07話 海を渡れ 鯨を呼ぶ珈琲の香り

晴天の空を漂う十数羽のカモメ。

その下に広がる水平線。

きらきらと陽光を反射する水面。波は穏やかだ。

海の上には帆を畳んだ帆船が点在し、漁業に勤しんでいる。

クロノス王国の王都から離れた南の都市、港町ネイの海沿いの一角。漁業や貿易関係のギルドの建物、食堂や喫茶店が立ち並んでいる。

そこの一軒の喫茶店の前で、大柄で黒髪ツンツン頭、背には大剣を背負った青年ガムは、これまた大柄でスキンヘッド、あごひげをはやした筋肉隆々の男と睨み合っていた。

二人とも木製の机を挟んで座り、机の上に肘をつき、互いに相手の右手を握り占めている。

ガムの後ろには黒髪ツインテールの少女サキが立っていた。そして数十人の観客が机の周りをぐるりと取り囲んでいる。観客は漁業関係者が多いらしく、筋肉質な男が多かった。

ざわざわと騒ぎながら、手を組み合う二人の様子を伺っていた。

ガムとスキンヘッドの男のすぐ横には中肉中背、リーゼントの男が立っている。彼が二人に合図する。

「レディ……」

交差するガムとスキンヘッドの男の視線。顎から伝い落ちる汗は、暑さのせいだけではないだろう。

徐々に腕に力が込められていく。いつ始まっても準備は万全だ。

一瞬の静寂。


「ゴー!!」


リーゼントの男の号令の刹那後、ガムそしてスキンヘッドの男はお互いに右腕の筋肉に全力を込め、相手の腕を倒しにかかる。

ガムがスキンヘッドの男の腕を押し込む。しかしそれは最初の位置から四十五度ほど倒したところで止まる。スキンヘッドの男がにやりと笑った。ガムのはあっという間に押し返され、手の甲が机に付くまで残り数センチというところに追いやられた。

わっ、と歓声を上げる観客。どうやらスキンヘッドの男を応援しているようだ。

苦悶の表情を浮かべるガム。額に大粒の汗が浮かび、顔を流れていく。それはスキンヘッドの男も同じだった。お互いの手の平に汗がにじむのを感じる。

「ガム、がんばれー!」

後ろからサキが応援する。

「ぐぐ…………!」

腕を倒されまいと必死に踏ん張るガム。しかし、徐々に押し込まれていく。

「ガム! 勝たないと、今日の晩御飯ないわよ!」

「……晩飯……!」

ガムが、相手の腕を徐々に押し返す。

「くっ……!」

スキンヘッドの男に表情に現れる焦燥。

「何やってんだゴルダ!」

「いつもみたいに軽くひねってやれ!」

「お前がナンバーワンだって証明してやれ!」

観客の怒号が響く。それに背を押されたのか、再び押し返すゴルダと呼ばれたスキンヘッドの男。

「どうしたあんちゃん。……もう終いか……!」

「ぐ……!」

再度追い込まれるガム。

「ガム! ネイの地酒は美味しいらしいわよ!」

サキのセリフに、ガムの瞳に炎が宿った。

「…………酒!」

ガムが再び押し戻す。ゴルダが驚きの表情を浮かべる。

「……どこにそんな力が残ってやがった……!」


だんっ


と、手の甲が机に叩きつけられる。勝者はガムだった。リーゼントの男がガムの右腕を掴み、天に突き上げさせる。

「勝者は、挑戦者!」

リーゼントの男の宣言の後、観客からは悲嘆の叫びが上がった。

「ちくしょう、ゴルダが負けるなんて!」

「小遣い全部スッちまった!」

「次こそ当ててやる……!」

そう、これは賭け腕相撲だった。港町ネイは漁業と貿易が主な産業である。とりわけ漁業関係者は血気盛んな者が多く、腕相撲は定期的に催されていた。それがいつしか賭けの対象になった。もちろん違法ではあるが、賭けられるのは小金でたいした問題にはならないということで、ガス抜きの意味も込めて警察からは黙認されていた。

リーゼントの男がガムに賞金を渡す。

「おめでとう。受け取ってくれ」

「ありがとう」

受け取った賞金は、二人が二、三日寝泊まりするのには十分な額だった。

「ガム、やったわね。これで食いっぱぐれなくてすんだわ」

後ろからサキがガムに声を掛ける。

「ああ、危なかった」

その場を去ろうとしたガムに

「おい、よそ者!」

とゴルダが呼び止めた。

「なんだ?」

ゴルダはガムに詰め寄り、眉間にしわを寄せ、睨みつけた。

「てめえのせいでおれの面子は丸潰れだ」

その鬼気迫る様子にガムは身構える。そしてゴルダは

「ネイに来たら、また勝負しろよな。待ってるぜ」

と、右手を差し出して、にかっと笑った。褐色の肌に白い歯が眩しかった。

ガムは一瞬あっけに取られたが、ゴルダと握手を交わし、その場を後にした。


◆◆◆


「いい人だったね。あのスキンヘッドのおじさん」

「ああ。人は見かけによらんな」

腕相撲勝負から半刻後、ガムとサキは近くの喫茶店のテラスで昼食をとっていた。海が近いだけあって、魚料理が豊富だった。食後に紅茶を飲む二人。

二人はドゥイズからのお使いでクロノスからこの港町ネイまで来ていた。依頼自体は難しくないものだったが、道中のトラブルで路銀が尽きてしまった。ネイに着いたはいいが、食費も宿泊費もない。途方に暮れていたところで、先ほどの賭け腕相撲勝負を見つけ、参加した次第であった。

テラスからは海が臨める。左右に伸びる水平線。その上には青空と雲。時間がゆっくり流れているように感じられる。サキものんびりと海を眺めていた。

こんなふうにのんびりできるなら、たまにはこんなお使いもいいもんだ。

とガムが思っていたら、ある怒声が彼らの休息を打ち破った。

「珈琲がねえって、どうゆうことじゃ!!」

訛りの強い、女性の声だった。ガムが店内を見ると、中肉中背、肩まで届く亜麻色の髪にパーマをかけた女性が、ギャルソンの格好をした若い男性店員に迫っているようだった。

その容貌は恐ろしく美しい。まさに美貌の持ち主だった。しかし首に巻いたヒョウ柄のスカーフがコーディネートを崩していた。

女性は四十センチメートルほどの、楕円形の葉が数枚付いた苗木の鉢を片手に持っていた。

「だから、うちに珈琲なんか置いてませんよ」

「珈琲やこうってどうゆうことじゃ!」

「そのままですよ。あんな田舎臭い飲み物」

「田舎臭い?」

「ええ。珈琲は苦くて酸っぱくておまけにどろっとしてて……。とても紅茶の優雅で澄んだ味、香りには及びません」

「馬鹿にすな! 珈琲は紅茶に勝るとも劣らん味わいがあるわ!」

言って、地団太を踏む女性。

その様子を見ていた他の客が

「喫茶店で騒ぐなんて、常識外れね。美人だけど……」

「珈琲なんて頼んでんじゃねえよ、田舎モンが。美人だけど……」

「食後は紅茶に決まってるだろうが……。味覚音痴なのか? 美人だけど……」

など、パーマの女性を非難する声を上げていた。

「珈琲の味もわかっとらんくせに……。田舎モンはどっちじゃ……!」

パーマの女性が男性店員の襟首を掴みかかろうとしたその時。

「落ち着けよ。美貌が台無しだぞ?」

ガムがパーマの女性の手を掴み、店員から引き離した。

「な、なんじゃお前は!」

うろたえる女性。ガムが店員に何枚かの紙幣を渡し

「この女の分も。ごっそさん」

と言って、パーマの女性を店から連れ出した。そしてサキが店員に「ごちそうさま」と一礼し、ガムに続いた。


◆◆◆


「すまん。ついカッとなってしもうた」

ガムはサキそしてパーマの女性と共に店を出て別の喫茶店に入った。

パーマの女性は道中、怒りが収まらず「あの店の連中は脳の代わりにお茶っ葉が詰まっとる」「火葬する時はお茶っ葉で燃やしてやる」など、ずっと悪態をついていた。

店に入ってしばらくして飲み物を飲んだところでやっと落ち着き、ガム達に謝った。

彼女が飲んでいるのはオレンジジュースである。紅茶を頼むとまた揉めそうだったので、ガムが先手を打って注文した。こうして落ち着いていると、ただの美人である。

持っていた苗木の鉢は下に布を敷いて、テーブルの上に置かれていた。

「あたしはユジーン。クロノス商会の酒ギルドに所属しとる」

「俺はガム、傭兵だ。こっちは助手のサキだ」

「サキです。初めまして」

ぺこりと一礼するサキ。

ちなみにギルドとは同業者の組合のことだ。商人なら商人ギルド、漁師なら漁師ギルドのように、同業者が集まっている。その業種で取り扱う商品などの価格、品質はギルド内で厳格に統制されている。

「ゆうても、あたしが扱うとるんは酒じゃのうて、珈琲じゃけど」

「珈琲?」

ガムは聞き返した。クロノスではお世辞にも珈琲は一般的とは言えなかった。嗜好飲料と言えば酒か紅茶だ。貴族がたまに嗜む程度のもので、言い方は悪いが『珍味』の域を出ていない。喫茶店にはまず置いてないし、置いていても物好きなバーくらいのものである。

