そうだ。僕のこの服、あげるよ。

 シャルレ・ミストの新作なんだ。まだ、十点しかないから、とても貴重なんだ」

その言葉にラーロはにこりと顔をやわらげた。

それを見てイーミャがほっ、と表情を緩める。

その直後、イーミャに衝撃が走った。箇所はもちろん股間。

三たびラーロの膝にぐしゃり、という感覚が伝わった。

「その服、センス悪いからいらない」

床に崩れ落ちるイーミャ。ラーロの言葉が届いたかどうかは分からなかった。

ラーロが入り口近くの女生徒を振り向くと、彼女はびく、っと身構えた。

「ぼく、今日でやめるから、先生によろしく言っといてくれるかな?」

彼女は彼が何を言っているのか分からない様子だった。

ラーロはそれに構うことなく、自分の荷物を手に持つと教室から出て行った。


◆◆◆


昼前。サキがいつもの空き地で平積みしたレンガに座っていると、

ラーロがやってきた。

サキが「どうだった?」と尋ねる。

「ばっちり」と答えるラーロ。

その表情は晴れやかだが、どこか寂しそうだった。

「サキの想定通りだったよ。怖いくらいに。なんで相手の行動がわかったの?」

彼の問いに「まあ、ね」と苦笑して濁すサキ。

暗殺者として、師匠からその辺のシミュレーションを徹底的に叩き込まれたから、

とは言えなかった。

ラーロがサキの隣に腰掛ける。

「おかげでスッキリしたよ。家を出る覚悟もできたし」

彼の言葉に、虚を突かれるサキ。

「え、家を出るって……?」

うん、と頷くラーロ。

ラーロは父から今月で絵を描くことをやめるように言われたこと、美術館でロータスから彼の工房に誘われたことをサキに伝えた。

「ぼくは、絵を描き続けたい。だからこの道しかないんだ」

「でも、家を出ることはないんじゃ……」

ううん、と首を横に降るラーロ。

「うちの親は絶対に美術を認めない。親は家を栄させることしか考えてない。

 ぼくはそのための存在でしかないんだ。

 言ってみれば、ぼくじゃなくてもいいんだ」

両親と離れ離れになってしまったサキには、その気持ちは分からなかった。

親といるだけでも恵まれている。それ以上望むのは贅沢なのではないか、

と思ってしまう。

「ぼくは、ぼくであり続けたいんだ」

ラーロは家にも学校にも居場所がなくなってしまった。

どこに進むかの選択肢はひとつしかなかった。

「わたしのこと、恨んでないの?」

サキは、トーマ達への仕返しを提案し、あまつさえその手段も提供した。

学校での居場所を奪ったのはサキに原因がある。

それに対してラーロは「うーん」と首をひねり

「恨んでるとしたら、神様にかな」

と言った。

「……え?」

「もっと早くサキと出会えてれば、あんなに悩むことはなかったんだ」

とウインクするラーロ。

「……生意気」

照れたようにサキ。

これが彼の彼女に対する気遣いなのだということは、彼女にもわかった。

二人は互いに微笑む。

「でも、寂しくない?」

ラーロに問うサキ。彼はしばらく沈黙し

「……寂しい。うん、寂しいよ」

と答えた。

「なんで父さんと母さんは絵のことをわかってくれないんだろう。

 なんでトーマ達ともっといい感じになれなかったんだろう。

 どこかひとつ、いつかひとつでも違えば、こんな別れ方には

 ならなかったんじゃないかな」

今にも泣きそうな笑顔で話す。

「でも、自分で決めたことだから」

「それでも」

両親とこれっきり別れることはないんじゃないか、とサキは言おうとしてやめた。

ラーロはきっと、サキと出会うよりもっと前から自分の夢への道を進んでいた。

もう叶うことのない両親との暮らしを望むサキと、自身の道を塞ぐ両親と別れたいラーロが相容れることはないのだ。

「ありがとう、サキ」

「……うん」

彼は、ここから旅立つのだろう。自身の足で。

彼は手提げ鞄の中からスケッチブックを取り出すと、サキに差し出した。

「これを受け取って欲しいんだ」

彼女はスケッチブックを受け取り、パラパラとページをめくっていく。

サキの演武の動きが数十枚に渡ってクロッキーされている。

それは先日目にしたものだった。

しかし、最後のページをめくり、サキの手が止まる。

そこにはどこかの家の中、窓際で椅子に座って読書をするサキの姿だった。

穏やかな表情で本に目を落としている。

「これ、なに?」

サキが問う。

「本を読んでるサキだよ」

「わたし、あなたの前で本を読んだことないと思うんだけど」

ラーロは少し口ごもって

「サキがナイフを手にしてなかったら、そんなかなって」

と言った。

「……えっち」

「えぇ!? なんで?」

「わかんない。だけど、女の子の見たことないとこを想像するなんて、

 なんだかとてもえっちだわ」

言って、サキはスケッチブックに顔を埋めながら、ちらりとラーロを見やる。

「そ、そんなつもりじゃ。サキはナイフより本が似合うなって思ったら、

 描かずにはいられなくなって」

「そういうのがえっちだって言ってるの!」

ばしっ、とラーロからの視線を遮るようにスケッチブックを

彼の顔に叩きつけるサキ。

「……でも、ありがと。すごく嬉しい」

ラーロから目線を逸らし、顔を真っ赤にする。

「え? なんて言ったの?」

どうやら彼には、サキの言葉が届いていなかったようである。

「……なんでもない。……ばか」

言って、ラーロの顔面からスケッチブックを離し、抱くようにして抱える。

「さて、と」

腰を上げるラーロ。

「そろそろ行くね。色々ありがとう、サキ」

尻の埃を払い、サキに背を向ける。

待って、と言おうとしてサキは口を噤んだ。

「……元気でね」

サキの言葉に「うん」とラーロ。

それきり、彼は振り向くことなく空き地から去って行った。

取り残されたサキは

「急に大人になっちゃうんだから。……男の子ってずるいわ」

と誰にともなく呟いた。


            ―――右腕は描くために 左腕は刺すために―――END

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