「おめえも珈琲を馬鹿にしとんか? 紅茶に比べて珈琲やこう、って」

ガムの返答にムッとした様子のユジーン。その表情にすら、ガムは見とれてしまう。

「いや、馬鹿にしてるんじゃない。ただ、珍しいなと」

数秒の沈黙。

ガムの弁明をごまかしでないと受け取ったのか、ユジーンは軽くため息をついた。

「まあ、完全に出遅れたわ。珈琲が嗜好品として開発される前に、紅茶は普及した。同類のもんとして、こっから巻き返すのは苦労する思うわ」

嘆息するユジーン。

「でも、どうして珈琲を普及させようと思ったんだ?」

「だって、うめえじゃろ? 珈琲」

ユジーンが顔を明るくして語り出す。

「豆を挽くと漂う優雅な香り。淹れると煌めく高貴な黒の水色すいしょく。飲むと舌の上で踊る苦味くみと酸味とわずかな甘やかさ。あたしは珈琲が紅茶に劣っとるとは思えん」

「いや、わからん。すまん」

「なんで!?」

そもそもガムは、珈琲を飲んだことがほとんどない。というか、グロピウス邸で一度馳走になったことがあるだけだ。ガムの印象は「苦い」というだけだった。そして後でエウァに珈琲一杯の値段を聞いて驚いた。同じ値段を払うなら酒を飲む、というのがガムの結論だった。悲しいかな貧乏人の発想である。

「く……。珈琲普及の道は思ったより厳しそうじゃ。でも、あたしは諦めんけぇな。食卓から紅茶を追い出しちゃる……!」

なにやら不穏なことを言い出すユジーン。

「ところで、ガム、じゃったっけ?」

「ああ」

「おめえに頼みがある」

「なんだ?」

「あたしの護衛して欲しい。シトマークまで」

「は?」

ガムは素っ頓狂な声を上げた。

シトマークはネイから海を隔てて南にある国だ。

「船上の護衛して欲しい、うとるんじゃ」

「なんで、俺?」

「さっきの腕相撲、見とったで。おめえ、強えな」

「それは、どうも」

「最近、青陽海に海賊が出とるらしゅうてな。商船がたびたび襲わりょうる」

青陽海とはクロノス及びその周辺国とシトマークを隔てている海の事だ。

「じゃあ、陸伝いで行けばいいんじゃないのか?」

「時間が惜しいわ」

ネイから東に陸伝いで行くルートはあるが、船と比べれば七~八倍の時間がかかる。それに途中、盗賊に襲われる危険もある。同じリスクがあるなら、ユジーンは時間を取りたいのだ。

「一刻も早くこれをシトマークに持って行きてえ」

ユジーンはテーブルの苗木を指した。

「それ、なに?」

オレンジジュースを飲んでいたサキが尋ねる。

「珈琲の苗木じゃ」

「こんな木なんだ」

「そんなんも知らんのんか。親の顔が見てみてえわ」

「…………!」

サキがムッとする。サキは父親を強盗に殺害され、母は精神病院に収監されている。事情を知らないとはいえ、他人から両親のことを言われるのは気に食わなかった。

「ユジーンさん。俺もその苗木は見たことない。それにサキの両親は……」

困り顔を浮かべるガム。事情を察したユジーンが頭を下げる。

「悪りぃ。知らんかったとはいえ。言い過ぎたわ」

「いや、勉強になったよ。なあ、サキ」

「え、ええ」

しばらく三人は黙ったままだった。三人がずるずるとオレンジジュースをすする音だけが

交わされる。

「ところで、さっきの依頼の件じゃけど、どうなん? ちなみに報酬は……」

ユジーンがガムに報酬を提示する。報酬額は往復の乗船料、護衛料金、手数料などがガムとサキの二人分。通常の料金から言えば、少し足りなかった。

しかし、ガムは感じていた。ユジーンは性格はきついが、それはさっき彼女が言った通り、珈琲を普及させるための熱意から来ているのだろうと。普及のためにたくさんの国を回るのには金がかかる。決して懐に余裕があるわけではないのだろう。その熱意に応えてやりたい、と思った。

「いいぜ。引き受けた。サキ、いいか?」

「所長が言うなら、やるしかないでしょ」

しかたない、といった感じで軽くため息をつくサキ。

「ありがとう。助かるわぁ」

ガムと握手をするユジーン。ガムの顔が緩む。

「さっそく港で乗船手続きを済ませるわぁ」

席を立ち、苗木を持って店から出るユジーン。

残されたガムを、サキがジト目で睨む。

「……ガム。ユジーンさんが美人だから報酬を負けた、ってことないわよね?」

「……さて、なんのことやら」

ガムはとぼけたふりをする。サキは頬をふくらませた。


◆◆◆


「こっちじゃ。早う」

ユジーンがガムとサキを呼ぶ。

彼らが訪れたのは交易船乗り場である。主に貿易商が利用する船が、日に複数発着している。ユジーンは三人分の乗船手続きを済ませていた。交易船の発着場に着いた三人。

「これじゃ」

係留してある一艘の船の前に立つユジーン。

彼らが乗るのはキャラック船だった。全長約六十メートル。四本のマストに船首楼を備えた、ずんぐりとしたシルエットの船だった。船の側面に『白輪』と書かれた銘板が打ち付けられている。どうやらこの船の名前らしい。

船と堤防の間に掛けられた板を渡り、三人が船に乗り込む。

甲板には十数人の作業員が帆を張っている。もうすぐ出港らしい。

また、甲板には二基の砲台が備え付けられていた。敵に対する威嚇・攻撃用のものだ。

その砲台の周りに立っている三人組の男女がいた。男が二人。女が一人。彼らは一様にプレートメイルを纏い、腰にブロードソードを下げている。どうやら軍人らしい。

そのうちの一人、中肉中背、アフロヘア、褐色の肌の男がユジーンに気付き、近寄って来た。

「よう、ユジーン。ご無沙汰じゃねえか」

「なんじゃ、ギイシャ。おめえまだおったんか」

ユジーンがギイシャと呼ばれた男に、つっけんどんに答える。

「ユジーンさん。お久しぶり」

「お久しぶりっす」

ベリーショートの茶髪、中肉中背の褐色の肌の女性軍人、そして彼女より少し背の高い、細身で茶髪のボブカットの男性軍人が順にユジーンに挨拶した。ちなみにギイシャはニーニャよりも背が低かった。

「久しぶりじゃな。ニーニャ、ピンタ。元気そうで何よりじゃ。ギイシャが元気なのは気に食わんけど」

「つれないこと言うなよ。この船が安全に航海できるのはオレらのおかげなんだぜ?」

「どうだか。積荷に手ぇ出し取るゆう噂も聞くで?」

「バカ言え。民を守るためのオレ達が、そんなことするわけないじゃないか。

……ところで、そっちの二人は?」

ギイシャがガムとサキを見回す。

「護衛じゃ。あたしが雇うた」

ユジーンが答える。その言葉に対し、ギイシャが大げさに両肩をすくめ、手のひらを天に向ける。

「おいおい、護衛ならオレらがいるじゃないか」

「おめえがおるけえじゃ。海賊よりおめえが同乗しとる方が脅威じゃ」

「失礼だな。こう見えてもオレは紳士なんだぜ?」

ギイシャがユジーンの横に並び、肩に手を回す。

「それより、向こうに着いたらオレと一杯やらないか。おごるぜ?」

ユジーンがギイシャの手をはたく。

「お断りじゃ。あたしにはおめえにかまけとる暇はねえ。これの普及に忙しいんじゃ」

彼女が片手に持つ珈琲の苗木をギイシャに突きつけた。

「お前、まだ珈琲を広めるとか言ってんのか? 無駄なことを。嗜みは紅茶か酒。これが定番だろ」

呆れたようにギイシャが言う。

「確かに紅茶と酒は皆が好んで嗜む。珈琲は全然じゃ。でも、それは珈琲がまだ生まれたての赤ん坊じゃけえじゃ。あたしがしっかり育てりゃあ、皆好きになってくれるはずじゃ」

ユジーンの言葉に、ギイシャが哄笑する。

「あんな苦いだけの泥水、誰が好きになるかよ! それよりも美味い酒を見つけて、オレに持って来てくれよ。高く買ってやるからさ」

その言葉に、彼女がふるふると震えている。

「……おめえの血管には血の代わりにアルコールが流りょうるようじゃな。そのまま全身が揮発すりゃあええのに」

「へっ、言ってろよ。お前はその頑固さがなけりゃ、いい女なのにな。まあいい。いずれ落としてやるから、覚悟しとけよ? それと」

ギイシャがガムの前に歩み出る。

「ちょっと背が高いからって、調子に乗んじゃねえぞ? ユジーンは俺の女だ。覚えておけ」

言って、ギイシャはガム達に背を向け、元いた砲台のそばに戻った。

ニーニャが「先輩、振られてやんの。かっこ悪」と言って、ギイシャをからかっていた。

さらにピンタが「先輩、押すだけじゃダメっすよ? ああいう強気な女性は母性本能をくすぐられるのに弱いんすから」と言って、ギイシャに拳骨を食らっていた。

サキがギイシャを眺めて呟く。

「何あいつ。感じ悪い」

言って、ギイシャの背中にあかんべをするサキ。ガムがユジーンに尋ねる。

「ユジーンさん、あのギイシャって男とはどんな関係なんだ?」

「単なる顔見知りじゃ。一方的にちょっかい掛けられて迷惑しとる。剣の腕は確かなんじゃけど、聞くところによると出世欲が強すぎて上官に疎まれとる。じゃけえ出張所から離されて、交易船の警備に回されとるんじゃ」

「出世街道からは外されてるってわけか」

「あんなのが人の上に立ったら、組織は総崩れじゃ。……まあ、あたしは海賊さえ退治してくれりゃあ、それで構わん」

そうだな、とガムが同意する。しかしガムは感じていた。

「……なーんか臭うな、あのギイシャって奴」

そしてしばらくして、『白輪』が出港の合図を告げた。


◆◆◆


「ねえガム、あれは?」

「亀島」

「じゃあ、あれは?」

「双子島」

「じゃあ、あれは?」

「ウミネコだ。にゃーにゃ―鳴いてるだろ?」

「言われてみれば、にゃーにゃー鳴いてる気がする」

「ああ。可愛いだろ?」

「おいしいのかな……?」

「眺めるだけにしろ」

不穏なサキの発言にガムはぎょっとする。

出港して一時間ほど経った頃。太陽が甲板に照り付け、海風が頬を撫でる。サキは船に乗るのが初めてということもあってか、ずっとはしゃいでいた。父を亡くし、母から引き離されたサキはずっと暗殺者としての鍛錬に打ち込んで来た。同年代の子供が遊んでいる間に、人を殺す技術を磨いてきた。遊ぶこと自体が久しぶりなのではないだろうか。

初めて見る景色にはしゃぐサキを見て、ガムは安心していた。子供らしい素直な感性を持っているということに。何が食べられて、何が食べられないのかはおいおい教えていかなければならないようだが。

「サキ。はしゃぐのはいいが、仕事中だってことを忘れるなよ?」

「はーい」

言いながら、甲板の上を駆け回るサキ。

対して、ガムは船の縁の手すりにもたれかかっていた。その顔色は若干白い。船酔いだった。景色を眺めていれば気が紛れるかとも思ったが、一向に回復することはなかった。

そして出港作業が一段落した乗組員達が煙草をふかしている。酒場では気にならない煙でも、船酔いの時はこうも不快なものなのかと思い知ったガムだった。

再び、一筋の煙がガムの鼻に侵入する。顔をしかめながら煙の元の方向を見ると、ユジーンがいた。ガムと同じように手すりに持たれ、火を付けた朱いキセルを持って、どこか寂し気に、海を眺めていた。ガムは彼女の物憂げな表情をしばらく眺めていた。そのガムに気付いたのか、ユジーンがガムを振り向く。彼女はガムの様子を見て

「船酔いか?」

と問うた。ああ、とガムが答える。彼女は懐を探り、小瓶を一つ取り出した。それをガムに放り投げ、ガムが受け取った。小瓶の中には草色の錠剤が十数粒入っていた。

「酔い止めじゃ。飲みんちゃい」

「ああ、悪い」

小瓶を閉じているコルクの蓋を開け、ガムは錠剤を一粒取り出し、飲み下す。蓋を閉じ、ユジーンに小瓶を返すガム。

「ところで、吸わないのか?」

ガムがユジーンに声を掛け、隣に並ぶ。

「ん? ああ、これか?」

ユジーンが右手に持つキセルに目を落とす。朱い胴にいぶし銀の雁首と吸い口。火皿に収めた煙草から紫煙が伸び、空気に溶けていく。ガムは彼女をしばらく眺めていたが、彼女がキセルに口を付けることは一切なかった。

「カッコだけじゃ。吸うたら舌が狂うから吸わん」

「じゃあ、なんで煙草を?」

「親方が好きだったんじゃ、この煙草」

「親方?」

「ああ。あたしのギルドの親方じゃ。親に捨てられたあたしを拾うてくれた。

育ての親じゃうてもええ」

「……親に?」

「ああ。あたしはある貴族の妾の子じゃ。あたしの母さんは貴族に遊ばれて、あたしを生んだ。その貴族が跡目争いに不利にならんよう、母さんはその貴族に捨てられた。母さんも子供だったんじゃな。あたしの面倒を見るのが嫌になって、あたしを捨てた」

ようある話じゃ、と彼女は言った。

「サキちゃんにはひでえことうてしもうたな。あたしが一番つらさをわかっとるはずなねえ。ほんま、悪かったわ」

ユジーンが申し訳なさそうな顔をする。

「……あいつはこれからも、そういう批判には晒されると思う。その回数を減らせるよう、俺があいつを育てないといけない……、と思ってるんだ」

「ガムは、あの子の何なん?」

「平たく言うと雇い主だ。まあ、色々事情はあるんだが」

サキの仇だ、と殺されかけて、だけどそれは勘違いで、サキの行き場所が無くなったから彼女に泣き落されて仕方なく雇うことにしました、とは情けなくて言えなかった。

傭兵としての信用問題にも関わる。

「今はガムが育ての親をやっとるわけじゃな」

「でも、わからんことだらけだ。傭兵の心構えや技術は教えられても、女の子に必要なものがわからなくて、いつも苦労してる」

「そりゃあ、周りの女の子に聞きゃあええが。おめえ、女遊びは得意そうじゃが」

「う」

見抜かれて、言葉に詰まるガム。

「あたしの依頼を受けてくれたのは、半分くらいあたしの容姿に絆されたけえじゃろ?」

半分じゃなくて九割です、とガムは内心思った。

「あたしの依頼の報酬は相場の七割程度じゃ。それでも依頼を受けてくれるのは、あたしに対する下心があるけえじゃ。……あたしはあたしの容姿が人より優れとるのは知っとる。嫌味じゃのおてな」

「…………」

「最初は不思議だったんじゃ。仕事で誰かに何かを依頼する時、大体の男は報酬が相場より安うても受けてくれた。あたしの熱意が伝わったんじゃ、と思っとった。

でも、みーんな、あたしに迫って来た。『負けてやってるんだから、そのくらい当然だ』うて。

あたしは好きでこんな容姿で生まれたんじゃねえ、ええ加減にせえっ、て男らをひっぱたいてきた。そしたらいつの間にかこんな性格になっとったわ」

苦笑を浮かべるユジーン。

「じゃあ、俺もひっぱたかれるのか?」

ガムがおどけてユジーンに尋ねる。その言葉に、首を横に振るユジーン。

「おめえはスケベそうじゃけど、不誠実な感じはせん。なんでじゃろ。

……たぶん」

「たぶん?」

「サキちゃんが、おめえに懐いとるけえかな。それ見とると、おめえは大丈夫じゃろうって思うた」

「俺がサキを利用してるってだけかもしれんぞ?」

「そん時は、そのウニみたいな頭をサメの餌にしちゃるわ」

この女ならやりかねん、とガムは身震いした。

と、そこにプレートメイルを付けた二人組がやって来た。ニーニャとピンタだ。

「ごめんなさい、ユジーンさん。さっきはウチの先輩が無礼を」

「ごめんなさいっす」

ニーニャとピンタがユジーンに謝る。

「その先輩は何しとるん?」

「……船倉で酒飲んでるわ」

ニーニャの回答にユジーンが呆れる。

「ほんと、しっかり教育してぇや。軍人は皆あんなんじゃ、って思われるで?」

「あとできつく言っておくわ」

「言っとくっす」

「……普通逆じゃろ?」

「……そうね」

「……そうっすね」

ははは、と一同が笑う。そこにサキが走ってやって来た。海の方を指さし、ユジーンに尋ねた。

「あれは何?」

サキが指さしたのは、沖に上る一筋のしぶきだった。陽光をきらきらと反射させている。

「あれは鯨じゃ。呼吸のために鼻から潮を吹いとるんじゃ」

へー、とサキが感心する。

「ユジーンさんは、物知りだね」

「この仕事しとったら、自然にな。……そういやあ、鯨言うたら『にじくじら』って知っとる?」

虹鯨にじくじら? と一同は聞き返した。

「この青陽海の主って言われとる大クジラじゃ。千年生きとって、体長はおよそ百メートル。その体表は虹色に輝いとるらしい。滅多に姿を現さんのんじゃって」

「ユジーンさんは見たことあるんすか?」

「いや、ねえ。何百年も前に、漁師が見たう記録が残っとるだけじゃ」

「まさに伝説っすね」

「交易商人としちゃあ、一回ぐらいお目にかかりたいもんじゃけどな」

「漁師が島を見間違えたんじゃねえの?」

ガムがツッコミを入れた。

「ガムは浪漫がねえなぁ。サキちゃん、こういうとこは見習わんようにな」

「うん」

「ガムさん、子供に夢を見させてあげるのが大人の役目っすよ?」

「言うなピンタ。ガムさんはもう汚れちゃったんだよ」

嗜めるピンタとニーニャ。

「黙れ軍人ども。ウチの助手に妙なことを吹き込むな」

再びははは、と一同が笑った。


◆◆◆


「……なんだあれ?」

船首楼で見張りをしていた乗組員が呟いた。彼の視線の先には一艘のキャラベル船。普通のキャラベルと違うのは、赤地に白抜きの鮫のシルエットの旗を掲げていることだ。キャラベルは『白輪』の右斜め後ろから迫っている。

「海賊だ! 『赤の鮫』が出たぞ!」

見張りが甲板全体に届くように叫ぶ。船全体に緊張が走る。ガム、サキ、ユジーン三人は船尾へと走った。海賊船がぐんぐんと近づいてくる。

「本当に来やがったのか」

「ガム、どうしたらいい?」

サキが不安げにガムに尋ねる。

「海賊の狙いはおそらくこの船の積み荷だろう。最悪、船ごと奪われることになる。海賊との戦闘は避けられんだろう」

「……やるしかないのね」

「ああ、だが俺らの任務はあくまでもユジーンさんの護衛だ。適わんと思ったら、隙を見てみんな海に飛び込んで逃げるぞ」

ユジーンをちらりと見るガム。

「ユジーンさん、あんた、泳ぎは?」

「問題ねえわ」

ユジーンは落ち着いた様子だ。きっと今までもこのような事態は幾度となくあったのだろう。

「よし。まずは海賊を寄せ付けないことだ。っても、これはこの船の乗組員に任せるしかないが。俺らがすべきは、ユジーンさんを狙う海賊どもの各個撃破だ。いいな」

「……うん!」

自分を奮い立たせるように頷くサキ。

「まーた、あいつらっすか」

「懲りないね」

ガムの後ろから、追いついたピンタとニーニャが言った。

「また?」

ガムが聞き返す。

「ええ、『赤の鮫』は先月も交易船を襲ったんす。こっちには軍人が十人ほど乗ってたんで、向こうの半数……二十人くらいはやっつけたんすけどね。向こうに相当被害が出たんで、しばらく襲撃はないと思ったんすけど」

「油断したね……。今日は軍人は私ら三人だけだ。でも、向こうもそんなに人数はいないはず。踏ん張るよ、ピンタ!」

「はいっす、先輩!」

剣を抜くニーニャとピンタ。

「ところで、ギイシャ先輩は?」

ニーニャがピンタに問う。

「たぶん、まだ船倉に」

「呼んできて、早く!」

「は、はいっす!」

ピンタが船倉に走ろうとした時。

「いるよ。大声出すな」

後ろからギイシャが現れた。その顔はほの赤く、呼吸に酒の匂いが混じっている。

「せ、先輩。海賊が出たっす」

「ああ、知ってる。望むところだ。ぶっ潰してやるぜ」

余裕の表情を浮かべるギイシャ。

「戦う前から祝杯か? 余裕じゃな」

ユジーンがギイシャに言った。

「あ? 勝負はもう見えてんだよ。俺が負けるか」

「どうじゃか」

「何なら賭けるか? 海賊を追っ払ったら俺と一杯付き合う。海賊を追い払えなかったら、金輪際ちょっかいを出さない。どうだ?」

「海賊を追い払えんかったらどっちみち飲めんけど……、乗っちゃるわ。おめえにそんな男気があるんなら、一杯くらい付き合っちゃる」

「へへ、そう来ないとな」

勇んで剣を抜くギイシャ。

「おいデカブツ。ガムっつったか? お前はやらねえの?」

ギイシャがガムに言う。

「ああ、やるさ。依頼人の護衛が俺らの仕事だ」

「頼んだぜ。今日の俺の勝利の美酒がかかってんだからよ」

「へいへい」

ガムが適当に返事をした。直後。

「撃てぇ!」

乗組員の号令と共に、甲板の二台の砲台から轟音で砲弾が放たれた。

砲弾は放物線を描き、海賊船から離れたところに着水し、しぶきを上げる。

すぐさま乗組員が次弾を込め、次の砲撃を敢行する。轟音。砲弾が着水。

着水地点は先ほどの砲撃より海賊船に近づいているが、海賊船は速力を活かしたジグザグ航行でたくみに砲弾をかわしている。しかし、次弾、そのまた次弾を放つごとに、砲弾は確実に海賊船を捕えつつあった。しかし海賊船も『白輪』にどんどん迫ってくる。

そして

「撃てぇ!」

放った砲弾が海賊船の右舷をかすめた。次こそは直撃する。ガムがそう思った瞬間。

「余計な事してんじゃねえよ」

ギイシャが剣で砲撃手を背後から斬った。鮮血をまき散らし、そのまま崩れ落ちる砲撃手。

突然の出来事に、ガム達、そして乗組員達の視線が甲板中央に釘付けになる。

「先輩! 何してるんですか!?」

ニーニャが叫ぶ。

「オレ、今日で軍辞めっから。あとはお前らで頑張れや」

「ど、どういうことっすか!?」

ピンタがギイシャに問う。

「ジョッドの野郎がうぜえからだよ」

「ジョッド中将が……?」

「不満を訴えても二言目にゃ、やれ規則だの、やれ階級だの。堅っ苦しくてついていけねえ。剣の実力なら俺の方が上なのによ。俺の実力を認めろって言ってやったんだ。そしたら平手打ちだよ。あのおっさんなんも分かってねえ。

と、いうわけでオレは今日から海賊に転職するわ」

へらへらと語るギイシャ。ニーニャがハッとする。

「せ、先輩まさか、警備の情報を海賊に……」

「察しがいいじゃねえかニーニャ。今日の『白輪』の乗組員から警備、積荷情報まで、『赤の鮫』に筒抜けだよ」

「なんてことを……!」

憤るニーニャ。一か月前に、約半数の人員を失った『赤の鮫』が間を空けずに襲撃に来たのは、予め警備の軍人が少ないのを知っていたからだった。

「それよりいいのか? 『赤の鮫』が来てるんじゃないか?」

ガムが船尾を振り向く。『赤の鮫』の船が目と鼻の先に迫っていた。

「来るぞ! 衝撃に備えろ!」

直後、海賊船が『白輪』に衝突する。揺れる船体。乗組員が何人かが転ぶ。ガムとサキとユジーンは手すりに掴まり、転倒を避けた。

『赤の鮫』の海賊船から続々と海賊が乗り込んでくる。海賊は皆一様に綿の長ズボン、地肌の上に綿のベストという格好だった。

「乗組員は皆殺しにして、積み荷を奪え!」

『白輪』の乗組員も慣れたもので、鉄パイプや角材を手にし、臨戦態勢だ。

「海賊の好きにさせるな! 海に落としてやれ!」

そして乗組員と海賊が戦闘を始める。海賊がナイフで襲い掛かり、乗組員が鉄パイプや角材で応戦する。あちこちで武器のぶつかり合う音がこだました。

一人の海賊がユジーンに目を付けた。鼻の垂れた、背の低い男だ。

「きれいな姉ちゃんよう。殺すのはもったいねえけど、命令だからよう」

海賊がナイフの刃の部分を舐める。そこに立ちはだかるガム。

「悪いけど、この美人は俺が予約済みだ」

言って、背の大剣を構える。

「ああん? 邪魔すんじゃねえ、よっ!」

ナイフを振りかぶり、ガムに飛びかかる海賊。ガムが大剣を横薙ぎにする。剣の腹が海賊の体を叩き、船外に弾き出した。おそらく海賊には何が起こったかすらも分からなかったろう。数秒遅れて着水音が聞こえた。

「遅えよ」

呟くガムの横を別の海賊がすり抜ける。今度はぼさぼさの長髪の男だった。

「いくらその剣の攻撃が早かろうと、振り切った後は隙だらけだぜ?」

そのままユジーンの元に駆け抜けていく。

しかし、その海賊の両足に銀光が一閃した。両足からは鮮血。驚愕に目を見開く海賊。

「ちっちゃいからって、見逃しちゃダメよ」

海賊とすれ違いながらサキ。その両手には二振りのサバイバルナイフが握られていた。甲板に倒れ込む海賊を、ガムの振り戻した大剣が一撃する。また船外へと弾き出し、着水音。

「ユジーンさん、怪我はないか?」

「あたしに怪我さしたら、おめえを海に叩き落しちゃるわ」

おお恐い、とガムは肩をすくめた。


◆◆◆


「おーおー、始まったな」

船上の騒乱を悠然と眺めるギイシャ。

「せ、先輩……! あんた、自分が何したかわかってんすか……?」

おどおどしつつ、ピンタがギイシャを非難する。

「俺が軍を辞めて海賊に転職した。それだけだろ?」

「……ふざけんじゃないっすよ……。海賊に情報を売って、乗組員を危険に晒して。

辞めるんなら一人で大人しく辞めろって話っすよ……!」

「ああん?」

「……ひ!」

ギロリと凄むギイシャにピンタが一歩退いた。

「俺は、軍ではジョッドの野郎にいびられてばかりだ。俺の方が強いってのに……出る杭は打たれるってやつか? こうでもしねえと俺の気が収まらねえんだよ。このことを知ったジョッドの野郎が、慌てふためく顔が目に浮かぶようだぜ」

ひゃははっ、と哄笑するギイシャ。

そこにニーニャが剣で後ろから斬りかかる。その気配を察知し、ギイシャはひょいとかわした。

「ギイシャ……あんた何考えてるんだい!」

「くく、ニーニャ。お前が演習で一度でもオレに勝ったことがあったか?」 

ニーニャに剣による攻撃を二発、三発と叩きこむギイシャ。対してニーニャは防ぐので精いっぱいだった。

「あんたの剣の腕、私は尊敬してたのに!」

「そりゃ光栄だ」

「あんたは、軍人としての誇りはないのかい?」

「出世してこその誇り、だ。権力の無い誇りなんざ、ただの自己満足だ」

「人々を守ってこその軍人だろうが!」

「立派だ、ニーニャ。だが青い、青いねえ」

二人がつばぜり合いをする。

「く……!」

ぎりぎりと、押し込まれるニーニャ。

「そういういっちょ前のセリフは、オレに一回でも勝ってからにしろっ!」

ギイシャの蹴りがニーニャの腹を打ち、後方に吹っ飛んだ。彼女を見下ろすギイシャ。

「まだおねんねにゃ早えぞ?」

「く……」

ニーニャが顔をしかめてギイシャを睨む。そこへ、

「……うわああああああっ!」

絶叫と共に、ピンタがギイシャに剣を振りかぶる。その一撃を剣で受けるギイシャ。余裕の表情を浮かべている。

「……オレに楯突こうってのか? 弱虫ピンタちゃんよお?」

「う、うるさいっ、うるさいうるさいっ!」

めちゃくちゃに斬撃を繰り出すピンタ。ギイシャはその攻撃をかわし、いなす。

「おいおい、演習の時よりひでえな。攻撃の基本は腰を入れて、だろ?」

「ど、どうしてっ」

「あん?」

「せ、先輩は乱暴だけど、僕ら仲良くやってたじゃないっすか……! それは全部嘘だったんすか?」

「嘘じゃねえよ。ただあれが俺の全部じゃねえって話だ。……オレはこのままじゃうだつが上がらねえ。ジョッドの野郎が俺を評価しねえからな。オレは飼い殺しにされる気はねえよ。言ったろ? 転職だって」

「……違う」

「あ?」

「先輩の考えは間違ってる……。出世できるのは、周りから信頼を得られるからっす……!

出世したから信頼を得られるなんてことはないっす」

「……うるせえ。理想論語るならサロンにでも行ってろ!」

「ぐっ……!」

ギイシャの斬撃がピンタの剣を打つ。ピンタの剣が手から弾き飛んだ。

「しまっ……!」

「おらよっ!」

ギイシャの拳がピンタの顔面を打つ。鼻血が宙を舞う。のけぞり仰向けに倒れるピンタ。

「手加減してやりゃ調子に乗りやがって。そんな青くせえ理想論で上に行けるかよ」

「うう…………」

甲板に転がるピンタに剣を振り下ろすギイシャ。

「させないよ!」

金属同士が衝突する甲高い音。ニーニャの剣がギイシャの剣を受け止めた。

「邪魔するな」

「そうはいかないよ。ピンタはこんなでも私の後輩だからね。あんたなんかに、やらせはしないさ」

「お前らは不満じゃねえのかよ。安い給料でこき使われて、出世の見込みもない場所で枯れていくってのに」

「そりゃあ、もうちょっと給料が貰えればいいものが食べられる、いい服が買えるって思ったりするさ」

「じゃあ、お前も俺と来いよ。海賊になりゃ好きなだけ稼げるぜ?」

「ごめんだね。人様から奪ったもので生活するつもりはないよ。私の報酬は別にあるからね」

「……別の報酬?」

「ネイのみんなの笑顔だよ」

「……は? 何言ってやがる」

「戦闘にしろ、警備にしろ。私らはネイの街の安全の一端を担ってるんだ」

「…………」

「私らが街の安全を守ることで、ネイのみんなは安心して暮らせる。そのみんなの笑顔が、

私のもう一つの報酬だよ」

「……黙れ」

「いーや、言わせてもらうよ。あんたは軍人失格だ」

「青臭えことを……。黙れって言ってんだ!」

ギイシャの上段からの強烈な一撃。ニーニャは剣で受け止めるが、体勢を崩された。その間にギイシャが剣を引き、再び彼女に剣を振り下ろす。絶体絶命だ。

ギイシャの剣がニーニャに届く寸前。ピンタがギイシャの右側から体当たりする。ギイシャの剣はニーニャから逸れ、甲板に突き刺さった。その隙を見逃さず、ニーニャはギイシャに斬りつける。ギイシャは堪らずのけ反ったが、ニーニャの一撃がギイシャの胸を斬り付けた。

「くっ!」

ギイシャが一歩退く。ニーニャの斬撃は、ギイシャのプレートメイルの胸部に傷をつけるに留まっていた。

「……雑魚が調子に乗ってんじゃねえっ!」

激高したギイシャがニーニャとピンタを蹴り飛ばす。甲板に転がり、咳き込む二人。

「……ぶっ殺してやる!」

二人ににじり寄るギイシャ。

「お前さんよお」

ガムがギイシャに呼びかけた。

「……あん? 邪魔すんじゃねえ」

「辞表は出したのか」

「あ?」

「だから、辞表は出したのか? 軍を辞めるにあたって」

「んなもん出すわけねえだろうが」

「いい大人がみっともねえな」

「なんだと?」

「組織を辞める時は辞表を提出するもんだろうが。次の人事やら引き継ぎやら事務処理に支障が出るだろうが」

「はあ? 知るかよんなもん」

「はあ……」

大仰にため息をつくガム。

「お前さんは自分を中心に軍が回ってるとでも思ってるのか? 組織に属している以上、ルールがあるのは当たり前だ。それを守れないお前さんは軍人以前に社会人失格だ」

「言わせておけばいい気になりやがって。……舐めてんじゃねえぞっ!」

怒りの矛先を変え、ガムに襲いかかるギイシャ。ガムに剣を振りかざすが、ガムの大剣に全て捌かれる。

「ちぃっとばかし図体がでけえからって、調子に乗ってんじゃねえ」

「俺も好きででかくなりたかったんじゃないんだが……」

更にギイシャの斬撃が続く。一閃、また一閃。しかしガムの体にその切っ先が届くことはなかった。これにはさすがのギイシャも焦りの表情を浮かべている。

「傭兵ごときがっ……!」

ガムの腕力は、自分の背ほどもある大剣を軽々振れるほど強力だ。ギイシャの斬撃の素早さ、的確さは目を見張るものがあったが、ガムにとっては何ら問題にならなかった。

「おらっ!」

ガムが大剣でギイシャの横薙ぎの攻撃を弾く。ギイシャの剣は放物線を描いて宙を舞い、海へと落下した。

「な……馬鹿な……! お前は一体……」

「ただの傭兵だ」

「く、くそっ!」

ギイシャが甲板に倒れているニーニャのところに走り寄る。ニーニャの剣を奪うつもりだ。

その眼前に、サバイバルナイフを構えたサキが回り込んだ。

「大人しくして。でないと、目玉をくり抜くわよ?」

「ぐっ……」

ギイシャは身動きが取れなくなった。彼にガムが言う。

「観念して海賊を引き上げさせろ。命までは取らん。もちろん警察には突き出すが」

「こ、こんなところで……」

ギイシャが呟く。

乗組員と海賊との喧騒が遠く聞こえる。彼の顎から汗が滴り落ち、甲板の上で弾けた。

その直後、ギイシャの体が何かの影に覆われた。


「祭りはこれからだろっ! がはははははっ!」


しわがれた大音声の直後、甲板の中央が爆散した。まるで隕石が降って来たかのようだった。

突然の出来事に、甲板上の全員の目線が中央に集まった。

舞い上がる木片や埃の中、甲板に空けられた大穴の傍に、一人の巨漢が姿を現した。青いバンダナ、金髪の顎髭と口ひげを蓄えた壮年の男だ。手には彼の身長程ある錨を担いでいる。その錨には首の部分に当たるシャンクに布が巻いてあり、彼はそこを握っている。

「ざ、ザクゾン……」

ギイシャが驚きの表情で青バンダナの巨漢を見つめている。

「ザクゾン船長、だろ?」

「……ザクゾン船長、あんたは船に残っててくれって言ったじゃないか」

「積荷の届くペースが遅えから、痺れが切れたんだよ。ギイシャよお、…………お前口ほどにもねえじゃねえか。軍人辞めてこっちにくる覚悟ってのはそんなもんか。もっと根性見せんか、なあ?」

「ぐっ…………」

返答に詰まるギイシャ。

「馬鹿でけえ剣のあんちゃん」

「ん、俺か?」

ザクゾンに呼びかけに答えるガム。

「あんちゃんはいい腕してんな。……どうだ、ウチに来ないか? ウチは出自も身分も関係ねえ。成り上がるのに必要なのは腕っぷしだけだ」

「悪いがパスだ。俺の依頼人はそこの美人だからな」

ユジーンを指さすガム。彼女を見て、ザクゾンが不敵に笑う。

「こりゃあ、とんでもない別嬪じゃねえか。断るのも納得だ」

「だろ?」

「だが、それを奪えるのも儂ら海賊よ。あんちゃんを倒して、奪わせてもらうぜ?」

「そうさせないために、俺らが雇われたんだ」

「ん? 俺らってえことは……」

ザクゾンがサキをちらりと見やる。

「そんなチビッ子を雇ってんのか? お互い人材不足でいけねえや」

がははは、と笑うザクゾン。チビッ子呼ばわりされてムッとするサキ。

「わたしの名前はサキよ。ただのチビッ子だと思ってたら、その舌を削ぎ落として余計なお喋りさせないようにするわよ?」

「がはは。威勢のいいのは嫌いじゃねえ。ギイシャを抑え込んでるんだ。お前さん、見どころあるぜ?」

「え、あ、そう……?」

照れるサキ。どうやら褒められるのには慣れていないようだ。そんな彼女を「集中しろ」と諫めるガム。

「しかしこの状況はいただけねえなあ……」

と言って、ザクゾンは悠々と錨を掲げ、サキに向かって振り下ろした。

「避けろ、サキ!」

ガムは叫んだ。錨の大質量を受けきれるほどの腕力はサキにはない。

再び爆散する甲板。サキはとっさによけた。しかしそのせいでギイシャに対する牽制は解けてしまった。

ザクゾンがギイシャに向けて言う。

「ギイシャよ。もう一度チャンスをやる。船倉からめぼしい物取って来い」

「なんで俺が、そんな下っ端仕事を……」

「そんな下っ端仕事も出来ねえようなやつはウチにはいらん。つべこべ言わずに行け」

「ぐ……、わかったよ……!」

渋々と承諾するギイシャ。船倉に行くために船尾方向に向かい、船内へ入った。

それを見たガムが追いかけようとしたが、

「行かせねえぜ?」

と、ザクゾンが行く手を阻んだ。

「……船長自らお相手いただけるとは、光栄だぜ」

不敵な笑みを浮かべるガム。ガムの取る手段は一つだった。

大剣を構え、ザクゾンに突っ込むガム。大剣の一撃を繰り出し、それをザクゾンが錨で受ける。大質量と大質量のぶつかり合いに、鈍い衝突音が甲板上に響き渡る。それは船上で起きている乱闘の喧騒に勝るとも劣らない音量だった。

一撃、もう一撃。互いに押し込み、力が拮抗し、二人が膠着する。

ユジーンが船尾を見やると、船内から酒樽を持った海賊が一人、二人と現れ、海賊船へと移っていた。するとハッ、とした表情で

「船倉にはあたしの苗が……!」

と言って、船内へと向かった。

「ユジーン、待て! 一人になるのは危険だ!」

とガムが叫んだが、ユジーンは聞かずに船倉に向かった。ガムは焦った。今、船内には海賊やギイシャがいる。ギイシャは決して弱くはない。ニーニャとピンタが相手にならなかったように、並みの軍人以上の戦闘力を持っている。ギイシャとユジーンが戦えば、ユジーンは確実にやられるだろう。

「サキ! ユジーンを守れ!」

「は、はい!」

ガムの叫びに、一瞬遅れてサキが返事する。そして走って船内へと姿を消した。

「いい判断だ」

「そりゃあどうも」

ニーニャとピンタもギイシャを追いかけようとしたが、他の海賊に阻まれた。

「軍人。それ以上は欲張りってもんだぜ? ウチの団員の相手もしてくれよな」

ザクゾンがニーニャとピンタをちらりと見やった。

「よそ見とは、余裕だな!」

隙を見て、ガムが右足でザクゾンの左腿を蹴った。

「ぐあっ……!?」

呻いたのはザクゾンではなく、ガムだった。

ザクゾンの腿の硬さに、ダメージを受けたのはガムの足だった。思わず飛びのくガム。

「つぅ~~……。どんだけ硬え脚してんだよ」

「人は足から老いるっつうだろ。引退する時は死ぬ時の稼業だ。文字通り、脚で稼ぐんだよ。がははは!」

「ご高説、痛み入るぜ!」

ガムとザクゾンが互いに突っ込み、大質量の武器同士が再び衝突する。


◆◆◆


船倉の中にも、外の喧騒が響く。その中で右手をぶらぶらと回すギイシャ。

船の最下層にある船倉の入り口近くに、二人の乗組員が倒れていた。

二百平米、高さ二メートル程の船倉はがらんとしていた。樽や木箱などの荷物が積まれていたが、海賊達がその大部分を運び出したらしく、船倉の四分の一程にしか残っていなかった。荷物の中身は酒、煙草、紅茶、スパイスなどだ。

「……ったく、なんでオレがこんな雑用を……」

ぶつぶつ言いながら、ギイシャが積み荷を物色する。

「……おっ、これは」

うず高く横置きで積まれた酒樽が、天井から縄で固定されていた。そこに炭で殴り書きされた文字を読み、ギイシャが色めく。

「……特級のウイスキーじゃねえか。飲んで良し、売って良しだな。こいつを海賊共に運

ばせるか。他には……」

他の物を物色しようとした時、遠くでぶおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ……という音が響いた。

「なんだ?」

彼は不思議に思ったが、その音が鳴り止むと、すぐに積み荷の物色に戻った。

そして船倉の隅にぽつんと置かれた六十センチ四方、高さも六十センチメートルほどの木箱を見つけた。中にはおが屑と一緒に二十個ほどの鉢植えの苗が敷き詰められている。

「なんの苗だ、こりゃ?」

ギイシャが思案顔をしていると

「その苗に触るんじゃねえ!」

と、船倉の入り口に息を切らしたユジーンが現れた。彼女の手には血塗れのワインボトルが握られている。そして服には返り血らしき赤いシミが付いていた。服はところどころ切れており、彼女自身のものと思われる血が滲んでいる。

「誰かと思ったらユジーンじゃねえか。俺のことが恋しくなって追いかけてきたのか?」

「自惚れとるんじゃねえ、馬鹿が。……もっかいう。その苗に触るな」

ギイシャが苗の箱をちらりと見やり

「これがどうしたって言うんだ?」

「そりゃあ珈琲の苗木じゃ。あたしの大事なモンじゃ。傷でも付きょうもんなら、頭かち割っちゃるけえな」

ワインボトルを構えるユジーン。

「まあ、そう興奮するな。俺は珈琲に興味がねえ」

「じゃったら、そっから早う退けえ」

「……興味がねえからよ」

ずんっ、とギイシャが苗を踏みつけた。

「!!」

目を見開くユジーン。

「どうだっていいんだ。こんなモン。……くくく、ははははっ!」

「おェ……!」

「ははっ、ユジーン。いーぃ顔してるぜ?。今までで一番美しいよ!」

腹を抱えて哄笑するギイシャ。ユジーンは躊躇いなく、ギイシャに飛びかかった。ワインボトルをギイシャの頭めがけて振り下ろす。

彼はユジーンの攻撃をあっさりかわし、彼女の両腕を掴んだ。そして後ろ手に組み敷き、彼女の頭を珈琲の苗木の入っている木箱に突っ込んだ。その衝撃でワインボトルから手を放すユジーン。顔をおが屑の中に埋められた彼女は、ギイシャの腕をほどこうと必死にもがいていた。

「……っ! ……っ!」

「あのなあ、俺だって軍人なんだぜ? 素人のお前に勝ち目があると思うな」

ギイシャはユジーンの髪を掴み、顔を上げさせた。その顔はおが屑まみれだった。

「ふははっ、化粧も乗って美人に磨きがかかったな。でも今のお前にキスはしたくねえ」

ぺっ、とユジーンはギイシャの顔に唾を吐いた。

「……特急のワインよりたけえあたしの唾でも飲んどけ」

数秒後、ぷるぷると震えながら、無言でギイシャが彼女の髪をぶん回し、その頭を床に叩き付けた。額が割れ、血が噴き出す。

「調子に乗ってんじゃねえぞ、くそアマが! こっちはいつだっててめえを殺せるんだ!」

ゆらゆらと立ち上がり、ギイシャを睨むユジーン。

「……やってみいや、小物が……」

呻くようにユジーン。そのセリフに、ギイシャのこめかみがひくひくと蠢いた。

「……体に教え込んでやるよ。オレ様には敵わないってことを」

拳を構えるギイシャ。しかし、数秒後、構えを解いた。彼の表情がにやりと歪む。

「お前より、お前の苗木をぶっ潰した方が楽しそうだ」

「……なっ……! や……やめえ!」

「くくっ、苗が全滅した時のお前の顔が楽しみだ!」

木箱の中身に向かい、ギイシャが脚を下ろした。

しかし、すかさずユジーンが木箱に覆いかぶさった。彼女の背中を踏みつけにするギイシャ。

「……くっ!」

ギイシャは苦しむ彼女に構うことなく、何度も足を振り下ろす。その度に呻くユジーン。

「俺の行動を邪魔ばかりしやがって。イラつくぜ。……何なんだよ、お前は。こんな草にどんな価値があるってんだよ!」

「……おめえにゃ、大事な人はおらんのんか……」

「ああ、何言ってやがる?」

ユジーンは朦朧とする意識の中で呼びかけた。


親方……。


◆◆◆


ユジーンは貴族の妾の子だ。貴族のスキャンダルにならないよう、貴族はユジーンの母を捨てた。そしてユジーンは母に捨てられた。

それはある冬の日だった。吹雪の中、行くあてなく彷徨っていた彼女。空腹と寒さ。極寒の街角で凍死しそうなところに、あの男は現れた。彼は通称、スモークと呼ばれていた。

彼がユジーンを連れて行ったのは彼の自宅だった。彼女が通されたのは真紅の絨毯に立派な暖炉、壁際には本棚が四架。また、大きな窓には深緑色のカーテンが引かれていた。部屋の中央には一人用の椅子とテーブル。その椅子にユジーンは、タオルをかぶって座っていた。

どこのだれかもしらない。あたしはこれからどうなるんだろう。

ユジーンはぼーっとそんなことを思っていた。

しばらくすると、彼女の鼻をある香りがくすぐった。それは彼女の嗅いだことのない、何かを焦がしたような匂いだ。

部屋の扉を開け、男が現れた。長身で細身。黒髪。鼻の下に口ひげ。年齢は不詳。手にはトレイを持っていた。どうやら香りは、トレイの上のものから漂っているらしい。

男はトレイをテーブルに置く。トレイの上にはカップとソーサーが二客。クッキーの盛られた小皿が一枚。男はそれらの食器をトレイからテーブルに下ろす。

ユジーンがカップの中の湯気を立てる液体を覗き込んだ。真っ黒だが、どこか艶がある。

焦げた匂いがするが、不思議と嫌な匂いではない。

「飲みんちゃい」

男がユジーンに勧める。

「う?」

ユジーンは最初男の言葉に戸惑ったが、どうやらこの黒い液体を飲むように促していると気付き、カップを手に取った。黒い液体は熱く、このまま飲めそうにはない。ユジーンはカップに口を近づけ、ふーふーと液体を冷まそうとした。何度かそれを繰り返した後、カップに口を付け、液体をすすった。

「あつっ!」

舌を火傷した。だがその味はというと。

苦かった。猛烈に苦い。これは何かの罰だろうか。思わず涙目になる。

「はっはっはっ! おめえにはまだ珈琲は早えか」

「こーひー?」

男は快活に笑った。どうやらこの黒い液体は「こーひー」というらしい。

男はユジーンにクッキーを勧めた。クッキーをかじるユジーン。それはとても甘く、空腹も手伝って美味しかった。思わず二枚、三枚と続けて口に放り込む。

「クッキーを食べた後、珈琲を飲んでみんちゃい」

「う……」

ユジーンの頭に先ほどの体験がよみがえる。またあの苦い液体を飲まないといけないのか。

それでも、行き倒れていた自分を助けてくれた男に逆らうわけにはいくまいと、ユジーンは珈琲をすすった。

苦い。猛烈に苦い……と思ったが、珈琲を飲んだ後に、クッキーの甘みが口の中によみがえるようだった。なんでだろう。

「さっきとはちょっと違うじゃろ?」

微笑みを浮かべ、尋ねる男。

「……うん。なんかちがう。にがい、けど、あまい」

「おめえはええ舌しとる。違いの分かる女になりんちゃい」

「……わかんない」

「そりゃあそうか、はっはっは」

男は笑い、珈琲を飲んだ。

ユジーンが初めて飲んだ珈琲は、苦いだけのものだった。しかし、男と二人で飲んだ珈琲は、冷え切っていたユジーンの心に温かく沁み渡った。


その後、男は自分が所属する酒ギルドにユジーンを連れて行き、男の弟子ということで会員にした。ユジーンは男の下について数年間ギルドの仕事を学んだ。そして働くことで食い扶持を稼げるようになった。

ユジーンが二十歳になった頃、これから男に恩返しをしていこうと決意した矢先、男はギルドを辞め、行方不明になってしまった。

ユジーンは世界に珈琲を広める活動をすることが男に対する恩返しになる、そしていつかは男に再会できると信じている。


◆◆◆


ユジーンの背中に足を押し付けるギイシャ。

「大事な人? いねえよ。この世に、金と権力より大事なモンなんてあるかよ」

「……可哀そうじゃな。じゃけど、お前みたいな奴にこそ、あたしの珈琲を飲ましちゃりてえわ」

「……わけわかんねこと言ってんじゃねえよ。もういい、くたばれ」

彼の足に力が込められ、ユジーンの背中が悲鳴を上げる。このまま背骨を踏み折る気だ。

そのギイシャの頬を、銀光がすり抜けた。それは矢尻の尻に細い紐を結んだ武器『アンカーウィップ』だった。紐を辿ると、船倉の入り口に立つサキの姿があった。

頬から血を垂らすギイシャ。

「またてめえか……」

クソガキ。と言い終える前に、二本目のアンカーウィップがギイシャに飛来した。その一撃をギイシャは小手で逸らす。アンカーウィップはギイシャの背後、ウィスキー樽を固定している縄をかすめ、樽に突き立った。

「ガキが。俺様に楯突いたことを後悔……」

ギイシャが言っている途中で、サキはギイシャの懐に飛び込んだ。右手に握っていたサバイバルナイフを一閃、二閃する。しかしそれは、ギイシャの胸部プレートメイルを傷付けるに過ぎなかった。ギイシャは飛び退き、

「……っ! お前の短い腕じゃ、オレ様のここまで届かねえなあ!」

自分の頭を指さすギイシャ。飛び退いたギイシャにサバイバルナイフを投擲するサキ。心臓を狙ったそれは、再びプレートメイルに弾かれた。

「危ねえ……、鎧がなかったらオダブツ……」

サキが距離を詰め、ギイシャの頭に飛び蹴りを叩き込んだ。ぐらつくギイシャ。着地して、連続で回し蹴りを放つサキ。ギイシャの膝、腰、脇腹を打つ。その度にサキのツインテールが美しく輪を描く。

「調子に乗ってんじゃねえっ!」

思わずギイシャが拳を振るう。サキは拳をかいくぐり、顎に膝を打ち込んだ。大きくのけ反るギイシャ。サキはさらに追撃を仕掛けようとしたが、腕を横薙ぎにされ、飛び退いて距離を取った。

「……はあ、最悪」

サキが呟く。

「……ああ? 最悪はこっちだぜ。好きにいたぶりやがって」

今の膝蹴りでギイシャを仕留められなかったのは、サキにとって痛手だった。サキは軍人との戦闘の相性が良くないことを経験していた。

「奇襲は良かったが、お前の軽さじゃオレは倒せねえぞ?」

その通りだった。サキは、文字通り軽いのだ。体重もそうだし、打撃の一撃一撃も大の男に比べて軽くならざるを得ない。そのための奇襲と連撃だったのだが、結果は今一つのようだった。

「今度はこっちから行くぜ」

サキに詰め寄り、ギイシャが拳を繰り出す。サキはギイシャの初動を見極め、攻撃を避ける。一発でも貰えば自身の動きに支障が出る。

体の中心を狙った突きが迫る。横っ飛びでかわす。しかし体制が崩れ、その隙にギイシャに顔面を掴まれた。

「やーっと捕まえた。すばしっこいガキめ」

「……は、なせ」

「ガキの躾は大人の責任だろっ!」

ギイシャは力任せにサキの後頭部を船倉の壁に叩きつけた。衝撃で壁がひび割れた。サキは目に火花が飛んだような感覚に襲われた。

「おらっ! おらっ!」

何度も何度も、ギイシャはサキの頭を壁に叩きつける。

「大人に歯向かってごめんなさいって言え!」

「ぐ、あ………。誰が、お前なんかに」

「理不尽でも、謝らないといけないことってあるんだぜ?」

言って、ギイシャがサキの眼前に右手の中指と人差し指を突きつけた。

「謝るか、目玉を潰されるか。選べ。まあ、謝ったところでお前は殺すが」

ひゃはは、と笑うギイシャ。

「……その髪型と一緒で、脳みそイカれてんじゃないの?」

サキの言葉に、ぎり、と歯を軋ませるギイシャ。

「てめえは死刑だ。罪状はオレ様に対する反逆罪と侮辱罪―――がっ!」

言っている途中で、ギイシャが悲鳴を上げた。ユジーンがワインボトルでギイシャの右手を殴打した。

「こっの、クソアマが!」

サキの顔面を掴んでいた手を離し、ユジーンの頭を平手打ちするギイシャ。ユジーンが床に倒れ伏す。ギイシャの右手は、だらんとぶら下がっていた。どうやら手首が折れたようだ。

「てめえも後で死刑にしてやる―――」

憤るギイシャの胸に、サキが左腰に佩いていたサバイバルナイフを突き立てた。そしてその腹に蹴りを放ち、彼を後ろに押し下げた。

「ちょこまかちょこまかうっとおしい……! お前のナイフなんぞこの鎧の前には何の役にも………」

「十分」

サキはギイシャに向かって前宙し、右足のかかとを、ギイシャの胸に突き立ったナイフの尻に叩き込んだ。

すると、ギイシャの胸部プレートアーマーが左右真っ二つに割れた。

「オレの鎧が……、バカな!」

想定外の出来事に、驚愕するギイシャ。

ニーニャとサキがプレートメイルに散々付けた傷に、サバイバルナイフを楔にして蹴りを叩き込む。頑強なプレートメイルでも、綻びを攻めれば割ることはできる。

「ようやったわ。サキちゃん」

ユジーンがワインボトルを両手で振りかぶり、無防備なギイシャの胸に叩き込んだ。

ワインボトルが砕け、中身が床に飛び散る。後方のウイスキー樽の山の前に仰向けに倒れるギイシャ。

「こんだけやりゃあ、さすがにあいつも……」

疲労困憊の様子で、ユジーンが呟く。しかし、ギイシャは胸に手を当て、よろよろと上がった。

「……殺す……ぶっ殺してやる……」

うわごとのように呟くギイシャ。

「まだ立つんか……」

「諦めの悪い男ですね」

二人がうんざりして言った直後。

船体が大きく揺れた。再び、ぶおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ…………という、うなりのような音が響いた。何か大きなものが迫っているような。

ごうん、と船体が大きく傾いた。転びそうになるサキとユジーン。

すると、ウイスキー樽を縛っていた縄が切れ、樽が崩落する。

その下にはギイシャ。

「う、わああああああああああっっ!」

避ける間もなく、彼は樽の下敷きになった。

「……大好きな酒に埋もれられて、良かったな」

ユジーンが言った。


◆◆◆


船倉での戦闘が決着する少し前。

ガムとザクゾンは肉弾戦を繰り広げていた。大質量同士の衝突を何度も繰り返した結果、二人の手は痺れに痺れた。このままではラチが開かん、と二人は武器を床に放り投げた。

互いに互いの腹、胸、顔面を打ち合う激しい戦いは、しばらく続いた。

その熱量は周りの海賊や乗組員にまで伝番し

「お頭、やっちまえ!」

「傭兵のあんちゃん、負けんな!」

と、ギャラリーに囲まれる始末であった。

二人は拳を繰り出し合い、ガムの拳がザクゾンの顔面を、ザクゾンの拳がガムの顔面を捕えた。

「度胸も、腕っぷしも大したもんだ……。ガムとやら、お前やっぱりウチに来ないか?」

「気遣い感謝するが、俺はじいさんより美人が好きでね」

「ふん、ぬかしおるわ……」

甲板にガムとザクゾンがうつ伏せに倒れ伏す。

「お頭! 立ってください!」

「あんちゃん! 踏ん張りやがれ!」

周りが盛り上がっているその時、ぶおおおおおおぉぉぉぉぉぉ…………、といううなりが海原に響いた。そして波が押し寄せ、船体が大きく揺れる。

がば、と起き上がるガムとザクゾン。

ザクゾンが船首に向かい、舳先の向こうを見やる。そこには夕陽を浴びて複雑な色に輝く巨体が、海上に姿を見せていた。その大きさは小さな島程ある。巨体からは三本の細い筋が吹き上がっていた。

「……あれは虹鯨じゃねえか。まさかお目にかかれるとは」

「伝説って言うあれか? なんて大きさだ」

後ろからついて来たガムが言う。

「儂の爺さんが見たって言ってたが、言い伝え通りだ。黄昏時に大波と共に現れ、三本の潮を吹くという」

海賊も乗組員も、その神々しさに見とれていた。

「っと、こうしちゃいられねえ。野郎ども、奪った積み荷を全部捨てろ!」

「……え! お頭、どういうことですか!?」

ザクゾンの号令に戸惑う海賊達。

「虹鯨が現れた日に略奪した者は、その後百年呪われるっつう初代からの伝承があるんだよ! 積み荷を捨ててずらかるぞ!」

「アイアイサー!」

一斉に海賊船に逃げ帰り、『白輪』から奪った積み荷を海に捨て始める海賊達。

「……あれが虹鯨……? 奇麗じゃな」

「おっきい……」

ガム達の背後で、ユジーンとサキが姿を現した。

「ユジーンさん、無事……ではなさそうだな」

額からは血を流し、頬は赤く腫れている。そして服は血のまだら模様ができている。

「ちょっと怪我しただけじゃ。サキちゃんがおらんかったら、あたしは今頃あの世に行っとったわ」

「……そうか。よくやったな、サキ」

ガムがサキの頭を撫でる。

「ほんとよ、もう……。いたた、後ろ頭さんざぶつけられたから触らないで……」

「そうか、すまん。ところで、ギイシャはどうした?」

「船倉でのびてるわよ」

「酒に囲まれて、幸せな奴じゃ」

「?」

ガムが訳が分からない、といった様子でいると、ギイシャを挟む形で、両側から支えるニーニャとピンタが甲板に姿を現した。

「ほんとにこの人はもう……」

「迷惑な先輩を正すのも、後輩の仕事っすよ、ニーニャ先輩」

「迷惑にもほどがあるでしょ。二言目には権力、権力って」

「昔、ギイシャ先輩のお父さんは軍で失脚させられたって噂っす。たぶん先輩はそのことをこじらせて……」

ガムは状況がよくわからなかったが、なんとか切り抜けたことは理解した。

ザクゾンが去り際、ガムに声を掛けた。

「と言うわけで散々だったな、ガムとやら。荷物は奪われるわ捨てられるわで」

「ギイシャはどうすんだ?」

「不採用だ。戦闘に負けるわ、荷物も奪えねえわじゃ話にならん。縁がなかったってこった」

どうやら、海賊というのも売り手市場というわけではないらしい。


◆◆◆


船上に珈琲の香りが漂う。携帯用の珈琲器具で、ユジーンが淹れたものだ。

ガムはユジーンから木製のカップを受け取り、舳先の方でニーニャとピンタの三人で雑談をしていた。

サキもカップを受け取り、珈琲に口を付ける。

「苦い……」

文字通り、苦虫を潰したような表情のサキ。

「はははっ。やっぱりそうじゃろ」

からからと笑うユジーン。

「でも、香りは好き」

「おお、良かった」

ユジーンは紙袋からクッキーを取り出し、サキに渡した。

「クッキー食べてから、飲んでみんちゃい」

頷き、サキは言われた通りにする。

「……あれ、苦い、けど、甘い」

「そうじゃろ。あたしも昔、同じことうとったわ」

「昔?」

「あたしも、初めて珈琲を飲んだ時、クッキーをもらったんよ。親方から」

「親方?」

「あたしのギルドの親方。あたしは親方に色々手ほどきしてもろうて、今の仕事をしょうる。言わば育ての親じゃ。あたしも独り立ちしたし、やっと恩返しできる思ようたんじゃけど、行方不明になってしもうてな。仕事しながら探しょうるんじゃ」

「一人で?」

「うん。珈琲を広める仕事はやりがいがあるし、楽しい。けど、今回みたいな危ねえこともようけある」

「辞めようとは思わないの?」

「生きていかにゃあいけんし、あたしはこれしかやりとうねえしなあ。……ところで、サキちゃんはなんで傭兵の仕事をしょうるん?」

サキは少し黙ってから、語り出した。

「わたしの父さんは強盗に殺されたの。お母さんはそのせいでおかしくなっちゃって、精神病院に連れていかれたわ」

「…………」

「それから色々あって、ガム……所長に雇ってもらったの。戦闘の訓練は、一応してたから」

暗殺術の修行を受けて、ガムを勘違いで殺しかけて、そのうえ行くあてがないから押しかけたとは言えない。今日初めて会った人の前で恥を晒したくはなかった。

「ふうん。サキちゃんも若いのに、苦労しとるな。でも……」

「でも?」

「今日は切り抜けれたけど、次は危ねえかもしれん。サキちゃんは、戦闘の技術はあっても、大人に比べりゃあ、腕力が足りん。

「それは……」

事実だった。サキはできる限り肉体を鍛えているものの、筋力の成長はゆっくりしたものだ。ギイシャ以上の軍人上がりの人間と対峙しなければならなくなった時、依頼人を守りながら戦うのは絶望的だ。

「……でも、今のわたしにできることはガムの助手しか」

「責めとるんじゃないで。どうしても無理そうな時は、これを使いんちゃい」

ユジーンは懐から透明の小瓶を取り出し、サキに渡した。

「これは……!」

サキが小瓶のラベルを見て、目を見張る。中身は十数錠の赤い楕円形の錠剤。彼女はこの薬に見覚えがあった。

「エンジェル・ブラッド……」

エンジェル・ブラッドとは向精神・筋力増強剤の別名だ。剣闘士や暗殺者が好んで使う薬である。興奮、痛覚の麻痺、一時的な筋力の増強を得られるが、効能が切れたときの反動は大きい。クロノスでは禁止指定されている。

「知っとるんか?」

「昔、師匠に見せてもらったことがある」

「師匠? ガムじゃのおてか?」

「…………あ、うん」

サキはしまった、というような顔をした。

「……まあ、詳しゅうは聞かんわ。おめえがなんか訳ありじゃゆうのは見とったら分かるわ。あたしも人のことは言えん」

ユジーンは言った。彼女はギルドの闇ルートを通じて、薬も扱っている。そこには国では認可されていない薬も含まれている。

ふぅ、と嘆息するユジーン。そして神妙な表情を浮かべる。

「ええか、サキちゃん。その薬は、おめえが大人になるまでに、どうしょうもなくなったときだけに使いんちゃい」

「なんで、わたしにこんなものを」

「死んでほしゅうねえけえじゃ」

「……え?」

「こんなことうのは矛盾しとるんは分かっとる。死ぬなうといて、自分の体を傷付けるようなもんを使えって」

「…………」

「でも、サキちゃんは戦っていかんといけんのんじゃろ? じゃあ、まずは生き抜きんちゃい。全部はそっからじゃ」

サキは迷った。これは使ってはいけない薬だ。自分は父を殺され、母は植物状態も同然だ。しかし、自分だけでも生きていかなくてはならない。

だから、サキは懐にそっとしまった。天使の血の別名を持つその薬を。

「サキちゃんがその薬を使わんでええように、祈っとるわ」

「……ええ。わたしもそう思う」

その後、サキとユジーンはぽつぽつと雑談をした。

しばらく後、サキは珈琲を飲み干した。その味はやっぱり苦かった。

「また、飲ませちゃるけえな」

「え?」

「あたしの淹れた珈琲。その時までには、ナイフじゃのおて、ドレスの似合う淑女になりんちゃいよ?」

「……甘くないわね」

はははっ、と二人は笑い合った。


               ―――海を渡れ。鯨を呼ぶ珈琲の香り―――END


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